「ただいま……」
彼の小さな声は、玄関のヒンジの音にかき消される。まだ新しいマンションな筈なのに、やたらと草臥れたような音がするのは気のせいなのだろうか。彼の耳にだけ、そう聞こえるのかもしれない。
彼を出迎えるのは、靴箱の小さく淡い間接照明のみ。そこから先は、何も見えない闇夜。
ぱちり、ぱちり。ひとつずつ自宅の明かりを灯してゆく。照明が起きて、ようやく明らかになってゆくのは、虚空のような寂しい時間。整頓されてはいるが、逆を言えば生活感がどこか乏しくすらも感じる。
食卓の明かりを灯せば、そこにはフードカバーに包まれた夕食と、『たまには早く帰ってきてあげなさい』と記された義母からのメッセージカード。
「すみません。お義母さん」
秋名は一つ呟くと、そのメッセージカードを手にしたまま、娘の部屋へと向かう。
『Chopin』と扉に提げられたルームプレート。周りは音符で彩られている。静かに、彼女を起こさないようにノブをゆっくり握り、音が鳴らないように扉を開ける。
廊下からの明かりだけを頼りに、秋名はそろりと足を踏み入れる。
娘の部屋、辺りにはプリファイのグッズや、愛らしきぬいぐるみ。そして、母であるエアグルーヴのポスターや写真集やぱかプチ。それらで埋め尽くされていた。
部屋の壁際、やたら不自然なほどに毛布が膨らんだベッドが一つ。枕元を見ても、ショパンの頭はない。
秋名はそっと、毛布をめくりあげる。その時、するりと黒い何かがベッドから降りてくる。秋名は小さく驚きつつも、声は出さなかった。だってそれは、我が家の三人目の家族なのだもの。
「ああ、ジョルジュ。ショパンの御守りをしてくれていたのかい。ありがとう」
秋名はそういうと、黒い愛猫の頭を数回撫でる。その愛撫を受け取ったジョルジュは、本来の寝床へと部屋を後にした。
秋名は再び毛布を捲りあげる。そしてようやく出会う。娘の寝顔と。
くぅくぅと、小さく愛らしい寝息。しかし、安らかな寝顔とはどうも言い難い。孤独を抱えたような、若くして悩むべきでない悩みを抱えたような、不憫さを纏ったような寝顔だった。
秋名はショパンの頭を優しく撫でた。ショパンは寝言のように小さく「ヒィン…」とだけ言った。
その時、ふとショパンの瞳がゆっくりと開いた。
「んぅ?……おとーさん?」
「ああ、起こしてしまったかい」
ごめんよ、と言いながら秋名は手を引こうとしたが、ショパンがその手を握った。
「いっしょに寝よ……?」
寝ぼけた声と、微睡んだ瞳でそういった。
秋名は少し意表を突かれたように戸惑うが、ここは素直に娘に従い、ネクタイも解いていない姿のまま娘のベッドへと入り込んだ。
「寂しかったろう。ごめんね」
ベッドの中で、娘の頭を抱えながら言った。ショパンは小声でうんとだけ応えた。
「明日は映画館へ行こうか。見たかった映画、一緒に見よう」
「ほんとぉ」
「ほんとさ。明日はうんと遊ぼう」
明日の約束に、ショパンは微かな笑顔を残して、再び眠りの世界へと身を落としていった。
秋名は娘の眠りを確認すると、ベッドを後にした。部屋を出ようとしたとき、完全に扉を閉めることはせず、少しだけ隙間を残した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「おはよう!」
日曜日のモーニング。リビングに居たのは、少しだけ高揚とした気分を纏った黒鹿毛の娘の姿。愛猫の耳をこねこねと触りながら、父を出迎えた。
「やぁ、早いね」
「お父さんはお寝坊さん」
そう笑顔で言うと、ショパンは父へ珈琲を差し出す。ありがとうと秋名は言うと、寝間着のままソファへかけた。
「ショパン。君が見たいって言っていた映画ってどれだっけ」
「ええっとね! プリファイの新作なの! 次の上映、早く準備しないとだよ!」
ショパンは既に身支度を終えている。あとは父親待ちということらしい。
「ははは、わかったよ。ちょっとまってて……」
ピリリ、ピリリ。
それは、二人の幸せな時間を切り裂くような、悪魔の音色だった。仕事用携帯の着信音。
ドンと、秋名の心臓に鉛の弾が撃ち込まれるようだった。不安な色を隠せないまま、秋名はそれをとった。
『ああ!秋名さん!すみません!ちょっと今…マズいことになっちゃってて…至急の対応が必要なんです!申し訳ないんですが…』
部下からの切羽詰まった声色。血の気が引いているようだった。どうやら、かなり痛いミスを負ってしまったらしい。
「そう。わかった……よ」
秋名は重く着信を切った。そして娘になんと言ったらいいかわからないまま、その表情を向けた。
「お仕事……?」
「ああ。ごめんね……」
「ううん……私は大丈夫だから」
ショパンは笑って見せた。一目でわかる作り笑い。娘のそれを見るのは初めてではない。それを見るのが、どうしても辛かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ただいま……」
部下の尻拭い。結局帰宅は夜中。
食卓には、またメッセージカード。
『ショパンには、貴方しか居ないのよ』
自分の胃袋が、自分の胃酸で溶かされるような感覚だった。
秋名はまた、その手紙を手にしたまま娘の部屋へ向かった。今度は部屋を開けたと同時に、ジョルジュが入れ替わるよう出てきた。
秋名は愛猫に手を差し出そうとしたが、ジョルジュはそれを拒否し、秋名へ睨みつけるような視線を刺した。自分の猫に責められているようだった。『お前は父親としての自覚があるのか?』と。
そして再び娘のベッドの毛布を捲った。そこにショパンは確かに居た。顔を少しだけ腫らせて、湿った瞳を瞼で無理やり閉じて。
秋名が理解するまでに時間はいらなかった。
ああ、ショパンは泣いていたのだ。たった一人、孤独におびえながら。
秋名は毛布を戻し、振り返る。その時に目に入った。彼女の机に置かれた、一冊のノート。そこにひとつの殴り書きの跡。
『お仕事のばか』
秋名はどうしても居た堪れなくなって、逃げ出すように娘の部屋を後にした。
気が付けば、度数の強い酒を片手に妻の遺影の前に鎮座していた。食事をする気にもなれなかった。
「ああ、エアグルーヴ。僕は……僕は……ぁ……」
ああ、情けない。男のくせに。酒に溺れ、娘を蔑ろにして、涙を零して、なんという体たらくだ。
きっと、彼女ならそう叱ってくるに違いない。叱ってくれるに違いない。…生きてさえ、いてくれれば。
ああ、なんとういうことだ。これでは、妻を安心させるどころではないじゃないか。
失格だ。父親として、彼女の夫として。
「エアグルーヴ……すまない……」
そういいながら、秋名は手に持った酒を口に含んだ。