「それで、礼司。君は来ないというわけかい?」
『いやほらさ、俺の担当が出るわけじゃねぇしさ? 主催者側にゃハナシ通してっからまぁ、いいんじゃねぇの?』
「君、今どこにいるんだい?」
『家の布団ン中。サイコーだぜ。マジで。昨日深酒しただけあってな。居酒屋からパブとバーをハシゴしてからのちゃんぽんよ。今日仕事だったら死んでた』
「まったく。君というやつは」
『俺らン仲だろぉ!? 勘弁してくれよ俺もたまの休みくれぇ休ませてもらえねぇと、ノびちまうよ……っと?』
秋名の電話超しに聞こえる鐘の音。安い呼び鈴だ。
『わり、何か来た。宅配にしちゃ時間はえーな……はぁ!? ファイバお前何しに……練習!? 今日はオフだっつっただろうが!……オークスの借りィ!? え、おい。なんだよ箱根遠征って。はぁ!? 今から!? 日帰りぃ!? アホかお前! ちょ、司ぁ!! このアホどうにかしてくれえぇぇ!! 俺のオフがぁああ!!』
「お大事に」
秋名は一方的に通話を切り、コースの埒に腕をかけて、周辺をくるりと見渡す。
今まで数々の中央競技場を飛び回ってきた秋名でさえ、全く知らない地方の競技場。閑散とまではいってやらないが、人の密度は中央と比べてどうも寂しい。活気付けるためかは存じないが、やたら無駄に出店している出店や、隅っこにポツンと作られた特設ステージで芸を披露する名も知らぬ芸人や、懸命に踊る地下アイドル達の姿が、少し染みるようだった。
「日本って広いんだねぇ」
いつも張り裂けそうな緊張感を何とか耐えながら、競技場という戦場に足を踏み入れていた秋名にとって、ここはどうも、毒気を抜かれるような。気が緩んでしまいそうな。
「おい」
例え、そんな眇々たる地方競技場であろうと、弛緩を許さぬ女帝の音が、彼の背を叩いた。
振り返ればそこに彼女はいた。ただ、今日は彼女のメインレースではない。それにこんな地方競技場にあのエアグルーヴが居るとなれば騒ぎは免れない。そのため今日は少しばかり顔元を隠すような帽子と薄いサングラスを身に着けていた。
「ああ、エアグルーヴ。どう? ショパンは」
「どうもこうも」
エアグルーヴは自身の背後を指すように顎を投げる。彼女の背後からするりとその娘は現れる。
清く、確かな体操服を身に纏い、尻尾の毛先一本から、耳の先端に至るまでぴんと張った毛並みが、彼女の調子を表しているようだった。
そんなショパン、今日は何かが少しだけ違う。
それは、彼女の風姿を優美に彩るアクセント。
瞼に宿る、
ショパンは後ろ手を組んで、少しだけ頬を紅潮させ、そわそわと身を揺らしながら、秋名の一言を待っていた。
「ああ、ショパン。今日は君の晴れ舞台だ。精一杯、走っておいで」
秋名は、にこりとショパンへ笑みを手渡すと、次はコースに目を向けて、小学生の部が既に始まっているターフを眺め、今日のコースコンディションは良い状態だねと、レースのことに関する話題へと話を変えた。
「ねぇ、それだけ……?」
レースのアドバイスを始めようとした秋名に対し、ショパンは少し呆気にとられたような面持ちでそういった。
「え……と、言うと?」
「あのね、今日の私、ど、どうかなって。何か違わないかなって」
「え……っと?」
秋名の瞳に映る今日のショパン。…特に変わりがあるようにはどうも伺えない。体重も大きく増減はしていないし、極端に身長が伸びているわけでも、顔色が悪いようにも見えない。
「えと……んと……」
彼女が求めているものは何か、秋名は直ぐには思いつかず、イチかバチか。
「ああ、体操服! サイズがいいみたいだね。ほら、新しく発注した体操服でサイズが合わないことってたまにあるみたい……だし?」
ショパンの眉間に皺が寄っていく。彼女の表情に夕立を齎す入道雲が迫っているようにすら感じられた。
「え、あれ? あ、ああそうか、シューズか! どう? 新しい蹄鉄は……?」
「……!……!!」
とうとうショパンは目を閉じて、顔を秋名へと差し出す。耳をキュッと後ろに絞って、口では言えない不満を彼へ訴えた。
「え、ええ?」
「うぅ……」
小柄な身体をぷるぷると震わしながら、小さく唸る。一体彼女はどうしたのだ。レースの直前、彼女への悪いコンディションの元となることは避けたいのだが、肝心の原因がわからないのでは。
「おい」
混迷に溺れる秋名へ、助け舟を出したのはエアグルーヴだった。彼女は彼へ、二度ウインクを渡す。女帝の閉じた片目に残るもの…それは、情熱を滾らせる深紅のアイシャドウ――。
「……あ!」
秋名はようやく、ショパンの言わんとすることに気が付く。今日のショパンの目元にも、同じものがあるのだから。
「あ、アイシャドウか! ああ! 凄いね! よく似合ってるよ!」
「……ほんとぉ?」
ショパンはようやく絞った耳をピンと立てて、尾を振り始めた。
「ああ! ほんとさ! エアグルーヴそっくりで、とても綺麗だよ」
「えへへ、じゃあ! 私頑張ってくるね!」
ショパンはふんと大きく鼻息を鳴らして、二人に背を向けて走り去っていった。
「ああ! ちょっと! アドバイスは……」
秋名のその声はショパンには届かなかったらしい。しかし二人は特にショパンを追いかけることもなく、その場に居留まり、二人並んでコースを見渡した。
そこに靡く、どこか郷愁を匂わす漂いに、二人の心が酔う。
「君が塗ってあげたのかい?」
「ああ。たまにはいいだろうと思ってな」
「はは、優しいんだな、君は。そういえば、会長さんは何て言っていた? 怒ってなかったかい?」
「会長か……いや、特に何を言われたということはないが」
ルドルフの役職の名を出した途端に、エアグルーヴの何かが淀む。彼女にしては、どうもらしくないように秋名は感じ、どうかしたのかと尋ねた。
「いや、それよりも前に、悶着があってな」
「悶着?」
「私が、ショパンに過分な肩入れをしているのではないかと、指摘を受けてしまったんだ。……私は否定できなかった。思えば、そのような言われをされようと致し方無いほどに、私とあの娘との距離は近づきすぎていたのかもしれない。私はただの、監視役に過ぎないというのに」
女帝の表情に描かれる、霧。先行きの見えない枷に悩み、苦悩の果実に呻吟する。
「でも」
そこに一つの本音。あの娘が居ないからこそ。相手が
「でも?」
「いいや。なんでもない」
何かに絆され、喉元まで出かかった言葉を、彼女は飲み込んだ。土壇場に来て、理性が本能を殺した。再び彼女に宿るは、らしくもない沈黙。
「多分、だけど、恐らく君があの娘に感じている情は、きっと僕と同じものだ」
エアグルーヴはふと顔を上げて、秋名の横顔を瞳に映した。彼の顔色は彼女と違い、穏やかだった。
「同じもの?」
「あの娘には不思議な魅力がある。それは、誰しもを魅了するような
何を言わんとしている。普段のエアグルーヴならそう返すかもしれない。だが、悔しくも、彼の主張を理解できてしまう心が、彼女にはあった。
「"放っておけない"とか、"気がかりになってしまう"とか。もっと言えば、時にあの娘に愛おしさすらも錯覚してしまう。今まで、
「
「いいや、そうじゃない。あの娘は違和感の塊だ。それも、妙に心地のいい違和感。おそらく君もそう感じている筈。だからこそ、僕は知りたいんだ。あの娘を、もっと」
それが、今日このレースを引き受けてしまった、秋名の本当の心。
「ばかばかしい。私とあの娘は無縁だ……。貴様だってその筈だ」
それが、彼女の精いっぱいの抵抗だった。
「本当にそうなのかな」
また、秋名の横顔が視線に入る。
「どういう意味だ」
「どういう意味だろうね。ほら、来たよ」
メインゲートから、
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『さぁ、いよいよ今回の目玉! ■■町ダービー! 準中等部生の部! フレッシュな現役生たちの白熱したレースが今、このターフに舞い降ります! なんとなんとなんということでありましょう! この中等部生の部。まさかのフルゲート開催であります!!』
開かれるメインゲート。サンバイザーを被った誘導スタッフが、戦士たちを引き連れる。
彼女らから漲て溢れる、若き闘志。それはまだ、身の程知らずであるとか、自分が一番だと信じて疑わない傲慢さであるとかの、根拠の無い驕りに等しい。未だに本物を、外の世界を知らない幼き故の、小さき凱旋。
とある娘は、周りをきょろきょろ、自分の敵がいないかを入念に探す。またとある娘は、自分の両親に向かい大手を振って、高らかな勝利宣言。またある娘は、自作の勝負服を身に纏って、憧れのスターの振る舞いを完コピ。
また、とある娘は、どこかぎこちない動きで、歩幅がちょっと狭い。
「あらら、少し緊張してるね」
秋名は、変わらず穏やかに。ショパンへ手を振る。だけど、ショパンはそれに気づかない。
一方のエアグルーヴは、腕を組み、変わらぬ厳しい面持ちのままを、そこに残した。
――
いよいよ辿り着いたメインゲート。怖いことなんて無い。練習通り、上手くやれば。
……
思えば、初めてだ。本当の勝負の場に立つことは。
だって今まで、レースへの出走資格がなかったから、模擬レースすらも参加していないのだもの。
これが初めてのレース。これが初めての勝負。
そう、考えてしまった途端。ショパンの体が急に強張る。心が急に萎む。血流が必要以上に勢いを増して流れる。
それらの総称――即ち緊張。
近づいてくるスターティングゲート。それが少し怖かった。
だめだ。だめだ。胸を張って、母のように……。
何度そう思い描いても、体が指令を受け付けない。治まれ治まれと呪文のように唱えても、辿っていくのは悪化の一本道。
ああ、こんな土壇場で。彼女の小胆さが、母体に牙を向く。
「ねぇ。あんたさ」
不意を突かれるように、彼女の背を誰かの声がたたく。例外なく、ショパンはヒィン! と情けのない声をあげてしまう。
「あ、はい……」
なんとか声をひりだして、自分の列の後ろを歩くその娘に応える。
「あのさぁ。もっとキビキビ歩いてくんない? 後ろつっかえてんだからさ」
自作の勝負服を身に纏ったその娘は、不満の色をショパンへ向けた。
「ご、ごめんなさい」
嗚呼、こんな時に謝ってしまうだなんて。強気になれない自分が不甲斐ない。だって今まで、エアグルーヴの背中に隠れてきたのだもの。困ったら、いつでも母が助けてくれた。でも、この場では、自分で抗い、抜け出すほかはない。
そんなショパンを、その娘は鼻で嗤った。
「アンタさ、そんなウジウジした感じで走るワケ? たまに居んのよねぇ、メリハリつかないアンタみたいな娘。そういう娘って結局走っても中途半端。こっちの士気も下がっちゃう」
ショパンの回答は、沈黙。
「大体アンタ、この辺のトレセンの娘じゃないでしょ? 見たことないし。悪いけどアタシ、この間ここの競技場でデビュー戦やって勝ってるの。今日ここ走るような連中、何かお祭りと勘違いしてるみたいだけど、アタシは違う。アタシはここでも確り成績を残していくの。そして、オグリキャップみたいに、地方から中央への凱旋。それがアタシのストーリー」
ショパンは、その娘の自慢話と夢物語を延々と聞かされ続ける。
「憧れのシービー様と、並んで走る日だってそう遠くないわけ。で、アンタは? 思い出作りに来ただけでしょ? じゃあ、アタシの邪魔しないで、黙って後ろ走っててよ? アンタみたいなウジウジしてる娘が前走ってると、調子狂っちゃうからさ」
言われたい放題の一方通行。現に、そのくらいの傲慢さも、勝つことには重要な素質であることは確かなのだが。ショパンにはそれが欠落している。だから、できることは、俯いて委縮するだけ。
「てか、何そのアイシャドウ。ああ、もしかしてあのエアグルーヴの真似?」
その言葉に、ショパンの眉が僅かに。
「まぁ、オークスとか頑張ってるみたいだけど、アタシの眼中には無いかな~。ってか、アンタがそんな真似事しても、正直似合ってないただのおままごとなんだけど。やるんならアタシみたいに完璧にやんないとねぇ」
そう失笑を交えながら、彼女は
「これは、お母さんが塗ってくれたんだもん……今日は特別だって……」
「は? 何? 聞こえないんだけど? ってかそんな安物。ショージキ今時アイシャドウとか、時代遅れってかダサイんだけど。アタシならつけないかな~」
「安物じゃないもんっ! 本物だもん……あのエアグルーヴがつけてるものと同じものなんだもん。時代遅れなんかじゃない! 強い、女帝の証なんだから……!」
この日、初めてショパンは怒りに吠えた。どれだけ自分を貶されようと構わない。だけど、母から貰った大切なアイシャドウを扱き下ろされることが、どうしても耐えられなかった。
「はぁ?……ぷっ……あっはっはっはっは!! マジ!? 女帝の証ぃ!? もう! レース前に笑わせないでよ! マジ傑作!」
「ばかにしないで……! 私は!」
「ほーらそこ! ケンカするならレースを棄権してもらうけど? それでもいい?」
スタッフからの冷たい警告が飛ぶ。ショパンはぐっと口を噤んで小さくごめんなさいと謝罪した。一方の勝負服の娘は、ショパンに対し特に何を言うこともなければ、わざとショパンの足を踏んで先に行ってしまった。
(はーあ。ヘンなのに時間とられちゃった。アタシのコンディションが乱れたらどうしてくれるつもりなんだろ。まぁいいや。ここで、このアタシ『ヴァニティ』様の格の違いってヤツ?見せてあげなきゃねぇ)
その娘の背中に、ショパンは初めて自分が滾る感覚を覚えた。
あの娘にだけは、負けたくない――