その日のショパンは、少し早起きだった。
エアグルーヴから叩き起こされずとも、自ら床を這い出て。寝惚け目を擦り、ドアの淵にこつんと頭をぶつけて。ヒンと小さく鳴いて。
そして、洗面所で大きな鏡に向かい、朝の身支度に余念の無いエアグルーヴの隣で顔を洗った。
『今日は早いじゃないか』そう、言ってくれる母の声は優しかった。それはそうだもの。今日は大切な日なのだもの。少し呂律の回らぬ舌でショパンはそういったらしい。
エアグルーヴは、静かにひとつ頷くと、慣れた手つきで己の瞼にアイシャドウを塗り施していく。
ショパンは濡れた顔のまま、エアグルーヴの女帝としての嗜みを、ただ恍惚と見入っていた。
『顔を洗ったのなら早く拭け』エアグルーヴは鏡の中の自分に視線を合わせたまま、ショパンへ言った。ショパンは、大きいタオルで顔を拭くと、そのタオルを抱えたまま、ちょこんとエアグルーヴの隣の椅子に鎮座した。
『どうかしたのか。顔を洗う以外にもすることはあろう』それでもショパンは、黙ってエアグルーヴのメイクをその目に焼き付けていた。
『そのアイシャドウ、ずっとつけてるよね』
『それがどうかしたか』
『ううん、とっても綺麗だなって』
『世辞を言っても何も出してやらんぞ』
『確か、おばあちゃんも同じものをつけてた』
その時に、ぎろりとエアグルーヴの鋭い眼光がショパンを捉えた。
『百歩譲って、私のことをそう呼ぶのはまだいい。だが、お母様のことを気安くそう呼んでくれるな』
『あ、うん。ごめんなさい』
自慢の耳を、へたりと折って僅かに萎えるショパン。だが、今日は彼女の大事な日。そこからわざと話を戻したのは、エアグルーヴの不器用な優しさだった。
『私のこれも、お母様から譲り受けたものだ。かつて、女王とも称されたお母様の覚悟の証だ。それをつけると言うことは、即ちその意志を継ぎ、宿すということだ。このアイシャドウをつけるからには、遊びでは済まされない。女王の意志を継ぐ者として、
『……』
『お前にはまだ過ぎた話だ。ほら、歯は磨いたのか?』
エアグルーヴがそうショパンに問いかけた時だった。
『いいなぁ……』
不意に漏れたショパンの儚い呟き。考えるより先に、感情が仕事をした。
その吐露を、エアグルーヴは聞き逃さなかった。
お前も興味があるのかと、エアグルーヴが尋ねた。ショパンはこくりと頷き、憧れの
エアグルーヴは僅かな沈黙の後、ショパンのへ向かい、彼女の麗らかな藍玉の瞳を、自身の灰簾石の瞳に映した。
端部に至るまで、
『お前は今日、私の指導の下でレースをする。そこには当然、私の責任も重なる。即ち、お前には
母の名を背負い、走る。それは、女帝の称号を、一時的に預かることにも等しい。
例えそれはクローズドな情報だとしても、事実は確かに刻まれる。
重圧だ。決して、お気楽な思い出レースにするつもりなどない。それが、二人の意思なのだもの。
ショパンは、こくりと深く頷いた。
『いいだろう。目を閉じろ』
仰せの通りにと、ショパンは深く目を閉じる。瞬間、彼女の瞼の上でチップがさらりと踊る。
ひっ、慣れない違和感に体を捩るショパンに、エアグルーヴは動くなと一言だけ。
……そして。
『開けていいぞ』瞼の裏の暗闇の世界に、母の声が届く。
そろりと、彼女は瞼を開く。鏡の世界の自分に、息を止める。
清く、正しく、麗しく。
『わ……ァ……』
脳髄に電流が迸る。
『触るな』そう、エアグルーヴが言ってくれなかったら触っていたに違いない。
『似合ってる……かな?』
『当然だ。私が施したのだぞ』
静かに母はそう言ってくれた。
『ありがとう! おか……』
直前まで出かけた言葉をひっこめた。エアグルーヴは聞かなかったことにして。
『今日は特別だ。いいか、先も言った通り、それを付けるのなら遊びでは済まされない。女帝としての証だ。今日だけは、お前に託してくれよう』
女帝から授かった、本物の証。それを携えて、ショパンは戦いの場に立った。
だから。
だからこそ。
それを侮辱されることが、どうしても許せなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『さぁ、各ウマ娘たち無事にゲートにそろいました…12人の仁義なき争いが今……始まりました! ゲート開放!!』
横並び一直線。ショパンに遅れはなかった。
練習通り、無事にゲートを脱出できたことに、秋名は胸を撫で下ろす。
「よかった。ちゃんとできてる」
「レースは終わったのか?」
気を緩ます秋名に、エアグルーヴが鋭い指摘。秋名は頭を掻いて、そうだねと相槌。
ただ、エアグルーヴは変わらぬ重い面持ちを。憂いの原因は、やはりショパン。
『本当にそうなのかな』。秋名の言った言葉を、何度も心で反芻していた。
――
身体とは不思議なもので、初動がやたらに怠いと思いきや、動き出してしまえば案外宿主に従順なものだ。
予定通りうまくやれるか。体を動かせるか。それも杞憂。手続き的記憶とでも言うのだろうか、全ては体が覚えていてくれている。
つまり、残りをどう詰められるかは、走者の心に全て委ねられる。
ショパンは前を見据え、しっかりと腕を振って、ストライドの幅を自覚し、呼吸を管理する。
全てはエアグルーヴから教わったこと。しかし、未だそのレベルは見様見真似に等しい。
ただ、今はまだ真似でいい。学ぶことは真似ることだと授業でも教わったじゃないか。ただ、模倣ではいけない。彼女はエアグルーヴではなく、『ショパン』なのだから。
想いを胸に引っ提げても、エアグルーヴにはなれない。だからこそ、彼女にしかできない走りを、彼女なりのやり方で、戦っていくしかない。
ショパンが目指すは、勝利への道。辿っていくは、母の軌跡。その心に不安と憂いはいつの間にか消えていた。ようやく、覚醒し始める。ショパンの中に流れる女帝の血が、熱を帯びて。
そんなショパンの背中を、付け狙う
――
ばか、ばか、ばか
みーんなばかばっかり。
ほら、あの娘なんて基本フォームがなってない。そっちの娘は? インコース確保できて満足? 後々、進路を塞がれてしまうだなんて考えてないんでしょうね。あっちの娘なんてもうバテてる。
張り合いがないなぁ。まあ、それはそうでしょう。だってこんな安いお祭りに出るような。いや、こんなお祭り程度にしか出れない可哀想な娘たちだもの。
こんなところで、このアタシが走るだなんて、弱いものいじめもいいところよね。だってアタシはこんな未勝利ばっかりの娘たちとは違うもの。デビュー戦を、2バ身差をつけて大勝ちしてしまった、期待のエースだもの。
でも、私はここでしっかり魅せていかなきゃいけないの。これはまだ、下積みなんだから。私が地方の貧乏レースから、華やかな中央へと鳴り物入りで栄転するための、シンデレラストーリーの序章に過ぎないんだから。
もしかして、もしかしてだけど、シービー様だってこのレースをひょっとしたら見てるかもしれない。
そんなことになったらどうしよう。まさか、シービー様直々に、アタシに声をかけてくださったり……?
可能性は0じゃない。だから、ここで自分をしっかりアピール。
アタシはこんな貧乏くさくてダサい連中とは違うんだって!
何度も、何度もビデオを見返して研究したシービー様のフォーム。作戦。これ以上完璧に
ここでは、いや、ここでもアタシが一番! アタシこそが、シービー様の意志を継ぐ完璧なウマ娘なんだもの!
そんなアタシに歯向かうだなんて、論外だからね。実績も何もないくせに『女帝の証だ』なんて、ばかもいいところよ?
アタシに足踏まれたこと、1年後には皆に自慢できるようになってるよ?――
――
『さぁ、2コーナー回って、先頭集団から少し離れて、6番カート、12番リッチーが競り合う。9番アンガスの陰に隠れるように、5番ショパン。それを付け狙うか1番レイボーン。後方にて構えるは2番ヴァニティ……』
レースに集中できていないのか、あれだけ指導したショパンが、懸命に走っているというのに。
エアグルーヴは、無意識の中でショパンについてを延々と考えていた。思えば、ショパンの監視係を引き受けて日も久しい。目的は、あの娘を無事な姿で親の元へ帰すことだ。エアグルーヴとショパンの間には何もない。……筈なのに。
日に日に、あの娘の存在が、彼女の中で大きくなってゆく。
嫌々で面倒を見ていた厄介者から、どうしても放っておけない何かにすり替わってゆく。
それは、時を重ねすぎてしまった故の情なのか。しかし、その情はどうも違和感を連れる。
それが、先天的なものにすら感じてしまうのは気のせいなのだろうか。
あの娘は何なのだろう。今まで数多の後輩の世話を焼いてきた。そこには当然"放っておけない娘"もいた。だが、そのような娘たちに感じるものと、ショパンに感じるものとでは、まるで何かが違う。
心地のいい違和感。その言葉が、どうしても似合っていた。
『私が未来から来たって言ったら、信じる?』
……だとしたら。何のために。
「エアグルーヴ」
そう彼女を現実に引き戻したのは秋名だった。
「どうしたの? 悩みかい? さっきの会長さんの件?」
秋名の視線は変わらずショパンを追っていた。
「いや……そうかもな」
敢えて否定はしなかった。嘘を吐いたって、得をしないのだから。
「今だけは忘れていいんじゃない?」
「楽天家め。何れは対処せねばならんことだ。ショパンを…親元へ帰してあげなければ」
「親元か。ねぇ、ショパンはご両親のことが嫌いなのかな」
「何?」
「僕の目に映るあの娘は、どうも孤独を好まないような娘に見えるんだ。そんな娘が、親元から逃げてまで君に懐く理由は何なのだろうってね」
「さぁな……」
エアグルーヴは薄いサングラスを外し、埒に腕をかけ黄昏る。ぐるぐると眩暈がするほどに、あの娘の存在が頭を駆け抜ける。
「いいじゃない。今だけは忘れよう。今だけは、あの娘を応援してあげよう」
「他人事だと思って」
エアグルーヴの愚痴を、秋名は聞こえていないふりをした。
「もうすぐ戻ってくるよ……」
『さぁ、3コーナー周ってきて、ここで一気に上がってくる2番ヴァニティ! さぁ! さぁ! 最後方からズドンと勝負に出た!! そのまま先頭へ躍り出るか!?』
実況の音を頼りに、秋名はショパンの姿を探す。彼なりには、例え勝てなかったとしても、ショパンを咎めるつもりは毛頭ない。無事に帰ってきてくれれば。その細やかな祈りだけだった。
「あのヴァニティって娘、追い込み戦法のつもりか…?」
ふと、注目を集める娘に、秋名の視線が引かれる。
「研鑽と試行錯誤の結果とは見えんな。付け焼刃もいいところだ」
エアグルーヴは淡泊にそう語った。歴戦を駆け抜けた猛者の前、ヴァニティの走りは赤子同然なのだから。
「同意見だね。勝負のかけ方も本来とは違ってる。ストレートまで待てなかったか、焦ったか」
しかし悲しくも、それが通用してしまうのが、地方の幼いレースでもある。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
……!
こいつら、意外に粘ってる。
もっと早く勝手に沈んでくれるかと思ったのに。
第3コーナーを抜けて、後方に居るヴァニティの視界に映ったのは、未だ縮まっていない先頭とのディスタンス。
シービーに憧れて、両親やトレーナーの見解も無視して彼女なりに会得してきた追い込み。
今まで、練習でも、デビュー戦だってこれで勝ってきた。
しかし、追い込みには、陰に潜む大きな弱点が存在する。それは、先頭集団が思ったよりも乱れなかった場合に起こりうる『脚の余り』
つまり、追い込もうと思えど、先頭に届かなくなってしまう現象。
もしそうだとしたら。それが現実と化したら……。
ヴァニティの慢心に罅が入る。格下だと思い込んでいた相手たち。その上、注目のフルゲート開催。
そこで彼女がとっていた拙い悪手。それは、先頭を走る娘たちが勝手にバテると思い込んで、先頭との差をいつもよりも多く取ったこと。
そうすれば、追い込みの時のパフォーマンスが格段に跳ね上がると読んだから。自分の
だけど、思ったよりも先頭は陣形を保ち続けている。
ちらりと、彼女の脳内に映った未来。
シービーを模倣した勝負服で、シービーの戦法を真似して、相手を舐めて、……惨敗を喫する。
いやだ……
それだけは……
いやだ……
「――どいてっ!」
だから彼女は、まだ早いポイントで勝負に出た。ストレートに入る前だけど…この勝負服を身に纏ってみっともない負けだけは絶対、絶っ対に許されないのだから。
今ならまだ間に合う。前を走る娘を押しのけて、反則をも厭わない強引なやり方で、先頭の強奪を企む
ここで、相手をブロックしたり、進路を塞いだりなどの駆け引きができるほど、彼女たちはまだ成熟してはいない。故にヴァニティのその愚行を、状況が後押しした。
ひとり、またひとりと追い越してゆく。幼いながらの追い込み劇に、幾何かの歓声が上がる。
その刹那――彼女の瞳に映る。ひとりの黒鹿毛の背中。
『女帝の証なんだから』
瞬間、ヴァニティの黒い何かが煮えた。彼女はショパンを追い越す際に、わざと肩を当てた。
ショパンはあっと声を出して、僅かに乱れた。
「ざまぁみろ」
それは心で呟いたこと、口に出てしまったかもしれない。でも、どうでもいい。
ようやく先頭が見えてきたのだから。
――
『さぁ、最後のストレート!! 先頭は2番ヴァニティ! そのまま先頭を維持できるか!』
「あの娘! ショパンを押しのけた……!」
秋名の眉間に僅かに皺が寄る。それはエアグルーヴも同様だった。
「ショパン……!」
秋名は儚い祈りを捧げた。どうか無事に帰ってきてくれと。無理はしなくていいと。
エアグルーヴにインプットされる、ひとりで溺れ、もがき苦しむ、ショパンの姿。
手を出してあげたくても、届かない。
あの娘は、一人で彷徨っている。混迷している。怯えている。……一人で。
「ショパン……」
一つ呟く。でもそれは届かない。
あの娘が目の前で苦しんでいる。でも。何もしてあげられない。
埒という檻の中で、迷い苦しむあの娘を、ただ見ているだけ。
その姿が、どうしても
どうしても
苦しかった。
ああ……嗚呼……。
ここから手を伸ばしたい。
あの娘を、助けてあげたい。
ショパン…ショパン、ショパン、ショパン、ショパン…ショパン…ショパン
『おかあさん…』
「――ショパンッ!!」
それは、初めて理性よりも感情が先に仕事をした瞬間だった。
野生のように、エアグルーヴはショパンに向かって、吠えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ぶつけられた。ヨれた。せっかく今まで保ってきたフォームが乱れた。
立て直さなきゃ、早く追いかけなきゃいけないのに……
『ざまぁみろ』だって。
やっぱり、こんなところで何もできないのが、私なのかなぁ……。
やっと灯った炎が、萎えてゆく――
『――ショパンッ!!』
それは確かに、彼女の鼓膜にまで届いた。誰の声かなど、言うまでもない。
「おかあ……さん……」
瞬間、今朝の出来事が頭の隅を駆け抜けた。
『今日は特別だ。いいか、先も言った通り、それを付けるのなら遊びでは済まされない。女帝としての証だ。今日だけは、お前に託してくれよう』
そうだ。今日の私には。
母が託してくれた、お守り。女帝の証。
『ショージキ今時アイシャドウとか、時代遅れってかダサイんだけど』
時代おくれでも、ださくもない。
だって、だって、だって……
これこそが、女王の意志を継ぐ者が表した覚悟なのだから。
負けない、負けたくない! だって彼女は、
彼女こそが
――女帝の意志を継ぐ者なのだから。
ショパンに再び、血が、熱が迸った。
――
あぶない。でも、これで堅い。と、額の汗を拭って彼女は口端を吊り上げる。
かなり強引に、先頭へ躍り出たヴァニティ。そこにアスリート精神があったかどうかは疑わしいところだ。
でも、これでもう遮るものは何もない。あとは先頭を死守すれば、それでいい――
『先頭を抜け出すのは2番ヴァニティ! そこに食い下がる!! 5番ショパン!!』
――は?
実況の音に耳を疑った。
食い下がる……?
何? 食い下がるって。だって今は、アタシの独走……じゃない?
ってことは……
すぐそこにいる……?
その時、ようやく感じた瘴気。それは、赤く繊細だけど、確かに毒を含んでいた。
「え、何? なんなの……?」
慢心からふるい落とされる。代わりに棲むは、ある種の恐怖。
『5番ショパン! 強い追い上げだ! 2番ヴァニティ! 少し苦しいか?』
第3コーナーより、フルスロットルをかけて先頭まで躍り出たヴァニティ。無論その代償はタダといくわけがない。
ペース配分を大きく無視した全力スパート。故に残るは残骸のような僅少なスタミナ。
対するショパンは、エアグルーヴの指導の下に培った、繊細なペース配分と、終盤に掛ける末脚。
それを以て、ヴァニティの喉元に喰らいついた。
じりじりと、狭まってゆくショパンとヴァニティの差。
「ふっざけんな……ァ!! あたしが、アタシが一番じゃなきゃ意味ないんだよ!!」
――
「ショパン……」
あの娘は無事に立て直せた。そして、軌道に乗った。
走る。走る。懸命に、死力を尽くして。
「ショパン……ショパン……」
彼女の名を呼ぶ回数が無意識のうちに増えていく。脳のキャパシティをあの娘の存在が埋めてゆく。
そうだ。そうだ!
諦めてはいけない。お前には、勝ってほしい。
もう少しだ。もう少しで、あの娘は先頭に届く。
止まらぬリフレインの刹那に、抑えきれなくなる。
「――ショパン!! そうだ!! 前を向け!! 走り続けろ!! ショパン……ショパン!!」
何故だ…何故あの娘の走りに、私は酔わされるんだ。
何故だ。何故私は…あの娘の走りを知っているんだ。
何故……どうして……あの娘の走りは、私の感情をこうも揺らしてくれるのか――
「そうだ!! ショパン!!……がんばれ!! もう少しだ!!」
隣から轟く、男の声。秋名の叫び。
彼もまた、何かに取り憑かれたように。本能の赴くままに、ショパンの名を呼び続けていた。
ああ、二人揃ってなんと品の無い様なんだろう。
でも、今だけは、理性を殺した、本能に従うしかなかった。
――
女帝の証は、偽りなんかじゃない。
嗤われるべきことでもない。
栄誉と、誇りの証なのだ。
彼女はそれを今日、携えてる。遊びなんかじゃすまされない。
それでも覚悟はある。
『5番ショパン!! 勢いは増していくところ!! さぁこれはわからない!! 競り合う形となった!!』
「ふ、ふざけ……や、やめてよぉ……」
先に折れたのはヴァニティの方だった。彼女に残されたものは、もう何もない。
ただ、後方から伸し上がってくるショパンの存在に、ひたすら怯えるしかなかった。
やだ……やだやだやだやだやだ!!!
こんなところで、アタシはおわっていいわけがない。
やだ! くるな……! シービー様が……シービー様がアタシを待ってるのに…!!
くるな……くるな……来るな来るな来るな来るな来るな―――
「こないでよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
『ショパン!! 2番ヴァニティを僅かにリード……ショパン!! ショパンです!! トップでゴールインッ――』
――
最後にそこに残ったのは、実況が語る事実だけだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『ショパン!! 2番ヴァニティを僅かにリード……ショパン!! ショパンです!!トップでゴールインッ!!』
「……」
実況が激しく唸る。地方競技場に似つかわしくないほどに歓声が飛ぶ。
その狭間で、エアグルーヴは茫然自失と、処理しきれぬ目の前の現実に固まっていた――時だった。
傍らにいた秋名が、激しくエアグルーヴを大きく抱擁した。
「やった……勝ったよ……あの娘が……頑張ったよ……!」
彼の顔に、数多の大雨。
「……何故貴様が泣く」
「君もじゃないか」
「……え?」
頬に触れて、ようやく知った。
彼女の瞳に、一筋の涙が伝っていたことに。
――
激しく呼吸を繰り返す。アドレナリンが切れた途端に、辻褄を合わせるように疲労が彼女を襲う。
埒に掴まっていなければ、立ってもいられない程に消耗していた。
それでも。初めて掴んだ。
母と歩んで初めて手にした勝利――
暫く呼吸を整え、地下バ道へ戻ろうとしたとき、付近に
勝利の余韻に絆されてかは知らないが、彼女に声をかけてやろうと思った。
確かにミスターシービーだって強い憧れのウマ娘だ。だけど、エアグルーヴだって。そういう話をしようかと思ったからだ。
「ねぇ」
そう声をかけても、ヴァニティは膝をついたまま。ショパンの方へ振り返ろうとはしなかった。
「あの……」
ひと時を置いてだった。
「う……うう……う゛っう゛う゛っ……うわあああああああああああああああああああ!!!!!!」
ヴァニティは、天を大きく仰ぐように、大きく口を開けて、折角の勝負服を己の涙と鼻水で汚しながら、吠えるように泣き続けた。
「……」
ショパンは、少しの戸惑いの後、ヴァニティと同じく膝をついて、そっと彼女の手を取り
『一緒に戻ろう』
そう言った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ちょっとしたウイニングライヴも経て、ショパンは選手控室の廊下にて、秋名とエアグルーヴを見つけた。
ショパンはふわふわとした高揚を隠しきれないまま、二人の下へ小走りで。
「ねぇ! ねぇ! 私!」
そんな興奮気味なショパンに。
「驕るな」
そう厳しさを見せたのはエアグルーヴだった。
「いいか、お前のレースはきっとこれで終わりではない。これからも先、お前には数多のレースが待ち構えているはずだ。一つの勝利を、自信にすれど、慢心はするな」
「うん……!」
ショパンもまた、一つ成長した瞳でエアグルーヴに答えた。
「だが、勝利は誇っていい。よく頑張った」
そういうと、エアグルーヴはショパンの頭に手を添えると、朗らかな笑みでショパンを撫でた。
初めて見た、母の笑み。それは紛いもない、自分自身に向けられたもの。
ショパンはたまらず、エアグルーヴに抱き着いた。
「っ! お前!」
「ちょっとだけ! お願い!!」
エアグルーヴは、少しだけだぞと言い、ショパンの頭をやさしく抱えた。