【完結】女帝の意志を継ぐ者へ   作:マシロタケ

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【休息】家族団欒

「じゃあ、後でな」

 

 エアグルーヴはそういうと、紅い暖簾の下がった『女湯』へと消えていった。ショパンもまた、それに続き秋名へひらひらと手を振ると、淡い湯気の香る楽園へと消えていった。

 

 二人の背を見送ると、秋名はどこか形のない寂寥を引っ提げて、蒼い男湯の園へと、暖簾を潜った。

 

 上質なアロマの香りと、湯の気配が童心を僅かに擽る。温泉など何時以来なのだろうか。

 

 東京からさほどの距離はなかった地方競技場。だが、やはり東京と比べ華やかさは幾何か寂しいもの。街というより町。僻地とまでは言わないが、郷愁の念を催してしまうことは否定できない。遠くを見渡せば、連山が肩を組み、田園が幅を利かせている。野鳥の歌すらもどこか穏やかだ。

 

 この湯は、それら喧騒を忘れた土地の恩恵といえるのだろうか。

 

 秋名は脱衣所で衣類を全て籠へ預け、フェイスタオルを一枚手に取る。浴場へ向かう途中、一つの籠に衣服が詰め込まれているのが目に入った。先客がいるのだろう。その籠には、ワインレッドカラーにストライプが刻まれたジャケットが、適当に放り込まれていた。

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 湯の華やかな心地よさが、疲れ切った四肢を優しく癒してくれる。

 

 今日のように、体の持てる全てを使い果たした日ともあれば、それは更に別格だ。

 

 地方競技場の近くに温泉施設があったことは幸いだった。ショパンの勝利の祝いにと、秋名がこの施設を見つけ、提案したのだ。

 

 ぬくぬくとした源泉かけ流しの愉悦に、ショパンの脳天はくらくらと。天然の湯に絆され騙され踊らされ、ゆるりと湯治に現を抜かす。

 

「湯舟で寝るんじゃないぞ」

 

 そう言われて、初めて自分が微睡の中に居たことを自覚する。平気だもんと強がってはみるものの、日中に積み重なった疲れが、どうしても心地いい。

 

 だから、こっくり、こっくり、船を漕ぐ。

 

「寝るな」

 

 そういってエアグルーヴはショパンの頬をもちりと抓った。

 

 ヒーンと鳴きながら、潤いたっぷりな自分の肌をさする。そんなに眠いのなら、もう上がるか? と母が訊く。ショパンは首を横に振ってもうちょっとと言った。

 

「ねぇ、今日の私どうだった?」

 

 ふわふわとした湯の享楽の中、ショパンはエアグルーヴに訊ねた。女帝の目からみて、今の自分の評価とはどうなのだろう。それがどうしても気になったから。

 

 エアグルーヴの回答は『概ね悪くない』。それを、どこか満足気に語った。

 

「終盤前に、邪魔をされただろう。だが、よく堪えた。今日のお前は、確かに私の、女帝の名を飾る者としての十分な仕事をした。だが、詰められ切れていない課題も山積みだ」

 

 そういって、今日のショパンの良かったところ、至らなかったところを細かく語った。果たして微睡に溶けそうなショパンがそれをすべて聞いていたかどうかは、怪しいところだが。

 

「それにしてもお前、何故最後にあの娘に肩を貸した?」

 

「あの娘……」

 

 エアグルーヴの言うあの娘。きっと嫌味な娘(ヴァニティ)の話なのだろう。

 

「お前、レース直前、あの娘と悶着があったのだろう」

 

「知ってたの?」

 

「お前が嘶く(・・)音が聞こえた」

 

 エアグルーヴは湯気に湿った耳をぴんぴんと振った。

 

「それに、あいつはお前の走りを妨害した。そうまでされて何故あの娘に手を差し伸べた」

 

「放っておけなかったの。あの娘にも、とっても憧れのヒトがいて、一番になる夢があって。確かにちょっと意地悪だったけど、でも、きっと抱えてるものは私と一緒なんじゃないのかなって思っちゃって」

 

 それは、ヴィニティの涙を見て感じたこと。優しくてもウマ娘、意地悪でもウマ娘。その根っこにあるものは、皆同じ夢。ショパンはそう主張した。

 

 一時をおいて、ふと、自分が頓珍漢なことを囀っているのではという疑問がショパンを襲う。エアグルーヴから目を背けて。

 

「変……だよね。勝負しなくちゃいけないのに、他の娘のことを考えたりするなんて」

 

 エアグルーヴは一小節空けて、カルマートに語った。

 

「いや、お前の優しさは間違いではない。汝の敵を許し、受容れることは誰しもにできることではない。それがお前の心だと言うのなら、否定はしない。だが、正しい優しさを持て。時に優しさは自分を傷つける凶器にすらなりえる。胸に刻んでおけ」

 

 そう語りながら、それは自分にも言えたことかもしれないと、エアグルーヴは自分の言葉を飲み込んだ。

 

「うん……」

 

 ショパンはまた静かに答え、湯煙に包まれる麗しき女帝のそばへと擦り寄った。

 

「学園には慣れたか?」

 

 少しの沈黙が流れた後に、エアグルーヴが訊ねた。

 

「お前が来て、どれくらい経ったのだろうな。……なぁ、ショパン。一度だけでもいい。お前が何者なのか。どうして親元へ帰りたがらないのか、私にだけでいい。他言もしない。教えてくれないか」

 

 ひとつ語った後に、もう一つ

 

「私は、どうもお前に情が芽生え始めているらしい。だから、その。お前をちゃんと、親元へ帰してあげたい。きっとお前にも、本当の(・・・)父親がいて、母親がいて。どうしても帰れない理由があるのなら、それでもいい。ただ、このままでは、どうしてもお前の為にならない。お前の未来の為にも、お前には正しくいてほしい……」

 

 初めて語ったショパンへの本音。きっとこの湯に絆されたからに違いないと、自分に言い聞かせる。

 

「……ショパン?」

 

 流石に話が重すぎたのか。ショパンの回答は無言。勝利の祝いの場ですべき話ではなかったかもしれない。エアグルーヴの心に、僅かな後悔。

 

 

 スー スー 

 

 

 代わりに聞こえるもの。それは湯口から垂れる湯の音と、掠れるような小さな寝息。

 

「寝るな!」

 

 むにっと頬を抓れば、ヒーンとショパンの電源が入る。

 

「まったく、人が真剣な話をしているというのに……」

 

 むにむに。ショパンの柔らかい頬が、どうも手に心地いい。

 

 むにむにむにむに。エアグルーヴはそのままショパンの頬で遊ぶ。そのたびに、ヒンヒンヒンヒンとショパンは鳴く。

 

「それにしても、張りのあるいい頬だ。流石に若いな……」

 

 そう感想を漏らしながら、エアグルーヴはショパンの頬をいじめ続ける。

 

「ひぃん……もう起きてるよぉ……」

 

「ほぉ、そうか」

 

 それでも、むにむにむにむに。片手から、今度は両手で、両方の頬を。つついてつねって。いじめればいじめるほど、ショパンの反応が面白い。

 

「なぁに?」

 

 いつまで経っても、頬を放してくれない女帝にショパンが問う。

 

「いや」

 

 ショパンは目を開く。そこにあった女帝の顔は……。

 

 

 

 

「──お前はどうも、いじめ甲斐がある」

 

 

 

 子に接する母のように、愛に満ちていた。

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 竹垣の奥から聞こえる、黄色き騒めき。時折ヒーンと聞こえるのは、ショパンが要らぬことをエアグルーヴへ言ったからなのだろうか。

 

 二人の戯れる音に、心が妙に休まる。それは安心の感覚にも似ているのかもしれない。

 

 どういうロジックでそう感じるのかはわからない。だけど──

 

「なんだ、そんな向こうの楽園が気になるか?」

 

「え!?」

 

 ふっと引き戻される秋名の意識。隠し切れない焦燥に、湯の飛沫を飛ばしながらも振り返る先。居たのは五十路の男。竹垣を眺め、にやりと笑っていた。

 

「どうしてここに?」

 

 その男は、秋名と同様にトレセン学園での活動を生業とする、トレーナーだったり教官だったりする人らしい。

 

「ちょっとした出張でな。そのついでだ。たまに来るのさ」

 

 そういえばと、この温泉施設の駐車場に、やたらと目立つ高級車(ポルシェ)があったことを今さらながらに思い出す。学園内では有名な、彼の愛車なのだ。

 

「それで、お前は? 担当引き連れてナイショの旅行か? ……かぁ、若いっていいなァ」

 

「そ、そういうわけじゃあ」

 

「でも居んだろ? その塀の向こうによ」

 

 男は顎を竹垣のほうへ放り投げて、再び笑う。

 

「こーゆーのってサ、足の引っかけ方にコツがあるんだよ。慣れりゃ7秒でイケる」

 

「何の話です?」

 

「覗くんだろ?」

 

「僕はもう少し長生きしたいですよ……」

 

 何だ甲斐性がねぇなと男は秋名の背を叩いた。

 

「そいで、例のよくわからんウマ娘、今はお前が面倒見てるんだっけか?」

 

「正確には、エアグルーヴが」

 

「ほぉ、母親呼ばわりってのも、満更でもねぇってことか?」

 

「それは、どうでしょう。ですが……」

 

「ですが? なんだよ」

 

「いえ、余計にあれこれ言ってると、彼女の機嫌を損ねてしまいますから」

 

「はっ! お前、将来尻に敷かれるぞ! 俺の担当のオヤジみてぇにさ」

 

 男は笑うと、湯に馴染んだ黒い髪を、両手でかき上げた。水気によって一時的に作られるオールバックスタイルに、いつもの見慣れた彼がいた。

 

「それで、そちらはどうなんです? 例のスプリンター(・・・・・・・・)は」

 

「どうもこうもねぇよ。ありゃまだ弾けるぞ。お前んトコの連中も何れ纏めて喰ってやるよ」

 

「何を宣うも自由ですが、一筋縄では行きませんよ。彼女」

 

 互いのトレーナーとしての魂に火が入る。盛る炎の前に、年齢や先輩後輩など些細な話。

 

 男はふっと鼻息を鳴らすと、湯船から立ち上がる。

 

「じゃあ、俺先に行くぜ。覗くんなら慎重にやれよ」

 

「ご心配どうも……大城先生(・・・・)

 

「悪ぃけど、俺もう先生じゃねーのヨ」

 

 その言葉をその場に残し、男は全てを煙に巻いて消えていった。

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 湯舟を後にし、脱衣所で着替えを済ませ、温泉の名残りと言わんように、湯気を纏ったままのショパンは、両手でフルーツ牛乳の瓶を抱えたまま、エアグルーヴの支度が終えるのを待っていた。

 

 もう後は帰宅するだけだというのに、ここでも女帝は隙を見せない。持参の化粧水を何層にも重ね、湯上り後の薄化粧。そこにアイシャドウは重ねないものの、確かに女帝としての品格がそこにはあった。

 

「すまないが、もう少しだけかかりそうだ。きっとトレーナーが休憩室で暇を持て余しているだろうから、相手でもしてやってくれ」

 

 ショパンはひとつ頷くと、脱衣所を後にし、休憩室へと向かおうとした。その道中に、牛乳瓶の回収箱があった。ショパンはそこに飲み干したフルーツ牛乳の瓶を戻したとき。

 

「あ……」

 

 ふいを突かれたような声に、ショパンの耳がピンと反応する。

 

 その視線の先、居たのはあの嫌味な娘(ヴァニティ)

 

「あ……」

 

 ショパンは彼女の言葉を鸚鵡返し。まさか彼女までここに来ていたとは。

 

 私服の彼女。勝負服を脱ぎ捨てれば、やはりそこに居るのは年相応な少女。但し、その服にはしっかりミスターシービーのイラストがプリントされている。

 

 互いが少しだけの無言。

 

「い、いいシャツだね。それ、似合ってるよ」

 

 先に声を出したのはショパンだった。この半端に気まずい空気に抗う一手だった。

 

「そ、そうに決まってるでしょ! これ、限定品なんだから! ……ふん! エアグルーヴがなんだとか知らないけど、シービー様が一番なんだから!」

 

「確かにミスターシービーもカッコよくて強いウマ娘だけど、やっぱり私のイチバンはエアグルーヴだなぁ」

 

 ショパンは後ろ手を組んで、朗らかに答えた。

 

「ばっかじゃないの! それはアンタがシービー様の凄さを知らないだけなんだから! エアグルーヴなんて、全っ然大したウマ娘なんかじゃ──」

 

「私がどうかしたか?」

 

 ショパンの背後から、現れた一人のウマ娘。

 

 強かに、鋭く、重厚な言葉が、ずどんとヴァニティの心臓を貫くように刺さった。

 

 勝負服を纏わずとも、ターフへ立たずとも、彼女から発散される本物の存在感(オーラ)。肌をひりつかせ、呼吸をも忘れさせる。

 

「え…………?」

 

 ヴァニティが状況を理解するまでに、数刻は要した。時を置いて、ようやく、ようやく、目の前にいるのが本物の女帝であることに気が付く。

 

「えあ、ぐ……な、なな……なんで…………?」

 

 開いた口を塞ぐことを忘れ、瞼を開けるだけ開いて、持っていた温泉セットを床に落として。

 

「どうした? 私の話をしていたのだろう? 気にせず続けろ。それとも、私が居ては何か不都合でもあるのか?」

 

 どんなに強がり、見栄を張り、粋がろうとも、所詮は子供。

 

 本物の前に、成す術などあるはずがない。

 

「お、おか……おかーさーん!!」

 

 落とした荷物を拾うことも忘れ、ヴァニティは来た道を走って引き戻していった。

 

 その後に、ショパンとエアグルーヴは顔を見合わせて、くすりと笑った。

 

「ああ、二人ともここに居たんだ」

 

 そこに、秋名の姿。二人があまりにも遅いからと、しびれを切らして様子を見に来たらしい。

 

「すまない。待たせたな……だが、直ぐにでもここを出たほうがよさそうだ。騒ぎになる前に」

 

「騒ぎ?」

 

 そうすれば、奥の方から聞こえてくるざわめき。

 

『エアグルーヴがここに来てるって?』

 

『聞いた!? エアグルーヴが居るんだって!?』

 

『どこ!? 私、絶対サイン貰うの!』

 

『さっき露天で似たウマ娘が居るって思ったけど、マジ本物なの!?』

 

 それらは次第にクレッシェンド。なるほどねと状況を理解した秋名は、懐から愛車のキーレスを取り出し二人に見せる。要は撤退開始の合図だ。

 

 エアグルーヴは薄いサングラスを再び装着。帽子はショパンに被せて。三人はその温泉施設を離脱した。

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「ただいま……」

 

 一人暮らしの男の家。単身用の賃貸といえど、孤独の空間に響く自分の声とは空しいもの。その声に応えてくれる人などいやしない。

 

 だが、今日ばかりは、そうでもないらしい。

 

「お邪魔しまーす!」

 

「邪魔するぞ」

 

 彼の傍ら、二人の担当が、買い物袋を引っ提げて。

 

 温泉施設から東京へ帰る道中、ショパンが空腹を訴えた。秋名は勝利の祝いになんでも好きなものをリクエストしていいとショパンへ言った。だが、ショパンが要望したものは意外なもの。

 

『エアグルーヴの作った御飯が食べたい』

 

 そう答えたのだ。二人(・・)は意表を突かれたような感覚を覚えつつも、ショパンのその強請(ねだ)りを受け入れた。具材は買い物をすればどうにでもなるが、キッチンはどうしたものか。そこで辿り着いた解が、秋名の自宅ということらしい。

 

 ショパンとエアグルーヴはレジ袋を提げたまま、キッチンへと向かう。ショパンは高揚気分で、鼻歌を歌いながら。エアグルーヴは顎を抱えて、料理の手順を考えながら。

 

 秋名は、どこか青い表情をして二人の後を追う。だって急に担当が自宅に来るなど思ってもいなかったのだもの。故に、想定されること──。

 

「おい、貴様、なんだこの部屋の有り様は?」

 

 秋名の居住スペースに踏み入ったエアグルーヴが見たもの。それは、女帝の杖となり得るトレーナーとしてあるまじき、あられもない部屋の姿。

 

 積み上げられた酒の空き缶と、大量のペットボトル。開封してそのままの段ボール箱、脱ぎ捨てられた衣服に、溜まりに溜まった新聞と雑誌。流し台には、使ったままの食器の後。

 

「あ、いや……その。やっぱりほら、どうしても忙しくてね」

 

「そんな言い訳を私が通さぬと知っての行為か? 以前も同じ有様を見た気がするが、既視感か?」

 

「ご、ごめんよ……」

 

 エアグルーヴの鋭い視線に、たじろぐ他はない。掃除の女帝、エアグルーヴに逆らえる者などこの世にいない。

 

「私が食事を用意する間に、ショパンと二人で掃除をしろ。わかったな?」

 

「はい……」

 

 妻に詰め寄られる夫。父が掃除や整頓が苦手なのは昔からだったのかと、ショパンはくすりと心で笑った。

 

 

 ──

 

 がさがさと、雑誌や新聞を束ねる音と、ごうごうと、掃除機が奏でる重奏曲。まだ幼いショパンに、自分の不始末を手伝わせるのがどうも忍びない。

 

 レースをした後で疲れているのだろうに、君は休んでていいと言っても、ショパンは、それではトレーナーが叱られてしまうと聞き入れず、掃除に精を出した。

 

 これはいるの? これは捨てていい? てきぱきと要領よく動けるショパンは、流石に掃除の女帝の血を引くだけのことはあるらしい。

 

 そこに、あっと声を出してショパンは固まる。秋名はどうしたのかとショパンへ訊ねるが、彼女が手にしているものを見て、血の気が引く。

 

 それは所謂、色欲を満たす為の"いかがわしい"ものの類なのだから。

 

「だ、ダメだよ! それは! 子供がみちゃあ!」

 

 秋名は慌てて手を伸ばそうとするが、ショパンはそれを胸に抱いて、お母さんに言っちゃおうかな。と一言。

 

 それだけは、と青くなって許しを請う秋名。ショパンとしては、エアグルーヴという美しい将来の妻が近くに居ながら、こんなものに興じるなど、言語道断ということらしい。

 

 ショパンはこれを見逃す代わりに、これを捨てる約束を秋名と。秋名は泣く泣く合意した。

 

 そしてそして、掃除は続く。

 

 空き缶をまとめて、ペットボトルはラベルを剥がして、キャップを分別して。洗濯物は纏めて洗濯機を回して。戸棚の整理をして。奥のキッチンからは、香ばしい香りが漂ってくる。

 

 その時、再びショパンがあっと声を上げる。

 

 秋名の神経がまた張る。急いでショパンの下へ、どうしたのかと声を上げて。

 

 戸棚の前でショパンが抱えていたもの、それはひとつのレターケース。

 

 その中身は、秋名の担当エアグルーヴのインタビュー記事や、新聞雑誌で取り上げられた際のスクラップ。それと数枚のDVD。

 

 まぁ別に、見られて困るものではないと、秋名は胸を撫でおろす。ショパンは掃除の手を止めて、そのスクラップを微笑みながら捲る。

 

 そのときに、不意に秋名へ問う。

 

「ねぇ、トレーナーさんって、先輩(おかあさん)のこと……好き?」

 

 その質問に、秋名は僅かに息を止めた。

 

「好き……って、それってどういう。まぁ、担当として信頼は十分にしているさ」

 

「ううん、そうじゃなくて」

 

 ショパンの少しもどかしそうな素振り、彼女が求める回答とは。

 

「それって、エアグルーヴを一人の女性としてってことかい……?」

 

 ショパンは大きく頷いた。

 

 最近の子供はませている。秋名は悩みながらも、無難な回答を探す。

 

「そんな、考えたこともなかったな……」

 

 でも、実際のところどうなのだろう。エアグルーヴは、確かに非の打ちどころのないウマ娘だ。眉目秀麗で当意即妙で。

 

 好き、なのかな……? 

 

 好き、なのかもしれない……? 

 

 

 

「──掃除は終わったのか?」

 

 

 完全に油断した秋名の背中に、女帝の声。秋名の心拍数が一気に増した。何かやましいことをした気分にも似ていた。

 

「ほら! これこれ!」

 

 ショパンが秋名の作ったスクラップをエアグルーヴへ差し出す。

 

「ほぉ、よくできているな。確か、私は掃除をしろと言ったはずだが、こんなものに現を抜かしていたというわけか?」

 

 じろり、と女帝の瞳が父娘(ふたり)をとらえる。

 

「掃除はどれくらい終わったんだ?」

 

「えっと、半分もいかないくらい……かな」

 

「だったら手を止めてないで、とっとと続きをやれ! このたわけっ!」

 

 エアグルーヴを妻に娶ると、緊張感のある毎日になりそうだ。そう、秋名は思った。

 

 

 

 ──

 

 

「で、終わったのか?」

 

「ああ、なんとかね」

 

 秋名とショパンが食卓へ辿り着いた時、テーブルの上には、エアグルーヴ特製のにんじんハンバーグと、サラダの付け合わせ。人参のポタージュに、炊き立ての白米の姿が。湯気を立てて二人の食欲を誘った。

 

「おいしそう……」

 

 ショパンは小走りで席に着く。腹の虫の音がどうも治まらないらしい。

 

「ありがとう。エアグルーヴ」

 

「まぁ、ショパンへの褒美だからな」

 

 エアグルーヴは涼しくそういうと、三人は手を合わせた。

 

 

 それからは、特に説明のいらない時間だった。

 

 エアグルーヴの料理に舌鼓を打ち、今日のレースを三人で振り返り、時になんてことのない会話をして、ビールのお替りを要求する秋名へ、母娘(ふたり)揃って憤って。果てには、三人で笑いあって……。

 

 ほんの、1時間にすらも満たない僅かな時間。だが、それは永遠の幸せを凝縮したような時間でもあった……。

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「ショパン、そろそろ寮へ帰るぞ」

 

 食事の片づけを終えたエアグルーヴが、タオルで手を拭きながらリビングへ。

 

 そこのソファに、秋名とショパンは居た。エアグルーヴが再びショパンと名を呼ぼうとすると、秋名は一本指を立てて、口元にあてた。

 

「寝ているのか?」

 

 ショパンは秋名に寄りかかり、深く瞼を閉じて、くぅくぅと。

 

「よっぽど疲れてたんだろうね。無理もないよ」

 

「しかし、寮へ戻らねば」

 

「いいじゃない。泊まっていきなよ。今日はもう遅いし」

 

 そういうと、秋名はショパンを抱えて、寝室のベッドへ。静かに彼女を寝かせると、掛布団を首元までしっかりと覆った。

 

「私は、寮へ戻る。明日、ショパンを連れてきてくれ」

 

「君も居てあげなよ。この娘のそばに。君がいないときっと寂しがる」

 

 秋名は静かにそういった。

 

「私もって、貴様はどうするつもりだ」

 

「僕は床かソファでいいさ。じゃあ……」

 

 そういって、部屋を後にしようとした時だった。

 

 秋名の裾を、エアグルーヴは握った。

 

「……寝床を奪っておいて、部屋の(あるじ)を床で寝かせられるものか」

 

「え……?」

 

 

 

 ──

 

 

 

「それじゃあ、おやすみ」

 

 単身用のベッドとは言え、広めのベッド。詰めるところまで詰めれば、三人並んでもなんとか収まる。……窮屈さは否めないが。

 

「いいか、あくまでショパンのため……だからな」

 

「存じてるさ……」

 

 エアグルーヴとショパンと秋名。ショパンを間に挟んで、三人は川の字。

 

 両親に囲まれての就寝。その幸せに、ショパンはまだ気が付かない──。

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「……んぅ」

 

 あれから、どれ程の時が経ったのだろう。時間にして、おおよそ6・7時間といったところだろうか。時計を確認せずとも、大方の睡眠時間は体で把握できる。

 

 僅かに差し込む淡い光芒。昨日の疲労が完全に抜け切れていないのは歳のせいなのだろうか。

 

 それほどまでに、昨日は疲れていたのか。それもそうだろう。遠征と温泉と部屋の掃除と。そういえば、二人の担当はどうしたのだろうか。

 

 確か、ショパンが寝てしまって、それで、自分のベッドに寝かせて、エアグルーヴも同じく自宅に泊めて、そして自分は……。

 

 ──彼女たちと同じ(ベッド)で一夜を過ごした。

 

 

「え……」

 

 

 自分で出した回答に、自分で驚く。

 

 自分の気遣いで始めたこと。字面に起こせばとんだ事案じゃないか。

 

 秋名は慌てて横を向く。そこにエアグルーヴの姿は既になかった。代わりにあったのは、ひょこひょこと、掛布団の中から生えてきた、二つのお耳。

 

 時折ゆらゆらと動いては、後ろにペタリと寝かせたりと、どうも忙しない。

 

「……」

 

 秋名は考えることを一時的に止めて、その耳を摘まんだ。縦に引っ張れば不思議とよく伸びる耳だ。

 

 その耳に悪戯をすれば、ぴっぴっぴとその耳が抵抗し、ぺしぺしぺしと彼の手を叩く。やめろという合図なのかもしれない。

 

 秋名は手を放して、今度は先端を摘まんですりすりと擦った。そうすると、その耳はひょんと毛布の中へと逃げて行った。

 

 秋名は、掛布団をめくりあげる。そこにいた一人の少女。安堵に満ちた表情で。幸いの渦中に溺れていることは確かなようだった。

 

 その顔に、秋名はやはり、安心と愛情を覚えるようだった。そしてそのまま掛布団を戻すと、リビングへと向かった。

 

 リビングでは、すでにエアグルーヴが朝食の支度を始めていた。

 

 おはようと声を掛けるも、彼女は少しぎこちない。きっと彼女も同じことを思ってしまっているのかもしれない。トレーナーの部屋で、一夜を明かしたという事実。やましいことは無かったといえど、事実は事実。寮長への申し開きを考えているのかもしれない。

 

 秋名はテーブルへ着くと、エアグルーヴもその対面へと座り、秋名へ珈琲を差し出した。

 

「……世話になったな」

 

 エアグルーヴの視線。秋名の目を見てはいなかった。

 

「いや、僕は構わないさ。僕のほうこそ、朝食の支度、ありがとう」

 

 そこからまた、少しの沈黙。早くショパンが起きてきてくれないかと、少しだけ心が願った。

 

「昨日は忙しかったね。ショパンのいい思い出にも、なったかな」

 

 無理に秋名は発言をした。

 

「そう、だな」

 

 テーブルの上には、昨日のレースで貰った参加賞と、安いトロフィ。そして、昨日三人で食卓を囲った温もりの名残。

 

「……何れショパンも、帰っていくんだよね。きっと」

 

 何を狙うといった発言ではなかった。だが、それを言葉にした途端に、二人の心に僅かな風が吹いた。

 

 何れはショパンと、別れなければ。もう一度彼女とは、どこかで会えるのだろうか。と。

 

「ああ、そうであってもらわねば困る」

 

「でも、手がかりはないまま……か。ねぇ、ショパンは君に本当のことを話したことはないのかい?」

 

 秋名は珈琲を啜る。鼻に抜ける香りが、朝の情景を彩る。

 

「本当のこと……」

 

「会長さんや、同僚たちにも聞いたことがある。ショパンは支離滅裂を叫ぶ嘘つきだと。でも、どうだろう。僕の目には、彼女が嘘つきのようにはどうしても見えない。あの娘は、嘘を好むような娘ではない。君もわかっているんじゃないのかい」

 

 エアグルーヴもまた、静かに珈琲を啜って、弱い相槌を打った。

 

「なぁ、トレーナー……」

 

 エアグルーヴが改まって声を上げる。

 

「なんだい?」

 

「あの娘が、本当に未来から来たと言ったら、貴様は信じるか?」

 

「え?」

 

 思いもよらない、女帝の言葉。思わず珈琲を持つ手を緩ませそうになった。

 

「未来?」

 

 言葉を反芻した。ありえない。あり得るはずがない。そう答えなきゃいけないハズなのに。彼の中の何かが、否定を否定していた。

 

「昨日のレースを見て、感じたんだ。やはり私は、あの娘のことを、どうも知っている(・・・・・)らしい。何処で会ったのか、何故知っているのか、それはわからない。遠い昔に会ったことがあるのかもしれない。或いは……何れに出会う約束があるのかもしれない」

 

「……どういう」

 

「わからない」

 

 エアグルーヴは静かに首を振った。あの女帝が、自分の口から、空想にも近い言葉を吐いた。どうしても、らしくない。似合わない言葉だった。

 

 だが、彼女の主張を、理解できてしまう心が、確かに秋名にもあった。

 

「仮に、本当にあの娘が未来から来たウマ娘だとしたら、何のために……?」

 

 エアグルーヴは再び首を横に振った。

 

「おはよぉ」

 

 二人の静寂を壊す、呆けた挨拶。

 

 ショパンは目を擦りながら、寝ぐせいっぱいの頭をふらふらとゆらしていた。彼女がテーブルに着くと、秋名はコップに牛乳を注いで、ショパンの前へ。眠れたかい? と訊きながら。

 

 ショパンは、何かお耳がくすぐったかったといったらしい。

 

 ショパンはまだ開ききっていない目で牛乳を飲み、パンをもそもそと貪る。その姿は、少し間抜けのそれに見えなくもない。

 

 秋名はエアグルーヴへ、視線で『未来から来た娘にしては、随分と気が抜けているけど』と言った。

 

 エアグルーヴは『知らん』と答えた。

 

 

 

 

 

 

 

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