夕暮れが少し過ぎた頃合いだっただろうか。美浦の寮へとひとり戻ったショパン。エントランスを潜れば、エプロンを着たヒシアマゾンが笑顔でお帰りと言って迎えてくれる。
「あれ? ショパン、今日は一人か? エアグルーヴは?」
ショパンは首を横に振って、先に戻ってる筈ですと寮長へ言った。
いつも二人揃って行動を共にしていただけに、それを妙に思ったヒシアマゾンは、もしかして、何かあったのかと二人の間柄を案じた。だがショパンはまた首を横に振って、自分ではなくトレーナーとエアグルーヴとの間に何か諍いがあったそうだと説明した。
「はぁ、そりゃあ大変だな。ショパン、お前は大丈夫か?」
ショパンに不憫さを感じたヒシアマゾンが彼女を気に掛けるが、ショパンは笑顔で大丈夫ですと返し、自室へと向かっていった。
「へぇ、よーくできた娘だねぇ」
ヒシアマゾンはショパンの背を感心の目で追い、晩の支度の続きを始めた。
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そろり、そろりとショパンは出来るだけ足音を抑えて自室へと向かう。エアグルーヴはきっと今ナーバスな状態に違いない。だからと言って理不尽にショパンを攻撃することはなかれど、これ以上をできるだけ刺激しないようにというショパンの気遣いだった。
自室からおおよそ10m程の圏内へ来た頃だったろうか。ショパンの耳に、ある音楽が流れてくる。それはピアノを主とした、どうも懐かしく優しい旋律。
ショパンはその音を殺さぬようにドアノブを回し、12/8の世界へと足を踏み入れる。
そこにエアグルーヴはいた。ベッドに掛けて目を閉じ、小型のトランジスターから流れ出るその音に身を委ねていた。彼女の手には、一枚のCDケース。ファインモーションは不在らしい。
「ああ、ショパン。戻っていたのか」
数刻遅れて、エアグルーヴはショパンの存在に気付く。ショパンは荷物を置くと、エアグルーヴの隣へと掛けて、素敵な曲だといった。
「そうだろう。昔、お母様に連れられて行ったクラシックコンサート。そこで初めてこの曲と出会った。当時は幼かった。お母様に駄々を捏ねて、このCDを買って頂いたのだ」
エアグルーヴはそのCDケースへ、当時を重ねながら語った。
ショパンは横からそのケースを覗き込む。ジャケットには、枯葉に敷かれた遊歩道が描かれた絵。『幻想即興曲 オムニバス ショパン』というタイトルを添えて。
ショパンは直ぐに気が付いた。このCD、確か生徒会長メルセデスから返された母の私物であったことを。そういえば、自分が貰ったCDはどうしたのだろうとふと思った。
「……やはりショパンは良い。いつも私の心に安らぎを齎してくれる。そういえば、お前の名もショパンだったな。きっとお前のご両親も、この曲の良さというものを理解されておられたのだろう」
エアグルーヴの声色は優しかった。だが、それは不安定な心を覆い隠す為の誤魔化しのようにも感じ取れた。
エアグルーヴがCDケースを開け、カードを取り出したときに、ひらりと一枚の写真が宙を舞った。それは、エアグルーヴと秋名のツーショット。共に道を歩み、初めて勝利という日を飾ったあの頃の記憶。ショパンはそれを空中で手にした。
「ああ、そこにあったのか。どこへ仕舞ったのかと思えば」
ショパンは写真をエアグルーヴへ返した。それを受け取ったエアグルーヴは、直ぐに写真を仕舞わずに、深い溜息を一つ。
「……大切な物は、大切な物の中へ仕舞っておく。幼い癖が抜けきらないようだな」
哀愁の音楽を背に、彼女は黄昏続けた。
そしてカチリと音楽は止まり、ディスクは排出される。エアグルーヴはそれを取り出し、無言で仕舞った。
「ねぇ、トレーナーさん。お見合いするの?」
そう訊いたのはショパンだった。いつまでもはぐらかすような態度をとるエアグルーヴに、少し痺れをきらしたのだ。
瞬間、エアグルーヴの手がぴたりと止まる。少し不機嫌さを纏って、そうらしいなと一言だけ返した。
「いいの?……そのままで」
「だったらどうした。所詮、私たちには関係のない話だ」
「関係ないって、そんな!」
ショパンにとってみれば関係大ありの大問題なのだというのに!
「
「それは……奴がそんな大事な縁談をおざなりにする真似をしていたからだ。相手はURA役員の令嬢というではないか。奴も相応の歳の筈だ。これからもトレーナー業を、果ては出世街道を邁進していくというのなら、賢明な判断とは何か、お前にもわかろう」
「
「彼の幸いとは何だ。自分で料理も片付けもままならず、職場に出向けば、私のような醜怪の相手だぞ。身をもって、彼に寄り添う人がいることは絶対に必要だ。何よりも私がそう思う……」
彼女は意地でも自分を納得させようとしている。自分の気持ちを踏み躙って。
でもそれでは、そのままでは、ショパンという存在が危ぶまれる。だけど、そのことを面と向かって言えるはずもない。だからショパンは禁じ手を使った――。
「嘘ばっかり! 本当はそんなんじゃダメだって分かってるでしょ! トレーナーさんが、知らない女の人と結婚しちゃうだなんて!」
「何故お前にそんなことが言える」
「だって――おかあさんはトレーナーさんのことが好きなんでしょ!?」
ずとんと放たれたショパンの
瞬間、エアグルーヴの顔が瞬く間に染め上げあれる。これ以上ない、紅一色へと。
「なっッ!? 何を!? 貴様っ! 戯言を!」
「それはお母さんのほうだよ! 自分の気持ちに嘘ついて! 本当は……本当はトレーナーさんのことが好きなくせに!」
「子供がッ! 知った口を!」
「お母さんだってまだ子供じゃない!」
「この口か!」
「ど、どうしちゃったの二人とも!?」
自室に戻ったファインモーションが見たもの、それはいつも仲良し? な二人がヒンヒンと諍い合う姿。結局はショパンが負けて女帝に頬をお仕置きされる始末。
「もぉ! グルーヴさんってば、またショパンちゃん虐めて! そんなにするくらいなら今日は私がショパンちゃん預かっちゃうんだからね!」
「……好きにしろ」
そういってエアグルーヴはショパンを解放した。
――
「さ、今日は私と一緒に寝ようね!」
そういってファインモーションはショパンを寝床へと誘った。
ショパンは恐る恐るとファインモーションのベッドへ。ファインモーションは、ショパンが入って来るやいなや、彼女を優しく抱擁した。小声でいつも一緒に眠っている二人が羨ましかったと言い、キミは実家のぬいぐるみを思い出すとショパンの頭を撫でた。
ショパンは暗がりの中、母のことを心配した。エアグルーヴは壁向いに体を向け、母娘喧嘩以降一度も口を開かなかった。
「でも、どうして喧嘩なんてしちゃったの?」
「うん……ちょっと」
そうとまでしか言えなかった。言えるものか。エアグルーヴとトレーナーが互いのことに気づいてくれないから怒っただなんて。
「そっか。よくわからないけど、困った時はおまじないをするといいよ。きっと精霊たちが二人を救ってくれる」
そういって、再びショパンを優しく撫でた。
――
今宵は月光がやけに眩しい。
きっと寝付けないのはそれのせいだと、エアグルーヴはやってこない微睡に愛想を尽かし、ベッドを降りる。隣を見れば、そこにはショパンとファインモーションが身を寄せ合って就寝している。
エアグルーヴは音を立てないようにして自室を後にし、寮の談話室へと向かう。談話室には当然誰も居るはずがない。彼女はそこの椅子に掛けて、テーブルに肘を付き、拭えない悶々とした気持ちに整理をつけようとしていた。
『本当はトレーナーさんのことが好きなくせに!』
「……」
ことん、と目の前に差し出されたのは、優しい湯気の立ち込めるホットミルク。
「感心しないねェ。あの副会長がこんな時間まで夜更かしたぁな。飲みなよ、眠れねぇ時にはコイツがイチバンさ」
「あ……ああ。すまん。ありがとう」
そういって、エアグルーヴは
「ホントはこんな時間まで起きてる不良にゃ、寮長としてキビシイお説教をしなきゃなんないんだけどねェ」
「すぐに戻るさ」
「ジョーダンだよ。ホントはちょいと、アンタらのことが気がかりでサ。アンタ、トレーナーと喧嘩してんだって?」
「……
「まぁ、ンなこたいいんだけどさ、その、ショパンをあんまり不憫にしてやらないでくれよ。二人がギスギスしてちゃあ、あの娘が可哀想だからさ」
「ああ……」
「ショパンってさ、結構しっかり者のいい娘だろ? ありゃきっと、相当良い親御さんの下で育ってるんだよ。皿洗いの手伝いも、掃除の手伝いだってしてくれるんだ。ウンウン、これなら寮長の跡継ぎも心配いらねぇってもんよ」
「そんなしっかり者のいい娘が、身元不明でここへ転がり込んでいるのか?」
「ははは、そう言われちゃ弱いけどな」
ヒシアマゾンは笑いながら、自分のミルクを啜った。
「そいで、何でトレーナーと喧嘩しちまったんだい」
「関係のないことだ」
それはショパンにも言った言葉。それがショパンとの軋轢の原因。
「関係ないことはないんじゃないかい? ショパンはそれで参っちまってるんだろ? 確かに二人だけの問題ならアタシも下手に首突っ込まないけどさ、ショパンがそれで困っちまってるってんなら、アタシはほっとかないよ」
「誰かに気軽に話せることではないのだ。察してくれ」
「……そうかい。じゃあ、話せるようなったら話してくれよな。だけど、ショパンには」
「わかってる。私も子供じゃあない」
「そりゃあどうだろうねぇ」
ヒシアマゾンの言葉に、エアグルーヴは眉を僅かに動かした。
「アタシもアンタも、まだまだ子供だ。歳さえ喰えば大人になれるもんじゃあねぇ。自分にとって譲れない、大切なものが出来たその時、人――ウマ娘は初めて大人になるんだ。アンタにそれはあるのかい」
「……誰の受け売りだ」
「アタシのオフクロ。普段は口うるさい肝っ玉母ちゃんだけどさ、ちゃんと大事なことを知ってる。正直アタシは言われてもピンとこなかったけど、アンタならわかるんじゃないのかい」
そういうとヒシアマゾンは席を立ち、早く寝ろよとエアグルーヴに背を向けた。
彼女の背が、暗闇に消えてゆく。その前に。
「なぁ、待て――」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『秋名君、君の話は兼々伺っているよ。腕の立つ名トレーナーとしてね。どうだ、悪い話ではないだろう。娘も君には興味を示している。なあに、気負いせんでもいい。ちょっと一緒にお茶を飲もうと言っているだけだ。どうだ?』
「ええ……
『秋名君。私はいい返事というものを期待している。君はトレーナー業が好きだろう? 私の娘が嫁に入れば、
「は、はぁ……」
『もっとも、最近は自分の担当したウマ娘と契りを交わす等という愚昧が多いと聞く。まったく、脚が速いだけが取り柄の連中に毒されるなど、誇りというものがない。……君はどうだい。そんな連中とは違い、賢い選択が出来る男だと思っている。ご両親も安心させてやらねばなるまい』
「……熟考致します」
そういって、秋名は通話を切った。やはりその表情はどうも重苦しい。
「すんだか」
気が付けば、目の前にエアグルーヴが居た。昨日の毒気が少し抜けたような、淡い空気で。
「ああ、エアグルーヴ。すまない、今日のトレーニングだよね。そういえばショパンは」
「なぁ、トレーナー。その、例の縁談は……どうだ」
「え……? ああ。そうだね。あまり気乗りはしないけど、あのURAの理事が相手とあってはね。トレーナー業を続けたいのなら。そう圧力だよ。でも確かに、両親のこともある。ここいらが潮時なのかもしれない」
「そう……か」
「君はどう思う?」
そう、秋名はエアグルーヴへと視線を投げた。
エアグルーヴからしてみれば、全ては遅すぎた。
「いいや。真っ当な判断だと思う。……貴様には、貴様を支えてくれる伴侶が必要だろう」
「何も……間違ってなんか……ない」