満たされる。肺が水で満たされる。弱ったことに、水泳はあまり得意ではない。女神の泉の中で、彼女は漂う。
虹色だった泉、いざ中へ入ってゆけば、陰鬱で先行きの見えない闇夜。
その中に一つだけ見える輝き。どこかで見たことのある、誰かの姿。
その輝きは、聊かな温もりを連れて彼女を抱擁する。
「お母さん……」
水で満たされた肺は、思った程には苦を生まない。でも、声なんて出せるはずもない。ショパンは擦れゆく僅かな意識の中で、手を伸ばした。何も掴めないと分かっていながらも。
(わたし……死んじゃうのかな……ああ……おかあ……さん……)
とろりとろりと彼女は時間に溶け、記憶に弄ばれ……。
堕ちるところまで堕ちて行く――
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
天国とはどういう場所なのだろう。きっと雲の上にあって、一年中暖かい日差しに恵まれて、手を叩けば尽きない程のごちそうが差し出される場所なのだ。
ふかふかの雲のベッドはそれはもう、一度寝転がったら、二度と起き上がりたくなくなるような代物に違いない。
しかし、なぜ彼女の肩は痛いのだろう。こんなにベッドの寝心地が悪いのは何故? 暖かい日差しとはいえ、少々暑い。それに何やら雑多な喧騒が多い。
どうも天国には似ているが、ここは少し違うらしい。
では、どこなのだろう。
彼女は少しずつ、瞼を開けてゆく。そこに一気に流れ込む日の光。不意を突かれ、反射的に手で光を遮る。太陽など直接見てしまえば、目が焼かれしまう。彼女は光から逃げるように顔を背けて、晴天以外の景色を探した。
太陽から逸らした先にある景色、それは青々しく芽生える雑草に、囀る雀に飛び立つ燕、彼女の目の前を横切っていくのは、淡い水色の制服に身を包んだウマ娘。
「……あれ?」
ショパンはむくりと体を起こし、周りを見渡す。そこにあったのは、何も変わりのない"日常"だった。
規律正しく日は登って、生徒達はレース、食事、色恋話に
「夢……?」
さっき自分は、何かに引きずりこまれて泉の中へ落ちていった。しかし、体は濡れてもなければ、彼女は溺れ死んでもいない。
冷静に考えれば、そうである方が正だ。虹色に輝く女神の泉に落ちた。なんて現実的な話ではない。
気が振れた者の虚言。まともに取り合う者がいるとは考えにくい。だったら、昨日の出来事はすべて夢であった。そうであれば全てに整合性が取れる。
ましてや天国など……ばかばかしい。こんなベッドの寝心地がいいはずがない、と彼女はベンチから立ち上り、荷物を手にして、周りの生徒の流れに潜むように漂った。
どうであれ、昨日の自分はそんなに疲れていたのだろうか。学園内で野宿だなんて、嫁入り前の娘にあるまじきことだ。もう、女帝の称号など……己の手の届かないところにあるのだろう。ショパンの顔が晴れる日は未だに遠いようだった。
「ねぇねぇ聞いた? ブロワイエ、また勝ったんだって! ヤバくない?」
彼女の前を歩く生徒たちが、その話題に花を咲かせる。ブロワイエという名は、ショパンにも聞き覚えがある名前。
確かフランスの、とても強いウマ娘とだけはざっくりと。だけど、彼女は随分昔の選手のはずだ。きっと彼女の娘か何かの話なのだろう。
「でさ! この間フジキセキ先輩がさ……」
途端に彼女らの声が遠のいた。理由は単純に、ショパンが足を止めたからだ。
「あれ……?」
周りの生徒は誰一人として気にしない。だけど、彼女だけが知っている違和感がそこにあった。
「学校が無い……?」
ショパンが何時も通った
即座に彼女は振り返り、他の生徒たちを目で追う。彼女らはまるで導線に導かれるように
――
「……」
確かに、この学園の理事長である秋川が、突拍子もなく学園内を改造することはショパンも知ってはいる。だが、いくら彼女でも。
校舎をたった一日で消すことなど可能なのだろうか。
そんな彼女の狼狽に駆られる思考を、ビッグベンの鐘が塞き止めた。鐘の音をスタートの合図にするように、生徒たちが一斉に駆け出す。今度の遅刻はマズいと口々に語って。
ショパンもそれに肖り、彼女らに続いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「えっと……初等部の……あったここだ」
校舎替えを行ったのなら、一言言ってくれればいいのに。とショパンは小さく憤りながらも、自分が通うべき教室を見つけ、胸をなでおろす。
きっと理事長は、校舎を新しく建て替えるつもりなのだろう。だから一時的に旧校舎を利用しているのだ。そう考えれば合点がいく。……多少無理があるが。
ショパンは教室の戸に手をかけて、自分の席を探す。周りで談笑をするウマ娘たち。まだ先生は来ていないらしい。
「……」
どうも、クラスメイトの顔を覚えるのは苦手らしい。入学して少し経つ筈なのに、どうも見覚えに自信がない生徒がちらほらと……。
「お、おはよう……」
ショパンが小声でちらりと言うと、数人の生徒がもの不思議そうな表情で彼女を見た。
その目は、まるで転校生でも見るかのような、簡潔に言えばイロモノを見るような目だった。
小声でこそこそと聞こえる気がする。
『あの娘誰?』と。
確かに、ショパンはクラスではあまり目立つ方の生徒ではないが、いくらなんでも誰はないじゃないか。
ショパンは窓際の机に身を置いて、スマホを取り出す。
「……え、圏外?」
最近乗り換えたキャリアスマホ。ここにきて通信障害だというのだろうか。やはり新規参入のキャリアに飛びつくのはあまりいい選択ではなかったらしい。ショパンは溜息と共に、スマホを仕舞う。
そういえば、まだあの娘たちの姿がない。昨日母の日について話し合ってた、ショパンの数少ない友人たち。今日は休みなのだろうか。周りを見渡し、影を探った時だった。
「ねぇ」
ふっと声を掛けられる、油断していたショパンは思わず「ヒンッ!」と情けない声を上げて、鬣を逆立ててしまった。
慌ててその声の主を見る。そこにいた栗毛の生徒は、眉を八の字に歪め、僅かに首を傾げて腕を組んで、端的に言えば困った様子でその場に立っていた。
「……あ、はい?」
何か自分は彼女を怒らせることをしたのだろうか?心当たりはないのだけれど、ヘンな揉め事は勘弁願いたいものだ。
栗毛の少女は腕を解いて一つの不満をショパンへぶつけた。
「そこ、私の席なんだけど?」
「え?」
そんな筈はない。だって、このクラス。この席。間違いなく彼女の席だもの。だが、ショパンは気付く。既に机の中に彼女の私物が入っていることに。
「あ……あれ?」
教室が変わったから席も変わったというのだろうか。焦燥に駆られるショパンに、栗毛の少女は続けた。
「てかさ、君、誰? どこのクラスの娘……?」
「え……っと、わ、私、初等部B組のショパン……ですけど……」
弱った。彼女が誰なのかもわからない。
「B組? じゃあ、ここ?」
栗毛の生徒は振り返って、仲間たちにショパンとは知っているか? と尋ねる。しかし、全員が一決したかのように首を横に振る。
「君、転校生?」
「い、いえ……」
おかしい。何かがおかしい。
じろり、ぎろり。周囲の視線がより濃くなってゆく。それに恐怖を覚えたショパンは――教室から逃げ出した。
「あ、ちょっと!」
「何あの娘?」
「わっかんないけど」
「もしかして、侵入者とか」
「えっマジ!?」
「たまにいるらしいじゃん、生徒のフリした侵入者って」
一連のちょっとした
授業前だというのに、その規律の乱れは好ましくない。そう、眼光を光らせるものが、彼女たちの前に現れた。
「おい、一年。騒がしいぞ。何事だ」
「あ、――
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「はぁ、どうして……」
やはり、同じクラスなどほかにない。間違いなくあの場所が、彼女の居場所であるはずだったのに。半ば追い出されるような形で逃げてきた。
もしかして、これはいじめなのだろうか。
しかし、そんな雰囲気ではなかった。彼女たちは本当に、ショパンのことを知らない様子であったし、何よりショパン自身が、クラスメイトであるはずの彼女たちのことを知らなかった。
「まさか、クラス替えとか?」
そんなばかな。だって入学してまだ数か月も経たないというのに。
よわった。よわった。どうしよう。職員室へ行ってみようか、でもこの旧校舎では場所がわからない。
どうしたものか。どうしたものか。
ラウンジの隅でひっそりと身を潜めるショパン。ふとあることに気づく。それは、学内掲示板に掲げられた一つの見出し。
彼女はふらふらと、街灯に集う羽虫のようにその場所へ。
『号外最新――トウカイテイオー奇跡の復活劇!!』
「トウカイテイオー?」
それは、ショパンでさえも知っている。三度目の故障を乗り越え、有馬記念をその手にした伝説のウマ娘。そのポスターもまた、目にした経験がある。
「でも、どうして
しかし、その紙面はどうも新しい。最新号外という文字にも、偽りを感じられなかった。
辺りを見渡せば、他の紙面でさえもそうだった。すべてがその時代に沿った出来事ばかり。
スペシャルウイーク、サイレンススズカ、メジロマックイーン、テイエムオペラオー、エルコンドルパサー、グラスワンダー、アドマイヤベガ……。その他にも、いろいろと。
少なくとも、今のショパンにとってタイムリーな情報は、何一つとしてなかった。
「どういう……」
ショパンがその場から数歩後ずさった時、ふと背後から声が忍び寄る。
「てかさー。ネイチャさんはそもそもそういうコトにハナから向いてないのであってだねぇ……」
――ドンッ!
彼女の背後に目などついていない。だから、そんな不条理な歩き方をすれば、誰かとぶつかることも必然だった。
「あっ! ごめんなさい!」
「あてて、ああダイジョブダイジョブ。おたくさんは?」
「えっと……大丈夫です、ほんと、ごめんなさい!」
「まぁまぁ、スイーツも無事だしねぇ」
明るい鹿毛の彼女は、ニヒヒと笑いながら売店で買ってきたのであろうレジ袋を掲げて見せた。
ふと、ショパンは思いつく。
「あの、売店ってここから近いんですか?」
「あれ?……ああ。もしかして初等部生の娘? いいよぉ、ネイチャさんが教えてあげよう!」
一旦仲間たちと別れた彼女は、意気軒昂とショパンを導く。小さい後輩のお世話がどうも嬉しいのかもしれない。
「そんでこっちに行ってだねぇ……ああ、そこそこ!」
彼女が指した先にある、開けた売店。その辺のコンビニとも劣らず様々な商品が豪華絢爛。
安価なお菓子一つから、蹄鉄まで売っているとかいうらしいが。
「あ、ありがとうございます!」
ショパンは礼もそこそこに、売店へ飛び込んで、スタッフの女性に食い掛るように尋ねた。
「あの!
切羽詰まった様子で、身を乗り出して新聞を尋ねる低学年生。スタッフは僅かに驚きながらも、出入り口付近の棚を指す。ショパンは新聞を手に取った。その質感、今日発行されたものとは間違いないのだろう……。
だからこそ、嘘であってほしかった。
そこに記されていた西暦――。
「あの……これ、古い新聞じゃないんですか……?」
「え? いや、今日のだけど? さっき開けたばっかりだし」
じゃあ……どうして。
――
「……コウハイ君?」
先ほどの鹿毛の先輩ウマ娘が、青ざめるショパンに問いかける。
「あの……この新聞の日付……合ってますか?」
震える声で、ショパンは問いかける。
「え……いやモチロン。新聞屋さんはウソつかないでしょ~」
んで、新聞買うの? と続けて問いかけた彼女の声が、既にショパンには届かなかった。
ショパンはその場に新聞を置いて、駆け出した。
「あぁ! ちょっと! キミ!」
鹿毛の彼女は追うこともできずに、その場に立ち尽くし、彼女の背中を視線で追った。
「あらら、どうしたんだろ?」
そこに、とあるウマ娘が合流する。
「なぁ、ちょっといいか?」
「ん?はいはい、どうしました
そこに居た副生徒会長。口に茎のようなものを咥え、エグみのある眼光をギラつかせていた。
「この辺に、変な生徒がいなかったか? 情報によると、
「え……もしかしてさっきの娘?」
「知ってるのか?」
「えっと、なんか、新聞見てどっか行っちゃったんですけど……?」
「どっちだ!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夢だ……これは……夢なんだ……。
そんなワケない……
とある廊下の隅で、ショパンは荒ぶる肺を押さえつけて、何度も息を吐いた。新聞や掲示板だけではない、学園のモニターに映るニュース、落ちてたゴミの賞味期限、デジタル時計に至る何から何まで、すべてが20年以上も前の西暦を指していた。
何がどうなっているのか……全くわからない……。
すべてを説明つけるのなら、夢であってもらう他がない。
壁に背を預けて、どうにか崩れそうな表情を堪える。これからどうするべきか、何をすればいいのか。答えを探さなければ。
「……おい。お前だな」
低く、毒素を含むような強圧な鉛のような声。落着きはあるが、反面情が無いようにすら伺えるその声色にショパンは体を強張らせながら振り向いた。
そこに
長く靡く黒鹿毛を縄で縛り、鼻にテープを張り付け、口に茎を咥えた副生徒会長。
その容姿と、尖った視線にはどうも見覚えがある。というか。
――つい昨日、見たじゃないか。生徒会室の写真で。
「え……えぇ……?」
ナリタブライアン……だって彼女は過去の生徒の筈だ。ありえない。だけど、彼女の出で立ち。写真で見たそれと全く相違ない。高度なコスプレというわけでもないだろう。
「お前誰だ? ここの生徒か? 名前は? 学年は?」
一歩一歩、殺気すらも振りまきながらにじり寄ってくる彼女の圧に、ショパンが恐怖を覚えることは容易だった。まったく整理のつかない現状、そして歩み寄ってくる恐怖。
半ば極限状態のショパンが取った、否、取らざるを得ない選択。
――逃走
「お前!」
逃げろ! 逃げろ! これでもウマ娘だ! 逃げ足なら……
しかしそれは、人間が相手ならば通用する話だ。相手が相手なら原付自転車とリッターバイクの競争に等しい。
ドンドンドン! 彼女の足音が迫ってくる! 捕まる…逃げられない。
だって相手は……三冠ウマ娘またの名を
――
ばか正直に直線勝負で勝てるわけなんかない! どうする、どうする!? 考えろ、考えろ!!
角を使え、死角を一瞬でも作れ! 曲がれ、ロスを生め! でも、何をしても離すどころか、差は狭まるばかり。彼女のシルエットが背後でも感じ取れる程に迫っている。後ろ襟を捕まれるまで秒読みだ……。
――刹那。
「わっ!」
「きゃっ!」
ショパンは一人の小柄なウマ娘が持つ段ボール箱に激突してしまう。段ボールとそれを抱えていたウマ娘が多少なりオフセットしていた為、ウマ娘同士の直接的な激突は免れたものの、代償として段ボールの中に眠る数多の紙の束が宙を舞う。
「ごめんなさい!!」
ショパンはその声を置き去りにしたまま逃げ続けた。だがそれがどうも幸いしたらしい。
無数に舞う紙たち、それがブライアンの追跡を阻害した。そのうちの一枚が彼女の顔にペタリと張り付く。
「ぐっ!」
彼女はやや激情的になってそれを引きはがすが、回復した視界の前に、不審ウマ娘の姿は既になかった。
「……私から逃げられると思うな」
その言葉を残し、ブライアンは踵を返した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
倉庫の物陰に身を隠す。彼女が追ってくる様子はもうない。だが、これからどうすればいい。
逃げると言っても、ここが本当に"過去の世界"なら逃げようがない。友人もいない。
「どうしよう……」
汚いマットの上で身を塞ぐ。遠くで微かに聞こえるのは、またビッグベンの鐘。どうやら、授業が始まったらしい。その鐘の音は、昔から変わらないのだろう。
行動するのなら、他のウマ娘たちが教室へ封じ込まれている今がチャンスなのかもしれない。
ショパンはゆっくり倉庫の戸を開けて身を晒す。
お
壁に背を添わせ、曲がり角をのぞき込みクリアリング。授業があってる教室は身を屈めて……。移動教室中の集団には迂回して。
そしてようやく、昇降口が見えてきた。
「ふぅ、よかった」
ショパンは全身に張り巡らせていた神経を赦し、最後の角を曲がった――
「やぁ、初めまして。
不意を突くように、まるで彼女がそこへ来ることを読んでいたように、仁王立ちで構える一人の鹿毛。
では、写真越しにでも感じる覇気が、その生身から放たれるものであればどうなるのだろうか。
きっと、火のつく度数の酒を頭から浴びる程のバルキーな瘴気が、襲ってくるに違いない。
「あっ……っあ……し……」
彼女の劫火のような存在感の前…ショパンは既に逃走する気力さえ無くして、その場に尻もちをついた。
「おや、自己紹介がまだだったね。私は……」
知っている、この学園に通うウマ娘なら知らなければおかしい。
「生徒会長――シンボリルドルフだ」
そういって彼女は、君の名前は? とショパンに手を差し伸べ、訊いてくる。その表情に、怒りはなさそうに見えるが、表面だけかもしれない。
彼女の手を、ショパンは取れなかった。
「ちっ。私の獲物だったのにな」
時を待たずして、ナリタブライアンの声が彼女らの後方から。
「上下一心。誰の手柄ではない。だが同心協力を賜ったことは感謝しよう、ブライアン」
ブライアンは彼女に背を向けながら一つ不満を吐きつけて、その場を去った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ショパン……か」
生徒会室。その空間だけはショパンの知るその雰囲気に似通っていた。この場所だけは、時が動いていないようにすらも錯覚した。"錯覚"だが。
それでも、幾分かの落ち着きをそこで得られたことも、また確かだった。
シンボリルドルフは、生徒会長席で彼女の調書を記入していく。その目前のソファの下座で、ショパンは手を重ねてただこの怖い時間が過ぎ去ってくれるのを待った。
「……私の特技を一つ話そう」
シンボリルドルフは書類用の眼鏡を机に置き、手を重ねて続けた。
「私は生徒会長という役柄、何かと生徒と接する機会が多くてね。一人ひとりが、違った悩みを持ち、違った信念を持ち、違った個性を持つ。そんな彼女らと接するということは、即ちそれらすべてを私は記憶していなければならない。会うたびに同じ前置きをしなければならない生徒会長に、信頼など置けるかい?」
彼女の声色は優しく、叱責のそれとは大きくかけ離れていた。
「
ルドルフはぺらりと書類をめくる。初等部生全ての名前が刻まれたリストだ。
「抜け漏れは無かった筈だ。もっとも、ここにあるリストがそれを証明している。……ショパンと言ったな。単刀直入に訊こう。――君は誰だ?」
彼女の取り巻く空気が急に変わった。流体の粘度が急に増した。そんな気がした。
食われるな……自分を守るには、抗ってみるしかない。
「私は……初等部B組ショパン……です」
「同じ回答を繰り返すことは黙秘と変わらない。残念だが、ここにミランダルールはない。黙秘権は期待しないほうがいい。目的はなんだ。只の悪戯がそうか? 自前の制服まで用意して」
「ちがっ、違います!」
「どう違うんだい?」
「だから私は……!」
話が平行線に進むかと思われたその時、ショパンの目前で上座に座り、彼女の私物を検査するブライアンが声を上げた。
「会長よ、これ」
ブライアンはとあるものを、ルドルフへ投げた。
「……これは」
『日本ウマ娘トレーニングセンター学園 初等部 B組 ショパン 上記の者は学内において本学の生徒であることを証明する』
それが記された、学生証だった。トレセン学園公認の証印と、彼女の顔写真までもが添えて。
だが、それを容易に信じるほど、生徒会長も軽くはない。
「西暦が滅茶苦茶だ。これじゃ
ルドルフはまた、じろりとショパンを瞳に映した。
「本物です……」
ショパンは無理だと分かっていても、そう抗ってみる他がなかった。侵入者で片付けられてしまっては、たまったものではない!
「君は、荒唐無稽という言葉を知っているかな。私の指摘に対し、反駁がそれでは話が噛み合わない。私も、この調書に舞文曲筆を唄う訳にはいかないものでね。」
それでもショパンは、必死にこらえるように生徒会長に抗う表情を向け続けた。
「……ブライアン。この学生証の照会を」
「ち……」
ブライアンはルドルフの手から、ショパンの学生証をぶんどって、その場を後にした。
「さて、君にはもう少し話を聞かせてもらいたい。動機と、事実を」
「私は……」
まるで尋問だ。いや、まるでじゃない。
尋問だ。
生徒会からしたら、彼女は全くの不審者に等しい。つい昨日まで
なんでこんなことに……。
どうしてこんなことに……。
ずっと気丈に耐えてきたショパンの心に、少しだけのヒビが入り、彼女は力なく俯いた――刹那。
――ふっと、僅かな風が生徒会室へと流れこむ。
それは、この部屋の戸を開けられたことによる、圧力の差が生じたからなのだろう。
つまりは、誰かがこの戸を開けたということだ――。
「――お待たせして申し訳ありません。会長」
「ああ、すまないな。――
彼女たちの前に現れた、もう一人の
規律正しく、凛々しいその佇まいは、毛先の一本すらも油断を許さない。
ショートボブに隠れた灰簾石の瞳の前には、隠し事など通用するはずもない。
左耳に座る金色の耳飾りが、彼女の全てを象徴する。
薄々……そんな気はしていた。
ナリタブライアン、シンボリルドルフ。彼女たちがいる時代ということは。
必然、
「貴様が侵入者か? 目的は何だ? 名前は?」
彼女はショパンに対し、敵視にも似た視線を刺す。この学園に仇を成すものであるのなら、容赦はしない。そんな気概すらも感じた。
だが、ショパンにとっては…………………………………………。
「おい! 貴様、何とか言ったらどうなんだ!」
「…………………………………………………………………お母さん?」
「…………………………………………………………………………………は?」