【完結】女帝の意志を継ぐ者へ   作:マシロタケ

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ショパンの原罪

 

 秋名のトレーナー室からは、少し甘い香りが漂った。

 

 毎度のことながら膨大な量の仕事と踊る秋名へ差し出されたのは、少しだけ熟れた懐かしくも優しい果実。根を詰めすぎるなよという女帝の労いを添えて。

 彼はデスクから抜け出し、応対用の対面ソファへと掛け、その果実をひとつ、舌鼓。

 

 一口サイズにカットされたそれを口へ運べば、潤しくも、さっぱりとした甘さが口腔を支配し、やがて鼻へ抜けて嗅上皮をつんと突く。桃などいつ以来なのだろう。幼少の頃、風邪で寝込んでいた時に、母がよく剝いてくれたんだっけ。彼の淡い記憶に微熱が帯びるようだった。

 

 珈琲もいるか? とエアグルーヴがペティナイフを流しで洗いながら訊いた。秋名は、これだけで十分だと応え、もう一つ桃を口へ運んだ。

 

 エアグルーヴは、洗い終えたナイフを仕舞い、秋名の座るソファの対面……でなく、横へと座り、同じ皿からひとつ、桃をとった。

 

「……あの男が用意したものにしては、随分と上物じゃないか。糖度も高すぎず、耽美で上品な味わいだ。なぁ、後でいくつか貰っていっても構わないか? 会長にも是非、召し上がって頂こうかと思ってな」

 

「ああ、僕だけじゃこんなには食べきれないからね」

 

 部屋の隅にある、まだまだ膨れた桃の袋を見てそう言った。どうも冷蔵庫にすら収まらない程の量らしい。

 

 皿にはひとつだけ桃が余った。秋名はエアグルーヴに譲るつもりで、最後のそれには手を付けなかった。だが、エアグルーヴはフルーツフォークで桃を刺すと、そのまま手皿を添えて、秋名の口元へと差し出した。

 

 このままでは皿が片付かないだろうという彼女、その言動に他意はないのだろうか。アイシャドウの端部が、言葉に出さない笑みを含むようだった。彼は観念を顔に刻み、口を開いた。最後のひとかけらは、より一層甘ったるく感じた。

 

 完食を見届けたエアグルーヴは、ようやく空になった皿を下げるべく、ソファから立ち上がり、彼へ背を向けた。……その後ろ姿に、秋名の何かがくらりと萌える。懐に溜まった理性が、桃のようにとろりと溶け始める。

 

 彼は無意識の内にソファを立ち、彼女の尾を追いかけるように、一歩、二歩と踏み出す。

 

 見れば見るほどに、彼女の『見事な仕上がり』kgに包まれた華奢なラインが悩ましい。柔らかい肌も、瀟洒に彩る香りも、婉然たる佇まいも、何もかもが愛おしい。故に育まれるひとつの情――劣情。

 

 早くこの灰簾石(タンザナイト)の宝石を手にしたい。逸る気持ちが色を付ける。甘い桃の香りが過ちを誘う。交わした唾液の味が蘇る。もう一度、否、それ以上をもっと味わい尽くしたい。

 

 トレーナーという存在は、そう高尚というものでもないらしい。所詮は彼も、一人の愚かな男――。

 

 

「おい、仕事の続きはどうした。 余暇はまだ必要か?」

 

 

 彼女が背を向けたまま語った。その言葉に、彼を支配していた糸がぷつりと切れた。

 はっと正気を取り戻した彼。今、自分は何を考えていた。まさか、自分の担当に対して、穢れを望んだというのか。仮にでも、指導者だというのに。彼女を栄光へと導かなければならない立場だというのに……。

 

「あ……ああ。そ、そうだね」

 

 彼は誤魔化すように発音し、逃げるようにデスクに戻る。不浄な欲望が消え去った跡に残ったのは、激しい罪悪感と自己嫌悪だった。手の震えが妙に止まらない。

 

 彼の震える手を、エアグルーヴが重ねるように置いた。どくりと心臓が止まりそうになる感覚を覚えた。

 

「疲れているのならそう言え。貴様の力になれるかは保証できんが、尽力はする」

 

 そういってくれた。彼女の手も、少しだけ震えていた。

 嗚呼、その優しさがさらに悩ましい。

 

 あの日(・・・)から芽生えた二人の間の情は、未だ発展途上。互いに藻掻いて手探って、丁度いい温度というのがどうしても掴めない。熱すぎても、冷たすぎてもいけない。微温湯を維持し続けることとは、これほどまでに難儀だ。

 だが、二人はその温度を保ち続けなければならない。エアグルーヴが、全てを駆け抜けきるその日まで。

 

「ああ、僕は大丈夫さ。……それよりも、ショパンは?」

 

 秋名が話題を転じる。今日のトレーナー室は、いつもよりも閑静だった。それは、いつもお菓子を強請(ねだ)る黒鹿毛の少女の姿が無いからなのだろう。彼女が居ないだけで、少し火が消えたような寂寞感があった。

 

 彼の問いに、エアグルーヴは黙ったまま首を横に振った。

 

今日も(・・・)体調不良? 3日目じゃないか」

 

 秋名は怪訝な面持ちで顎を抱えた。

 最近のショパン。やたらに体調不良を訴えては、学園を休んでいるらしい。季節の変わり目に体調を崩すウマ娘も少なくはない。だが、連日で学園を休む程の体調不良というのなら、やはり気がかりになってしまうというもの。それは一種の親心なのかもしれない。

 

「病院に連れて行ったほうがいいんじゃないのかい?」

 

 秋名が問う。

 

「だが、あの娘には保険証がない。学園の保健室に行くことも勧めたんだが、頑なに嫌がってな。どうも発熱や炎症といった症状は見受けられないんだが、こうも続くとな」

 

「……或いは仮病?」

 

「仮病?」

 

 エアグルーヴが訝しむ。

 

「クラスメイトとトラブルがあって学校に来づらくなってるとか、もしかしたらいじめ……とか」

 

「誰かと軋轢や諍いがあったという話は聞かなかったがな……しようがない。少し探ってみるか」

 

 そういうと、エアグルーヴは部屋を後にすべく、彼に背を向ける。言ってあった通り、桃を少しもらっていくぞと袋を広げて。

 

「桃、少し余分に持っていきなよ。ショパンにも食べさせてあげて」

 

「ああ。有難う」

 

 袋に桃を詰めるエアグルーヴの後ろ姿。それはやはり……悩ましかった。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 エアグルーヴは、トレーナー室を後にしたそのままの足で、初等部生たちの集う教室へと向かった。

 かつん、かつん。彼女のヒールから弾かれる乾いた音色は、少しばかりの厳然さを含んでいた。

 

 もし仮に、秋名の言う通り、ショパンが初等部生(クラスメイト)からのいじめを受けているとすれば……。その可能性が過った時に、彼女の何かが煮えた。

 

 ショパンは謎多き不思議な娘。だとすれば、冗談半分にも彼女を痛めつける動機は想像に難くない。

 

 生徒は等しく平等に、隔てなく。生徒会の指針だ。『ショパンが』いじめに逢っているから憤っているだなんて言うつもりはない。いじめ等という、不埒極まる下劣な行為に憤るのだと、彼女は自分に言い聞かせる。

 

 仮に本当にいじめがあったとして、それを問い質そうとしても、クラスの主犯、またはそれを取り巻く連中は一貫してしらを切るだろう。ならば、こちらも相応の手段をとるまでだと。彼女の中に、歪んだ正義が滾る――。

 

「あ、エアグルーヴ先輩!」

 

 彼女の背を叩いたのは、まだ幼さ残る黄色い声。踵を返した先には、ショパンのクラスメイトの姿。鈴をころころと転がしたような幼さ故の高い声は、今だけはエアグルーヴの癪に障るようだった。

 

 もしかしたらこいつがショパンを。道理の通らない邪推が彼女の心を汚していく。

 

『おい、丁度良かった。お前に訊きたいことがある。ショパンのことについてだが――』そう口から飛ばそうとしたときだった。

 

「あの、ショパンちゃん。まだ具合よくならないんですか……?」

 

 エアグルーヴよりも僅かに早く、初等部の娘が言った。

 会話の早撃ち(ファストドロウ)に敗れたエアグルーヴは、慮外な弾丸(セリフ)に意表を撃ち抜かれた。

 

「もう、三日目ですよね。この間まであんなに元気だったのに。クラスの娘たちも心配してるんです。だから今度皆でお見舞いに行こうかなって考えてて……」

 

 その幼い表情は、未だ穢れを知らなかった。何を企むわけでもない、そこにあったのは純粋な性善。

 

「あ……ああ。いや、どうもその。何かに罹患しているということは無いようなんだが、未だ気分が優れないと言ってな。大丈夫だ。直ぐに戻ってくる」

 

 純粋との相対比較。自分の思考がどれほどに蛇だったかを知る。

 そのことを一人でに恥じた彼女は、初等部の娘へ見舞いは不要だと言い、桃を一つ裾分けした。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

  

「あ、グルーヴさん。おかえりなさい」

 

 美浦の自室に戻ったエアグルーヴを迎えてくれたのは、ファインモーションの優しい声色だった。だが、それはどうも聊かな不安をベールのように纏う。

 

 彼女の視線の先。あるのは掛布団が大きく膨れた、エアグルーヴのベッド。

 

「……ショパンちゃん。本当に大丈夫なのかな。今日もずっとベッドに潜ったまま」

 

 エアグルーヴの机の上には、ラップが施された手つかずのおかゆがあった。ヒシアマゾンがショパンの為に用意してくれたのだろう。だがもう、彼女の真心はすっかり冷えてしまっている。

 

 エアグルーヴは掛布団をめくる。そこにいた幼い娘。食事を摂れていないことによるやつれが表れていた

 

 ショパンはエアグルーヴの顔をみるや、すぐにまた、布団の中へと消えた。

 

「ショパン。そんなに具合が悪いのか……? 何かあるのなら言ってくれ。医者が必要というのなら、私が何とかする。誰かとの悶着だろうと、きっと解決へ導いてやる。だから……」

 

 それでもショパンの回答は無言だった。

 わからない。この娘のことが。身元不明から始まった不思議な娘。日を重ねてきて、ようやくこの娘のことが解ってきた。そう、思えた筈なのに。また、何もわからない。

 

「ショパンちゃん……せめて何か食べないと、体に毒だよ」

 

 掛け布団をとんと、ファインモーションがたたく。彼女でさえも、ショパンの急激な変わりようには戸惑いを隠せないでいた。

 

「そうだ。おい、ショパン。トレーナーから桃を貰ったんだ。一緒に食べないか? 瑞々しく、甘味で美味しいぞ。きっと消化の負担にもならない筈だ」

 

 エアグルーヴは袋からひとつ桃を取り出すと、待ってろ、今剥いてきてやる。そういって自室を後にし、寮の台所で包丁の準備をした。

 

 桃に切れ込みを入れ、ふたつにカットし、手際よく種を摘出。台所姿が板につく彼女へ、ヒシアマゾンが声をかけた。

 

「なんかいいニオイがすると思ったら、桃かぁ。随分と懐かしい果物だな」

 

「ああ、すまない。後で包丁と俎板は片付けておく」

 

「はは、別に構わないよ。……ショパン用かい?」

 

 彼女の手の動きがぴたりと止まる。

 

「あの娘の為に、おかゆを用意してくれていたらしいな。すまない。だが、あの娘は手を付けなかった」

 

「そうかい……一体、どこが悪いんだろうねぇ」

 

 そういうとヒシアマゾンは、カットされた桃のひとつをつまみ食い。なるほどこれはいけると彼女(ヒシアマ)は唸り、おいと彼女(グルーヴ)は苦言を呈す。

 

「そういえば、例の話は上手くいったのかい? ジュリエット」

 

「……何の話だか」

 

 エアグルーヴは心の片隅でふと思った。

 ショパンが体調不良を訴えだした日、それは丁度、三人で向日葵畑へ行ったあの日からだったと。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「じゃあ、おやすみなさい」

 

「ああ……」

 

 ファインモーションが自室の電気を消し、二人はそれぞれのベッドへと帰る。

 

 結果として、ショパンはエアグルーヴが剥いた桃を食べなかった。

 暗がりの中、エアグルーヴは布団に籠ったままのショパンの頭をやさしく抱えた。

 

 だが、ショパンは初めてそれを拒んだ。そしてエアグルーヴに背を向けた。

 

「なぁ、一体何があったんだ。話せないか、私に。それほどまでに、お前にとって私は、気が置ける相手か……?」

 

 ショパンの回答は変わらず無言……というわけでもなかった。

 

「……ちがうの」

 

 小さく、澄まさないと聞こえないほどの声量だった。だが、エアグルーヴの耳はそれを逃さなかった。

 

「どう違うんだ。これでも私は、お前の為に尽くしてきたつもりだ。なぁ、少しだけでいい。話をしないか」

 

 エアグルーヴは慈悲の心で、再び手を差し出した。しかし、ショパンは再びそれを拒んだ。

 

 やはり、ショパンの病は心か。だとすれば、素人である自分がやたらに刺激を繰り返すことは望ましくない。明日ルドルフと相談し指示を仰ぐか、または、この手の話に造詣が深い牧野を頼るのが賢明だろうと、エアグルーヴはそれ以上ショパンを深追いしなかった。

 

「桃は冷蔵庫にある。好きな時に食べるといい」

 

 そう言い残して、エアグルーヴは今日という日を諦めた。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、ショパンは夢を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、彼女が本来居るべき未来でも、今いる過去でも、どちらでもない世界の夢。

 

 今よりは少し未来で、未来よりは少し過去。

 

 目の前のスクリーンに、とある景色が映し出される。それは、医療器具の整った病院の一室らしい。中央の医療ベッドに横たわるのは、彼女の母。

 

 おかあさん。彼女はそう呟いて手を伸ばした。だけど、届かなかった。ひどく冷たいガラスの中に閉じ込められているようだった。

 

 とんとんとん。ガラス(スクリーン)を叩いても、母はこちらを見てくれない。おかあさんと呼んでも、振り向いてくれない。

 

 ふと気が付く。母の血相がひどく悪い。そして、とても微睡んでいるようだった。どうしたんだろう。母は具合が悪いのか。だから病院のベッドで寝ているのか。

 

 もうひとつ気が付く。彼女の隣に男性がいる。彼は嗚咽を漏らし、母の手を握って、母の名を呼び続けていた。

 

 ああ、知っている。覚えている。彼は私のお父さんだ。どうして泣いているんだろう。悲しいことでもあったのだろうか。

 

 もうひとつ気が付く。二人の傍らにある小さなベッド。生まれて間もない妖精が、そこで泣き続けていた。うるさいじゃないか。そんなに泣き声をあげられちゃ、母の声が聞こえないじゃないか。

 

 ふたりの会話が聞こえた。そう、確かに言った。二人は『ショパン』と確かに言った。

 

 とんとんとん、とんとんとん。おとうさん! おかあさん! 私はここだよ! なんどもスクリーンを叩いた。でも、二人は気づいてくれない。どうして? 私はここにいるのに。どうして気付いてくれないの?

 

 二人の視線は、一人の妖精へと向いた。おぎゃあ、おぎゃあと泣き続ける産声が、今のショパンにとっては忌々しい不協和音にしか聞こえなかった。

 

 おとうさん。おかあさん。ちがうよ。私はこっちだよ。何度呼び続けても無駄だった。

 父が生まれたばかりの子供を抱いて、母のもとへ。母は最期その娘のことを『ショパン』と確かに呼んだ。

 

 

 

 

 

 ショパンは最後に気が付いた。

 

 そうだ。母は確か、子供を産んだ時に死んだんだっけ。じゃあ、今自分が目にしているものは、母の最期ということなのか。

 

 ショパンはスクリーンを叩く手を止めた。

 

 そうだ。母は死んだんだ。トレセン学園へ入学したから。優秀な女帝だったから。父と懇意になったから。結婚をしたから。……違う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 子を産んだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 じゃあ。では。なら。だとしたら。

 

 二人の間に抱かれているあの子供が、母を殺したということなのか。

 

 ……忌々しい。ああ忌々しい。あの子供が、あの子供がッ!! お前が母を奪ったんだ! 大事な、大事な母をお前が奪ったんだ! おまえは、お前は――。

 

 

 名は何といったっけ。

 

 

 確か

 

 

 ショパン。

 

 

 

 ショパン……?

 

 

 

 ……私じゃないか。

 

 

 

 ……ああ、なんだ。そういうことか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 母を殺したのは、私じゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 「――!!」

 

 

 ショパンはベッドから転がり落ちた。

 

 ひどく頭が痛かった。それは床に打ち付けられたからではないのかもしれない。

 

 ああ、まただ。まただ……。悪夢だ、悪夢だ……。酷い夢だ。

 

 

 彼女は床で蹲って、無言で悶えた。全身から汗が滝のように流れていた。

 心の臓器は、全力を駆け抜けた後以上にズタズタに割かれていた。

 

 「はっ……はっ……」

 

 焦げるように熱い吐息から、魂が抜かれるようだった。

 

 水が欲しい。水が欲しい。心から求めた。

 

 やっと自室の小さな冷蔵庫に手が伸びた。だが、冷蔵庫の中にミネラルウォーターは入っていなかった。

 代わりに、皿に盛られた桃があった。渇きを癒すためにショパンはそれを手に取った。

 

 正直なところ、固形物をあまり口へ運ぶ気にはなれなかったが、生きる為だとショパンはそれを口に含んだ。

 

 ぐにゅりぐにゅりと口の中を甘ったるい液が満たしていく。そして喉を通す。渇きが幾何か紛れる。

 

 何時間ぶりにものを食べたのだろう。一応食せたことに安堵した。

 

 2つ目を口に運んだ。これもまた、食べられた。3つ目を口に運んだ。これもまた、同様に。

 

 気が付けばすべてを平らげていた。精神が受け付けなくても、体はこれほどまでに飢えていたらしい。

 渇きを癒したショパンは、皿を片付けず、冷蔵庫も閉めず、そのまま茫然自失としていた。

 

 彼女に宿るは、悪夢の余韻。

 

 考えてはだめだ。考えてはいけない。そう思っても、先ほどの悪夢が、意識を引力のように引く。

 

 違う。違うんだ。そう唱えても、現実(リアル)は退くことを知らない。

 

 

 

 

 だって、だってだってだって仕方がないじゃないか! そうでなければ、私は産まれてこなかったんだ。

 

 違う。違うんだ。私はお母さんを殺してなんかいない。

 

 未来が、運命が、そう決まっていたんだ。決して変えることのできない未来が、母を殺したんだ。

 

 

 

 

 

 

 

『――本当に?』

 

 

 

 

 ふと聞こえた風の音。それは、日本語としての意味を持った発音に聞こえた。

 

 

「え……?」

 

 

『本当にあなたは何も悪くないの?』

 

 

 聞こえる。風の唄が聞こえる。彼女を責め立てる悪い唄が。

 

「なに……何なの……?」

 

 それは痛く耳障りな音。まるで、自分の声のようだ。

 

 

『ようく思い出してごらんよ。ショパン(あなた)はおとうさんとおかあさんに何をしたの?』

 

 

 何もしていない。何もするはずがない。

 

 

『本当に? 知らないふりをしているだけじゃないの?』

 

 

 知らない! なにも知らないったら!

 

 

『卑怯者。ずるいじゃない。自分で自分が生まれてくる未来を作っておいて、母を好きになった父のせいだ。父を好きになった母のせいだ。未来のせいだ。運命のせいだ。神様のせいだ。……だなんて』

 

 

 知らないったら! 知らないったら!!

 

 

『知らない筈がないじゃない。だってあなたは二人を導いてしまったんだもの』

 

 

 導いた……? 向日葵畑のこと……?

 

 

『まさか。それよりもずうっと、ずうっと前から。二人の間に挟まって、仲良し家族ごっこを続けていたじゃない。向日葵畑如きで運命なんか変わらない。あなたが時間をかけて、じっくり、じっくり』

 

 

 

 

今の未来をつくったんだよ(エアグルーヴをころしたんだよ)

 

 

 

 

 ちがう。

 

 

 

『本当はずっと気づいていたくせに』

 

 

 

 ちがう

 

 

『なぜおかあさんは死んじゃったかって。それは自分が生まれてきてしまったからなんだって』

 

 

 ちがう

 

 

『このまま両親の間で、ぬくぬくした時間を過ごせば、母がどうなるかだなんて知ってたくせに。知らないふりをして、あまつさえ、あなたは二人の背中まで押した』

 

 

 やめて

 

 

『つまり何をしたかわかる?』

 

 

 やめて

 

 

あなた(わたし)は』

 

 

 やめてやめてやめて

 

 

『自分のその手で』

 

 

 やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて――

 

 

 

 

 

 

 

 

『――――大好きなお母さんをころしちゃったんだよ?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『この親不孝者』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 胃酸が激しく揺れ動く、食道が焼ける感覚を覚える。精神が押しつぶされる。体中の体温が矛盾を繰り返す――強い応力(ストレス)に耐えきれなくなった母体は、遂に限界を迎える。

 

 

 

 

 

 

「う゛ぅ……う゛……え゛え゛ぇ゛……」

 

 

 

 びちゃびちゃと彼女の目の前に胃酸の溜まりが形成される。ぐにゃぐにゃと視界が揺れる。

 

 

 

「――ショパンちゃん!? どうしたの!?」

 

 

 自室の照明が付く。そこでファインモーションが目にしたものは、吐瀉物に塗れ動けなくなっていたショパンの姿。

 

「グルーヴさんッ! ショパンちゃんが!」

 

 照明の光とファインの嘶きを聞きつけ、エアグルーヴも直ぐに覚醒する。

 

「なっ……!? どうしたんだ!?」

 

 彼女の鼻を、胃酸のにおいがつんとついた。刹那、ショパンは二度目の嘔吐。

 

「わ……私、寮長さん呼んでくるね! あと、拭くもの!」

 

 ファインモーションは部屋を飛び出す。

 エアグルーヴは、恐る恐るショパンへと近づいた。激しい負荷のトレーニングの末、嘔吐してしまう生徒もいるには居る。そのような者たちに対する心得は一応持ち合わせているつもりだ。だがそれでも、エアグルーヴはショパンの介抱を少し躊躇った――ショパンが激しく嗚咽を漏らしていたから。

 

「どこか痛むのか……? まさか桃がダメだったのか? なぁ……ショパン……!」

 

 流石のエアグルーヴも狼狽えた。彼女に対し、何をどうすべきかが一切わからなかった。

 

 途端、ショパンの口が言葉を作った。それは、謝罪の言葉だった。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」と何度も同じ謝罪を。

 

「謝らなくていい! お前は何も悪くない……だから」

 

「……ちがうの……おかあさん……わたしは……おかあさんを……」

 

 顔中が体液でぬれていた。エアグルーヴはせめて顔だけでもと、私物のタオルでショパンの顔を拭った。

 

「ごめんなさい……ごめんなさいぃ……」

 

 それでもショパンは変わらず、エアグルーヴに謝り続けていた。彼女の涙に、エアグルーヴの心も激しく締め付けられた。

 

 それから程なくして、ヒシアマゾンとファインモーション、その他数名の寮生が部屋に訪れた。

 

 ヒシアマゾンの的確な指示で、ショパンの後は速やかに片された。

 エアグルーヴはショパンの肩を支えながら、彼女を洗面所へと連れていき、口と顔を洗わせて、服も着替えさせた。

 

 後処理を終えたヒシアマゾンとファインモーションが、二人を訪ねた。救急車の必要があるかという問いだった。少し考えはしたものの、彼女の容態は先程に比べては少し落ち着いたようにも見えた。だから、明日の朝に医者に掛かろうと言った。

 

「寝床はどうする? また、吐いちゃうかもしれないだろ。て言っても、他に部屋は空いてないし……アタシの部屋で寝かせようか?」

 

 エアグルーヴは首を横に振った。

 

「いいや、彼女を看るのも私の仕事のうちだ。ファイン……それでも、いいか?」

 

「うん、私は平気だよ。ショパンちゃん……無理はしないでね……」

 

 ファインはそう言って、ショパンの頭を少し撫でた。だが、ショパンの顔色は死人の如く、白かった。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 小鳥の囀りが、起床の時刻であることを告げた。

 眠りから覚めた時に、自分は眠っていたのかと自覚した。

 

 夕べはショパンが……大変だった。だから、夜通し、貫徹してショパンを看るつもりでいたのだが、習慣に育まれた睡魔には勝てなかった。

 

 今日はあまりベッドで悠長な時間を過ごしていられない。ショパンを医者に連れて行かなければ。内科かもしれないし、精神科かもしれない。

 

「さぁ、起きろ。ショパ――」

 

 

 

 いつも、朝、目を覚ませば、ショパンの愛らしいふたつのお耳が布団から生えていた。

 

 

 だが、今日はそれがなかった。

 

 

「ショパン……?」

 

 

 彼女は自分のベッドを降りて、掛布団を全て剥がした。

 それでも、ショパンの姿はなかった。

 

 

 手洗い場にも、彼女はいなかった。洗面所にも、談話室にも、食堂にも、書庫にも。寮の庭にも、周辺にも。どこにもいなかった。

 

 

 遅れて起きてきたファインモーションに、ショパンを訊ねても知らないといった。他の寮生たちも知らないと言った。

 

 ヒシアマゾンにも訊ねた。勿論彼女も知らないといった。だが、続けて彼女はこういった。

 

 

 

 

『誰かが夜中、寮を抜け出した痕跡がある』

 

 

 

 と。

 

 

 

 

 

 

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