「申し訳御座いません……私の失態です」
早朝の生徒会室。エアグルーヴは項垂れるようにして、ルドルフへ謝罪の言葉を述べた。
自分の監視下に置いていた、
それとまた同時に、ショパンを純粋に心配する心もあった。昨晩のショパンの涙の意味を、未だ理解できずにいる。
「そうか……」
ルドルフは生徒会長の席に深く掛けて、机に肘を立て、手を組んだ。エアグルーヴに対する叱責や難詰といったものは無かった。彼女もまた、エアグルーヴと同じように、憂いの色を顔に塗った。
「何故彼女は君の下を去った」
ルドルフの問いに、エアグルーヴは沈黙を横に振った。
「用が済んだんじゃないのか」
そういったのはブライアンだった。特にショパンに対して面白みを感じなかった彼女からしてみれば、どうといったことのない話なのかもしれない。
「用、とは何かな」
「それが解れば誰も苦労はせん」
ブライアンはこれ以上話の進展を期待せず、腕で枕を作り、深くソファへ沈んだ。
「それで、彼女、何か変わったことはあったかい。……君の記してくれた経過台帳、ここ数日は体調不良の訴えか。そして」
「ええ、昨晩、2度の嘔吐を」
「益々分からないな。不調を抱えたまま、寮からの脱走。韻鏡十年、此れ程迄に理解し難い相手だとは思わなかった。思惑とは何だ……」
ルドルフは席を立ち、背後にある窓から学園の様子を眺めた。
今日も変わらずに流れる日常。その中に擬態していた
「最後まで何も分からず終いか……。この隔靴掻痒、何れは晴れるものかと期待したのだがな。……ショパン、君は何の為にここへ来て、何の為に去ったんだ」
窓に手を添えて、そういった。
「もういいだろう。あいつは帰った。それだけだ。これ以上何を心配してやる。
ブライアンは抱えている焦燥を言葉にして吐き出した。いつまでもショパンという幻覚に縛られ続ける二人に、どうも苛立たしさを覚えた。
「……しかし」
「しかし、何だ?」
エアグルーヴの言葉を、ブライアンが威圧的に被せる。彼女はソファを降り、エアグルーヴの正面へと立った。
「あの娘は、具合が悪いんだ。食事すらも受け付けない身体になっていた。昨日見た限りでも憔悴していたことは明白だ」
「だから?」
「あの娘は苦しみを抱えたまま、一人で彷徨っているんだ。無事に親元へ帰れた等という確証もないだから……!」
「出て行ったのはアイツの意思なんだろう? だったらどうでもいいだろう。前も訊いた気がするが、お前はアイツの何だ? ただの監視役から昇進でもしたのか? アイツは消えた。お前の仕事は終わった。それが全てだ。後はアイツがどうなろうが知った話じゃない。違うか」
エアグルーヴはぐっと口を噤んだ。僅かに動きそうになった手を、理性で押さえつけた。だが、内に籠る感情に灯った火はなかなか消えない。彼女は顔を顰め、先鋭な視線をブライアンに突き立てた。
「……あの子供に心を喰われたか。それがショパンの目論見じゃなきゃいいな」
ブライアンはエアグルーヴへ一瞥をくれると、生徒会室を後にした。
己の創った熱に焼かれるエアグルーヴは、額を押さえ、すっかり板についた溜息を交えて、申し訳ありませんとルドルフへ再び詫びた。
「……エアグルーヴ。君は少し休んだほうがよさそうだ。ブライアンの主張を全面支持するわけではないが、ショパンが去った今、君の監視役としての仕事は了したものと考えて構わない。蟠りの残る結末、君の胸中も察しよう。だが、今の君には暫時休息が必要だ。今だけは、ショパンのことを忘れよう」
それでも、女帝の顔色は晴れなかった。
ようやく心が見えてきたショパンのことを、いきなり忘れろだなどと、通るわけがない。
「ショパンに囚われてはならないよ。君も一人の生徒だ。ショパンを想う気持ちも理解できるが、まずは自分のことからだ。後のことは私に任せてくれ」
今の心境を、ルドルフから見透かされているようだった。
エアグルーヴは、ええ、と一言置き、生徒会室を後にした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
廊下を鳴らす足音ひとつ。
本来ならばそれが正しい筈なのに。とある日を境に、足音は二つになった。
いつも健気にとことこと、
振り返れば、その娘はいつもそこに居た。朗らかな笑顔を向けてくることもあれば、エアグルーヴから叱られ、少しいじけた顔をしていたこともあった。時に生意気な口を叩くこともあれば――当然、純粋に甘えてくることもあった。
しかし、その影はもうそこにはない。彼女の背中についてくる不思議な娘はもういない。
彼女の背中が、どうしても寂寥を嘆く。数歩歩く度に、後ろの様子を伺う。そして小さな溜息を吐く。
周りの友人たちや、ショパンのクラスメイトたちも、ショパンのことを案じてくれた。一緒に探しにいこうかと声を上げてくれる者もいた。だが、エアグルーヴは首を縦には振らなかった。
『……ちがうの……おかあさん……わたしは……おかあさんを……』
昨日のショパンの言葉が、どうしても解せない。
彼女のいう"おかあさん"がエアグルーヴのことだとしたら。最後についた格助詞の意味とは何なのだろう……。
「エアグルーヴ!」
少しばかり走るような男の声がした。秋名の声だった。
「ショパンがいなくなったって……」
「本当だ。私の失態だ」
「どうして……」
秋名は青い表情をした。事態の急変に付いていけず、焦慮が露わになっているようだった。
「探しに行こう。午後は休暇願を出す」
詰まった息を吐きだしながらそう言った。
だが、エアグルーヴ首を横に振った。
「いや、いいんだ。あの娘はきっと、御両親の下へ帰ったんだ……。きっと、そうだ」
何の根拠もない、希望的観測。昨日のあの様を見て、何をどう捻じ曲げればその解釈に至るのだろうか。また、彼女は自らを誤魔化し、無理矢理にでも納得させる。そうするしかないのだ。
「……君はそれでいいのかい」
エアグルーヴは、首を縦にも横にも振らなかった。本当のことを言えば、今すぐにでも駆け出したいというのに。下らぬ体裁がものをいう。
「ショパンが出ていったことには、必ず理由があるはずだ。あの娘は、気まぐれで動くような娘なんかじゃない。それは君もよく分かっているはずだろ? 何かから逃げ出したんだ、ショパンは。何かに怯えているんだ。きっと」
「何か……とは何だ」
「それは」
「エアグルーヴさん!」
二人の間に飛び込む幼い声、ニシノフラワーのものだった。
彼女はひどく血相を変えて、らしくないほどに取り乱していた。おそらく校内中を駆け回ってエアグルーヴを探したのだろう。彼女の顔の輪郭を、汗のしずくが伝っていき、呼吸の度に胸が大きく上下していた。
「フラワー。どうした?」
不穏を感じ取ったエアグルーヴが訊いた。ニシノフラワーは答えた。
「お花が……花壇のお花たちが!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ニシノフラワーの小さい背中を追うように、エアグルーヴは中庭の花壇へと急いだ。
そういえば今朝は、ショパンのことに気を取られ、花壇の様子を見ていなかった。
中庭まで辿り着くと、花壇のある場所を中心に、生徒たちが鈴生りになっていた。皆が不安の声を上げ、中にはすすり泣く娘さえもいた。
そこにはルドルフの姿もあった。腕を組み、深刻な面持ちを
「会長」
エアグルーヴの声に気が付いたルドルフは、視線だけを一度こちらに向けると、何も言葉を発せずに、顎で花壇を指した。
ルドルフの指す先、エアグルーヴも視線を向けた。
そこにあった光景に、己の目を疑う。
つい昨日まで健気に咲き誇っていた花々たちは、茎を折られ、土を踏み荒らされ、蕾を潰され、花首を切られ、落ちた花弁は無残にも散っていた。
「…………」
暴力の限りを尽くされた、酸鼻極まる凄惨な現場を目撃したエアグルーヴは、言葉を無くした。直ぐに怒りの感情は出てこなかった。目の前で起こっている現実が、ただただ受け入れられなかった。
ヒヤシンス、ワスレナグサ、ラナンキュラス、ストックに牡丹にチューリップ。ようやく芽吹いてきたクレマチスにマリーゴールド。そして、ショパンが愛を以て懸命に育てていた菫さえも、すべてが殺されていた。
「誰が……こんなこと……」
エアグルーヴは膝をついて、花々の亡骸を手に取った。もう生き返ることのない夫々。そして、フラワーやショパンと丹精に世話をした思い出たち。それを、踏み躙られた。
花は、我々の子供も同然だ。それを奪われ、殺された。
ようやく、ようやく沸々と、失いかけていた感情に熱が籠り始める。それは突沸し、急激に怒りへと変わる。
「誰が……誰がッ!」
切歯扼腕するエアグルーヴは、己を忘れたかのように周りの生徒たちを見回し、見つかる筈のない犯人を捜した。
「誰だ! 今すぐこの場で名乗り出ろ! 卑怯者!」
そう
おまえか、おまえか、おまえかおまえかおまえかおまえか。彼女の中の蛇が、再び彼女の心に巻き付く。
「エアグルーヴ。卒爾に疑ってくれるな。ここの生徒の仕業だと決まったわけではない。軽挙妄動は悲劇しか生まない」
ルドルフはエアグルーヴの肩に手を添えて、彼女を宥めた。だが、今だけは、敬慕する彼女の言葉さえも、素直に受け取れなかった。
「まずは状況を整理しよう。昨日の時点では、まだこの花壇は手を掛けられていなかったんだね?」
「昼頃、散水した際には異常はありませんでした……」
「あの、私も昨日の下校前にお花の様子見てましたけど、その時もまだ」
ニシノフラワーが少し震えた声で言った。彼女の瞳にも、うっすらと涙の溜りがあった。
「深夜、または早朝の犯行……。他にも被害がないか確認したほうがよさそうだ」
ルドルフは腰を上げると、周囲に集う生徒たちへ、何か他に有益な情報がないかを問いかけた。直ぐでなくていい、思い当たることがあれば生徒会まで――そこまで言った時だった。
「あっ……あ、あの……」
一人の生徒が、おもむろに手を挙げた。全員の視線がそちらに向く。注目を集めた彼女の指先は、凍えたように震えている。
「何か、知っているのかい?」
ルドルフの視線が、その中等部生の娘を捉えた。その娘は少し怯えながらも答えた。
「その、し……ってるっていうか……その……」
「戦々恐々としなくていい。どんな些細なことでも構わない」
「その……私、今日一人で朝練してた時……その、み、見たんです。泥まみれで、鋏を持って学園を逃げ出す娘の姿……」
「それは君の知っている娘か?」
「その……」
中等部のその娘は、息を吸いなおし、覚悟を決めたようにして言った。
「
「…………何?」
騒めく、騒めく。皆が騒めく。あのショパンが、花壇荒らしの犯人?
「それは、本当か? 相違のない事実と受け取っていいのかい?」
その娘はこくりと頷いた。
「私、声を掛けたんです。『ショパンちゃん』って。いつもエアグルーヴ先輩と一緒にいるのに、こんな朝早く一人で何してるんだろうって気になって。一度私のほうを振り向いてはくれたんですけど、そのまま直ぐに走って逃げて行ってしまって」
「どんな様子だった」
「その、ダートを走った後みたいに服が土まみれで、そして……泣いてました」
「泣いていた?」
「顔を真っ赤に腫らして、見えたのは一瞬でしたけど、確かに」
「……めだ」
膝を付いていたエアグルーヴが、何かを呟いた。
「エアグルーヴ……?」
ルドルフは彼女の顔を覗き込もうとした――刹那。
「
エアグルーヴがそう嘶いた。彼女は立ち上がると、中等部生の娘の両肩を掴み、訴えかけるように言った。
「……するはずがない。あの娘が、あの娘がそんなことをするはずがないだろう! 見間違いだ、人違いだ! そうだお前は、誰かとショパンを見間違えたんだ……そうだ。そうなんだろう? そうだと言え!…………そうだと言ってくれ……」
「え……えっと」
中等部生の娘は困惑した。自分の話した証言を、空言にしろとあの女帝が言ったのだから。
「エアグルーヴ。彼女に罪はない」
その娘を解放しろという含みだった。エアグルーヴはゆっくりと手を下ろし、ルドルフの方を向いた。
「では、その証言を信頼するということでしょうか……」
「今のところ、疑う理由がない。ショパンの失踪、そして
ルドルフはエアグルーヴの横を過ぎて、荒らされた花壇の花弁を手に取った。
「これでハッキリしただろ。エアグルーヴ」
数多の野次ウマたちを押しのけて、姿を現したのはブライアンだった。数人の後輩を背中に従え、エアグルーヴと相対した。
「随分と洒落たガーデニングだな。前衛的と言ってやるには少々センスに欠けるが」
荒らされた花壇に一瞥をくれてそういった。
「何のつもりだ」
「何の……? 私は生徒会としての仕事をしに来た迄だ。校内施設の破壊行為、学園への攻撃。文字通り由々しき事態だ。犯人の首根っこ掴んでひっ捕らえてやる必要がある」
校内で何かが起ころうとも、最後に動くのはいつもブライアンだというのに。ここまで率先して動く動機、やはり最後まで信頼を置かなかったショパンが絡んでいるからなのだろうか。
「なァ、会長よ。アタシらに動く許可をくれ。
「待て! まだショパンが犯人だと決まったわけではない! 誤解だ。何かの間違いなんだ――」
途端、ブライアンはエアグルーヴの襟を掴み、自分へと引き寄せた。
「いい加減目を覚ませ! いいか、ショパンは何も分かってない不審ウマ娘だ。動機も目的も、何もかも!……そしてアイツは消えた。そして花壇は荒らされた。目撃証言のオマケ付きで。それが全てだ。何も覆らない」
「ちがう……」
「いつまであの子供を庇うつもりだ! いい加減理解しろ。ショパンは……敵なんだ」
敵? あの娘が……?
「そんなこと……ばかげてる……」
「ああ、とんでもなくばかげてるさ。そんなヤツをここで匿ってただなんてな。……会長よ、どうなんだ」
ブライアンはエアグルーヴを突き放すように解放した。一枚の木の葉が散るように、エアグルーヴはその場で再び膝をついた。
「……わかった。要求を呑もう」
ルドルフは花壇から踵を返し、ブライアンと視線を交わし、告げた。
「全校生徒に通達してくれ。たった今を以て、我がトレセン学園生徒会は、戸籍なき不審ウマ娘ショパンを、敵性のある危険人物と見做す。彼女を見つけた者は、直ちに生徒会へ連絡を」
「お、お待ちください! 会長……!」
狼狽に満ちたエアグルーヴの表情を、ルドルフははっきりと見ようとはしなかった。
「エアグルーヴ。さっきの娘の証言を覚えているか。ショパンはハサミを手にしたままここを去ったそうだよ。彼女は武器を手にしている。彼女の狙いが分からない以上、何かがあってからではもう遅いんだ」
「かい……ちょう……」
「……私の責任だ。彼女の本質を見抜けず、君にも過分な負担を与えたらしい。結果、私の部下は寝首を掻かれ、トレセン学園の実害までも認めた。エアグルーヴ。君はこの件にはもう関わらなくていい。後は私たちの仕事とさせてくれ」
ルドルフは一言、ブライアンの名を呼んだ。
ああ、と返事を返したブライアンは、背後の後輩たちへ顎で指示を出す。そして、その精鋭たちがショパン捜索へと乗り出す。
「彼女は武器を手にしている。仮に接触したとしても、交戦は避けるよう命じてくれ」
「ハサミ程度、何の脅威にもならん」
「そうはいかない。大切な
ルドルフとブライアンは、その場にエアグルーヴを残し去っていった。その場に残る生徒誰もが、エアグルーヴに声をかけられないでいた。
皆がぞろぞろと掃けていく。その中で、エアグルーヴはひとり孤独に溺れていた。