【完結】女帝の意志を継ぐ者へ   作:マシロタケ

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思えば、出来すぎた話だったんだ。

だって、普通に考えてみてよ。死んだ人に、会える筈なんてない。会っていい筈がない。

それこそ、御伽噺(おとぎばなし)の世界の話だ。

でも、私はお母さんに逢ってしまった。女神様に導かれて。

幸せだった。もう、どうしようもないくらい幸せだった。どうしてこんなに幸せなんだろうって、怖くなってしまうくらいだった。

お母さんと一緒に寝たお布団はすごく暖かかった。お母さんと一緒に食べたご飯はとても美味しかった。お母さんと一緒に掴んだ初めての勝利は、この上なく嬉しかった。お父さんと、お母さんと、私。三人だけで過ごした時間は、夢の時間だった。

私は、お母さんのことが大好きだ。

だから、お母さんには幸せになってほしかった。

だけど、私は取り返しのつかないことをした。

今更になって、ようやく知った。私のいた世界は、私がお母さんから未来を奪った世界なんだって。

私はお母さんを殺して産まれてきた。そうだ。私さえ産まれなければ、お母さんは死なずに済んだんだ。

でも死んだ。私が、そういう未来を作ってしまったから。

………………………。

そうだ。私がその未来を作ったんだ。だったら、出来る筈なんだ。







お母さんが死なない(ショパンが生まれてこない)未来を創ることだって。







……だったら、簡単な話だ。




嫌われてしまえばいいんだ。


大好きな大好きなお母さんから、嫌われてしまえばいいんだ。


お母さんを裏切ればいいんだ。お母さんが大切にしていたものを、壊してしまえばいいんだ。


『お前なんか、産んでやるものか』


そう、言われてしまえばいいんだ。そうすればきっと、きっと、きっと、きっと、きっと。


……私が、この世界に来た本当の理由がようやくわかった。お母さんに逢う為でも、想いを継ぐ為でも、お父さんとお母さん結ぶキューピッドになる為でもない。




……お母さんが死んでしまう(ショパンが生まれてくる)未来を、変えるためだ。



DNAコミュニケーション

 

『17時24分、ターゲット(ショパン)接敵(コンタクト)。ですが、7分後にロスト。トレセン学園トレーナー、秋名 司の妨害によるものです。ターゲットの逃走を幇助。……彼、拘束しますか?』

 

「いいや、かまわない。大方予想はついた話だ。状況は分かった。今日の捜索は打ち切って構わない。帰投してくれ」

 

『御意』

 

 通話を落とすと、ルドルフは微かに笑う。それはどこか、引き攣ったような笑いにも見えた。

 何がおかしいと、ブライアンが不服気に問う。

 

「いいや、そうか。()もか。彼もまた、ショパンに狂わされた一人か」

 

「彼とは誰だ」

 

「秋名 司。エアグルーヴのトレーナーさ。ショパンの逃走を幇助したらしい」

 

「グルだとでも言うか?」

 

「いいや、彼もきっと我々と同じく周章狼狽に溺れている筈だ。だけど、見えない何かに衝き動かされている。エアグルーヴと同じように」

 

「勿体ぶるな。含み言葉は止めろ。見えない何かとは――」

 

「深く育まれた情、或いはDNAによって刻まれた本能」

 

 ルドルフではない、誰かの声がそういった。

 

 生徒会室に、僅かな風。それに乗せられやってくる、微かな薬品の香り。

 制服の上から、白衣を羽織る栗毛の姿がそこにはあった。

 

「アグネスタキオン……何の用だ」

 

 ブライアンがソファから立ち上がった。気の置ける相手が、また一人増えたと。

 

「ご挨拶だねぇ。今月分の成果物の提出に伺った迄さ。承認印をお願いするよ」

 

 彼女の脇に抱えられた論文の束。ざっと表題に目を通すだけでも、数本の研究項目。校内での研究活動を黙認する交換条件として、研究成果を学園へ提出、報告する義務が課されているのだそう。それは監視の意味も含むらしい。タキオンはそれを、会長席の隅にあるレターケースへと放り込むと、早く学会へ回したいものがあるから早急に頼むと残し、彼女らへ背を向ける。

 

 待て。とブライアンが栗毛の背中を言葉で引き留める。彼女は不敵な笑みを飾って振り返り、何かなと嫌らしく言った。

 

「DNA……どういう意味だ」

 

「デオキシリボ核酸。細胞内小器官内に存在する核と、人体の遺伝情報を担っている物質。児童向けの本では、生命体の設計図だという言い方をよくしているようだねぇ」

 

 一歩、ブライアンが足を踏み出した。これ以上半畳を入れればどうなるか、言葉無くしても伝わるだろうというメッセージ。タキオンは、口元を白衣の袖で覆い、くすりと笑う。

 

「DNAと本能には密接な関わりがあると言われている。遥か古より、生物は己の生命を守り紡ぐ為に、遺伝子の記憶として、本能を後世に授けた。鳥が自ら空を羽搏くように、下等動物が天敵を瞬時に見分けるように……親が子を、無償の愛で護るように」

 

 はぁ? とブライアンは訝しさを口から弾いた。ルドルフは机の上で手を組んだまま、タキオンのほうを見なかった。

 

「ショパン君という存在は、特異なものだ。エアグルーヴ君を母と慕い、その身元までもが一切のブラックボックス。当然、私やシャカール君が関心を抱かない筈がない。特に私は、ショパン君が何故エアグルーヴ君を母と呼んだのか、それが気になって仕方がない。このままでは紅茶の砂糖の量が増えてしまう」

 

 タキオンは、エアシャカールからくすねたであろうブドウ糖のタブレットを一つ、口に含んだ。

 

「短絡的に考えれば、手の込んだ悪戯、或るいは何かを狙った自己催眠(ダブルシンク)。だが、それにしては彼女の狙いが不明瞭すぎる。私は少しでも彼女を理解しようと珍しいお菓子(クッソ怪しい薬)おいしいジュース(但し七色に輝いている)で気を引こうとしたが、如何せんエアグルーヴ君の警戒心が強くてね」

 

 これは参ったお手上げだと、タキオンは両手をひらひら振って落胆する仕草を見せた。例え相手が不審ウマ娘であろうと、隙あらばモルモットにしようとする積極性だけは、見習う必要があるのかもしれない。

 

「行き詰った私は、渡せなかったお菓子とジュースを、私のモルモット君(哀れなトレーナー)に食べさせて、筋骨隆々で深夜のパチンコ屋のネオンのように輝く彼を見ながらふと思ったんだ。私は考察初期の時点から、視野を絞っていたのではないかと。研究者の技量というのは、造詣の深さよりも、視野の広さが重要視される。だから私は原点に返って、二つの前提から考え直すことにしたんだ」

 

「二つの前提?」

 

 タキオンはソファにどんと腰を掛けると、くいくいとティーカップを口に傾けるジェスチャーをした。だが、欲しけりゃ自分で淹れろとブライアンに一蹴され、掌を天井に向けた。

 

「……ショパン君が、嘘を吐いているのか、真実を述べているのか。この二つだ。私はずっと前者を前提に考えを進めていた。後者を反証も無しに否定していたんだ。実に愚かだ。だから私は」

 

「待て……後者というのは、エアグルーヴがショパンの母親だと認める前提だということか」

 

「その通り。そう考えたら不思議なことに、色々と腑に落ちるんだ。ショパン君がエアグルーヴ君を母と慕う理由はもちろん。エアグルーヴ君自身が、ショパン君に自身でも理解が追い付かない程の深い愛情を抱いてしまう理由だって。二人の間にあった愛情は、単なる精神的な愛情(プラトニック・ラブ)なんかじゃない。それよりももっと深い、互いのDNAの同調が手繰り寄せた、本能によって仕組まれた愛(DNAコミュニケーション)。そしてそれが、彼女のトレーナー、秋名君にも当て嵌まってしまったということだ」

 

「ばかを言うな! 二人の年齢を考えてみろ。それが事実だというのなら」

 

 パチン。とタキオンは指を鳴らし、待ってましたと言わんばかりの嬉々とした表情を掲げ、ブライアンを指差した。

 

「そうだ! そこがミソ(・・)なんだ! 二人の年齢差は、見積もっても6歳から7歳程。つまりはエアグルーヴ君が5・6歳くらいの頃に性行為を済ませ、その10カ月前後に出産したという事実が必要になる。記録では、1933年に5歳と7か月で子を産んだ人間も居る。全くあり得ない話ではない……が。あらゆる産婦人科や出生届の履歴を辿ろうと、エアグルーヴ君が子を産んだどころか、幼少の女性が子を産んだ事実すらも見つからない。幼い出産とは言ってもせいぜい14歳とかそのくらいだ。孤立出産という可能性も0ではないが……ここでは名誉を優先しよう」

 

 わざわざ調べたのかと呆れ果てるブライアンに、情報を揃えることも私の仕事だ。とタキオンは笑った。

 

「エアグルーヴ君は子を産んでいない。だが、ショパン君との血縁(DNA)が確実となる条件。そこで私は、一つの仮説に至った。……ショパン君は、未来からやってきた未来人だという説だ」

 

 ぐらりと、目の前が鈍る感覚をブライアンは覚えた。口に咥えていた枝はぽろりと落ちて、拾う気にすらなれなかった。

 

「ははは。ぶっ飛んでいるだろう? シャカール君の頭痛すらも引き起こした程の仮説だ。だが、全くの無根拠というわけでもない。この説には実に面白いオマケがある。そうだろう? 会長」

 

 タキオンはずっと無言を貫いていたルドルフへ視線を向けた。ルドルフは会長席の引き出しを開けると、一枚のICカードを取り出し、タキオンへ投げた。

 

「"存在しない筈の学生証"ご覧よ、この西暦を。"滅茶苦茶"だ。今よりも、ずっと未来。遥か遠くの世界だ。そして、これが偽物の学生証であるとは、誰一人として証明できなかった」

 

 タキオンはそれを掲げ、大きく天井を仰いだ。その顔は興奮に満ちていた。

 

「なぁ、会長。聡明な君なら、きっと私と同じ解に辿り着いているはずだ。……ずっと前から、何なら私より早く辿り着いていたかもしれない」

 

『ショパンが一切として嘘を言っていないという説だ。勿論、あり得ないがね』

 

 ルドルフの零したセリフを、ブライアンは思い出した。

 

「勿論、これはあくまで仮説に過ぎない。私の恣意的な解釈が交じっていることも否定はしない。論理飛躍もあるかもしれない。だから、私は会長に言っていたんだ。仮説の検証の為に、二人のDNAを調べないかとね。しかし彼女、頑なに首を縦に振らないものだから、参ってね」

 

「……エアグルーヴの名誉もある。軽率にできる話じゃない」

 

「違う。君は恐れているんだ。この仮説が立証された場合に起こる、この世界の混沌を」

 

「君は恐れないというのか。アグネスタキオン」

 

「混沌よりも好奇心。それが悲しくも、研究者の性だ。私は興奮が止まらないよ。あの娘の証明が済めば、この世界は大きく変わる。……ああ、堪らない! 私の中に、得も言われぬ情が蠢いている!」

 

「マッドサイエンティストめ……」

 

「それがいつも世界を発展させたんだ。私たちはいつもその恩恵の上に胡坐をかいていることを忘れてはならないよ。さて、ショパン君の捜索だが、私も手を貸そうか? ちょうど、ポッケ君のお友達も暇を持て余しているようだからねぇ。見返りは……あえて言うまい」

 

 タキオンはルドルフを一瞥し、腰を上げようとした。その時に、ブライアンの荒んだ視線に気が付く。それは、負の感情由来によるものなのだろうか。タキオンは一言、何かなぁと言った。ブライアンは、タキオンの襟を掴んで言った。

 

「ショパンが……未来人だと? そんなばかげた話を信じろとでも言うつもりか」

 

「まさか。信じるも信じないも、私は仮説を立てたに過ぎない。しかし良いだろう、未来人とは。実に夢がある。もし本当だとすれば、未来ではタイムトラベルが実現しているのかもしれないんだよ」

 

「……イカれてる。未来人なんか、有り得る筈がない」

 

「反証のない否定は一番の愚行と知り給え。人類はいつも、その"有り得ない"を覆して今の科学を築いてきた」

 

「言ってろ……! 私はそんな妄言に付き合うつもりはない。お前の助けもいらん!」

 

「そうかい。残念だ」

 

 ブライアンがタキオンを突き放した時に、再び生徒会室の戸が開いた。学園の一般の生徒だった。彼女は血相を変えて、三女神像の前で誰かが倒れていると言った。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「ショパン。いるのか、そこに」

 

 彼女がそう言った途端、携帯の向こう側で、秋名の携帯がコンクリートへ叩き落される音が聞こえた。

 

『待ってよ! ショパン!!』

 

 彼の足音がその場から遠のいていく。秋名はショパンを追いかけたらしい。相手が居なくなった通話を、エアグルーヴは静かに切った。

 

 制服を着た彼女は、再び学園へと戻っていた。左手に、ショパンが残したペンダントを握りしめて。チェーンは未だに壊れたまま。

 

 徒然なるように歩き、漂った先は花壇。今は規制線が張られ、その中は未だ荒れ果てたまま。彼女は規制線を潜り抜けると、花の死骸たちを弔う為に、手で拾い集めた。

 

 花壇に腰を屈めていると、ショパンと世話をしていたあの日々の記憶が蘇る。グルーヴとショパンとフラワーと美化委員の有志達。皆で顔に土をつけながらも、花々の成長を見守っていた。

 

 花壇の花には、ひとつひとつ手製のネームプレートが添えられている。これはどんな花か、どんな特徴があるのか、花言葉は何か。そんな情報が手書きで記されていた。

 

 菫が咲く場所にも、それはあった。ショパンの直筆で、菫の漢字がわからないから『すみれ』とひらがなで書いて。そのネームプレートの隣に、もう一本小さなプレート。そこには大きく『ショパンが育ててます!』と書かれていた。一本プレートが余ったからと、美化委員の一人が粋な計らいを施してくれたのだ。

 

 ショパンは面映ゆい顔をしながらも、それを気に入ってくれていた。でも、それももう。

 

 死んだ菫を両手で集める。彼女の両手を、菫色が満たす。それらを一か所に集めたときに、ふと気づく。土の中に、ラミネートで加工された小物があることに。それは、本来は長方形の形をしていたのだろう。しかしそれは、鋏で真っ二つに割かれていた。

 

 二つを組み合わせると、形が見えた。一か所に穴をあけて、リボンを通した栞だ。

 ショパンが育てた菫で作った手作りの栞。綺麗に映えた、菫の花弁たちがいくつも顔を覗かせていた。

 

 栞の裏には『エアグルーヴ先輩へ ショパンより』と小さく書かれていた。

 

 ……ほろり、ほろり。と、エアグルーヴの目尻から少量の汗。知らぬうちに愛してしまっていたあの日常が、もう戻ってこないことを知ったときに、それが流れ出た。

 

 狂っている。そう、私は狂ってしまっている。氏素性もわからぬあの娘に愛情を覚え、裏切られた。それでもまだ、あの娘のことを、心が求めてしまっている。その自覚が彼女にはあった。

 

 どうして、こんなにも苦しいのだ。どうして、あの娘は、あんなにも愛おしいのだ。

 どうして、私は狂ってしまったのだ。どうして、どうして、どうして。

 

 

 私にとって、ショパンとは、何なんだろう。彼女は膝をついたまま、瞳を閉じた。

 

 

 ……お母さん。

 

 

 エアグルーヴは目を開いた。誰かが彼女を呼んだ。

 彼女は立ち上がって周辺を見渡した。しかし、それらしい人物は誰も見当たらない。

 

 

 ……おかあさん。ここだよ

 

 

 まただ。また、鳴った。聞こえる、否、その声は彼女の鼓膜を揺らしていない。でも、聞こえる。

 

 すべてを見渡す。そして、一つのそれらしい解が、彼女の視界に入る。

 

 ひたひた。しとしと。優しい水の音。それは安らぎの夜想曲であり、慈愛の讃美歌。それらを慎ましく唄う、三体の偶像(アイドル)

 

 

「三女神……?」

 

 ……おかあさん。おかあさん。

 

 聞こえる。あの娘の声が。三女神のほうから。

 

 エアグルーヴは糸に惹かれるように、そちらへ一歩、また一歩。

 

 女神像の麓まで来たときに、エアグルーヴは彼女たちを見上げる。そこにある、無機質に覆われた優しい微笑み。それが何を言わんとしているのか。

 

「三女神……なぁ、教えてはくれまいか。ショパンとは何者なんだ。どうして私は、あの娘を求めてしまうのだ。……知っているのなら、教えてほしい」

 

 気が付けば目を閉じていた。ふっと、自嘲する吐息。私は何をしているのだ。何を三女神に祈っているのだ。そんなことを訊かれたって、彼女たちも困るに違いないというのに。

 

 すっかり弱ったな。女帝が。そう心でつぶやいて、瞳を開けたとき。

 

 

 彼女は目にした――虹色に輝く、女神の泉を。

 

 

「…………?」

 

 

 目の前は、現実か。或いは、未だ瞑想の中にいるのか。でも……。

 

 さらりと水を触った。感触は、なんら普通の水と変わらない。だから、手を入れた。……程なくしてだった。

 

 

「――――!?」

 

 

 声を出す暇すらなく、彼女は、泉の中へと誘われた。

 

 

 

◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

 

 

 満たされる。肺が水で満たされる。女神の泉の中で、彼女は漂う。

 

 虹色だった泉、いざ中へ入ってゆけば、陰鬱で先行きの見えない闇夜。そこは、上も下も、右も左も何もない無次元。

 

 彼女の周りをオーブのような光の玉が哀しく回遊する。それらに手を伸ばす。触れた瞬間にそれは儚く散る。

 

『おかあさん……』

 

 聞こえた。また、聞こえた。あの娘の声。

 

 どこから、どこから聞こえるのだ。ふわふわとした温かい不安の中、彼女の声を意識で辿る。

 そうすれば、周囲のオーブたちが一つの群れを形成する。彼らの集合は、やがて強い光を生み出し、スクリーンとなって、エアグルーヴへとある景色を見せた。

 

 淡い、セピア色のような景色だった。そこはとある病室。中央に一台の大きな医療ベッド、周辺には点滴台だとか、無影灯だとか。少し離れた場所には、小さなベビーコット。そこが何処なのか、おおよその予想はついた。

 

(分娩室……?)

 

 そして、その中央の分娩台に横たわる一人のウマ娘。彼女は激しい微睡に襲われている。

 一人の男性が、小さな赤子を抱いて彼女の下へ。赤子は男性の腕から、ベッドに座るウマ娘の胸元へと、やさしく渡された。

 

(ショパン……)

 

 エアグルーヴは、その赤子がショパンであると直感で理解した。生まれたばかりの姿、未だ耳や尻尾すらも不十分だというのに、それでも。彼女はショパンであると確信した。

 

 その赤子は、どうしても愛らしかった。今すぐこのスクリーンを突き破ってでも、その赤子を抱きに行きたいくらいだった。

 

 最後に、その赤子を抱く母親ウマ娘の姿がはっきりと見えた。エアグルーヴは彼女の姿に、言葉を忘れた。

 

 だって、その赤子を抱いていたのは――自分自身(エアグルーヴ)だったのだから。

 

 その時に、ようやく、ようやく。一つの解が、彼女の中へと舞い降りた。

 

 

(ショパンの母親は……わたし……? 私とショパンが……母娘(おやこ)……?)

 

 

 水で満たされた肺から、言葉を吐き出したかった。だが、それもままならない。だから彼女はそちらへ手を伸ばした。

 

 その彼女の手を、誰かがとった。

 

 

◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

 

 

 彼女の手を取った何かは、深い闇夜の海原から、エアグルーヴをビーチへと引き上げた。

 

 しかし、海から這い出ようとも、そこの天気は大きく荒れ果てていた。大雨が辺りを覆いつくし、風は吹き荒れ、遠くで落雷すらも聞こえた。

 

『酷い有様だな……』

 

 砂浜に這い蹲り、未だ混沌の中で溺れるエアグルーヴへそう言ったのは、一人の淑女だった。

 彼女は、遠くの空を憂いて見詰め、後悔を嘆くようにそう言った。

 

 エアグルーヴはその場から立ち上がろうとした、だが、どうも足元がおぼつかない。がくりと膝が折れ、その場に沈みそうになる。しかしそれを、淑女の肩が救った。

 

 淑女の助けあって、なんとか自力で立ったエアグルーヴ。淑女の横顔を見たときに、この場所を理解する。

 

「おまえは……」

 

『言ったろう。おまえ(・・・)ではない。わたし(・・・)だと』

 

 砂浜と淑女。夢で見ていた、あの場所。

 

 そして、その淑女。それは、エアグルーヴ自身。今よりも少しだけ熟れた姿。既視感にようやく合点がいく。それは――ペンダントの中の彼女の姿。

 

 大雨に濡れた淑女は、エアグルーヴの隣でただひたすら立ち尽くし、彼女へ言った。

 

『あの娘が一人で泣いている。あの娘はまだ、一人で歩くことが出来ないんだ。頼みがある。あの娘の涙を拭いてあげてくれ。もう一度この世界(・・・・)に、光を齎してくれ……』

 

「この世界……」

 

 それは、このビーチのことを言っているのか。

 エアグルーヴは訊いた。

 

「あの娘は、何に怯えているんだ。あの娘の涙の理由は何だ」

 

『あの娘は自分自身の存在を恐れている。そして、自分を以て贖おうとしている。間違いだ。それは大きな間違いだ。あの娘は自分の命を罪だと思っている』

 

「何があったんだ。あの娘に」

 

『……あの娘は生まれと同時に、大切なものを喪ったんだ』

 

「大切なもの……」

 

『すべてはあの娘に聞くといい。そして、女帝(わたし)の答えを、あの娘に授けてあげてくれ』

 

 淑女はエアグルーヴの左手をとる。彼女の手には、壊れたペンダント。それを両手で包み込むように握ると、そこが僅かに光った。

 

『あの娘は思い出の場所(向日葵畑)にいる。今もずっと、哀しみに凍え続けている。未来(わたし)ではもう、あの娘を抱きしめてあげることができないんだ!……だから、過去(わたし)のその腕が、温もりが必要なんだ。あの娘に教えてあげてくれ。お前の命は、決して罪ではないと』

 

 訴えかけるように、淑女は言った。そこに少しの涙があったのかもしれない。だが、すべては大雨に流される。

 

「教えてくれ……ショパンは本当に、私の子なのか……?」

 

 淑女は微かに微笑んで言った。

 

 

 

『もう、気づいているくせに。……ずっと前から』

 

 

  

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 …………ヴ!

 

 

 ……グルーヴ!

 

 

 ……丈夫か?

 

 

 

「――ッ!?」

 

 

 覚醒したエアグルーヴを迎え入れたのは、トラバーチン模様の天井だった。

 少しだけ硬質なベッドが、彼女の全てを支えている。そこが保健室だと気づいたのは数秒後のこと。

 

「エアグルーヴ!」

 

 そう名を呼んだのはルドルフだった。少しだけ狼狽した皇帝が、そこにいた。

 

「かい……ちょう……」

 

 続いてエアグルーヴの顔を覗き込んだのは、アグネスタキオンだった。

 彼女は、両手でエアグルーヴの顔を支えると、視線も正しい。目立った外傷もない。異常はなさそうだといった。

 

「私は……」

 

「三女神像の前で倒れている君を、生徒が発見したんだ。一体、何があったんだ」

 

 ルドルフはエアグルーヴの手を取って、そういった。その手の中には、硬い感触があった。エアグルーヴが手を開くと、そこには一つのペンダント。

 ……いつの間にか、チェーンは直っていた。蓋を開くと、そこには向日葵畑を背に、こちらを微笑む淑女の姿。

 

『頼みがある。あの娘の涙を拭いてあげてくれ』

 

未来(わたし)ではもう、あの娘を抱きしめてあげることができないんだ!……だから、過去(わたし)のその腕が、温もりが必要なんだ』

 

 その言葉が蘇った。

 

 エアグルーヴは、ルドルフの問いに答えず、ベッドを降りた。

 そして無言のまま、保健室の扉へ向かった。しかしそれを、ブライアンが遮った。どこに行くつもりだと言って。

 

「あの娘のところだ……私は、行かなければならない」

 

 途端、ブライアンはエアグルーヴの両肩を掴み、言った。

 

「もう、あの子供のことは忘れろ! いいか、何度も言わせるな。ショパンは私たちの仲間なんかじゃない! 何故だ。何故お前ほどのウマ娘が、そうまでしてあの子供に拘る。……何かされたのか? 弱みとか握られているのか?……そうであれば私に言え!……私がお前を救ってやる。だから……!」

 

「ありがとう……ブライアン。でも、そんなのではない」

 

 エアグルーヴの瞳は、据わっていた。何かを悟っているかのように、落ち着いていた。

 

「じゃあ……じゃあなんだ! 会長も言った筈だ! もうこれ以上、お前はこの件に関わるなと! なのに、何故……。教えろ……あの子供は……お前の何なんだ!」

 

 エアグルーヴの肩を揺さぶって吠え続けた。もうこれ以上、エアグルーヴが狂う姿は見たくないという祈りが籠っていたのかもしれない。

 

 

 

 だが、エアグルーヴは言った。ブライアンの琥珀の瞳を、静かな灰簾石の瞳でじっと見つめて。

 

 

 

 

 

 

「あの娘は、ショパンは…………………………私の子だ」

 

 

 

 

 

 と。

 

 

 

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