「ショパンは………………私の娘だ」
エアグルーヴが静かに言った。それは細く儚いが、確かな芯の通った声だった。
ブライアンは7秒ほど、瞬きや呼吸すらも忘れた。瞬間的に思考すらも止まった。
「……………は?」
それでも、エアグルーヴの瞳は狂ってはいなかった。ただ、静謐に。ただ、哀愁を秘めて。
最後に一言、すまないと言って、彼女は保健室を後にした。
寂寞が犇めく保健室。タキオンだけが燻るように笑う。わざわざDNAを調べてやるまでもなさそうだとルドルフの背中へ言った。ルドルフはただ、沈黙のドレスを纏う人形のように、その場に立ち尽くした。
「彼女、追わなくていいのかい?」
タキオンは続けてブライアンへ語った。彼女はただひたすらに俯き、やがて強く握っていた拳を開き、パイプ椅子へと深く掛け。
「……少し、疲れた」
ただ一言、そう言った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
コン、コン、コン、コンと正確なメトロノームのように、彼女の踵から全拍子のリズムが飛ぶ。一刻でも早く、あの娘の場所へ。糸に惹かれるように、導かれるように。
昇降口を目指し、踵を鳴らし続ける。
「エアグルーヴ!」
そこに合流する男、僅かに息を切らし、彼女を呼び止める。
「トレーナー……」
「君が倒れていたと連絡があった。体調は」
「いや、問題ない。それよりも、行かなければいけないところがある」
「どこへ?」
「……その前に一つ、訊きたい。トレーナー。貴様は何処まで、ショパンを信じられる」
エアグルーヴがそう問いかけた。彼女の口からは、幾度となく飛び出ていたショパンの名。今回ばかりは、その重みが違っているようにすら感じられた。
「どこまで……そうだな」
僅かに返答に困る秋名へ、エアグルーヴは続けた。
「例え、私が狂乱したものと思ってくれてもいい。だが、私はあの娘のことを信じたい……」
哀愁の瞳が、僅かに濡れていたことを知った秋名は、彼女の手を取り、言った。
「エアグルーヴ。君の望みを言ってくれ。僕は君の杖だ。君が望むと言うのなら」
エアグルーヴは、秋名の左腕を掴み、彼の顔を深く覗いて言った。
「――あの娘の所へ行きたい。あの娘が一人で泣いている」
「……わかった。行こう。あの娘のところへ!」
二人はその場から駆け出す。一つの足音が、二つに鳴る。全ては、
そんな二人の背中を、視線で追う鹿毛の姿が一人。彼女は携帯を取り出し、通話を開始する。
「
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
エアグルーヴが去った後の保健室。その場を誰も動こうとはしない。
ブライアンは乾いたタオルを顔に乗せて、天井を仰ぎ。
「……みんな、あの子供に狂わされていく。エアグルーヴもそうだ。あんたらも同じだ」
そう呟いた。
「失礼な。私は狂ってなどいないよ」
タキオンは保健室にある薬品たちを物色しながら、ブライアンへ背中で答えた。
「未来人を提唱するやつが、狂っていないとでも言うつもりか」
「何度も言わせないで貰いたい。あくまで仮説とは可能性の話だ。あらゆる事象に対し、偏見と先入観を捨てているに過ぎない」
「じゃあ何故、ショパンは未来から来た」
ブライアンは顔に掛かったタオルを投げ捨てる。ひらひらと舞ったタオルは行き場をなくし、床に力尽きた。
「そうだねぇ、では、ここからは空想の時間としようか。私もより私見を強めに語らせてもらおう」
タキオンはエアグルーヴが去った後のベッドへ腰を掛けて、足を組む。
「先ず、前提の固定だ。ショパン君は未来から来たものとして考察を行う。最も、未来人に関する研究資料とは非常に少ない。語れることは、
指で空中をなぞる。その指は難解な数式を描いているようにも伺えた。
「では、もう一つのケースとは何なのだろう。未来人が目的意識を持って、過去へ来る理由とは」
タキオンはブライアンにシニカルな笑みを添え、人差し指を向けた。それでもブライアンは口を開こうとはしなかった。
「どうしたんだい? そんなに難しい問いかけだったかなぁ」
「……詛呪された未来を変えるため」
二人の背後で、ルドルフが誰に充てるでもなく呟く。
「詛呪された未来とは?」
タキオンの視線と指先が、ルドルフへ向いた。だが、彼女はそれ以上の回答を躊躇った。
「例えば、未来のトレセン学園がエイリアンの侵攻によって陥落しているのかもしれない。はたまた、未来のトレセン学園は実に質が落ちて、不良ウマ娘の巣窟になっているかもしれない。窓ガラスは全て割れて、壁という壁に落書きがあるんだ。ああ恐ろしいねェ。それは確かに詛呪だ」
ベッドに倒れこみながら、おどけるように言う。
「何が言いたいんだ。真意を話せ」
ブライアンは自分の掛けていた椅子を蹴り、タキオンの前へ立つ。
「これも考察の一環だ。あらゆる可能性を考慮しなければならない。……なぁ、会長。君は何か知っているんじゃないのかい。ショパン君とエアグルーヴ君が邂逅したとき、彼女は大切なヒントを落とさなかったのかい」
ルドルフの顔が、一つ青ざめる。組んでいた腕を解いて、額に添える。
この学園の、誰しもが知っている話だった。学園内を逃げ回った不審ウマ娘ショパンは、エアグルーヴの顔をその瞳に映した途端に、泣き崩れた。そして、彼女を深く、深く抱擁した。
まるで喪った何かを、手にしたかのように。
誰もが、ルドルフでさえもが、それを
「未来でエアグルーヴの身に何かが起こっている……それも、生命に関わる程の何か。それを伝える為、または回避を目論んで」
「私も同じ見解だ……最も、これも仮説だがね。だが、そうすれば見えてくるかもしれない。ショパン君が、花壇を荒らし、学園から去った理由だって」
一人取り残されたのはブライアンだった。二人の余りに現実離れした論述に、頭を掻きむしり、理解が追い付かないことを嘆く。
「まるでわからん。どう見えてくるんだ。結論は何だ。あいつの真意は」
「そうだねぇ。例えば、エアグルーヴ君に自身を否定して貰う為……なんてのはどうだい?」
「否定? 何の為に」
タキオンはベッドから立ち上がると、保健室の隅に追いやられていたホワイトボードを引っ張り出す。マーカーのキャップを外すと、詛呪=X、悲劇=Yと起き、愁嘆な未来=X×Yと記した。
「ショパン君は未来で起こった悲劇を変える為に、この時代へ遣ってきた。ではその悲劇とは。先ほど会長が言ったことでも代入しておこうか」
『悲劇=エアグルーヴの災難』
「次だ。ショパン君の
『管理者への仇』に大きく丸印がつく。ホワイトボードを滑るマーカーの音と、シンナーの臭いがこの部屋に漂う。
「管理者というのはエアグルーヴ君のことだ。端的に言えば、ショパン君はエアグルーヴ君を狙って、間接的な攻撃をしなければならなかった。何故間接か。直接的では、ショパン君の目論見を果たせないから。原点に返ろう。ショパン君の目的は、悲劇の回避」
「矛盾だ。エアグルーヴを救うために、エアグルーヴを攻撃したということになる」
ブライアンがそういった。だがタキオンは『そうかな』と不敵に笑う。
「
そしてタキオンは、詛呪=XのXを指で消し……。新しき変数を記入した。
『詛呪=ショパン』
「
マーカーのキャップを締める音だけが、静かに鳴った。
「ショパンの目的は……エアグルーヴを救うための、自決……?」
「そう考えることも出来るということだ。そしてエアグルーヴ君は、何らかの理由でその真因にたどり着いている。だからこそ、
「なぁ、教えてくれ。ショパンとは、善なのか、悪なのか。敵なのか、味方なのか……」
ブライアンが言った。タキオンはふぅと息を吐き、答えた。
「この話には、最初から善も悪も、敵も味方もない。そこにあったのは、ただの純粋だ。私はそう思っている。答え合わせをしたいなら、ショパン君に直接訊くしかない。その為にも、ショパン君を捕らえる必要はあると、私は思っている」
どうだい、会長。とタキオンがルドルフを一瞥して言った。
ルドルフに宿るは、ただただ、沈黙だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
プッシュ・スターターを介して、セルモーターがエンジンをクランキングする。1秒にも満たない時間で、燃料には火が付き、水平対向エンジンは活動を開始する。
車のヘッドライトが40m先の未来を照らす。秋名はパーキングブレーキを下ろし、Dレンジへ接続し、ステアリングを切り込んだ。
トレセン学園の職員用駐車場の出口へと向かう。だが、その付近には数台のヘッドライトの群れ。
けたたましく、鼓膜を劈くようなドライサウンド。所謂
「……僕たちを待っているつもりか」
秋名はパーキングブレーキを引いて、その場に降り立つ。彼に相対するように、一人の鹿毛が、バイクの群れから抜け彼の前に立つ。エアグルーヴも続いて、車から降りた。
「ああ、アンタが秋名サン? 悪ぃ。俺のダチからさ、迷子探して欲しいって頼まれてんだよ。あのー、ショパンだっけ? どこに居るか教えてくれねぇ?」
「捜索協力なら間に合ってる。あの娘は僕たちで探す」
「別に、取って食っちまおうって話じゃねぇさ。人数が多いことに越したこたねぇだろ? ちょうど学園も大変なことになってるみてぇだし」
彼女たちから、明確な敵意こそ伝わってはこない。だが、先の生徒会のこともあると、秋名は彼女らを訝しんだ。
「私たちからも、お断り申し上げます」
そういって、秋名と不良ウマ娘たちの間に割って入る、一人のウマ娘。それは、秋名の自宅近くでショパンを捕えようとした、分隊のリーダー。その背後には、生徒会の右腕を担う精鋭たちの姿。
「すっげぇ……XJRだぁ……。あっちはゼファー400。あっちはCBX400F……」
「ウオッカ。集中しろ」
生徒会の正規軍。その姿に不良ウマ娘たちの空気も僅かに淀む。
「お断りって……別に悪い話してるワケじゃないだろ! 見つけてやるって言ってんだよ!」
「ショパンの捜索は、生徒会指揮の下、施行されています。一般の生徒及び外部の方々の協力は、今の所正式に賜っておりません。ですので、どうかお引き取り願います」
「って言われてもなぁ。こっちもそれなりの報酬が用意されてる話だから。黙って引き下がる訳にはいかねぇんだよなぁ」
「それが本音ですか。ならば、最悪は実力行使となりますが……?」
「……おもしれぇ」
「はぁい、ストーップ」
彼女らの背後から、高らかな声。それが鳴るほうへと視線を向ければ、タキオンと生徒会二人がそこにいた。
「暴力とは実に非論理的且つ愚の骨頂! 篤実なウマ娘にあるまじき行為だ。肯定しがたい。……にしてもポッケ君。確かに私は君にショパン君の捜索を依頼したが、やり方が余りに愚直過ぎやしないかい?」
「だあってよぉ、タキオン! 知ってそうな奴に訊くのが一番早いじゃんかよ! なぁ、見つけたらファミレスパフェ、マジで奢ってくれるんだよな!?」
「……随分と安く釣られてるんだな」
ブライアンが腕を組み、そういった。
「ジャングルポケット。理由は如何なれ、同心協力の願い出は感謝しよう……だがこの件、生徒会としては、不承知とさせてくれ」
ルドルフが言った。ふぅんとタキオンは鼻で鳴いた。
「彼女も言った通り、ショパンの捜索は、現在生徒会が預かっている事案だ。この不承知は、君たちの安全を保障する為のものと心得てほしい」
「まぁ……会長さんがそういうんなら……」
すまない。と一言置いたルドルフは、エアグルーヴの下へ。そして、彼女と視線を交わす。彼女の瞳は変わらず据わっている。
「エアグルーヴ。君の先ほどの発言、君の本心の基と知って構わないか」
「ええ……変わりはありません」
「君は、ショパンの居場所を知っている?」
こくりと、彼女の顎が縦に動く。
「その情報を、我々に提供する意思は」
……今度は、横に動く。
「会長。私は貴女に背いたと非難される覚悟さえもあります。ですが、それでもあの娘のところへ行きたい。生徒会副会長としてでなく、
「君の、後悔のない選択とは、それなのかい」
「愚昧です。私とは」
「……必ず、ショパンと共に学園へ戻ってくると、私に誓え」
エアグルーヴはルドルフへ頭を下げると、再び車の助手席へと乗り込む。秋名はサイドブレーキを解除し、車は国道へと乗った。
「何故、止めなかった」
車が去った後に、ルドルフに問いかけたのはブライアンだった。彼女の問いに、ルドルフは自分が弱かったからだと答えた。
「
ルドルフの声色は、僅かに揺れていた。その唇さえも。全ては敗北を噛み締めていた。
「もういい……。あんただけが背負うな。信じよう、エアグルーヴを」
ブライアンはルドルフの右肩へ額を寄せた。
「あーあ。これでパフェもおじゃんかぁ。なータキオン。他の仕事でもいいからさぁ、奢ってくれよパフェ~」
「そうだねぇ、なら、新薬の治験なんてどうだい……」
その時、学園前の通りを一台のバイクが猛スピードで抜けていく。その場にはカーボンマフラーから吐き出されたエキゾーストノートが、ドップラー効果となり、その場に留まる。
それの進行方向は、秋名の車が向かった方向と同じ方向。
「ンだぁ。はえーなーアレ」
「あれ、GSX-R750! すっげぇ……」
「ねぇ、後ろに乗ってたの、トレセン学園の制服じゃなかった?」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
東京――夜の国道を、一台の
車のオーディオからは、どこかのラジオDJが選曲したレッド・ツェッペリンの"Stairway to Heaven"。秋名はそれを左手で消す。
「あの娘は本当に、向日葵畑?」
「ああ。きっと」
エアグルーヴがペンダントを開く。そこに座る、一人の淑女。だが、そこに一つの違和感。
淑女の背景の向日葵畑が、とろりと溶けていく。そんな錯覚を、エアグルーヴは覚えた。
「どうしたの?」
「トレーナー。以前、私が言ったことを覚えているか。ショパンが未来から来たウマ娘だと言ったらどうするかと」
「ああ。まだ、答えを言っていなかったね。……今なら少しだけ、信じていいのかもしれない。君が信じるというのなら、尚のことだ」
そうとまで言ったとき、車のルームミラーに違和感を感じる。そこに映る単眼のヘッドライト。空中を浮遊するオーブのように、その火の玉は、彼の車の背を追いかけていた――瞬間、そのオーブは車を追い越す。レヴォーグのヘッドライトの光によって、露わになる青い意匠に包まれた
ライダーは後輪をフルロックさせ、慣性に任せたパワースライドでスピードを殺し、ブレーキターンへと接続する。そして、スキール音を響かせながら、秋名の進路の上に立ち塞がった。
秋名は反射的にフットブレーキを踏み込み、車を停止させる。車のノーズの先。GSX-750Rに跨るのは、一人の成人男性と、タンデムにはトレセン学園の制服を着たウマ娘。
「……礼司か」
秋名がそう零した。ライダーはフルフェイスヘルメットのスクリーンを開け、彼へ叫んだ。
「司ぁ! お前、どこに行くつもりだよ! 聞いたぜ。お前、ショパンの逃走を手伝ったんだってな。お前、マジでどうかしちまってんじゃねぇのか! お前このままじゃ学園は愚か、URAからだってクビ飛ばされるかもしんねぇんだぞ……。目ぇ覚ませよ! 考え直せ! ショパンから手を引け! お前の為だ!」
秋名はシートベルトを外し、車から降り立つ。
「……すまない。礼司。でも、僕達は行かなきゃならない。あの娘が待っている。一人で、ずっと」
「ハッキリ言うぜ。らしくねぇよお前。ずっと賢い選択を取ってきたお前が、あんな子供の為に。暴挙だぜ……」
「それで構わない」
秋名は再び車へ乗り込むと、アクセルを床まで踏み込む。フルスロットルの伝達によって命令を受けた4WDが地面を蹴り上げる。そしてバイクの横を潜り抜けて、再び織戸へテールランプを見せつけた。
「クソッ! ファイバ! 捕まってろ!」
タンデムの
――
織戸のバイクが追いつく前に、交差点を抜けられたのは幸いだった。今のところ、ルームミラーにこの車を追うヘッドライトの姿はない。だが、機動性で勝るバイクを完全に振り切って、残り数キロの向日葵畑まで辿り着くことができるだろうか。
秋名は路肩に車を停めた。トレーナー? と訊くエアグルーヴへ彼は言う。
「エアグルーヴ。別行動をしよう。礼司はきっとこの車を追ってくる筈だ。僕が彼を巻く。君は一刻も早く、ショパンの下へ」
少しの躊躇いの後、エアグルーヴはシートベルトのバックルを解除する。そしてサイドドアのレバーを握ったとき、その手を一度止め振り返り、秋名の背中へと腕を回した。
「どうか、無事で」
「……お互いに」
そうして、エアグルーヴは地上へと降り立った。
――
快調に吹け上がる749cc DOHC
そしてスクリーンの中に映り込む、車のテールランプ。彼の右手に、一層の力が入る。
だが、タンデムに跨り、彼の背中に縋るファイバトリガーは、あることに気が付く。彼女の視界の隅、歩道を反対へ駆けてゆくエアグルーヴの姿。
彼女は数回織戸の背中を叩く。バイクはその場で急制動。崩しそうになるバランスを力で堪えた。
「何だ! どうかしたか!」
「エアグルーヴだ! あいつら、別行動するつもりだ!」
ファイバトリガーはヘルメットの顎紐を解き、タンデムを降りる。メットホルダーへ、ヘルメットを括り付けて、担当トレーナーの織戸へ言った。
「きっとどっちかはブラフだ。アタシがエアグルーヴを追う!」
「OK……俺があのバカを止めてくる」
「スッ転ぶなよ! お前、運転荒いんだから!」
「ウルセェ! とっとと行け!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『おかあさん』
『私が未来から来たって言ったら、信じる?』
『ごめんなさい……私は、お母さんを……』
あの娘の言葉が、幾度となく頭を駆け巡る。あの娘の笑顔、泣き顔。何時しか昵懇となってしまった記憶。全てが哀しく、愛おしい。
あの娘に逢いたい。今すぐ逢いたい。もう一度、話がしたい。募る想いが、大地を
彼女の目尻から再び汗。アイシャドウのラインが崩れてしまおうとも、彼女はそれを拭うことなく駆け続けた。
駆け続ける彼女へ風が吹く。丁度、汽水域を跨ぐ橋の上。しかしそこで、彼女のヒールの音は突如として終わりを迎える。唯でさえ人間と比にならない程の脚力を持つウマ娘、故にその脚力を以て長時間走り続けることを想定されていないローファーが負けるのも必至だった。
ばりと、音を立ててローファーは壊れる。それに足を取られ、彼女はその場に両手を付く。彼女のローファーは、爪先部分のアウトソールが本体と乖離し、最早靴としての機能を果たさなくなっていた。
エアグルーヴはローファーを脱ぎ捨て、ソックスのみの裸足で再び駆け出す。保護する為のものがない故、路面から入力されるそのダメージは、彼女の脚へダイレクトに蓄積されてゆく。
だが、それでも構わない。裸足の痛みに耐えながら、彼女は駆けて行く。ただひたすら、あの娘が待つ場所へ――。
「エアグルーヴ!」
背後で追手の声が聞こえた。だが、振り返ってはならない。足を止めるな……。
だが、追手の声は次第に大きくなっていく。二人の距離は縮まってゆく。当然だ。裸足の彼女が本気で走れる筈もない。
やがて、追手の声は、エアグルーヴの肩を捕まえる。
「待てよ!」
そこに居た、一人の鹿毛。エアグルーヴと同じく、ひどく息を切らす。エアグルーヴはその場に両膝をついて、沈んだ。
「……おまえ。あの子供のところへ行くつもりかよ。なぁ、皆言ってんだよ。
ファイバトリガーは、エアグルーヴと同じく膝をついて、諭すように語りかけた。
「まだ、間に合うんだ。頼む、引き返してくれ。お前、これ以上こんな妙なことに関わり続けたら、この先どうなるか分かんねぇんだぞ。アンタはこの学園の憧憬なんだよ。皆がアンタを羨んで夢を見ている。アタシだってそうだ。だから、こんな下らねぇことでアンタが壊れちまうのなんて、誰も望んじゃいないんだよ。アタシはアンタに、オークスの借りがある。それを晴らすまで……あんたには女帝で居続けてもらわなきゃ、意味ないんだよ!」
橋の上の夜風が、二人をやさしく包み込む。遠くで凪の歌すら聞こえる。
エアグルーヴの胸の中で打ち震えるファイバへ、エアグルーヴは彼女の両手を取った。
「……すまない。皆に迷惑を被らせていることは自覚している。気が触れていると蔑まれようとも、否定はしない。だがそれでも、私は行かなければならないんだ。あの娘のところへ」
「なんで……だよ」
「それが、
「……どうしても、行くつもりか。そんな、裸足のくせに」
「裸足でも、足は動く……」
エアグルーヴは静かに立ち上がると、再び裸足のまま、ファイバトリガーに背を向けて歩き出した。
どさ。と彼女の足元で音が鳴った。それは、未だに壊れていないファイバトリガーの運動シューズ。
振り返れば、裸足の彼女が居た。
「裸足で走ってちゃ、足壊しちまうぞ。貸してやる。だけど、必ずアタシのところへ返しに来い。ショパンと二人で、必ず」
「……ありがとう。ファイバ」
とんとんと、彼女の足にフィットした運動靴の爪先を叩く。そして再び、エアグルーヴは駆け出した。
「……なんであいつ。あんな母親みたいな顔ができるんだ」
孤独に取り残されたファイバトリガーの呟きを、陸風が遮った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
数キロそこから進むと、上り勾配の坂が姿を現した。そこを1km程上る。ふと、電飾に包まれた都会の街が輝いて見えた。その上死点には、欠けたるを知らない月の姿。
街灯と月明かりだけを頼りに駆ける。ただひたすら、駆け続ける。瞳から汗を、体中に涙を纏って。
ようやく見えてきた、小さな駐車場。車は一台すらもない。その脇には、かつてショパンが二人の手を引いて導いてくれた遊歩道があった。エアグルーヴはそこへ踏み入れる。
そこからは、僅かだった。月明りに照らされ、黄金色に揺れ続ける、幾つもの向日葵。そこの遊歩道。砂砂利佇み、ただひたすらにそれらを眺める、一人の黒鹿毛の少女の姿――。
エアグルーヴは、彼女の名を呼んだ。
「――ショパン」