流され続けて、ひとりここまで来た。
月明りに照らされ、黄金色に揺れる向日葵の群生。
そこは、父と母の記憶の場所であり、
太陽を亡くし、俯いた向日葵達の視線は、一人の幼子へと向いていた。
『ああ、来たよ。親不孝者が』今の彼女には、風に揺蕩う葉の唄が、そう聞こえた。
そういえば、ペンダントはどこに遣ったんだっけ。知らない。失くしてしまった。あれだけ大切にしていたペンダントだったのに。
ペンダントの中の母を見て、いつも思った。お母さんに実際逢えたのなら、それはどれ程の幸いなのだろうと。何度か夢にも見たことさえある。だから、母と過ごした時間は、彼女にとって他の何にも代えられない程に、甘い時間だった。
甘い。甘い。脳や感情が溶ける程に甘い。それらは身体に蓄積され、蓄積され。
何時しか猛毒へとすり替わった、
溜め込まれすぎた愛情が、身体を内側から侵した。
しかし、どれだけ自分が苦しもうとも、それが贖いにはならない。彼女の罪は、その存在自体なのだから。
だから、壊せばいい。変えてしまえばいい。呪われた運命を歪曲してしまえば、してしまえば。
全部、ぜーんぶ変わる筈だ。
母が苦しんで死ぬこともない。父が自身に苛まれることだってない。
皆、みーんな幸せになるんだ。
ショパンという存在を、皆が忘れて。皆が幸いに導かれるのだ。
そうだ。今までの時間とは猶予だったんだ。
彼女が幼くして消えてゆくことを哀れんだ女神からの、慈悲の時間だったのだ。
『一生分の幸いを、そこで味わいなさい』と。
そうだったに違いない。
じっさい、幸せだったのだもの。痛いくらいに。哀しいくらいに。そして、その時間は、神様にお返ししなければならないのだ。
ショパンは両手で、CDケースを握る。
『幻想即興曲 オムニバス ショパン』
エアグルーヴが何よりも大切にしている宝物。中には、曲目の書かれたカード。そして、父と母が共に初めて勝利を掴んだあの日の記憶……もう一枚。
地方のトレセンで、ショパンが初めて栄光を掴んだ、あの日の思い出。
『大切なものは、大切なものの中へ仕舞っておく』
それが女帝の心というのなら、この写真は…………。
ショパンはCDケースを閉じた。……酷く葛藤した。でも、やらなければならない。
自分がこの時空を乱し、壊さなくてはならない。これはまだ、第一小節目に過ぎない。だから。だから……。
CDケースを、両手で大きく掲げる――そして、それを地面へと叩きつけた。
バキ、とCDケースが一瞬の悲鳴を上げた。透明のポリスチレンに、一つの大きな傷跡。
もっとだ。もっと、もっとやらなければ。
ショパンの足元には、学園から盗んだ除草剤があった。それを手に、悲しく睨むは、向日葵たち。
ここが父と母の思い出の場所。……だったらそれも、壊してしまおう。
悲しい夜風が、ショパンの心の灯を吹き消すように吹き抜けた。
さぁ、父と母へさようならをしなくては。
除草剤を両手で抱えたとき――彼女の声がようやく届いた。
――――ショパン。と
水平対向4気筒エンジンと、直列4気筒エンジンの音とヘッドライトが、夜の静寂を切り裂くように駆け抜ける。
はやり平坦な市街地では、軽量かつ機動性に勝るバイクが有利か。ならば起伏に富んだコースへと誘えばいい。
秋名は車のセッティングをスポーツモードへと切り替えて、東京の中心街から少し離れた峠道へと踏み込んだ。右に左に、深いRが二台を待ち受ける。秋名はややアンダーステア気味の車両を、ステアリングで強引に捻じ伏せ、センターラインを割りながらもコーナーを抜ける。
対する織戸は、深いRに対し、バンク角度を最小限に抑えたリーンインにて対応する。コーナーを抜ける速度は僅かにバイクが有利か。しかし、市街地の綺麗な舗装路とは大きく異なる路面コンディション。路面のヒビや落ち葉の溜りが、小柄軽量な二輪車に牙を剥く。
二台のエグゾーストノートが絡み合う。二人のドッグファイトは、未だ始まったばかり――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ショパン」
そう、エアグルーヴが声を掛けた時に、黒鹿毛の少女は、少しだけ驚いた顔をした。
「……おかあさん。どうして」
明らかな戸惑いを隠せない。しかし、その戸惑いの中に、ほんの少しの喜びがあったことを、彼女は自覚しない。
「こないで……」
ショパンの口からは、再びエアグルーヴを拒絶する言葉。
それでもエアグルーヴは、一歩をショパンに向かって踏み出す。
「だめ……来ちゃだめ……!」
何故。とエアグルーヴが訊ねるも、ショパンは激しく首を横に振った。
彼女の手には、学園で管理していた除草剤。かなり強力な代物だ。ショパン程度の幼子が扱うには、余りに危険すぎる程に。
「その除草剤で何をするつもりだ……花はそういう風に扱うものではないと、お前には教えたつもりだ」
「でも……でもっ。こうしなきゃいけないの……そうじゃなきゃ……そうじゃなきゃ!」
ショパンの胸が激しく上下する。表情は既に瓦解し、不穏と絶望に満ちていた。体中が凍えるように震えている。
「何があったんだ。お前に。……私は、お前の味方であり続けたい。だから、話してくれ」
「それは……無理だよ……」
ショパンの瞳から、一筋の雫が零れ落ちる。そして彼女は、自分の罪を語った。
「私は……おかあさんを殺してしまったんだから」
「……何」
「死んじゃうの――お母さんは未来で死んじゃうの!!」
途端、風が甲高い音を引き連れて、二人の間を縫うように吹いた。それに踊らされ、二人の鬣と尻尾はただ哀しく靡いた。
風と踊る静寂の中、それでもエアグルーヴは沈黙を貫いた。
ショパンは、震えた唇を開き、自嘲するような引き攣った笑みを浮かべ、言った。
「おかあさん。私ね……未来から来たの。信じてくれなくったっていい……でもね。本当なの」
彼女の瞳から流れた雫は、顔の輪郭をなぞり、地面へと落ちてゆく。続いてそれが、ふたつ、みっつ。やがては、数えきれない程。
「おかあさんは未来で、トレーナーさんと結婚して、一人の子供を産むの……それが、原因で……死んじゃうの……私はその未来を……変えにきたの」
ショパンはその場に除草剤を落とし、緩慢に体を揺らしながら、エアグルーヴの下へと歩み、彼女の両手を握った。
「お願い……おかあさん。トレ―ナーさんと結婚しないで……トレーナーさんのことを好きにならないで。……私を産まないで……お願い……お願い……」
彼女の顔は、涙に満たされた。そして、自らの否定をエアグルーヴへと訴えた。
「ショパン……」
「お願い。お母さん……死なないで……私なんか……産まないで……」
涙を孕んだ顔は、赤く脹れていた。彼女を握る手は、やはり震えていた。――当然、怖いのだ。
この世から自分が消えてゆく。誰の記憶に留まることもなく、ショパンという存在は最初から無かったものとして扱われる。即ち、死と同義なのだ。否、死よりもずっと残酷だ。
だけど、母殺しの罪を背負って生きて行く覚悟もない。幼い彼女の精神が、その葛藤に耐えられる筈もない。
……本当は、目の前に居る母に助けてほしいと叫びたい。この苦しみから救ってほしいと。だけど、それはできない。だって彼女は――酷くて、悪い娘なのだから。
途端。
ふわりと、彼女の体を、優しい何かが包んだ。
それは、どうしても
ショパンは直ぐには気が付かなかった。エアグルーヴが彼女を
「…………………え?」
咄嗟には理解出来なかった。だが、エアグルーヴはただ無言で。
「おかあ……さん……?」
ショパンはただ茫然と、エアグルーヴの抱擁を理解できずに居た。
雲の狭間に現れた月が、女帝の顔を照らす。そこにあったのは――慈しみだった。
「なんで……どうして……」
女帝の愛に戸惑うショパン。そんな彼女を、女帝は囁くように導いた。
「私は未だ、人の母親になったことがない。だから、母親の気持ちというのはわからない。だが、ショパン。お前が、本当に私の子だというのなら、きっとこうする」
とろり、とろり。女帝が囁く甘い吐息。
「私を信じてくれるの……?」
「随分と待たせてすまなかった。どうして気付かなかったのだろう。お前はこんなにも近くに居てくれていたのに」
エアグルーヴの懐は、どうしようも無い程に暖かかった。だから、だからこそ。どうしても哀しかった。
「だめ……おかあさん……。だめ。私なんて産まないで。私は、おかあさんの大事なものをたくさん壊したんだよ。大事にしてた花壇も、CDだって! 私は、お母さんから憎まれなきゃいけないの! お願い……私のこと、嫌いになってよ……」
彼女の声は身体は凍えていた。何度も引き付けのような引っ掛かりを残しながら、母へ訴えた。
私の居ない世界で、幸せになってと――。
「――たわけ。子のことを憎み、嫌う親など、居るものか」
エアグルーヴは、ショパンの頭を抱えて、己の胸元へと引き寄せた。
「私は、お前のように未来など見えない。未来での自分がどうなっているのかさえも未だ知らない。お前は、私の
エアグルーヴは懐から、ペンダントを取り出す。蓋の中には、
「お前の言う通り。未来の私は既に居ないのかもしれない。だが、お前は居るのだろう。ショパン。誇り高き、女帝の血を継いだお前が。……そうだというのなら、私は何一つとして憂わない」
おかあさん。とショパンは再び呟いた。もうその瞳から、涙が止まることはない。決壊したダムのように、このまま体が枯れてしまうのではというほどに。
「お前には教えた筈だ。命とは紡がれるものであると。例えこの命、尽きるその日が来てくれようとも、愛が想いが死ぬことはない。お前が女帝の意志を継ぐ者として、明日を生きてくれるというのなら、この身体、喜んでお前に差し出してやろう」
「おがあざん……どうして……どおして……」
「だってお前は――私の大切な娘なのだから……そう、お前が教えてくれた」
――ショパンは激しく嗚咽を漏らす。まるで生まれたての赤子のよう。残酷な程の母の愛情を、その小さな体で受け止めきれず、飽和する。溢れた愛情が、涙となって滴っていく。
「おかあさん……おがあ……ざん……う……う゛ぅ…ああ……ああ……あああああ……」
大きく口を開けて、顔中を涙色で塗りたくして。大好きな母を抱きしめて。心行くまで泣き叫んだ。
エアグルーヴはただ、月夜に照らされ奏でられる、彼女の夜想曲を、ただひたすら聴き続けていた。
月光に照らされた、ショパンのペンダントが輝く。やがてその光は、二人をやさしい世界へと閉じ込めて――――。
そして、エアグルーヴの懐から、少女の香りが消える。
温もりを失い、空になった腕が、静かに寂寥を呟いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
舗装の整備すらもままならない、国道――酷道。
アスファルトの劣化によるクラックや、ギャップ。それら路面からの入力がサスペンションを伝わり、ステアリングホイールへとキックバックされる。
一瞬だけ前輪が浮く感覚さえも伝わる。それでも見据えるは、ヘッドライトが照らす100m先の不透明な未来。
バックミラーに映る過去は、彼の軌跡を追う単眼のHIDヘッドライト。バンピーなコースはオンロードバイクの不得意分野に違いないだろう。だが、それでも織戸は秋名の後を追う。
エアグルーヴは無事にショパンの下へ着いたのだろうか。その気がかりを残しながら、ヘアピンコーナーに深く切り込む。タイヤから
対向車の存在に後手を取った秋名は、即座にカウンターステアを当て、アウトラインに孕みながらもコーナーを抜ける。だが、車の挙動は一時的に乱れる。そこを織戸は見逃さず、車が空けた隙にバイクの車両を捻じ込み、オーバーテイク。
このまま、再び秋名の車を制止しようと、ブレーキターンへ接続しようとした矢先。彼の前に突如として現れる落石。道路脇に佇むサッカーボール程の大きさのそれが、ヘッドライトに照らされ明るみになった。
瞬間、身体を捩って落石を回避する。しかし、グリップの許容を一時的に超えたリアタイは横滑りを起こす。このままドリフト状態を維持できれば幸いなところだが、タイヤグリップは途中で息を吹き返す。故に起こること、慣性の法則に則った全てのライダーが恐れる現象――ハイサイド。
GSX-750Rの一瞬の咆哮と、カウルがアスファルトに削られる音だけが、闇夜の空へ轟く。織戸はそのまま、アスファルトへと叩きつけられた。
「礼司!」
秋名は車を停めた。そして落車した織戸の下へと駆け寄った。
「ああっ、クソが! いってぇ……」
仰向けで悶える彼の右腕からは、血が滲んでいた。僅かに痙攣しているその腕は、素人目から見ても折れていることが分かった。織戸は左手でヘルメットの顎紐を外し、秋名の補助あってそれを脱いだ。
礼司、と彼の名を呼ぶ秋名へ、織戸は答えた。
「……わかったよ。俺の負けだ。ドーセ、説得しても止まんねぇんだろ、お前は。早く行ってこいよ、ショパンの所へさ」
織戸は這いずるようにガードレールへ凭れると、左手で煙草を咥え、ライターを添える。だが、火は着かなかった。
「どうした。待ってんだろ、アイツが。早く行けよ、ケツ蹴っ飛ばすぞこの野郎」
咥えていた煙草を吐き捨ててそう言った。君は? と秋名が問うと、ショップのオヤジを叩き起こして迎えに来させると言った。だが、携帯は彼の懐にはなかった。周囲を見回してみると、地面に叩きつけられ粉砕した、哀れな鉄くずの姿がそこにあった。
じゃあノジュクだなァ。と彼は笑って言う。だが、少し動くたびに発せられる彼の呻き。身動きが取れない彼を、骨折の痛みが苦しめる。
秋名は、織戸の左腕をとった。そして、彼の肩を担ぐと、車の助手席へと座らせた。
「いいのかよ。さっさと行かなくてさ」
「君を病院に送り届けた後でも遅くはないはずだ」
秋名は運転席へ乗り込み、セルを回す。その場で車を転回させ、走った酷道を引き返す。
「……この間の発言は取り消すわ。やっぱお前、変わってねぇ」
リクライニングを深く倒して、何かに安堵したようにそう言った。
「なぁ、教えてくれよ。ショパンってナニモンなんだ」
「……正直なところ、僕にもよくわからない。だけど、あの娘は放っておいてはいけない娘だと、何処からか声が聞こえるようなんだ」
「どっから?」
「例えば、遠くの未来から……とか」
「そーゆーのって、運命とか赤い糸とかって言うんじゃねーの」
「どうだろう。でも、ひとつだけ言えることがある。あの娘は、きっと他人じゃない。まるで家族と過ごしているかのような安心を、あの娘からは感じるんだ」
スポーツモードを解除する。織戸は左手で勝手にオーディオを弄り、セックス・ピストルズの"God Save The Queen"を再生した。
もう一度シートに凭れ、ふと秋名の横顔を見て、独り言のように言った。
「お前、ヒトの親みてえな目してんな。なぁ、もしホントにショパンがマーティ・マクフライだったらどうする。お前の娘だなんて言い出したら」
「
車は急に路肩で停車する。
織戸は運転席の秋名の顔を覗いた。彼はステアリングに頭を埋めるように、顔中から汗を滴らせ、ひどく狼狽していた。
「おい、どうしたんだよ」
「なぁ……礼司。僕たちは今、何の話をしていたんだっけ……」
「何ってお前……そりゃあ、ショパ……ん…………?」
二人は視線を合わる。秋名の狼狽が、織戸にも伝播するようだった。
そして、秋名は言った。
「ショパン……って、誰……?」