【記憶】まだ見ぬ君への愛の詩
7/24
今日は、久しく休暇が取れたから、妻と出かける計画を立てていた。
『どこへ行きたい?』と僕が訊ねると、妻は『西の丘へ行きたい』と言った。
西の丘といえば、向日葵畑があるところ。僕たちの思い出の場所でもある。
早速、二人で支度にかかった。とはいっても、僕は何時もの襟付きのシャツへ着替えて、あとは精々眼鏡を拭く程度のものだ。
しかし、妻の支度とは何かと時間がかかる。僕は持て余した時間、住宅雑誌を読み漁っていた。
センターカラーを飾っていたのは、今時モダンなリフォームマンション。和洋折衷、広いリビングと畳の和室が同居する空間が温かい。妻やお義母さんも、このような部屋が好みだと言っていた気がする。だが決して安くはない。マクラーレンがコレクションできてしまう値段だ。
次の特集は、激安の穴場アパート。風呂なしのトイレは共用で、築は僕より年上。但し駅近で、家賃は東京にしては目を見張る程の破格。僕も学生の頃はこのくらいのアパートに住んでいた。流石にトイレは共用ではなかったが、貧乏だった昔が懐かしいものだ。
更にページを捲ると、今度は理想の一軒家特集。この雑誌の読者から投稿された家を紹介しているらしい。
今回紹介されていた家は、都内の三階建て。玄関前に4人家族と飼い犬が揃ってピースサイン。こちらのご主人の拘りポイントは、秘密の小部屋と広い庭なのだそう。書斎からのみアクセス可能な屋根裏の小部屋。そこには、ご主人専用のオーディオ・ルームがあるのだそう。小部屋の中央に置かれた、真空管式のアプリファイア。パワーアンプは別体らしい。それでJBL製のパッシヴスピーカーを鳴らす。最近のお気に入りは、スティービー・レイ・ボーンやBBキング。エリック・クラプトンにラリー・カールトンだと書いてある。ウイスキーを嗜みながら、彼らのブルースに陶酔するのだと、ロックグラスにジャック・ダニエルズを注いだご主人の陽気な写真があった。
隠し部屋というのは、いつも少年の心を擽ってくれる。オーディオルームというのも男の憧れだ。ちょうど、妻もクラシック音楽を嗜むウマ娘。同意を得るに難くないのかもしれない。と、ページを捲る。
広い庭には、子供たちの為の簡易遊具が揃っている。この広さを利用して、週末はご近所さんを呼んでバーベキュー。気が向けば、テントを張って自宅キャンプ。テントから顔を出す幼い子供たちの写真が、とても愛らしかった。
『うらやましい』
本心がうっかり心から出てしまう。それを妻は聞き逃さなかった。
『何を読んでいる』
と訊ねてきた来た妻を見た。彼女は白いワンピースに身を包んで、アイシャドウに至るまで隙なく仕上げられていた。思わず、とくりと心臓の鐘が鳴る。
『いやぁ、家だよ、家。この賃貸も何れは手狭になる。もう少し、広い家が欲しくなるだろうと思ってさ』
そういうと、妻は僕の隣に掛けて。
『広ければいいというものでもない……二人が快適に過ごせる空間が担保されていれば、それでいい』
といった。
『二人? 三人の間違いだろう?』
僕は、妻の下腹部に手を添えて言った。だが、妻は。
『いいや、二人だ』
と言った。どういうこと? と僕が訊くと、彼女は、準備が出来たから早く行こうと、らしくもなくはぐらかした。
運転席に僕、助手席に妻。いつものポジションだ。エンジンを掛けた時に、インストゥルメントパネルから、
途中、ディーラーに寄っても? と僕が訊く。妻は顎で了承してくれた。
街中を少し走れば、国内外問わず様々なディーラーショップが並んでいる。
特定のブランドを決めるつもりもなかったので、僕たちは街中の有料パーキングに車を停め、ディーラーが並ぶ通りを歩いた。
今は
『やっぱり、ドイツ車がいいかな。フォルクス・ワーゲン。アウディ。BMW……ベンツは少し高いかもね』
と、ショウウインドウから見える綺麗なセダンの意匠に見とれた。
途端、彼女が僕の袖を引いた。きっと下手なブランドよりも合理性を好む彼女なら、国産車で十分だと言うだろうと思った。だったら、トヨタかホンダかな。もう一度スバルでもいいけど。
だけど彼女は、とあるブランドを指して言った。
『私はあれが好みだ』
彼女の指の先にあったディーラーは、スウェーデン車のボルボだった。少し意外だった、日本では比較的マイナーなブランドであったから。
彼女の腕に引かれるまま、僕たちはボルボのディーラーへと足を運んだ。
エントランスを潜ると、3ナンバーのSUVタイプが真っ先に目に入る。随分と大型だ。それに目を取られていると、スーツ姿のスタッフが声を掛けてくれた。
お探しですか? と訊ねる彼へ、冷やかしだよと僕は言った。それでもスタッフは笑顔で、胸に手を添えていた。きっと僕みたいな冷やかしを、何人もボルボユーザーへと昇華させたのだろう。その自信が垣間見えた。
『でも、どうしてボルボ?』
入念に車を吟味する妻へ、僕は訊いた。そうすると、彼女は、ここのブランドの得意はなんだ。と訊いた。えっと、と詰まる僕の代わりに答えたのは、スタッフだった。
『世界一を誇る安全性でございます。大切なお客様方を、誰一人として不幸にしない』
妻は黙って頷いた。結局その日は、パンフレットとスタッフの名刺だけを貰ってディーラーを後にした。
自分の車まで戻る途中、妻は、軽くて安価な国産車は心配だ。何があっても、
僕は妻の背を追いながら、ボルボのパンフレットに目を落とす。だが本当は、横目でちらりとホンダのCIVIC TypeRを見ていた。
もう少し車を転がし、ICで高速に乗る。ジャンクションから分岐して二つ目のICで降りれば、西の丘とは直ぐだった。
一キロほど、坂を上る。都会の街が少し小さく見える。
駐車場は閑散としている。これほどのスポットだというのに、こんなに知名度が低いのは勿体ないと思いつつも、誰にも邪魔されない穴場としては最適だとも思った。
駐車場の脇から遊歩道へ歩けば、向日葵の群れが顔を出す。太陽の恵みを受けて、健気に咲き誇る彼らは、どうも美しい。そこを僕たちは、手を繋ぎながら綺麗に歩く。
途端、妻が僕の肩をたたく。ここで私の写真を撮ってくれないか。と言った。
僕は少し驚いた。妻が自分から進んで被写体になりたいと言ったのは、今まで連れ添った記憶の中でも殆ど無かったのだから。僕は鞄から、ミラーレス一眼カメラを取りだすと、キャップを外し彼女へレンズを向けた。ISO感度やシャッタースピード、F値を
ファインダー越しに映る彼女は、やはり美しかった。太陽の光を受けて、鹿毛の鬣と尻尾が麗しく靡く。
向日葵畑を背景に、微笑む女帝の姿。このまま写真コンクールに提出すれば、最優秀賞は疑い無しだろう。
だが、一つだけ気になることがあった。こちらを向く、彼女の微笑み。その宛先は、僕ではない、誰かのような気がした。多分、思い過ごしだろうけど。
妙な違和感を無視して、僕はシャッターを押した。
11/8
同僚の礼司に子供が生まれた。
『見に来いよ、子供を抱く練習をさせてやる』
だなんて僕に言うんだ。それでも、親友の子供は一目見ておきたい。そう思った僕は、彼の家へ赴くことにした。
妻の手を取って、結局納車したボルボの助手席へと導く。少しお腹が大きくなってきた彼女。丁寧にエスコートせねばという僕の気遣いを、心配しすぎだと笑った。
彼の賃貸マンション。来客用の駐車場がないというと、礼司は電話口でその辺に路駐しろだなんて言った。僕は少し躊躇ったけど、お腹が大きくなった妻を無駄に長くは歩かせたくはないと、止む無く路駐した。じっさい駐禁エリアでないにしろ、僕の車を避けて通る軽自動車を見て、少し忍びない気がした。
インターホンを鳴らし、出てきた僕たちを出迎えてくれたのは礼司だった。
上がれ上れと上機嫌に言う彼。リビングに上がると、ベビーベッドの中に天使はいた。
まだ0歳の男の子。今度生まれてくる僕たちの子より、少し先輩というわけだ。
少しすると、彼の奥さんが、お茶とお菓子を持ってきてくれた。どうだ、可愛いだろう? と言ってくるファイバトリガーさんの顔は、母親の顔そのものだった。
抱いてみろよ。と礼司が言った。自分の子なのに、ずいぶんと安売りじゃないかと僕が言うと、お前らだから心配してないだけだと礼司は笑う。
僕はそっと赤ちゃんを抱きあげた。すると、急に泣き出すんだ! 慌てた僕に、下手だなお前。貸してみろよと先輩面する礼司。だけど、礼司の腕の中でも、赤ちゃんは泣き止まない。
嘘だろお前!? お前のオヤジだぞ! と赤ちゃん相手にも容赦のない突込みを入れる礼司の姿が、少し可笑しかった。
『とーちゃん! 何やってだよ! ったくもう! 折角寝かしつけたのに』
と、ファイバさんが礼司の腕から赤ちゃんを奪う。そうすると、まるで魔法にかかったように、赤ちゃんはおとなしくなった。母の力とは偉大だと、思い知らされた。
『お前はどうする? エアグルーヴ』
とファイバさんは妻に言った。妻は、少しだけいいか? と赤ちゃんを受け取った。
赤ちゃんは妻の腕の中、不思議と泣かなかった。
1/1
妻と二人で初詣。現役時代だった頃は、あのレースに勝てますようにと願っていたが、今の願いは『安泰』だった。
そのあと、二人でおみくじをひいた。……二人揃って『凶』
縁起でもないと、僕はそれを枝に結んだ。だが、妻はそれを捨てなかった。
理由を訊くと、妻はおみくじの内容を見せてくれた。その、出産のところ。
『子は無事』と書かれていた。
その言葉を、妻は消化しているようだった。
その横顔が、どうしても儚く見えた。……所詮は、おみくじだ。
2/9
仕事へ出ようとした僕を、妻が呼び止めた。
どうしたの、と問いかける僕。妻は、僕の首に手を回して、何かを結んだ。
しゃらん、と細い金属チェーンの音がした。
それは、ペンダントだった。写真が入ったロケット・ペンダント。
中の写真には、あの日僕が向日葵畑で撮影した、妻の姿。
『何時も私のことを忘れてくれるな』
彼女は確かにそういった。このためにわざわざ写真を。自分を思い出させるために。か。そんな彼女に、どうしようもない愛しさを覚えた。堪らず、彼女の唇を奪った。そのまま彼女の胸に手を伸ばそうかとも思ったが、あくまで朝は紳士でなくてはならない。それが女帝の杖としての振舞い。
嗚呼、こんな愛しい妻を置いて仕事など行きたくない。少年のような我儘が、心を支配する。しかし、そこはネクタイという首輪を巻かれた社会人。彼女から唇を外し、もう一度ペンダントを見た。
向日葵畑を背景に、こちらへ優しく微笑む彼女が、憧憬のよう。それは、100万ドルでも安い宝玉にも等しい。
そんな僕に、妻は重ねてこういった。
『大切にしておいてくれ。それはきっと、いつかきっと、私たちの大切な子を守る、お守りにもなる筈だ。その時までずっと、守っていてくれ』
僕にはよく、意味が分からなかった。だが、彼女の瞳はすべてを見通しているかのようだった。
……結婚してから、時折見せる。妻の、少しだけ理解し難い言動。彼女には一体、何が見えているのだろう。そして、それを語るとき、彼女の表情は、少しだけ哀しくなる。
……考えすぎなのかな。
3/2
日に日に、妻のお腹は大きくなっていった。妻のお腹に手を添えると、少しだけ命を感じた。
あまり自由に動けなくなってきた彼女に代わって、僕がメインで家事を行った。
だけど、料理をすれば『野菜はもっと細かく切ること、味も濃すぎる』と言われ、掃除をすれば『細かいところを見逃しすぎだ』と叱責される。
流石に家事師範。その肥えた目は決して甘くはない。さすがに厳しいな、と少し思った。
だが、妻は言った。
『私がいなくても、一通りは熟せるようになっていてほしい』
と。確かに、彼女の外出や出張があったときに、子が居ながら、父が何もできなくては困ると、僕は納得した。
一通り、家事を済ませ、妻の横に座る。彼女は上出来だと僕を褒めた。
二人でベビー用品のカタログを見て、時間を過ごす。ちらりとカレンダーを見る。予定の日も、そう遠くはない。
いよいよ来週から、妻が入院する。そして僕はいよいよ、父親になる。
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4/23に、子が生まれた。そして、妻が死んだ。
未だにこれが、現実だとは思えずにいる。
あの時何があったのかは、よく覚えていない。
だが、妻は産まれてきた娘へ言った。
『また逢えてよかった』
と。
娘の名は『ショパン』に決まった。……妻の遺言だ。
▲/□
娘が帰ってきて、少しだけ日が流れた。
一応、退院はしたけれど、もう少しの間は実家で過ごさせることにした。
今日は、二人で家の掃除をした。これでも僕は、妻の薫陶を受けた身だ。掃除のテクニックは一通り心得ているものと自負していたが、娘のほうが一枚上手。てきぱきと要領よく、身のこなしが軽い。それは妻の動き宛らだった。はたきのアイテムを手に、掃除というダンスを踊る娘に、妻の面影が重なる。
また、こんな日常が、戻ってきてくれるとは思わなかった。
リビング、ダイニングキッチンと掃除して、次に物置を掃除していた時、日記が出てきた。若かりし頃の記憶だ。
懐かしさを覚えてそれに浸っていると、ショパンから叱られた。
だから、掃除を終えて、一人こんな時間にひっそりと読んでいる。
そして、十数年ぶりに、またこうして筆を執っている。
……過去を振り返っていると、やはり思ってしまう。たった一日だけでいいから、もう一度妻と過ごしたいと。
あわよくば、妻と娘と、三人で過ごしたいと。
さすがに、贅沢かな。