今日は、年に一度だけ訪れる、誰かの大切な日。
それは、出会いの日であり、別れの日。
そんな大切な日に、もしも願いが叶うとしたら、あなたは何を望みますか?
カーテンの隙間から射す淡い光芒が、一人の草臥れた男の瞼を苛める。
窓の外では、小鳥たちの織り成す優しい三声コーラス。希望の朝とはよく言うが、早朝の微睡の時間とは、どうしてこうも億劫なのだろうか。
娘はしっかりと自立して、学園へ羽搏いていったというのに、大人である自分がこの体たらくか。
薄く開けた瞼でスマホの電源を入れる。4月23日 日曜日 午前8時20分。
目立ったニュースは特にはない。小さく吐息を吐いて、再び布団へ目を閉じる。
『おい、朝だぞ。何時まで惰眠を貪っているつもりだ』
ふと、聞き馴染んだ女性の声が、彼の鼓膜を突く。少し慌てた彼は布団を蹴り、上体を起こして、声が鳴る方を見る。
そこに居たのは、何時も清く、正しく、麗しい……鹿毛の鬣を靡かせる一人のウマ娘。そして、彼女は――秋名の妻。
「いやぁ、今起きようと思ったところ」
秋名は妻へ誤魔化しを吐く。だが、彼女の瞳に嘘は通用しない。女帝の視線に刺される男、結局はその沈黙に気圧されて、嘘を自白し、御免と挨拶。
『今日は大切な日だ。現を抜かしてないで、早く支度を済ませてくれ』
妻は秋名へそういって、背を向ける。
「……?」
その妻の背中。20年も連れ添った彼女の背中に、一瞬だけ妙な違和感を感じたのは気のせいなのだろうか。
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「君は、いつ帰ってきたんだっけ」
食パンにマーガリンを少しだけ。ドイトン・コーヒーのローストされた香りが、寝起きの鼻を擽る。トランジスター式のオーディオから鳴るのは、フレデリック・ショパン。
『いつ、とは』
彼女は質問を返す。秋名は返された質問に戸惑う。自分でも、何故こんな質問をしたのかがわからないから。
『寝惚けているのか。さっさと食べて顔を洗ってこい』
妻の瞳は笑っている。その話題を引き延ばすつもりはないらしい。それでも、やはりそれでも、随分と久しく妻の顔を見た気がしてならない。……こんな
朝食を終えて、顔を洗う。鏡に映る自分とは、やはり年相応に草臥れている。皺は増えて、白髪も隠せない。
『早く支度を済ませろ。悠長に構えている時間はないぞ』
と、妻が彼の背中に言う。振り返った先にあった、妻の顔。それは、鏡の中の秋名よりも、ずっと若々しく、麗しい。やはり、現役を退いても、女帝。若さを保つ努力を怠っていないといったところか。だが、しかし。それにしては、随分と若すぎる気もした。若さを保っていると言うより、そもそも歳をとっていないといった方が似合う程に。
……今日は何か、感覚がふわふわとしている。それを自覚しながら、歯ブラシを咥えた彼の視線の先には、朝の掃除に余念のない妻の背中。現役時代の華奢さと比べれば、僅かに緩やかになった体の稜線。それは、母親になった者としての体のつくり。それは暖かく、どこか儚い。そして、どうも言語化できない聊かな違和感を孕む。
秋名はふいに、彼女の鹿毛の尻尾を触った。彼女は僅かに驚きつつも、首だけを彼へ向けて、何か付いているか? と微笑む。秋名は、ごめんと一言を飛ばして、慌てて手を放した。
『娘がいないからと、朝から節操がないのは頂けないぞ』
「いやぁ、そういうつもりじゃあ」
『では、どういうつもりだ?』
妻は夫の顔を下から覗き込む。それもどこか、愉し気に。少しだけ目を細めて、彼の不浄な心を読み解こうとするよう。その表情は、麗しくもシニカル。
「……参った」
その視線に忍びない秋名は、根を上げる。
夫の降参に満足を覚えた妻は、彼の頬を指で突くと、娘が待ってるぞ。と言った。
彼女の支度は既に万全だった。白いワンピースに、灰簾石の瞳を修飾するアイシャドウ。そのワンピース、まだ持っていたんだ、と秋名が言う。妻はただ一言、気に入っているから。と答えた。
そして、ようやく身支度を終えた二人は、ボルボ・V60へと乗り込む。秋名が運転席、妻が助手席。いつものポジション……の筈。
『安全運転で頼む。
「え……あ、ああ。そういえば、そんなこともあったっけ」
プッシュスタートで、エンジンを始動。重厚かつ静謐なサウンドは、女帝のバ車として相応しき品格を演出する。
マンションの駐車場から出て、国道に就く。今日は不気味な程に道が空いている。この時間帯、日曜日というのなら、数kmの渋滞も珍しくないというのに。
「今日は街が静かだ」
それらの印象を受けて、秋名はそう零す。妻は彼の隣で、そうか? と据わった声で言う。奇妙なことに、信号にすらも引っ掛からない。
『今日は特別な日なんだ。きっと女神たちが働きかけてくれているのだろう』
「女神……か。君もそういうことを言うんだね」
『たまにはな……ほら、見えてきたぞ』
彼女が指す先――東京競技場。懐かしい場所だと彼女は小声で呟く。秋名にさえも聞こえない程に小さな声で。
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「久しぶりに来たな……ここ」
秋名は周囲を見回す。20年の時を経て、変わったところもあれば、変わらないままのところもある。
競技場への入場ゲート付近に、かつての勇士達を飾った、
若かりし頃の妻の姿。当時は未だ、伴侶という関係には程遠い所に居た。だが、何時しか時は二人を導き、懇意を育ませ、比翼の連理を授けた。……人は後ろ向きに未来へ入ってくと、どこかで聞いた。よく言ったものだと感嘆する。
『もういいだろう』
妻が秋名の袖を引く。振り返れば、少しだけ面映ゆい表情の彼女。幼い日の自分の写真に、妙なこそばゆさを覚えているかのよう。あの娘が待っているから。と彼女は、メモリアルの前に佇む秋名の手を取る。そんな彼女を見たときに、秋名はふと思う。今日の妻の姿、帽子も被らなければ、変装用のサングラスもしない。
仮にでも、あの女帝・エアグルーヴだ。彼女がこの競技場へ来ているというのなら、その場の衆目を集めることは想像に難くないというのに。周りの観客たちは、誰一人として彼女に見向きもしない。……いくら現役を退き、暫くの時間が経っていると言えど、その周囲の無関心さには多少の奇妙さを覚える。周囲の人々には、彼女の姿が見えていないとでも言うつもりなのだろうか。
秋名はその違和感を腹に落とせぬまま、妻に手を引かれ、レースの観戦席へと踵を鳴らした。
――
芝右の1600m 天候は晴れ、バ場も良好。時計の針が、12:45を指そうとしている。
スターティングゲートの前で、時が迫るのを
少女はこちらに気づいたのか、手を振り、駆け寄ってくる。
「来てくれたんだ! お母さん!」
すっかりと晴れた瞳でそう言った。
『たわけ! 集中を失念するんじゃない』
「ごめんなさい! でも、私、頑張ってくるから! きっと!」
『ああ……勝ってこい』
母から娘への、激励。娘は踵を返すと、自分のゲートへと向かった。
「大丈夫かな、あの娘は」
秋名が零す。
『まさか、自分の娘を信用していないとでも言うつもりか?』
「いやぁ……そうだね」
秋名はコースの埒に腕をかけて、競技場の風光を見渡す。穏やかな天気に包まれた
妻と二人、娘の雄姿を見守りに。そのシチュエーションに、妙な既視感を覚える。
「ねぇ、僕たちは、前も一度こうして娘のレースを見に来なかったかい?」
『……そうだったか?』
そう答える彼女の表情は、記憶に悩まされてなどいない。思い出すことを放棄しているというより、秋名の問いをはぐらかしているように思えた。
「何か、覚えがある。前もこうして、僕と君とで、あの娘のレースを見ていた気がする……」
とん、と妻が彼の肩に手を置く。
『今見るべきは、目の前のあの娘のレースだ』
既にスターティングゲートは開かれていた。16人のウマ娘たちの足音が、いくつも重なり観客席へと轟く。娘は先頭集団の中で息を潜めている。
それでも秋名は、目の前のレースに集中できないでいた。何故なのだろう、自分の娘が走っているというのに。どうも今朝から、拭いきれない何かが、彼の第六感を刺激しているよう。見えない違和感に、彼の表情が少し曇る。
だが、隣の妻の表情は、彼とは対照的な太陽だった。
『そうだ! 考えることを忘れるな! そうだ……いいぞ……!』
正真正銘、娘を想う母親としての顔が、そこにはあった。まるで、かつての
途端、妻が秋名の腕を大きく抱く。
『今は、今だけは何もかも忘れよう。何も考えずに、あの娘の帰りを見届けようじゃないか』
瞬間、実況が大きく唸る。レースは終盤。直線の先のゴールラインへ向かって、先頭三人のスリーワイド。二人の
観客席が潮騒のように揺れる。三つ巴の、一騎討。
そして妻は、静かに
『――行け。ショパン』
と言った。
――芝右1600。今日の勝利の女神は、
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「ただいま……」
少しだけ草臥れた男の声が、闇夜の中へと吸い込まれてゆく。その闇夜を照らしてくれるのは、電球色の照明と、妻子の明るい声。
「ただいま!」
娘はその瞳をきらきらと輝かせ、久しぶりの実家に高揚する。靴も揃えずに脱ぎ散らかそうとするものだから、母からお耳をつねりとされ、ヒーンと鳴く。
晴れて未勝利を駆け抜けたショパン。両親はそれを祝ってやろうと、トレーナーへ断りを入れて、実家へ娘を連れ帰った。学園と実家が近い故に成せる業という訳だ。
娘は褒美は何がいいかと訊かれ、お決まりの人参ハンバーグを妻へと強請る。
妻――母は腕を捲り、エプロンを施し、台所に立つ。そこは彼女の戦場だ。そこでの彼女は、孤独の戦士。だが、今日だけはその限りでもないらしい。母の隣に立つ、援護兵の姿。
『お前は疲れているだろうに、休んでていいものを』
「ううん! 私も手伝うの!」
母娘が並んで台所に立つ。二人の背中は、どうしても愛おしい。
……だが、やはり。秋名はその光景にどうも既視感を覚える。どうも似たような光景を、何処かで見ていると、彼の記憶が叫ぶのだ。
そして、薄々気付き始めている。
今朝からどうも見え隠れする、数々の違和感。その根源は、妻なのではないかということを。
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「じゃあ、おやすみ」
『ああ』
そういって、二人は同じベッド。だが、それは
秋名がそう訊いても、私と一緒に寝るのは嫌か? と彼女は笑ってまたはぐらかす。
その時、僅かな風が寝室へ流れ込む。それと共に鳴る、ドアヒンジが僅かに鳴く音。
そこに居たのは、自分の枕を持って、面映ゆい表情をする娘の姿。
「今日だけ……一緒に寝ていい?」
と訊いてくる。
妻は布団を捲って、早く来いと言った。娘は表情を明るく、布団へと潜り込む。
父と母、間に娘。三人は揃って川の字。
そこから、1分も経たないうちに、娘の寝息が聞こえる。
妻は、就寝した娘のお耳を、くにくにと触って顔を綻ばせる。
しかし、その綻んだ表情は、どうも切ない。
『今日という日が、終わらなければいいのに』
妻は小さな声で囁く。秋名にも聞こえない程、小さな声で。
彼女は娘の頭を、自身の胸に抱きよせる。
その時に、ふと気づく。……夫が、妻の顔を、穴が開くほどにじっと見つめていることに。
『どうかしたか?……残念だが、この娘が居る手前、
「……いや」
秋名は一声を置いた後に、言った。
「君は、どうしてそれほど迄に若いんだ……?」
妻はふっと鼻を鳴らして
『世事か。己の伴侶が何時までも若々しいことは、悪いことではなかろう。……あえて言うなら、努力をおこた』
「それにしては、若すぎるんだ」
はっと、彼女の瞳が少し膨らんだ。
「……だって、僕と君とはもう、20年以上の連れ添いがある筈なんだ。……生き物というのは、老いには絶対抗えない。僕がそうであるように、君も
秋名の息は、少しだけ荒い。気付きたくない、何かに気付こうとしている。
『疲れているんだ。……無理をするな。早く休もう』
途端、秋名はエアグルーヴの頬に手を添えた、そして――
「……違う……違う。だって君はもう……
秋名は、己の言葉に恐怖していた。声が激しく揺れていた。
『そうか――気付いていたのか』
彼女は哀しく笑っていた。
「……これは、夢なのか、君は、幻なのか」
『夢と現実の
エアグルーヴは、秋名の手を取って、また微笑む。
『今日は、大切な日だ。だから、少しだけ我儘を言ってみたかったんだ。夫と娘と、三人で過ごしてみたいと。……女神は、優しかったんだ』
エアグルーヴは右手でショパンの頭を、左手で秋名の手を包んだ。
途端、途轍もない程の微睡が、急に秋名を襲う。視界が眩む。彼女の姿が、徐々に見えなくなってくる。それでも指先の感覚だけで、エアグルーヴを求めた。
『今日は楽しかった。例え幻だったとしても、貴方たちと共に過ごせてよかった。……有難う』
「待って……! 行かないで……! お願いだ。君が逝くのなら……僕も連れて行って……」
最早、枯れるような声しか出なかった。それでも見えない目で、エアグルーヴを探し続けた。
『たわけ……。貴方がいなくては、この娘はどうなる。ショパンには、貴方が必要だ。温もりをくれる家族が必要なんだ』
「あ……ああ……あ……」
秋名の顔を覆いつくす、涙の雫。既に目は見えなくとも、涙だけは、零れ続けた。
『私は二人を、何時までも想い続けている。だから、だから』
エアグルーヴの声が次第に遠のいていく、終わる。
『貴方……そして、ショパン。二人とも……』
愛してる
心から
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「……っは!」
自宅のベッドで覚醒する。彼の体は、大量の汗に苛まれている。
激しく呼吸を繰り返す。今、この時間が現実なのか夢なのかを疑う。
20秒の時が流れる。そしてようやくここが、孤独の男の部屋だと知る。妻の姿など、あるはずもない。
すべては……夢だった。
「う……う゛っ……うぅ……あ゛……あぁ……」
苦しい。どうしても、苦しい。もう少し、もう少しだけでいい、もう少しだけ夢を見ていたかった。
夢で流した涙は、現実とリンクしていた。この歳になって尚、涙の止め方がわからない。
「……おとうさん?」
寝室の出入り口から、少女の声がした。そこには、寝間着姿のショパンがいた。
「おとうさん……泣いてるの?」
ショパンが訊いた。
「……ああ。夢を見たんだ」
最早涙を隠しようがない彼は、目元を手で覆って、頷いた。
「お母さんに逢えた夢……?」
秋名は、覆っていた手を外してショパンを見た。……彼女の顔も、涙で濡れていた。その顔で、必死に微笑んでいた。
「私もね……夢を見たの。私のレース、お母さんが見に来てくれたの。それでね、それでね……私、ちゃんと勝てて、お母さんが褒めてくれて。そして、私とお父さんとお母さん、三人で過ごしたの。それでね……おかあさん、私が眠る前に最後、言ってくれたんだ。……私とお父さんのこと、愛してるって」
一つ語る度に、涙がいくつも零れた。大きく揺れ続ける感情に、呼吸も大きく乱される。それでも、語り続けた。
「お母さんね、やっぱりすごく優しかったんだ。そして、とっても暖かかったんだ……」
秋名はベッドを降りると、ショパンを深く抱きしめた。それを皮切りに、ショパンはまた、大声で欷泣した。その激しい涙は、秋名へも伝染する。
ふと、部屋のカレンダーが目に入った。日付は、4月23日。そして秋名は、二人が見た夢の真実に気が付く。その夢は、彼女からの贈り物であったということに。
4月23日。その日は、妻の命日。そして――ショパンの大切な日。
秋名は、必死に涙を押し殺して、言った。
「ショパン……お誕生日、おめでとう」
彼の部屋の隅に佇む純銀の写真立て。その中に居る妻は、何時までも二人へ微笑んでいた。