【完結】女帝の意志を継ぐ者へ   作:マシロタケ

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 たわけ。子のことを憎み、嫌う親など、居るものか



 お前には教えた筈だ。命とは紡がれるものであると。例えこの命、尽きるその日が来てくれようとも、愛が想いが死ぬことはない。



 だってお前は――私の大切な娘なのだから……そう、お前が教えてくれた



 愛してる――心から



 ああ……また(・・)逢えてよかった…



 ―――ショパン



恋慕 ハ長調 作品 BONUS TRACK
Dark bayを追いかけて


 

 ……パン

 

 

 

 ショパン

 

 

 

 ねぇってば

 

 

 

 ねぇ聞いてるの?

 

 

 

 

「ショパンってば!!」

 

「……んえ?」

 

 彼女はようやく己の顎を支える腕の杖を外し、空間を劈き唸る仲間の方へきょとんとした表情を向けた。

 ふと、自分は何を考えていたのだろうか。見上げる空の奥彼方で、愛しく優しく懐かしい誰か(・・)の声が聞こえていた気がする。それは、誰なのだろう……だなんて。気が付けば、いつも心は彼女(・・)の面影に満たされる。

 

 まだ、母に甘えたいという幼い心が抜けきらないのだろうか。そろそろ大人にならなくちゃいけないというのに。自分は一人で歩いて行けると、彼女に誓った筈なのに。

 

 ショパンは左手でペンダントを優しく包むと、一つ暖かい溜息を零し、話を聞いていたのかという友人の問いにこくりと嘘を頷いた。

 

「それでさ、この夏だよ、この夏。この夏をどう過ごすかがカギになるワケよ」

 

「どう過ごすって言ってもねぇ、どうせトレーニングとレースで終わっちゃうんじゃないの」

 

「それじゃあ去年と同じじゃないのさ。アタシらだってもう中等部生なわけよ。ここでどんと大きい変化(・・)ってモンがないとさ」

 

「変化って何よ」

 

「そりゃあアンタ……作るんじゃないの」

 

「作るって?」

 

「ボーイフレンド」

 

 随分と沸き上がる無駄話(ガールズトーク)。今日のトークテーマは夏の過ごし方についてらしい。

 しかし、そこは年頃の少女たちの会話。季節の話になると、そこに付随するのは異性の話。皆が頬を僅かに紅潮させ、心の細波が耳や尻尾に形となって表れる。

 

「ぼ、ボーイフレンドって!」

 

「ここいらで登っとくんじゃないの。大人の階段ってヤツ」

 

「もぅ、コウマったら。ショパンも何か言ってあげてよ」

 

「え、私?」

 

 ただ漫然と、その無駄話をラジオのように消化していたショパン。ふいに振られた話題に、ピンと耳が立つ。

 

「そうだショパン。あんたはどうなの? この夏、カレシとか作るわけ?」

 

「ええっと……」

 

 友人の少し意地悪な笑みに、ショパンもまた少し頬を紅潮させ、口元を淀ませる。この手の話はどうも得意ではない。

 

「私は別に、男の子だなんて。それにまだ中等部生なんだし……」

 

「だぁめだよ! そんなんじゃあ! 若いうちってのはホント一瞬なんだからさ! 命短し恋せよウマ娘って言うでしょ! よぉし決まりだ! 今年の夏は派手な水着でオトコ探しだ!」

 

「もぉ、コウマったら……」

 

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

 

「あの、トレセン学園の入構の手続きって、ここでいいんですか?」

 

 南に上った日が、少しだけ西に傾いた頃合いだった。

 トレセン学園の正門を潜り、東側に佇む本部施設。そこの総務課に訪れた一人の少年が職員に向かってそういった。

 

「ご訪問の方ですか? ご予約等は」

 

「あ、いえ……そういうのはしてないんですけど。あの、正門付近に居た緑色の服を着た職員さんが、ここに行って手続きすれば入れるって」

 

 少年は職員と目を合わせず、半ば言い訳でもするかのような語り口だ。緊張と声変わりによる不安定な声色。相手は両親でもなければ、自身の通う学校の先生でもない。赤の他人であり、本物の社会人だ。

 

 即ち、少なからず少年にも社会性というものが求められる。仲間同士で交わされる砕けた語調や、両親や先生に向けた甘えを含んだような生意気な発言も、当然できるわけがない。

 

 しかし言うまでもなく、少年のその社会性というスキルは乏しいもの。外の世界では、父と母が他人という社会人とコミュニケーションをとってくれるのが常だったのだもの。

 

 金銭のやり取りさえ終えれば済む買い物の話でもない。さてこの先、どう話を進めたらいいんだっけか。どうすれば、目的を果たせるのだろうか。少年は聊かな不安の中、そう思った。

 

「ああ、そういうことですか。でしたらこちらにお名前とご連絡先、後、ご用件のご記入をお願いします」

 

 そういうと、女性職員は一枚の用紙を差し出す。再生紙で作られたそれ。一番上のタイトル部分には『入構許可申請書』と書かれており住所、氏名、年齢などの空欄が用意されている。

 

「あ、あの。俺、ペンとか持ってなくて」少年が少し上ずった声で言う。女性職員は表情を変えず「そちらにあるペンをお使いください」とペン立てを左手で指す。少年はそこからボールペンを借りると、改めてその用紙に向かう。

 

 落ち着いてみれば、かなり単純な書類。だが、少年にとってはたったこれだけでも未知の世界。大人の書類だ。こんなのいつも、母が代わりに書いてくれていた。

 

 ペンを持つ手が少し震える、額には汗もじんわりと。

 大丈夫だ、難しいテストを受けているわけじゃない。とはわかっているのだが。慣れない緊張というのが少年の手に悪戯をする。

 

「ところで、ご用件とは?」

 

 ちょうど、住所を書き終えた時に職員がそう訊いた。少年は少しだけ体を強張らせ、職員の方を見た。別にやましいことなどないのに、何かを問い詰められているような感覚がしたからだ。

 

「あ……。その、父さ……父に届け物を」

 

 そういった少年の足元には、少し膨れた紙袋。デパートのカラフルなロゴが入った、少し大きめのサイズ。その中からは、書類の束が顔を覗かせている。

 

「お父さん?」

 

 職員が少年が書いている書類を覗き込むように見る。書いている途中のものをあまり見られたくないと、少年は腕で書類を隠そうとするが、細やかな抵抗空しく。

 

 少年の氏名欄に『織戸 蒼介(おりと そうすけ)』と記載されているのを、女性職員はみつける。

 

 あ、と彼女が声を出し、赤い淵の眼鏡のブリッジを親指で押す。

 

「もしかして、織戸先生の息子さん?」と少年に訊く。少年は浅く頷く。

 

「ああ、そうだったんだ。ふぅん」と職員は少年の顔をまじまじと見つめる。

 

「あの、これ、書けたんですけど」職員の視線から逃れるように、少年は記入済の書類を突き出した。

 

「ああ、うん。これで大丈夫です。じゃあこのカードを首から提げて見えるようにしてください。終わったら、またここに返しに来てくれればいいから」

 

 と、職員は青いネックストラップを少年に手渡す。そこには『入構許可証』と書かれたカードが入っている。少年がそれを見つめてると。

 

「お父さんのお使いか。大変だけど、偉いね」と朗らかな笑みで職員が言った。

 

 だが、少年にとってみれば、その言葉は少し子ども扱いされているようにも感じて、あまり快いものではない。おれは一人でここに来て、一人で手続きだって済ませたんだぞ。と心の中で粋がってみても、それをアウトプットできないのなら空しいものだ。

 

「じゃあ、ども」

 

 少年は入校許可を手に、逃げるように本館を後にした。

 

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

 

「すげぇ……マジでみんなウマ娘」

 

 学園の構内、そして校舎へと踏み込んだ蒼介が零した小さな感嘆。

 当然といえば当然だ。ここは全国からウマ娘界のエリートたちが集う学校。皆が耳をピンと生やし、尻尾を得意に振りながら、蒼介のすぐ横を通り過ぎる。

 

 人間の女性とは明らかに違う体のつくり。しなやかな身体の稜線と、思わず目を惹かれるような脚線美……。

 ふと、蒼介の視線に気が付いた一人の生徒が、彼へシニカルな瞳で微笑みかける。また、それに気づいた蒼介は、見透かされていることの恥ずかしさと、自分の浅はかさに耐えきれず、足早にその場を去った。

 

 なんだ、なんだ。ウマ娘がなんだってんだ。別に珍しくとも何ともない。街を歩けばその辺にウマ娘なんているし……だいたい、おれの母さんだってウマ娘なんだ。別に珍しくなんてない。そうだ、そうだ。

 

 と、心の中で悪態にも似た言い訳を続ける。それでも急ぐ鼓動は止められない。紅潮した頬は飲酒でもした後のようだ。どうすればこの心のボヤは消えるのだ。悶々としながら、蒼介は総務課から貰った学内地図を頼りに、父の下へと早歩き。

 

 三階に上がったところを、南へ。そうすれば、教官室とトレーナー室がずらりと並ぶ廊下に出る。ここまで来れば、さすがにウマ娘の数は減る。そして、また大人たちの姿が増える。

 

 蒼介は小さく会釈をしながら、室名札を一枚一枚小さく読み上げて、そして『織戸 礼司』の室名札を見つける。

 

 いちおう、父親の部屋といえどノックはすべきかと右手で拳を作って数回叩く。中から反応は何もない。引き戸に手をかけてみる。しかし、扉は開かない。どうやら鍵が仕事をしているらしい。

 

「あれっ!? 嘘だろっ」

 

 押しても引いても駄目らしい。蒼介は引き戸から手を放し、数回頭を掻いた。

 

 目的地が開かずの間。さて、どうしたものか。

 スマホを開いても、父からの返信はない。最後に来たメッセージは『悪い、俺の部屋に来てくれ』の一言だけ。

 

 深い溜息一つ。そして、廊下の窓から外の様子を眺める。

 学園の中を行き交う人々、その殆どはウマ娘。たまにヒトがいたとしても、それは父ではない。

 

 ふと、その窓から花壇が見えた。この学園で管理されているのであろう大きな花壇。

 その中で、ゆらゆらと鮮やかな花々が優しく揺蕩う。花の名前なんて知らないけど、なんとなく、青いながらにも『綺麗だな』という率直な感想が心で漏れた。

 

「……?」

 

 その色鮮やかな花壇の片隅に、とある人影を見つける。

 ……それが人ではなくウマ娘だったのなら、ウマ影と言った方が正しいのだろうか。その影には耳と尻尾が生えている。

 

 彼女は尻尾を薫風に靡かせ、花壇の周りを遊歩している。

 時折屈んで花の様子を観察したり、香りを嗅いでいるらしい。

 

 そのウマ娘の特徴、黒味がかった綺麗な赤褐色のショートヘアー。

 そういえば、ウマ娘の場合は、その髪色に応じた専用の呼び名があると父から聞いた。例えば蒼介の母の場合、明るい赤褐色の髪色が特徴だ。その毛色のことを確か鹿毛と言う。

 あの娘の場合はどうだろう、日の光を受け、赤褐色に輝くその毛色は鹿毛なのだろうか。しかし、鹿毛と言うにはやけに黒味が強い。であれば。

 

「黒鹿毛……」

 

 無意識に口から答えが出た。

 しばらくその黒鹿毛を視線で追っていると、彼女はとある紫色の花の前で再び屈んだ。その時、その娘の横顔が少し見えた。まだあどけなさの残る、おおよそ中学生程のウマ娘。おれとあまり歳は変わらなさそうだなと蒼介は思った。

 

 しかし、彼女の花を我が子のように愛でる柔らかいその表情、まるで母親の顔そのものだ。そしてその表情を、蒼介は知っているような気がした。

 

 昔、遠い昔。思い出せないほどずっと昔に、彼女によく似たような誰かが、自分にそんな風な表情を向けてくれたことがある気がする。彼の母ではない。ほかの……ウマ娘。

 

 それが誰だったのかは思い出せない。だけど確かに、その一瞬の暖かい景色の欠片だけが、彼の記憶の中に留まっている。

 

 気が付けば、蒼介の視線は黒鹿毛の少女の横顔へと吸い込まれるように。

 ふと、黒鹿毛の少女と蒼介の視線が重なる。その時にようやく彼は気づく。自分がそのウマ娘に見惚れてしまっていることに。

 

 どくん。彼女と視線が重なった時に、心臓が鉛のような悲鳴を上げた。

 彼は慌てて視線を解き、窓のない壁へと身を隠す。息を潜めて30秒。再びそっと花壇を覗く。

 花壇に先ほどのウマ娘の姿はない。少しだけ辺りを見渡すと、そのウマ娘は花壇から踵を返し、仲間たちと校舎へと歩いて行く姿が見えた。もうこちらの様子など気にも留めていない。

 

「……なにしてんだろ、俺」

 

 勝手に見惚れて、勝手に狼狽し。ここは父の職場だというのに。自己嫌悪の溜息をもう一度。

 しかしながらも、蒼介の視線はあの娘の背中。一歩一歩を踏みしめる度に揺れる優しい尻尾――。

  

「蒼介!」

 

 突然、廊下に響く野太くも通りのいい男の声。

 ぐっと、首根を掴まれ現実に引き戻されるかのような感覚が蒼介を襲った。

 

「あ……父さん」

 

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

「ったく、悪ぃな。よし。これで俺が午後の授業で処刑される心配も無くなったワケだ。良かったな一家が路頭に迷わなくて済むぞ。母ちゃんも未亡人にならなくて済む」

 

 蒼介から紙の束を受け取ったおおよそ40半ば程の男は、教官室の椅子に深く凭れながらそう言った。

 

「だってよオ、あのイかした織戸先生が今日の分のワークシートを忘れてきたから今日は課題無しだなんて生徒たちの前で言ってもみろよ。大ブーイング、罵詈雑言の嵐からの総スカンだぞ……いや、そうでもねぇのか」

 

 よくもまぁ、一人でよく喋るヒトだよなと蒼介は応対用のソファで菓子を摘まみながらそう思った。

 

「母さんも呆れてたよ。これで何度目だって」

 

「俺だって多忙な身なんだ。忘れモンのひとつやふたつ。それを支えてくれるのが家族のヤクメってもんだろうが」

 

「……たまったモンじゃない。俺、もう帰るよ」

 

 蒼介は手に持った菓子の包装を屑籠に投げ入れ、荷物を持ち、ソファを立った。

 

「……わかった。悪かったよ蒼介。素直に謝るし、荷物を持ってきてくれたことには感謝する。だからさ、その、機嫌直せよ」

 

 蒼介の父、礼司は椅子から降り、部屋を出て行こうとする息子の背に呼びかけた。

 

「別に、俺、怒ってるわけじゃないよ。午後から約束あるからさ」

 

 しかし、蒼介の顔色は未だに明るくはない。父とは頑なに視線を合わそうとしない

 何が怒ってるわけじゃねぇだ。ホントはヘソ曲げて拗ねてるくせによ。と礼司は喉元まで出かかった言葉を飲み込み、蒼介の肩を叩いた。

 

「お前、飯まだだろ。せっかく来たんだ。食ってけよ」

 

 そういって、教官室の戸を蒼介よりも先に開けた。

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

「そういや、何で今日はお前だったんだ。いつもは母ちゃんが持ってきてくれる」

 

「母さんなら、今日は人と会う約束があるからって」

 

「人と会う約束?……まさか不倫だったりしねぇよな」

 

「寮生活してた頃の同室の人だってさ。なんでそういうことしか言わないわけ」

 

「ばか。冗談に決まってんだろ。お前、オヤジの軽口くらい流せるようになんねぇとこの先やってけねーぞ」

 

「付き合ってらんない。やっぱり帰ろうかな」

 

「わかったわかった。もう控えるさ」

 

 礼司は頭を掻きむしって、「めんどくせぇ年頃だな」と小さく呟き、ヘルシー定食の雑穀米を口へ運ぶ。

 蒼介は父の呟きを聞かなかったことにして、ハンバーグ定食の付け合わせを摘まみ、トレセン学園の食堂を見渡した。

 

 既に昼食時間のピークは過ぎたか。そこにいる学生たちの数はまばらで、テーブルに残るのはお喋り族か、昼寝族か、或るいは無限に飯を掻きこむ底なし胃袋か。

 

 もちろん、そこにいる学生たちも皆ウマ娘。皆がそれぞれの鬣を揺らしながら、耳や尻尾をぴんと生やして……。

 

 蒼介は無意識の下、否、はっきりとした期待の中で探してしまう。

 

 さっきの黒鹿毛の娘が、まさかここに居たりしないだろうか……だなんて。

 

「おい、聞いてんのか蒼介」

 

「……聞いてる」

 

 父の声に慌てて視線を戻す。

 

「嘘こいてんじゃねぇぞ。話聞いてねぇヤツってのは大体わかんだ。これでも父ちゃん、"先生"だかんな」

 

 父さんみたいな人でも先生になれるんだという言葉を蒼介は飲み込んだ。

 そして礼司は蒼介が先ほどまで向けていた視線の先を見る。そこには数人のウマ娘たち。おおよそ高等部の娘たち。蒼介よりも幾つか年上の娘たちというわけだ。

 

 その娘たちの特徴……まぁ所謂出るとこ出てて、スカートは短く、そこから覗かせる絶対領域というのが悩ましい。年頃の男子からすれば魅惑的というか扇情的というか、そんな感じ。

 

「ハァ、まぁ、お前には少しシゲキの強い場所だったかもしんねーな」

 

「……何言ってんの。別に、そういうんじゃねぇから」

 

「何、隠すこたねぇさ。お前ももうそういう年だろうが。っていってもまぁ、相手がウマ娘ってのはちょっと勧めねぇがな」

 

「自分だってウマ娘と結婚したくせに?」

 

「だからだよ。人間の女にしといた方がずっとラクだった」

 

「じゃあ何、母さんのこと嫌いなの?」

 

「なわけあるかばか野郎。それとこれとは別のハナシだ」

 

「……よくわかんないや」

 

 蒼介は父から視線を逸らす。この人との会話はいつもこうだ。と父への不満を溜息で語った。

 そんな息子の不満を、礼司は溜息から感じ取る。彼もまた、息子から視線を逸らし、少し頭を掻いた。

 

 気難しい性格で、面倒な年頃だとは知っていたが、やはりどうもやりにくいものだなと礼司は思った。

 しかし、そこは人の親。難しい年頃だからこそ会話を重ねるべきなのだと、礼司は息子への話題を頭で探した。

 

「そういやお前、今日学校はどうした。サボりか?」

 

 おれも昔はよくサボったモンだ。後にそう続けようと思った先。

 

「開校記念日。今朝も言ったろ」

 

 蒼介は父を少し睨むようにして言った。

 

「あ? そうだったっけか」

 

「……父さんは所詮俺の話なんて聞いてないんだ」

 

「あ、いやすまん蒼介。ちょっとど忘れだ。その……」

 

「別に、怒ってないよ。父さんも忙しいんだろ」

 

「……」

 

 蒼介はハンバーグの最後の一切れを口へと運ぶと「俺、もう帰るよ」と父の返答も待たずに荷物を持ち、食器を返却口へと返しに行った。

 

 段々と距離が離れていく息子の背中に、礼司は何も言えなかった。

 

♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥♡♥

 

「っと、どっちなんだっけ」

 

 地図を片手に蒼介はトレセン学園の構内を右往左往。

 この後友人たちとの映画の約束があるというのに、このままでは待ち合わせの時間に遅れてしまう。

 

 しかし、この広すぎる構内は彼をなかなか出口へと導いてはくれない。校舎を抜ければ大きい中庭。中庭を抜ければ練習場、練習場を抜けた先にはまた校舎……。

 

 いつまでもここで油を売るわけにはいかない。蒼介は少し小走り気味で、正門があるであろう方角を目指す。

 

 そして、学園の新校舎を抜けたとき、蒼介はとあるものを見つけ、あっと声を出す。

 それは、この学園を象徴する石像、三女神像。

 彼女たちが抱える甕から滴る甘美な水の囁きが、確かに蒼介の耳にまで届いていた。

 

 しめた。この像があるということは、正門は近いはずだ。蒼介はもう一度地図を確認する。

 記憶に間違いはない。確かにこの三女神の像から、受付をした本館まではそう遠くはない。それをこの地図は示している。

 

 蒼介は安堵の息を吐き、地図を仕舞おうとしたとき、ふと地図の中に記された『花壇』という文字を見つけた。

 

「花壇……」

 

 その花壇がある場所。地図を確認しても、父が居た教官室の廊下から見渡せる場所に位置しているのは確かだ。つまり、その花壇は蒼介が教官室前の廊下から見下ろしていた花壇そのものというわけだ。

 

 ということは、つまり。

 

 

 ――『あの娘』がいた場所だ。

 

 

「……」

 

 沈黙の15秒。そして蒼介は爪先を正門方向でなく、花壇のある方向へと向けて踵を鳴らし始めた。

 

 三女神像を通り過ぎ、おおよそ1分弱。甘く優しい仄かな香りと、色とりどりの花々が蒼介を迎え入れる。

 

 黄色く、赤く、時に青く。鮮やかで、艶やかで、とても麗しく。百花繚乱の中を、蒼介は静かに歩いた。

 

 そして、『あの娘』が居た紫色の花の前へ。周囲を見渡すが、当然あの娘は居ない。

 蒼介もあの娘と同じように、その場で屈んでその花を見た。

 

 紫色の花の名は菫というらしい。どこにでも生えているような多年草だと花に添えられたプレートに記載がある。あの娘はこの花が好きなんだろうか。

 

 蒼介はその花をじっと見つめる。しかし、じっと見つめたところでそれはただの花だ。その花の何を楽しめばいいのか、その花に何を想えばいいのか。花に対する知識を殆ど持ち合わせていない彼にとって、その花の理解というものはとても遠くにあるもののように感じた。

 

 そしてようやく我に返る。自分は一体、何をしているんだろうかと。

 

 あの娘の横顔を追いかけて、わざわざ用もない花壇までやってきたのだ。時間もないというのに。

 

 おれ、本当にどうかしちまってるんじゃないのか。と自嘲気味に嗤い、その花壇から立ち去ろうとしたとき、きらりと菫の花壇から一瞬の光が放たれる。それが、蒼介の目を刺激した。

 

「……?」

 

 花壇に向かって目を凝らす。またきらりと光った。どうもそれは太陽の光を反射しているらしい。

 蒼介は光の根源に向かって手を伸ばす。手の中に硬い感覚が生まれる。

 

 それは、少しくすんだ琥珀色のペンダント。気品があって、優しさすらも感じられる装飾品だ。

 しかし、チェーンが壊れてしまっている。

 

 誰かの落とし物なのだろうか。本館の受付の人に渡しておくべきだろうと、蒼介は花壇から踵を返し、本館へ向かう途中、花壇を抜けたくらいの場所で少女たちの声が聞こえた。おそらくここの生徒たちの声だろう。だがその声、少し焦燥に駆られているようだった。

 

「食堂のおばさんも見てないってさ」

 

「事務にもそんな落し物は届いてないって」

 

「そんな……」

 

「ねぇ、今日は着け忘れてきたとかじゃないの? そのペンダント(・・・・・)

 

「ううん、そんなはずない! 今朝もちゃんと着けてきてたの……」

 

 おおよそ4、5人ほどのウマ娘たち。そのうちの一人は、胸元を抑えて項垂れている。

 

 その項垂れている少女の特徴…………黒鹿毛のウマ娘。

 

「えっ」と蒼介は一瞬声を出した。その黒鹿毛、間違いない。あの時花壇で見た、あのウマ娘。

 

 そして、彼女たちの言うペンダントとは。蒼介はそっと右手に握ったままのペンダントを見た。

 

「どうしよう……なくしちゃったんだ……どうしよう……」

 

 黒鹿毛の少女の声が震えていく。

 

「落ち着きなショパン。もう一回、今日行ったところを思い出してさ」

 

「でもさぁ、もうそろそろ休み時間も終わっちゃうよ。次確か移動教室だしさ、あんまり探してる時間ないんじゃないの? いいトコで切り上げて行かないとさ」

 

「アンタねぇ、ショパンがこんなに困ってんのにさ、ハクジョーってモンだよそれじゃ」

 

「えーマジ? でもアタシ遅刻で叱られんのヤだよぉ」

 

「ううん……あとは自分で探すから。皆は先に行ってて。私も時間までには戻ってくるから」

 

 黒鹿毛の少女は物憂げな表情で、仲間たちへ「ごめんね。有難う」と残し踵を返す。

 しかし、彼女が振り返ったその先、少女の視界に見知らぬ男の子が現れた。彼は茫然と立ち尽くし、こちらをじっと見つめている。

 

「あの男の子誰?」と仲間の一人の娘が言った。そして皆、首を横に振って「知らない」という。

 

 その男の子の視線は黒鹿毛の少女に一直線。少女は戸惑いながらも、頷くようにそっと会釈をした。

 

「ね……ねぇあの……」

 

 先に言葉を発したのは少年の方だった。右手をおもむろに差し出し、はっきりしないような声でつづけた。

 

「ペンダントって……これ?」

 

 少年の右手の中で輝く物体。僅かに褪せた琥珀色のペンダント。

 

 それを見たとき、黒鹿毛の少女の瞳は丸くなり、少年の手に飛びついた。

 

「ああっ! ペンダントっ!」

 

 少女は少年の右手を両手で支えるように握る。そこにあるペンダント。間違いなく彼女のものらしい。

 

「これ、私のなんです! 有難う! ああ、よかった……」

 

 少女の瞳がじんわりと滲むのが見えた。蒼介は何か見てはいけないものを見たような気がして、思わず視線を少女から逸らせた。

 

「どこにあったんですか?」と少女が訊ねる。「あの、花壇の菫……だっけ。あのところ」と蒼介は答えた。自分でも少し、声の通りが悪いなと思った。

 

「有難う。本当に有難う。これ、私のとっても大切なものなんです」

 

 ペンダントは再び少女の手に。返ってきた宝物を慈しむ少女の顔、それはやはり、どこかで見たことがあるかのような顔だった。

 

 その顔に、また蒼介は意識を吸い込まれる感覚に陥る……。

 

「ショパン! もう授業始まっちゃうよ!」

 

 仲間からの呼びかけに少女は慌てて踵を返す。

 

「ごめんなさい! きっとお礼はするから! 本当に有難う!」

 

 夏風に押されるように、黒鹿毛の少女は綺麗な鬣と尻尾を靡かせて、仲間たちと共に校舎へと去っていった。

 

 その後ろ姿を、蒼介は恍惚と見えなくなるまで視線で追っていた。

 

 

 

 

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