「出逢いは風の中、恋に落ちたあの日から、気づかぬうちに心はあなたを求めてた……」
大量の書類を両手で抱え、踵からミディアムスローな全拍子を弾くは青鹿毛の
今日も平穏に流れていく暖かい日常へ微笑みを手向けながら、お気に入りの懐かしいポップスを口遊む。
幼い生徒たちから挨拶を貰えば、その場で立ち止まり挨拶を返す。
今日も幼子たちはそれぞれのドラマを抱え、すくすくと育っている。それを肌で感じられるこの瞬間こそが、彼女にとっての小さな歓び。
その娘たちの背中を見送り、
再び懐メロを口遊み、丁度その曲が転調したときに、彼女はようやく辿り着く。『生徒会室』そう室名札に書かれた部屋へと。
ここに籍を置いてどれくらいの時間が経ったのだろうか。室名札を見たときにふとそう思った。
生徒会長としての肩書を拝命し、慌ただしい日々を駆け抜けていく中で、何時しかここは彼女の帰るべき場所となっていった。だがしかし、ここも何れは、次の世代の生徒会たちの帰るべき場所となるのだ。
……言い換えてしまえば、何れは彼女もここを去る日が来るということだ。
それを考えてしまった瞬間、彼女の心から情緒的な思いが滲む。
それは自らも歴史の歯車となり、次の世代を迎えられることへの歓びなのかもしれないし、ここで過ごした愛おしき日々を手放さなければならないという寂寥なのかもしれない。
そんな困った感情を誤魔化すように、彼女は両腕いっぱいの荷物を片腕に預け、ドアノブを握る。
ふと、扉の向こう側で誰かの話声が聞こえる。副会長たちなのだろうか。彼女はそのままノブを回し、生徒会室へと足を踏み入れた。
「ただいま戻りました」
部屋の中の応対用のソファには、白毛の副会長"ロータス"が居た。彼女はメルセデスの声を聞いたときに「おかえりなさいです、会長」といつもの気だるい声で言った。彼女の手には何やら光る物体。アクセサリか何かなのだろうか。彼女はそれと睨めっこ。
そして、そのそのソファ向かい側の席には、ちょこんと座する黒鹿毛の姿。
その影を見たメルセデスは、目をぱちりと見開いて、小さく歓喜した。
「おや、ショパン。いらっしゃっていたのですね。こんにちは」
「あ、会長さん。その、お、おかえりなさい……です」
少しだけ頬を照らしたショパンがそういった。
「うふふ、ただいまです。ショパン」
メルセデスはにこりと微笑んで、両腕で抱えていた荷物を生徒会長席に置き、二人の下へ。「二人は何をしているのですか?」と後ろ手を組んで問いかけた。
そうすると、ロータスが右手を開いて手の中にある光る物体をメルセデスへ見せた。
「ああ、ペンダントですか。また、壊れてしまったのですか?」
ショパンは少し申し訳なさそうに頷いた。彼女がここに訪れる理由は大体それなのだ。
「直りそうですか?」とメルセデスはロータスに訊ねる。
「……厄介ですね。前の時みたいに丸カンが外れただけならペンチで修理はできるんですけど、今回はチェーンそのものが切れてますからね。多分、金属劣化で切れたんだと思います。古いものですし」
「直らないですか……?」
そう訊いたのはショパン。不安に彷徨う声をロータスへ。
ロータスは腕を組んで、いつもの気怠く無表情な顔を少し顰める。
「うーん……。溶接でもすりゃ直らなくはないけど、そうやって無理やり直してもチェーンとしての強度は落ちるからさ。どうせなら交換した方がいいよ。大切なお母さんの形見、守りたいんならさ。今回はその
ショパンは少しだけ俯いて小さな溜息を一つ。
このペンダントは大切なものなのだ。それは中の写真だけではない。ペンダントの本体から、チェーンに至るまで、何から何まで大切なものなのだ。
それの一部を変えろと言われるのは、やはり少し心苦しいものがある。ショパンは机に置かれたペンダントをじっと見つめた。
「仕方がありませんよショパン。形あるもの、何時かは崩れる時が来るものです。名残り惜しい気持ちも十分に察しますが、ここはロータスの言う通り、大切なペンダントを守るためにチェーンを新調することも決して悪いことではありません」
「でも、私、ほかにチェーンだなんて持ってませんし……」
「クライスラーから貰えば? あいついっぱいシルバーアクセ持ってるし、チェーンの一つ二つくらいワケないでしょ」
「……そうですか?」
「私からもクライスラーにお願いしてみますよ。不要なチェーンがもしあればと」
メルセデスはショパンへにこりと微笑みかけた。生徒会長の微笑みに、彼女の心も少し解れる。
しかし、メルセデスの微笑み。その奥には、何かが潜んでいるような気がした。
「……それで?」
おもむろにメルセデスが訊いた。
「それで……?」
ショパンはメルセデスの言葉の意味を飲み込めず、鸚鵡返し。
メルセデスは、こほんと一つ咳払いを交えて、微笑みというには少し蕩け過ぎた表情をショパンへ向けていた。
「その……ロータスの言う
メルセデスが訊いた。
「へぇ?」とショパンは呆気にとられた表情を。ロータスは掌で目元を覆って「まずった」と呟く。
気が付けば、メルセデスはロータスの横へしっかりと腰を据えていた。その
「ええっと、あの、その」
しどろもどろながら、ショパンはペンダントを紛失したこと、見知らぬ男の子がそれを見つけてくれたことをメルセデスへ話した。
「へぇ。……へぇ~~。左様でしたかぁ……。そうですか……そうですかぁ……」
メルセデスは頬に手を当て、とろりと蕩けた締まりのない表情を。それはまるで美味しいスイーツを舌鼓したかのよう。
そんな生徒会長の顔ばせに、ショパンはどう反応してよいのやらと戸惑う。
「ありませんからね、会長。ペンダントから始まる恋物語なんて」
ロータスは呆れたように深くソファに凭れ、腕と肢を組んで言った。
「そう決めつけるのは早計というものですよロータス。この出会いに満ち溢れた世の中、何がきっかけになるというのは誰にも分らないものなのです。一目惚れもあれば、互いを理解し合う過程に生まれる心だってある。大きな事件から育まれる愛情もあれば、小さなペンダントから産まれる恋心だってきっと……全ては女神様の思し召しなのです。そして彼女らの細やかな祈りは、偶然という魔法となって当事者たちを一つの糸で結ぶのです」
「こ……恋?……糸?」
蕩けた生徒会長の口から弾かれる
「いいよほっといて。いつものことだからさ」
ロータスは雑誌を膝に置き、小指で耳の先端を搔きながら言った。対するメルセデスは胸の前で両手を組み合わせ、瞳を閉じて続けた。
「いいえ、大切な我が生徒の春の気配をなおざりにはできません。よろしいですかショパン。次にその男の子とお逢いする機会があった時には、抱える心に耳を澄ませ……」
メルセデスがそこまで言ったときだった。
「あ……」とショパンは少し張ったような声を出した。
彼女の瞳は少し丸い。その表情からは何かを誤った後のような狼狽が読み取れた。
「……如何なさいました? ショパン」とメルセデスは閉じていた瞳を開き、ショパンへ訊いた。
「あ、あの、いえ。その私、その男の子にお礼するって言っちゃったんですけど、その、名前聞くのわすれちゃって」
「別に、その男の子、きっと部外者でしょ。だったら本館で受付してるんじゃないの。その名簿とか見せてもらえば」
「それはできませんよロータス。来訪された方々の詳細は個人情報の類として保護されることになっておりますから。一般の学生がそう気軽に調べられる情報ではありません」
「会長でもダメなんですか?」
「うーん……むつかしいことを訊きますね。何かしら正当な理由さえあれば事務職員立ち合いの下可能ではありますが、個人情報を閲覧できるほどの事由となるとそれこそ、誰かの失踪であるとか、大きい事件に巻き込まれてしまっているとか、それ程の話になってしまいます。虚偽の申告をするわけにもいきませんし……」
「そうですか……」
ショパンは深くソファに沈み込むように項垂れた。
「でもさ、見つけてもらった時にお礼は言ったんでしょ? だったらさ、そこまで気に病むこともないよ。その男の子だって、高々落とし物拾った程度、本気でお礼を期待してるわけじゃないだろうしさ」
とロータスが声を掛けようとも、ショパンの表情は今一つ浮かない。
こりゃまいったな、とロータスがまた耳を掻いたとき。
「心配は無用です。その男の子とはきっとまた逢えますよ」
とメルセデスは諭すように言った。
「人とは不思議なもので、逢いたいと思い続ければいつかは再会を果たせるものなのです。いいですか、想い続けることが大切なのですよ」
再びメルセデスは瞳を閉じて胸の前で手を組んだ。
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「なー、ぶっちゃけどうだったよ」
「まぁ、ちょっと王道系かなとは思ったけど、俺的には全然アリ」
「いや、俺もナシとは言わねぇけどさ、やっぱ出来すぎなんじゃねぇのとは思っちまうよ。短距離から中距離の世界に移って、そんで秋天取っちまう映画なんてよ」
「え、でもあれ、実話ベースの話なんじゃねぇんだっけ」
「は、嘘だろ! いねぇだろそんなやつ! なぁ、蒼介!」
「……え?」
友人の声に、蒼介は現実に引き戻される。
どうやらもう、映画は終わって劇場からは去った後らしい。
そして今、彼の目の前にはハンバーガーとポテトのセット。道理で油っぽい臭いがしていたわけだと蒼介は思う。しかしそれらはどれも手付かずのまま。
「なんだお前、食わねぇんだったらポテトもらうぜ」
と伸びてきた友人の手を払いのけ、蒼介はポテトを口にした。
そうか、おれは友人たちと映画を見ていたのか。とその時にじわりと記憶が蘇る。
しかし、それはどんな映画だったのだろう。ウマ娘が活躍する映画だってのは覚えてはいるが、どんなシナリオでどんなラストだったのかはよく覚えていない。
ただ覚えていたのは、そう、主役のウマ娘が、妙に"あの娘"に似ているなと思ったことだ。
そこからは、不思議と記憶がない。頭の中が何かで満たされるような感覚がずっと続いて、気が付いたらこのファストフード店にいたというだけだ。
「で、蒼介的にはどうだったんだよあの映画」
友人の一人が彼に訊ねた。
「別に、いいんじゃねぇの」
「いいんじゃねぇのって、どの辺がよかったとかねぇのかよ」
「無理だよ。こいつ、主役のウマ娘に鼻の下伸ばして夢中になってただけだからよ。映画なんてわかりっこねぇよ」
「はぁ?……なワケねぇだろ」
友人からの揶揄いを無視して再びポテトをとる。
だがしかし、友人の言うことが丸っきり間違いでもないというのが少し悔しかった。
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「ただいま」
少年のその声が玄関に響いたのは、おおよそ19時に差し掛かる頃。
映画を見終わった後にファストフード店へ寄り、そこからゲームセンターだの、カラオケだのを回れば時間とは瞬く間に蒸発するもの。
玄関の二重ロックを内側から掛けて、靴を脱ぎ揃えて、玄関からリビングへと通じる室内ドアを開ける。そしてもう一度「ただいま」と今度は少し小さな声で言う。
「ああ、お帰り蒼介。悪かったな。父ちゃんのお使い行ってもらってさ」
そう、鹿毛の鬣を揺らして蒼介の帰りを出迎えたのは、彼の母。
淡いチェック柄のエプロンに身を包み、濡れた手をタオルで拭きながら、蒼介ににこりと微笑んだ。
「別に、大したことない」
「そっか。晩御飯、もう食べるか?」
「いや……まだ後ででいいや。ちょっと食べてきちゃったから」
食卓に目を向けると、未だ幼い二人のウマ娘の姿があった。鹿毛と黒鹿毛の二人は目の前のシチューに夢中。
「ほらファイト、ボス。お兄ちゃんが帰ってきたぞ」と妹たちに母が声を掛ける。しかし蒼介は「いいよ、んなこと」と少し気恥ずかしそうに、リビングを後にする。
階段を上がり、廊下の少し奥にあるおおよそ6畳程の部屋。それが蒼介の部屋。
特にこれといったものはない。あるのはベッドと机と、流行りのメジャーバンドのポスターと、父から貰った古いエレキギター。あとは空気の抜けたサッカーボール程度か。
蒼介は荷物を床に投げ捨てると、そのままベッドへ倒れこみ、天を仰ぐ。
今日は流石に疲れたなと思った。
思い返せば今日一日、色んなことがあった。初めて父の職場に行ったこととか、友人たちと映画に行って、その後も遊びまわったこととか……"あの娘"に出会ったこととか。
……"あの娘"。それは、黒鹿毛の、片目が隠れるようなショートヘアの少女。蒼介とあまり歳の変わらないくらいの、瞳の綺麗な……ウマ娘。
ああ、まただ。また、あの娘の無垢な横顔が、慈しみの微笑みが、頭の中を満たしていく。
ずっと、ずっと。この感覚が続いている。映画にも集中できないほど、友人たちから上の空だと言われてしまうほど。ずっと、ずっと。
蒼介は右手を天井へ差し出す。
あの娘が握ってくれた手の感覚が、未だ鮮明に蘇るようだ。
それはとても柔らかくて、どうしようもない程に暖かくて……。
次第に右手が震えていく。妙に呼吸が浅いのはどうしてだろう。
そしてベッドから起き上がることができない、重い何かが伸し掛かっているようだ。
どん、どん。と体の中で暴れてるのは心臓なのか。体を振動させるほどのベロシティは脳をも揺らす。
おれは一体どうしたんだろう。おれの身体はどうなっちまったんだろう。
この世に生を受けて十余年。今までこんなことは一度たりともなかったはずだ。
これは、呪いなんだろうか。あの娘がおれにかけた呪いなんだろうか。
体のすべてが絆されるようだ。こんな感覚、おれはしらないよ。
あの娘の名前は何と言ったっけ。確か周りの娘たちはこう呼んでた。
「……ショパン」
その言葉を口に出した時に、ふわりと身体が浮くような、魂を吸い取られるような感覚に陥る。
このまま気を失ってしまいそうだ。あの娘の呪いに、おれは倒れるんだ。
自分の部屋の、自分のベッドの上で蒼介は溺れる。あの娘の横顔に、微笑みに溺れていく。
意識が少しずつ遠のいていく。小さな糸が彼の正気をようやく保っている。一階のリビングから聞こえてくる家族の声は、今の彼からは遠い場所にあるようだ。
そして蒼介は堕ちていく。底のない深い闇夜へと。堕ちるところまで堕ちていく。その刹那にも、あの娘の影が脳裏に映った。
あの娘とは、もう一度どこかで逢えるのだろうか。蒼介が最後に考えたことはそれだった。
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「はぁ!?……ったく、だからちゃんと準備してから仕事に行けってあれほど言ったのに……で、どこに置いてんだよ……」
蒼介があの娘に出会って1週間が過ぎた頃の朝。雀の囀りの代わりに聞こえてきたのは、蒼介の母の嘶き。
スマホのマイクに向かって、端末の向こう側にいるだらしのない旦那へと吠えている。織戸家では珍しくもない光景だと蒼介はコップの牛乳を飲み干して、パンの残りカスが溜まった皿を流しへと持って行く。
「えー……今日の日付のついたレジュメって、12-5ぉ? ねぇよそんなもん……、ん、なんだこれ。はぁ!? オマエっ、なんだよこの本は!!」
父の部屋で探し物をしている母。どうやら見つかってはいけないものが見つかったらしい。それが何かとはおおよそ想像がつく。きっと母を怒らせるような雑誌に違いない。
これでよく十何年も夫婦をやっていられるもんだな、と蒼介は制服に身を包んで学校指定の鞄を持ち、「おにーちゃ、がっこう?」と訊いてくる妹たちの頭を少しなでて「行ってくるよ」と返す。
「ああ、蒼介もう行くのか? 気を付けて行って来いよ」と通話を終えた母の手には、先週と同じくらいのボリュームのある紙の束。
それを見た蒼介は足を止めた。
「母さん、それ」
「え? ああ。ばか父ちゃんの忘れ物だよ。まったく、先週も蒼介に届けさせたばっかなのにさ、また届けてくれだってさ。ったく、何回同じことさせりゃあ気が済むんだか」
苦労している母の愚痴。しかし、それは蒼介には届かない。
「ねぇ、それ、また父さんに届けるの?」
「ああ、まぁね。でもまぁ、これはいいからさ。蒼介は早く学校にいきなよ」
父の職場へ届け物。それは先ほど母も言った通り、先週もあった出来事。
そこで蒼介は出会った。あの黒鹿毛の少女と。
……だとすれば、また逢えるということなのだろうか。もう一度父の職場へと行けば、あの娘とまた、逢えるのだろうか。
「……蒼介?」
硬直し、動かない息子へ母は訊ねる。そうすると、おもむろに蒼介は言った。
「ねぇ、母さん。それ、俺が届けてくるよ」
「は? でもお前、学校が……」
母がそれを言い終わる前だった。蒼介は母の手から父の書類を奪うと、そのまま自宅を出て駆け出して行った。
「あ、おい! ちょ、蒼介!」
これでも元GⅠウマ娘の血を引く息子。人間にしては妙に足は速いほうらしい。
気が付いた頃には、母の耳から息子の足音はフェードアウトしていた。
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「……母ちゃんから電話で聞いてはいたけどよ、なんでお前が来るんだ?」
蒼介の父、礼司は紙の束が入った袋を引っ提げて、激しく息を切らし、汗が滲んだ制服姿の息子を見た。
「べつに、なんだっていいだろ。忘れる父さんが悪い」
蒼介は少し乱暴に、父へ袋を突き出す。
しかし、礼司はただそのまま、息子の顔をじっと見つめていた。
「受け取らねぇよ。なんで学校をフケてまでお前が来たんだ。俺の質問に答えろ」
「……学校なんてサボっちまってもいいっていつも言ってるのは父さんのほうだろ」
「はは、ちがいねぇ。だけど、問題はそこじゃねぇ。お前がそうまでしてここに来た理由だ。母ちゃんだって手は空いてたんだろ。先週はあんだけ拗ねてたお前が、どういう腹積もりなんだ。気味が悪くて受け取れねぇや」
「何か疑ってんのかよ、俺のこと」
「疑いたくはねぇがな」
礼司は椅子に深く掛けると、ふっと鼻で笑った。
蒼介には答える手札がなかった。言えるもんか、また、あの娘に会うためだなんて。
「……答えたくない」
父に対する反抗と、本心と慣れない嘘と、悪者になり切れない良心。精一杯の回答がそれだった。
「何故だ」
「……ひっぱたいてもいいよ」
二人の沈黙が約20秒。それは途方もなく長い時間のように感じた。
そしてようやく、礼司は蒼介の紙の束を受け取った。
「わかった。聞かないでやるよ。ただしまぁ、なんだ。できるだけ学校は行け」
「……ありがとう。父さん」
蒼介はそのまま父の教官室を飛び出す。そして、正面の廊下の窓を見た。
花壇には人……否、ウマ娘が鈴なりになっている。
彼女らは如雨露やスコップを手に、花壇の手入れ中らしい。
ようく目を凝らす。すると花壇の、紫色の花のあるところに
――あの娘がいた。
彼女もスコップを片手に、活動へ参加しているらしい。
彼女の、花を慈しむその横顔、忘れるわけがない。
蒼介はすぐにその場から駆け出した。
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三女神像の横を通り過ぎ、色とりどりの花々達の花道を蒼介は小走りで駆け抜けていく。
そしてトレセン学園の花壇まで辿り着く。そこそこにウマ娘はいる。結構な人数でこの花壇を管理しているらしい。
そこで右に左に首を振る。どこだ、あの娘は。あの娘はどこだ。
彼の存在に気づいた数人のウマ娘は、見知らぬ男の子を訝しむ。
しかし、例え不審に思われても構わなかった。父に殴られる覚悟でここへ来たのだもの……。
「ねぇ、そこの君。何してるの。君、誰?」
とん、と彼の背中を叩く女性の声。
その声のする方を見ると、そこには白毛のウマ娘がいた。左腕に副会長と美化委員長のふたつの腕章。彼女は蒼介を訝しむように腕を組んでいた。
当然といえば当然だ。ここは、ウマ娘たちが通う日本有数の教育施設。人間の、ましてや他校の制服に身を包んだ男子がいるなど、通常ではあり得ない話なのだ。
「いえ……あの」
気怠そうな表情からでも感じ取れる訝しみに、蒼介はたじろぐ。
しかし彼女は蒼介の入構許可証と書かれた首提げを見ると「ああ、もしかして迷ったってクチ? 正門はこっちじゃないよ。あれだったら案内しようか?」
しかし蒼介は羞恥心など投げ捨て、持てるすべてを捧げて白毛のウマ娘に訊いた。
「あの、その、ショパンって娘……ここにいますか」
蒼介は自分がどうしようもない程にばかだと自覚した。けれども、けれども。
「ショパン……」
おおよそ中学生くらいの男の子。そして、彼が言うショパンの名。
彼女は何かに気が付いたように、あっと一瞬声を出す。蒼介に何か声を掛けようとしたが、それを止めて花壇へ振り返り「ショパン!」ととある少女の名を呼んだ。
彼女の声に気がついた黒鹿毛の少女。彼女はその鬣と尻尾を揺らし、小走りで白毛の先輩の元へ。
「ロータス先輩、どうかしました……」
黒鹿毛の少女は息を止める。だってそこにいた男の子は、忘れない。忘れるはずがない。
蒼介もまた、息を止めた。また、逢うことができた黒鹿毛の少女。琥珀色のペンダントのチェーンがシルバーカラーになっていることに気が付いた
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「そうだったんだ。お父さんに届け物で」
「まぁ、うん、そう」
二人は花壇の近くのベンチに並んで座ると、互いに顔を見合わせることなく、正面を向いたまま喋っていた。
「ごめんなさい。私、お礼するなんて言っちゃったんですけど、何も用意できてなくて。お花の飾りとかだったらすぐ作れるけど、きっといらないですよね。男の子なんだし」
「別に、気にしなくていいよ。落とし物届けたくらい」
互いにぎこちのない時間が続いていく。
周りのウマ娘たちは口元を隠すようにしてショパンと知らない男の子の噂話。あることないこと、なんでもござれ。
「でも、どうして私を訪ねてくれたんですか」
とショパンが訊いた。
「え、何でって……」
答えなんてあるはずもない。だって、君を追いかけてきただなんて本人の前で言えるはずもない。
「いや、父さんの部屋から君が見えたから。その、ペンダント大丈夫かなって思ってさ」
そうすると、ショパンはペンダントの意匠を蒼介に見せて「お陰様で」と微笑んだ。
「そう、なら……よかった」
わからない。ここからどうすればいいのかわからない
あの娘に逢いたい一心で、学校までサボってここへ来たのだ。だが、いざ逢ってみるとどうだろう。そこから続けるストーリーが見つからない。
何を言えばいい、どうすればいい。おれはこの娘を、どうしたいんだ。
言葉に詰まる蒼介、こんな時、気の強い母ならどうするのだろう。饒舌な父ならどうするだのろう。そう思った。
「ごめんなさい。もう授業始まっちゃうから。織戸君だよね。もう覚えたから、次はきっと、何かお礼が出来るように」
そう言ってショパンがベンチを立つ。そして蒼介にひらひらと手を振ると、そのまま彼に背を向けて学園へと歩いていく。
あの娘の背中が離れていく。また、あの娘を見失う。
本当にまた、次があるのか……。そう思ってしまった瞬間。
「――待って!」
それは、考えるよりも先に口に出た言葉だった。
蒼介の言葉に背中を掴まれたショパンは、慌てて振り返り、きょとんとした表情を彼に向けた。
そこから奇妙な沈黙。呼び止められたのに、目の前の男の子は何も言わない。
だって言えるはずがない。その先を何も考えていなかったのだもの。
「あの、織戸君……?」
ショパンが蒼介に声を掛ける。
蒼介はまた、考えるよりも先に口を動かした。
「ねぇ、君。あの映画、見た?」
「映画?」
「そう、今やってるやつ。あの
ショパンはふるふると首を横に振った。
「その映画さ、その、主演の娘がさ、君にそっくりなんだよ。ホントだぜ、本当に君そっくりなんだ、だからさ……」
蒼介はもう一度呼吸を整えて。
「今度の日曜日、俺と一緒に、その映画見に行かない……?」
君さえよければ。蒼介はそう付け加えた。
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「……何やってんだ、アイツ」
教官室前の廊下から、礼司は息子が一人のウマ娘と何かを話しているのを見つけ、そう零した。
その相手の娘、妙に見覚えのある娘だ。
「あいつ……確か司の……」