幸いと不幸が同時に訪れた。
分娩室に響いたのは、確かに天使の声だった。この世に生を受け、未来を望む喜びの唄を奏でる歌姫。誰もが酔いしれる産声だった。
だが、その空間には死神もいた。
彼には見えなかった。だが、
彼女は生まれたばかりの、か弱き幼い天使を守るために、その身を死神に差し出した。
その傍らで彼は何もできなかった。ただ、ただ、悲鳴を上げ続ける娘の声と、衰弱していく妻の狭間で、何もできなかった。
しいて言えば、情けなく涙を流すことだけ。弱く妻の名前を呼び続けることだけ。
これほどまでに自分とは甲斐性がなかったのか。自分を責めても責めきれない。
そんな夫の手を、妻は凍える手で取った。
『娘を……お願い』
血の気の引きつつあるその表情に、憂いなどなかった。娘のためなら。そう顔に書いてあった。
彼は必至で謝った。必死で、必死で。娘に劣らないほどの涙を零しながら。
だが妻は最期にこう言った。
『この娘は何れ私に会える。その時まで、この娘を守って……』
その言葉の意味を、彼は追えなかった。
そして、死神は
妻を連れ去った。
「行ってきます……お父さん」
それが、彼が最後に聞いた娘の言葉だった。父に対し決して憂いを見せまいと、健気に作るその表情が少し染みた。
それでも、彼は一つの糸に懸けていた。娘が、今日から通うトレセン学園へ足を踏み入れてくれれば、きっと何かを見つけてくれるのではないのかと。強い心を作ってくれるのではないかと。
淡い気持ちであることは確かだった。縋るような気持ちであったことも認める。だが、祈らずにはいられなかった。
彼女には随分と不憫な思いをさせた。ただでさえ、母親のいない家庭。
娘が父親に明かせ共有できる事柄など、指で数えられる程度しかない。娘とはそういう存在だ。
それに追討ちをかけるように、残された者たちの
その度に、ショパンは一人自宅にて、母親の形見とぬいぐるみに囲まれて、布団の中へと包まっていた。
食卓には、祖母が用意していってくれたのであろう、食事の後。独りぼっちで今日も食べたのかと、孤独の娘を想像するだけで、心が酸に溶かされそうだった。
それでも、ショパンは父の顔さえ見れば、一生懸命の笑顔で微笑もうとしてくれた。
気遣っているのだ。父を。どんな苦しい思いをして、自分を養ってくれているかを幼いながらに理解しようとして。
苦しかった。妻に任された筈の娘を、こういう風にしか扱えていない事実が。
情けなかった。決して娘を苦しませまいと努力した結果が、娘を苦しめていることになるという皮肉な現実が。
飢えているだろう……愛に、家族に、母親に。
でも、どうしてやることもできない。できることは、犬橇の犬の如く、一心不乱に働いて、どうにか娘にこれ以上の苦を負わせなくていいようにと、祈ることだけだった。
そして、長い永い時を経て、ショパンはトレセン学園へと巣立った。ここまで無事に育ってくれたことに、安堵の息を十数年ぶりに吐いた。
トレセン学園に行けば、大勢の仲間たちがそこには居る。かつてエアグルーヴが過ごした軌跡でさえもがそこにはある。それは
もう、寂しい思いはしなくて済む。孤独に苦しむことだって。
母親のいない苦悩だって……。
結局それは、自分が娘に恵んであげられなかった幸せを、トレセンに肩代わりさせようという、卑怯な心なのかもしれない。
彼の答えは、幾度目かの妻への謝罪だった。
――
少しだけ時は移ろい。トレセンの春が溶け始めた頃だったか。
変わらず彼は、己を喰らいにかからんとする仕事の数々と殺し合いの日々を過ごしていた。尽きることのない書類、止めどなく更新され続けるメール。鳴りやむことを知らない業務用携帯。部下の仕事の承認、上司の顔色伺い。
今日も日が落ちて久しい時間まで働いている。世間の民たちはおやすみの時間だというのに。
だが、この時間になろうとも、娘の孤独を案じる必要がなくなったことは幸いなことのかもしれない。
孤独に包まれて、眠りに落ちる娘をその目にすることが辛かった彼にとって、それは肩の荷が降りる程の安堵である筈だった。
ひっ切りなしに鳴き続ける携帯に、また一つの着信音。業務用携帯ではない。私用のスマートフォン。
相手を確認する余裕すらない彼は、強引にそれを引っ張り出し耳に当てる。
「はい、秋名です」
『あ、あの、
わずかに揺れる声色、ビジネスに慣れている声ではなさそうな気がした。
「ええ、そうですが」
まずった。新人セールスの類かもしれない、彼は通話終了のボタンに指を翳そうとするが、相手の次の一言に、手は止まる。
『私、トレセン学園生徒会長のメルセデスと申します』
「生徒会長……?」
『単刀直入にお訊きします。貴方のご息女、ショパンさんはご自宅に戻られたりなどされておりませんか?』
生徒会長を名乗るウマ娘の声、切羽詰まっていた。通話越しにでも焦燥が感じ取れた。仕事の手が止まる…嫌な蟲が騒ぐ。
「自宅って、娘は寮にいるはずじゃ。僕の手元には……」
『それじゃあ……やはり……』
「状況が見えません。娘に何かあったんですか……?」
今思えば、訊かなければ、知らなければよかったのかもしれない。
違う、聞きたくなかった。知りたくなかった。それが本音だ。
『実は、ショパンさんの……行方がわからないんです』
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「そうか、随分と待たせてくれるな。わかった。今日から、だな」
約束を残し、エアグルーヴは通話を切る。僅かに靡く尾と耳。彼女の機嫌を誑かす通話相手は誰なのだろう。
彼女は一つ息を吐くと、踵を返しショパンを探す。彼女の所在、大方察しはつくもの。
高等部の教室前、約束をせずとも彼女は終業時間になれば、自ずとそこへやってくる。背筋をピンと、両手を前に揃え、きょろきょろと視線を流し、エアグルーヴが教室から出てくるのを健気に待つ。
エアグルーヴを煩わせまいとそうしてくれているのだろうが、エアグルーヴからしてみれば、初等部の娘が高等部のエリアに踏み込むことはあまり好ましいことではない。トラブルを懸念しているわけではない。ただ、
"Howdy!Chopin!"
「ヒェッ!」
炭火と僅かな硝煙の香りを纏う
"Hmm..so cute!"
激しく繰り返される
「今日もエアグルーヴのお出迎えですカ~?」
「は、はいぃ……」
耳もパタパタと抗うが、彼女の剛腕の前には無力も等しい。
「こらこら、ポニーちゃんが困ってるよ」
大柄な栗毛を諌めるは、見目好き瀟洒な
「Oh! ソーリー!ショパン!苦しくなかったデスカ…Huh?」
腕を開いたタイキシャトルの懐に、ショパンの姿は既になかった。
くるりと辺りを見渡した先、ショパンはフジキセキの懐へとイリュージョン。
「ははは、大変だったねぇポニーちゃん」
フジキセキはショパンの頭をこねこね撫でながら、見せつけるようにタイキシャトルへ。
「フジ! ショパンの独り占めはよくありまセン!」
「君だってしていたじゃない」
煮える二人の刺し合う視線。通電したフィラメントのように光を連れ火花を散らす。
だが、不思議なウマ娘に関心があるのは二人だけとは限らない。
『あ、ショパンちゃんだ!』
『今日も来てるんだ、可愛い!』
『ねぇ、ちょっと撫でていこうよ』
『お菓子食べる~?』
放課後の教室からぞろぞろと退出する高等部生たちは、ショパンを見つけるや否やたちまちに囲い、ショパンは耳を尻尾を頬を頭をされるがまま。
ふにふに くにくに さらさら なでなで ちやほや わさわさ ここに来るといつもこれだ。
「……おい、大概にしておけお前たち」
そこにようやく姿を現すエアグルーヴ。眉間に皺を寄せて、好き勝手にショパンを弄ぶ彼女らに視線を刺した。
「おや、
フジキセキはけたけたと笑ってショパンを解放し、ショパンは小走りでエアグルーヴの背後へ。
「基本は干渉無用だと言った筈だ。何があるかわからんウマ娘なのだぞ」
「いやぁ、私にはそんな物騒な娘には見えないけどねぇ、しっかりと身なりも良くてさ」
ちらりと視線をショパンへ、ショパンはさらにエアグルーヴの奥に隠れる。
「当然だ。毎朝私が手入れをしているんだ。尾も同じテールオイルで油分を保護させている。ウマ娘の身だしなみは命だからな」
「へ、へぇ……面倒見がいいんだねぇ。本当にお母さんみたいだ」
「世話を焼いてやってるだけだ。監視役としてな。私が監視についていながら、みすぼらしい様を晒すわけにはいかんだろう」
既に慣れたフジキセキの母親弄りも、エアグルーヴは涼しくいなす。
「じゃあ、監視役さん? その娘のお家はみつかりそうかい?」
重ねてフジキセキが問う。その問いにだけは、エアグルーヴも難儀を示す。
「いや、まるで進展はない。同じ問答の繰り返しは今も変わらん」
言葉を流しながらエアグルーヴは腕時計をちらり。無駄に流れていく秒針がどうも気に食わないらしい。
「と、油を売るのもここまでだ。ショパン、いくぞ」
「うん」
エアグルーヴは仲間たちにさっと背を向け足を踏み出す。ショパンは残った高等部生たちに一礼を下げて、エアグルーヴの背中についてく。
"See Ya! Chopin!"
大手を振って彼女を見送るタイキシャトルの傍らで、フジキセキも小さく手を揺らす。
さて自分らも、と彼女らが踵を返した先に、気難しい顔をした占い師の姿がそこにあった。
「……? どうしたんだい、フクキタル」
淡き未来を示す自慢の水晶玉を手に、マチカネフクキタルはそれとショパンの背と交互に視線を振る。
「はわわ……これはなんという……」
「何が?」
「あのショパンというウマ娘。前々から摩訶不思議めいたものを感じる方とは思っていましたが……」
「もしかして、何か見えるんデスか?」
「いえ……それが」
息をのんでフクキタルは答える。
「何も見えないのです……奇妙なほどに……」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「トレーニング?」
「ああ、トレーナーが今日出張から戻ると連絡があってな、ようやくというわけだ」
ジャージの袖に腕を通しながらエアグルーヴは言う。少しだけ艶やかな声色は彼女の機嫌のよさを表しているのだろう。だが、襟口から頭を覗かせた時に、ショパンに向かって一つ。
「……とは言っても、トレーニングとは私のトレーニングだ。残念ながらお前のトレーニングではない。ここまで連れて来ておいて何だが、無駄な時間の浪費を嫌うなら、先に寮に戻っておいてもいい」
隙なく整頓されたロッカーを閉め、ダイヤルナンバー"0423"の数字を雑に散らす。
しかしショパンは首を横に振り、自分も練習に付き添いたいとその口から意思を示した。
「いいだろう。では、来い」
――
初々しさがまだ残る芝の踏み心地は悪いものではない。真夏の硬さと比べまだ柔らかさが残るそこには、初心の記憶を覚ませてくれるかのような錯覚すら覚える。
腕を伸ばし、足を伸ばし、筋を伸ばし、節を慣らし、指先から轢音を捨て、肺に喝を入れこむ。
トレーナーの姿はまだない。彼が現れる前に、一人でできること全てを片しておき、必要な時間を全て鍛錬に充てる。それが女帝流らしい。ショパンも傍らで、一応ジャージを纏ってエアグルーヴに倣い、準備体操。しかし、それも拙い。
「む。お前、随分と固いじゃないか、よく解しておかねば、今後も苦労するぞ」
「う……ん……でも……」
前屈しようにも、指先が足に届かない。
「下手に力むな。息を捨てろ。吐きながらやるんだ」
そういってエアグルーヴはショパンの背中をそっと押す。
ふぅ~っと肺に残る息を捨て、エアグルーヴの補助を貪りながらショパンは上半身を前へ、前へ。
伸びる。伸びる…が
「ふっ、くぅ……うわあ! 痛い痛い!
「あ! すまん!」
エアグルーヴは慌てて手を放す。無理に強く押したわけではないが、ショパンの体の硬さは予想以上。少しだけグズる彼女の背中を、エアグルーヴはさすった。
「まぁ、時間をかけてやっていくしかない。こればかりはな」
「……
二人の鼓膜を揺らす、一人の男性の声。二人は座り込む体を起こして、その声の主に目を向ける。やっと来たか。とエアグルーヴは吐く息に載せて言った。
「ああ、すまなかったね。長い間」
「いや、いいオフにもなれた。私に支障はない」
「そうかい。で、その娘が例の……?」
スラックスにネクタイを解き、袖を捲った齢20代後半ともあろう男性。眼鏡を奥に押し込むと、改めてエアグルーヴの傍らにちょこんと居座る、見覚えなき娘をレンズに映した。
「ああ、私が面倒を見ているだけだ。練習にも一応同伴させようと思ってな。構わないか?」
「僕はいいけど。えっと。君がショパンさん……だっけ。僕は
想定の外のことではあるが、担当のエアグルーヴがそう決め、重篤な彼女への支障も想定されるものとは考えにくいとあれば、この不思議ウマ娘を拒絶する理由にはなり得ないであろうと、秋名はそう判断しショパンへ手を差し出す。
だが、とうのショパンは秋名の手を握ることなく、ただ、彼の顔をじっと。
何か顔についているのだろうか。と秋名は彼女の沈黙に疑問を持つが。
ショパンの顔は、次第に崩れていく。ピンと張った目じりが少しづつ降りてくる。そして、うふ、と一つ失笑にも似た笑いを溢した。
「どうしたの?」
秋名が問う。
「ううん…
そう、ショパンは久しい笑顔を二人に見せ、秋名の手を握った。
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「それで……娘は」
濁った夕焼けがやけに苦い。そこに居座る者たちの顔すらも、その苦渋に悩まされているかのよう。生徒会室の明かりすらも、その黄昏の前には寂しかった。
「何も手掛かりは……」
メルセデスは、言葉をはっきり切ることができなかった。
時を遡り、あの日メルセデスがショパンと別れ数時間後、栗東の寮に帰り着いた彼女の下に一つの着信があった。ショパンが入寮している美浦寮の寮長からだった。
ショパンが寮に戻っていないが、所在を知らないかという連絡だった。彼女のスマホに通話を掛けても出ないし、ショパンの友人たちも所在を知らないと言ったらしい。寮長の言葉に、メルセデスは口元を手で覆い、それは奇妙だと言った。ショパンが生徒会室を後にして既に数時間。例え道草を食おうとも、帰宅に要する時間にしては十分すぎたのだから。
もしかしたら、まだ学園の中にいるのかもしれない。そうメルセデスは言い、学園内の捜索を提案した。だが寮長は、その提案を渋った。基本門限に厳しい寮であろうとも、遊びで遅刻をしたり、無断で外泊をする輩がいることも、あまり珍しい話ではないからだ。
どうせそのうち戻るだろう。明日こっぴどく叱ってやる。と寮長はそう残して通話を切ったが、メルセデスにはあのショパンが無断で外泊をしたり、門限を無下にしてまで遊びまわるような生徒にはどうしても思えなかった。
嫌な虫が騒いだ。メルセデスは栗東寮の寮長に掛け合って、時間外の外出を願い出た。栗東の寮長でさえも美浦の寮長と同じ意見を示したが、あの生徒会長の憂いというのなら無下にするわけにもいかないと了承した。
すでに夜中と呼べる時間に差し掛かかりつつあるトレセン学園の構内。既に明かりは落ちていた。残る明かりは残業に縛られる教官かトレーナーか。
メルセデスは二人の副生徒会長と共に、校内にショパンの姿がないか探した。途中片方の副会長が学園の中にいるとも限らないのではとの意見を提示し、メルセデスはそれを了承して片方の副生徒会長に校外への捜索を命じた。
残ったメルセデスと副生徒会長の片割れは再び校内の捜索に当たった。教室、図書館、生徒会室、食堂、手洗い場。警備員や残業に追われる大人たちにもショパンの所在を尋ねたが、皆一貫して首を横に振った。
校外に捜索に出たもう一人の副生徒会長から連絡が入った。彼女は何かと顔が広い。品なく屯うチーマーや素行の褒められないウマ娘たちとも繋がりを持つウマ娘。ツテを総動員しトレセン学園のウマ娘が行きそうな所をあらかた調べてくれたが、結果は無成果だった。
淡い期待を燃やされ、落胆するメルセデスに彼女に同伴した副生徒会長が声をかける。そして女神像の前でこれを見つけたと、それをメルセデスへ差し出した。
……彼女の全身から血の気が引いた。妙な汗が滴る。だってそれは、つい今日ショパンに差し出したCDなのだから。
最後の望みがあるとすれば、実家ではないか。そう副会長が言った。メルセデスは有無を言わさずスマホを手に取って、彼女の父、秋名へと連絡を取った。
お願いだ。居てくれ。無断外泊であろうと私が庇おう。だから、居てくれ。お願いだ。
淡い期待は、カゲロウのように儚く死んでゆく。
『自宅って。娘は寮にいるはずじゃ。僕の手元には……』
彼との通話を終えたメルセデスは即座に大人たちへ。もしかしたら、初等部生の娘が行方不明かもしれないと掛け合った。
だが、彼女が失踪してまだ数時間。警察も動かなければ、大人たちだって本気にはしない。
きっと明日になれば。大人はそう楽観を決め込んだ。
――次の日になっても、ショパンは帰ってこなかった。
次の日になっても
次の日になっても。
――
「私が、あの日、あの時、あの娘に付き添って帰るべきだったんです。彼女、きっと
メルセデスはソファの上座で両手を重ね、俯いた。
「たらればはいいだろ、会長。ンな辛気臭ぇこと言ったってよ」
彼女の傍ら、腕を組んで壁に背を預ける副会長の姿。校外へ出てショパンの捜索にあたった生徒だ。
「ですが、クライスラー……」
「それよりも、これからどうして行くかだろ。なぁ、親父さん、他にショパンが行きそうな所とかねぇのかよ?」
「いや、どこも。祖父母や親戚の家もすべて……」
「そっか……」
クライスラーはバリバリと頭を搔いて、深い溜息を吐いた。ふと、秋名が一つの疑問をメルセデスに尋ねる。
「そういえば、あの日、あの時、娘が不安定だったとは、どういう?」
「ええ、それは」
メルセデスが語ろうとしたとき、生徒会室の戸が彼女のセリフを遮った。
「会長、お客人ですよ」
「ええ、有難うございます。ロータス」
ロータス、と呼び名を受けたもう一人の副生徒会長。気怠そうな声色の奥から、その客人は姿を現す。
「……久しいね、メルセデス」
現役を退いた後であろうとも、彼女の威厳の泉は尽きることを知らない。彼女のシンボルカラーである緑は、今であろうと彼女に寄り添っていた。
メルセデスは彼女の姿を見るや、即座に立ち上がり、目を瞑って頭を下した。
「ご無沙汰しておりました。ご足労感謝致します。ルドルフさん」
「ああ。大変なことになっているね」
メルセデスはルドルフの為にと上座の席を空けるが、ルドルフはそこに座ることなく、下座に沈み溺れる男へ弱い眼差しを向け、語り掛けた。
「最後に直接会ったのは、彼女の葬儀以来かな……」
「おそらく……」
彼も彼女も共にURAの職員であることは変わりないが、一つ部署が違えば、まるで別会社のよう。ましてや二人の業務の間に直接的な関わりはほとんどない。互いの名を書類で少し見る。その程度だった。
二人としても、あまり顔を突き合わせることは喜ばしいことではなかった。二人が抱える共通は、既に亡き一人のウマ娘なのだから。互いを見る度、心が締まった。
「母猿断腸。こんな形での再会、望みたくはなかった」
今の秋名の姿、肌の張りはすっかり衰え、髭の手入れも杜撰に、その顔からは生気が感じられない。大切なものを二つも失った男。己もふらりと、二人を求めて消えてしまうのでは。そんな不安をルドルフは感じ取った。
秋名はようやく顔を上げ、現URAのポスト理事とも呼び名高いルドルフを見た。あの日々から20数年の時を経ている。彼女の薬指にもリングが置かれている。
時間の魔物の前には誰も敵いはしない。あれだけ眉目秀麗な彼女であろうと、それだけの時を越せば老いというものは隠しきれなくなるもの。……妻がまだ生きていれば、彼女のように共に年をとれていたのかもしれない。そう、秋名は思った。
警察は動いているのかい、とルドルフがメルセデスに尋ねる。彼女が言うには、警察も捜索には当たっていてくれているものの、未だに進展は明るくないとのことらしい。メルセデスは横目で秋名に配慮をするように答えた。やはり芳しくない話をするには心が痛んだ。
ルドルフは、そうかと一つ頷くと、彼らに背を向け、歴代の生徒会メンバーたちが並んだ額縁を眺める。一年、もう一年と時を遡り、記憶の中に生きる過去の自分たちへと辿り着く。
まだ旧校舎だった頃の生徒会室。新校舎になろうとも部屋の間取りは、当時の伝統を重んじるようにデザインされているが、当時を知る彼女からすれば、既にあの頃の面影などないように思えた。せいぜい残っているのは真空管式のオーディオくらいか。
そして、その写真に座る、元部下へとルドルフは対峙する。
「エアグルーヴ。君の加護が必要だ。どうか……」
それは祈りに近い囁き、瞳を閉じて静寂の中で彷徨った。
そして、一つ息を吸い込むと、くるりと振り返る。覚悟の面をつけて。
「この件、URAとしても放置できない案件だ。今の私であれば何かと本部も動かしやすい。全面的に協力しよう。彼女の手がかり、何か残ったものとかは?」
「ええ、一つだけ」
そういってメルセデスは一枚のCDケースを取り出し、机の上に置いた。
「CDケース?」
「秋名さん、先ほど貴方が尋ねた、ショパンが不安定だったという話にも通じるものです。ルドルフさん、このCDに覚えは」
「ある……ね。エアグルーヴがよく好んで聴いていたCDだ」
その裏面には、筆記体で確かに彼女の名が刻んであった。
「実は貴女方が生徒会を退かれたその日から、このCDは生徒会室に眠っていました。彼女の『忘れ物』として、歴代生徒会役員たちが、守り紡いできたもの」
「忘れ物?」
「厳密に言えば、故意に忘れ去られたものです。とある受取人を、ひたすら待って」
ルドルフはCDを持ち上げて表、裏とそのケースを眺めた。特に変わりのないCDという印象しかそこにはなかった。
「その受取人が、ショパン?」
秋名の問いに、メルセデスは頷く。
「その通り。そして私はあの日、このCDをショパンに返しました」
ルドルフも、そんなケースをエアグルーヴが置いて行った事実など知らなかった。一つ、矛盾が彼女を過る。
「待て、なぜ受取人が何れ現れることを君たちは知っていた?これが残された日が私たちの引退の日だと言うのなら、そもそもショパンとは」
「……すべては、そのケースの中に」
ふと、ルドルフと秋名の瞳が動く。開けても? とルドルフが問い、メルセデスは無言で頷く。
その中にあるもの。『幻想即興曲 オムニバス ショパン』それの円盤と説明カード――と。
二枚の書類。そして、一枚のICカード。
「これは?」
そのカードは、確かに褪せてはいた。20年以上前の代物という証言に、嘘はないようだった。
だが。
ルドルフはポツンと呟いた。
あり得ない。と
――20年以上も前に、
ルドルフは食い入るように、そのカードを見ると、すぐに残りの書類に手をかけた。
それはエアグルーヴの直筆で書かれた手紙だった。だが、その内容には目を疑った。
「ばかな……」
ルドルフはもう一枚の書類を手に取る。彼女の瞳孔が激しく開く。全身から不条理な汗が滲んだ。思わず頭を抱えた。
そして、その書類を握った手をだらんと落とすと、もう一度、彼女は額縁に飾られたエアグルーヴの姿を見た。全身に汗を纏い、焦燥と狼狽を全身に背負って、彼女に語り掛けた。
「エアグルーヴ……君は……一体……!?」
「私たちも、半信半疑でした。ですが、ショパンは本当にこの学園に現れた。そして彼女はそれを手にした。20数年越しの母親の私物。彼女が中身を確認したかどうかはわかりません。ですが、彼女の心に少なからず影響を与えたものだとは推測します。それが不安定の理由。憶測ですが、彼女の失踪、何か関係があるのかもしれません」
副生徒会長たちも、静かに彼女の語りを見守った。当の彼女らもきっとルドルフと同じ衝撃を得たに違いない。
「何が……どういうこと?」
秋名は彼女らに問う。ルドルフが激しく動揺を覚える理由が見当たらなかったが、直ぐに知ることになる。
ルドルフは書類をすべて、秋名へ手渡す。
その書面の上に踊る、エアグルーヴの字。
一枚目にはこう書かれてあった。
『次代 生徒会役員方へ告ぐ。 これは、第73代副生徒会長エアグルーヴが失念したものだ。何れ受け取り手が現れる。 この学園に、黒鹿毛の少女『ショパン』が現れたのなら、このCDを彼女に返してほしい。その時まで、後世である貴女方にその使命を託したい。 道理無き無茶な話だとは自覚しよう。だが、その娘は必ず現れる。必ず』
日付は20年以上の過去。
秋名は言葉を出すことができなかった。何を考えることもできなかった。
そしてもう一枚の書類を手に取る。
その
『女帝の意志を継ぐ者へ』