さらりと揺蕩う春の宴、ふわふわと靡く白昼の風光。
穏やかな風の中、情景たちは安らぎを求めて時の神にピアニッシモを乞う。
今日もこの地が安息でありますようにと風は歌い、飛禽は祈りを載せて東の空へと消えてゆく。
ピントがぼやけた季節の戯言。屈託なき楽天家たちが彼女へ説きつける。そんなにあくせくするなと、人生はマイペースこそだと。
笑止。そのような淀みに関心などない。蜃気楼のように漂う誘惑たちの前にも、女帝の心は揺れることを知らない。脚線美から弾き出される轟音を地面に叩きつけ、春眠に現を抜かす春どもへと己を顕示する。
当然、彼らも黙っちゃいない。自然の恵みを蔑ろにするつもりか。お前がどれだけ恵まれている場所に居るか自覚はあるのか。幻想たる情景の中で最高時速70kmを優にたたき出す彼女へ、自然たちの怒りが流体の抵抗となり彼女を後ろへ押し戻す。
女帝はそれを、つんと錐のように尖った鼻息で笑う。そんな
例えここが
彼女の意志の前、そのような囁きなど、この脚を止める理由にはならない。
下らぬ
あとは精々、女帝の
エアグルーヴは一層低く構える。刹那に息を肺に叩き込み、体中の血流を滾らせ、全てを爪先へと捧げ、大地へ脚を突き刺す。僅かにターフが抉れ土が舞おうとも、それも彼女を惹き立てるディティールに過ぎない。
彼女の踵からフォルテシモが叫ぶ、そして始まる女帝の歌。虜にされたくなければ目を塞ぐしかやりようはない。
――
「わぁ、すごい……」
エアグルーヴのプラクティス。ただの
母のデモンストレーション。ショパンは両手を重ね合わせて、そのスタイルを瞳に焼き付けてゆく。今まで画面の中でしか見たことのなかった彼女の姿なのだもの。ショパンの情が燃えない筈がない。やがてその情はどうしようもない心の蹲りに変わって、ほろりと彼女の瞳に雫を垂らす。ショパンは慌てて、傍らに居る
「ブランクがあるとは思えない。見事な仕上がりだ」
エアグルーヴのトレーナーである秋名は、ストップウォッチと記録紙を携えて、担当の現状に不安のないことを確認し安堵の息を吐く。だが、全く不安がないというのは真なのだろうか。不安とまではいかないが、不確定要素ならそこにいるではないか。秋名はちらりと視線を横へ。まるで映画に見入る子供のように、彼女へ釘付けになる黒鹿毛の『不思議な娘』がそこには居る。
噂も一応は聞いている。なんでも、エアグルーヴのことを母親と呼んだのだとかどうだとか。自身も先ほど聞いた"お母さん"というセリフは、強ち空耳でもないらしいのだ。身元も不明、身寄りもない。だからトレセンがエアグルーヴが、彼女の面倒を見ている。少し妙な絵面だ。
だけど、何故だろう。一つ何かが彼女から漂う。それはまるで……。
ふと、彼女の鬣がふわりと逆立つ。瞳がいっぱいに広がる。緩んだ口から感嘆が飛ぶ。彼女が途端に秋名の腕にしがみつく。
「おと、トレーナーさん!! ほら! ここからが凄いんだよ!!」
秋名もショパンの興奮に押されるように視線をエアグルーヴへ。最終コーナー差し掛かり、彼女の息が変わる。より前傾に、より鋭角に、ギアをもう一段上げて直ちに己の呼吸と
ゴール直前に、秋名は刹那にエアグルーヴと視線が合う。彼女の一瞬の瞳が何を物語ったか、秋名には大方察しがついた。少し余所見をしたことが、もしかしたらばれたのかもしれない。杞憂であってほしいが。
彼女が二人の目前を過ぎた後、ベルヌーイの定理よろしくエアグルーヴが奪った圧力を埋め合わせるように、周りの空気が風となって二人の間を駆け抜けてゆく。彼女が生んだ暴力的なまでな風。このまま本番に出走させれば、きっとトレーナーである彼でさえも弥立つ程の化け物が姿を現すに違いない。ストップウォッチに刻まれた数字に、秋名は血管が疼く感覚を覚えた。
「見せて! 見せて!」
ショパンが彼の腕にせがみつく。彼女の耳も尾も宿主の興奮に振り回され、ふりふりピコピコと忙しない。秋名は僅かにストップウォッチを持った腕を落として、ショパンの我儘を受け入れる。そこに記す数字にショパンの興奮は一層大きくなる。鼻息荒く、頬を紅く染め上げて。
「ね! ね! すごいでしょ! すごいでしょ!」
この黒鹿毛の少女、まるでエアグルーヴが自分のものだといわんばかりの興奮と捲し立てで秋名へと迫る。ただ秋名からすれば、エアグルーヴのポテンシャルなど知っていて当然。感心を抱く要因があるとするならば、そのモチベーションの高さと、ブランクをも感じさせない自己管理の徹底。
揺れ動くショパンの口から飛ぶ興奮は、やはりいちファンのものと同等。だが、一つだけ秋名に留まった疑問。
その時はあまり気に掛けられなかったが、確かに彼女は言った。「ここからが凄い」と。まるで、彼女のスパートに踏み込むタイミングを予測していたかのように。実際秋名が逸らしていた視線を戻した瞬間が彼女の踏み込みだった。
トレーナーと担当、ある程度連れ添う時期が成熟すれば、そのタイミングを離れた位置からでも察することは不可能ではないが、いちファン程度がずばりと射抜けるものだろうか。可能性があるとすれば、よほど熱心に彼女の研究に取り組んだ者か、或るいは。――シンパシー的なものを感じたのか。……なんて。
「おい」
ふと手繰り寄せられる秋名の意識。彼の前に仁王立ちで佇むは、耳を少し後ろに絞り、不満の化粧を施した女帝の姿。
「
「あっ、いや、そういうワケじゃ」
彼女からしてみれば、やっと戻ってきた指導者が、身入らずだというのなら、不興なことこの上ないだろう。やはり一度目の余所見もバレていたようだ。じりじりと詰め寄るエアグルーヴ。そこに――
「お疲れ様! やっぱりすごいや! お母さん!」
そうエアグルーヴの機嫌を全て吸い尽くしたかのようなショパンの姿。エアグルーヴに駆け寄って、100点の笑顔を。
エアグルーヴは、ふっと鼻息を鳴らすと、ショパンに向かって手を差し伸べ――頬をつねり。
「ヒーンッ! ひはひよ!! おひゃあひゃん!」
「私を
ショパンはヒンヒンと鳴きながら、エアグルーヴに許しを請う。二人の一連の流れ、既にこのやり取りが板につき始めているような雰囲気さえ感じ取れた。
「なるほど、お母さん……か」
ぎろり、エアグルーヴの視線が秋名にも飛ぶ。言葉を介さずとも、これから予測される激が見え透いた。秋名は急いで口を閉じると、記録用紙を即座に用意して、先の一本の話へと話題を翻す。
「まぁ、調子はかなり良好みたいだね。このまま
「自己管理は基本だ。貴様が居らずとも成せることは全てやる。互いの為だ」
エアグルーヴの不機嫌な笑みに、ようやく光が差し込む。そこに見える勝負師としての面影。
「流石だよ。恐れ入った」
秋名は一つ目を閉じると、手にしたストップウォッチをリセット。傍らでショパンは、少しだけ赤くなった頬をもちもちと撫でると、エアグルーヴへタオルを差し出す。
「今日の課題は前回のベストラップからの-1秒。明日のメニューにするつもりだったけど、今の君なら問題なさそうだ」
「1.5秒だ。枠、バ場、天候、相手、全てをワーストで考えたい。本音を言えばもっと欲しい所だが」
「いいや。今日は1秒だ。焦らなくていい。堅実さが君のウリだろう?」
秋名は落ち着いた声色で、彼女へ説く。あくまで彼女を管理するのは彼の仕事。それを失念してくれるなと己に言い聞かせる。
「……ふん、喰えん男だ」
エアグルーヴは鋭い笑みを残して、彼らへ背を向け再びターフへ踏み出した。
その背中に
――4本目、彼女が目標を過達するには目論見通りの本数であった。ベストラップからの-1.043秒。まだ少し余力を残したように見えなくもないが、秋名の指示通りに調整を加えたというのだろうか。
エアグルーヴの現状に、満足を覚えた秋名。ふとまた、ショパンのことが気にかかる。本当はまだ色々訊きたいことがある娘だが、彼でも思いつくような疑問、すでにエアグルーヴかトレセンかが訊いていることなのだろう。わざわざ自分が訊く理由もない。だけど――
「ねぇ、ショパンさん……だっけ」
ぴん、と彼女の耳が浮く。ショパンは秋名を見ると、もの可笑しそうにふふと笑い、『さん』だなんていらないよと親しげに語った。
「そっか。君は走らなくていいのかい?」
「私?」
「君だってウマ娘だろう? 走らなきゃ、退屈じゃない?」
ショパンを気に掛ける秋名の心、どうやらただの親切心とは少し異なるらしい。その心がどこからやってくるのか、きっと彼でさえもよくわからない。
「それは、そうだけど。でも私、
ショパンという火が萎む。それは、どうしようもないじゃないかという諦めを含んだ意味に聞こえた。
「……じゃあ、こうしよう」
――
「併走トレーニング?」
この学園を司る生徒会長が喜びそうな練習メニュー。しかし女帝の前で「へー、そう」というのは禁句らしい。
「ああ、一本だけでいい。君の整理運動にもなるだろう?」
「それはそうかもしれんが……」
ちらりとショパンへ視線を向ける。彼女はその場で両踵を地面に叩きつけ、入念に伸びとストレッチ。ふんふんと、興奮を内に滾らせて。やる気は十二分。
エアグルーヴは秋名の襟を指先で摘まんで、こちらへと手繰り寄せ、薄い声で囁く。
「どういうつもりだ」
「いやぁ、まぁ、少しあの娘も退屈そうだったし、君にもいい刺激になるかと思って……ね?」
ほんの少しだけ、どぎまぎとした彼の受け答え。傍らのショパンは、準備万端ですと両手を前に揃えて、エアグルーヴがこちらを向いてくることをひたすら待つ。
「……お人好しめ、同情を買ったんだろう」
「半分……そうかも」
「まぁ、いいだろう。たまにはこんな余興も」
エアグルーヴはショパンの前に立つと、腕を組み、ひとつ。
「先にも言ったが、これは私のトレーニングだ。配慮はくれてやらんぞ」
それにショパンは深く頷いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
女帝の名を語る重みを知っているか?
その名を語るもの、保険の言葉などない。彼女は何時も戦う、己を喰らいに掛かる重圧を相手に。抗う為には力を持つ他がない。誰かに泣きつき甘え、救われることなどない。
結果だ。結果だけが彼女を女帝たらしめる全てなのだ。どれだけの鍛錬の中、苦渋の果実を口にし、艱苦に絞められようとも。結果を残せねば何の実も結ばない。
だから彼女は己に鞭を打つ。女帝の称号を背負い続ける為に。たった一つの言い訳すらも許されない、無情な世界で、己に抗い続ける。
背負っているものがあまりに違いすぎる。……ショパンとは。
(は……やっ……!)
これでもウマ娘に生まれた身体。人間と比にならぬ身体能力、走りには多少なりの自信はある。
だが、
チェスの一手のよう、常に三手先を読み、コンマ数秒先の未来を据えながら次の足を差し出すエアグルーヴと、ただがむしゃらに、ばか正直に体を動かすだけのショパンとでは、酷なほどまでに差が生まれる。
それでも、それでも。
ショパンは憧れの背中を追いかけている。それはとても大きくて、美しくて、力強い。大袈裟に言えばそれは"夢"と比喩してもいい。
ずっと、ずっとずっとずっとずっと思っていた。モニターの画面の中に入って、母の走りを間近で見られたらと。
一緒に走ってみられたらと。
追いつけないけど、儚いけど。
「……」
呼吸が合わない。エアグルーヴは自分の背後で、失速し沈んでゆくショパンを五感の一つで感じ取る。ショパンに大きな期待を掛けていたわけではないけれど、並走トレーニングと称するには、その実力差は残酷な程だった。
エアグルーヴは最後、仕上げに踏み込もうとしたときに、一瞬の躊躇いを拾ってしまう。
少しだけ、ショパンに合わせてやろうか。少し、彼女を待ったほうがいいか。
それは手心を言語化したくだらない騒めき。
このまま彼女を置いて行ってしまっていいんだろうか。
彼女を一人残して、消えて行ってしまってもいいのだろうか――
……
『これは、私のトレーニングだ』
そうだ。私のトレーニングなのだ。彼女を必要以上に思やってやる必要なんてどこにもないのだ。
「……お人好しは、私もか」
エアグルーヴは自分の心を嘲笑って、踵に一層の力を込める。
そして、女帝たる由縁をショパンへ見せつけた。
「――あッ!」
明らかに変わったエアグルーヴの走り。即ちスパート。
キックダウンから叩き出される加速度。ただでさえ、いっぱいいっぱいのショパンがその本気に追従するなど、夢物語。
消えてゆく。母の背中が霞んで消えてゆく。
離されたくない。食らいつきたい。そう思う気持ちは、闘争心が起因するものではない。
不安と焦り。
待って、待ってと心で叫んでも、空しく消えてゆく。
待って…行かないで…
お願い
私を
置いていかないで…
お母さん――
「――!」
広がりつつあるショパンとの距離。エアグルーヴは消えゆく彼女の気配から、一つを感じた。
まるで、縋り付くような。悲しいような。それでいて狂おしく愛おしいような。
だが、エアグルーヴはそれに背を向けた。聞かないふりをした。
そして、ショパンの視界から、エアグルーヴは完全に消え去った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……と、まぁ。今後はこんなプランで行こうと考えている」
「ああ、概ね合意できる内容だ」
秋名のトレーナー室に、囁く声二つ。いつも隙なく整頓された居室を監修するは、無論綺麗好きの担当。
こんなミーティングの最中でも、はたきを持って部屋の中を右往左往。隅っこに隠れたチリ一つでさえも、彼女は見逃してくれないらしい。
「それにしても――」
その接続詞、次に来る話題は概ね察しの付くこと。
「あの娘、一体何なんだろうね。少し不思議だ」
その"あの娘"は今はここには居ない。
「さあな。なぁ、トレーナー。あの併走トレーニング、半分は貴様の同情といったな。もう半分は何だ」
ぱたぱたぱた。はたきはどうも忙しない。
「ねぇ、エアグルーヴ」
「今は私の質問だ」
「わかってる……けど。なんだろう。あの娘は不思議だ」
「既知の事実だ。身寄りも
「そうじゃなくて」
はたきを止めて、ちらり秋名を見る。トレーナー席に深く凭れ、天井を仰ぐ指導者の姿がそこにはあった。
「あの娘とは、初めて会った気がしない。どうも。なんだろう。僕はあの娘を"知っている"とさえ錯覚してしまうようなんだ」
「……何を言っている」
「何……だろうね」
「貴様までこれ以上、妙なことを抜かすな」
「そうだね。ごめんよ」
ふと、訝しむエアグルーヴに秋名は不器用に微笑んで見せると、もう暗いから帰ろうか。と荷物を持ち席を立つ。ぱたりと照明が落ちたトレーナー室。エアグルーヴが戸を開けると。
やはりそこにあの娘はいた。両手を前に揃えて、少し耳を絞って。
「……ッ! ショパン! お前は先に帰っていていいと言っただろう」
「うん。ごめんなさい」
ショパンは萎れた表情を持ったまま。エアグルーヴは、しようのない奴だと呆れた溜息を一度吐くと、彼女の肩を叩いて何時ものようにいくぞ、ショパンと声をかけた。うんと答える彼女の返事はどこか暗い。三人は並んで廊下を伝う。その最中も、ショパンはエアグルーヴの制服の裾を掴んで離さなかった。
「歩きにくいぞ、ショパン」
「うん。ごめんなさい……」
それでも離してくれる様子がどうもない。
困りごとかとエアグルーヴが尋ねても、ショパンは答えてくれない。
「併走トレーニングが余程堪えたんだろうね」
秋名はそういった。あれだけの大差を離され、最早並走トレーニングの域を離れた結果。気にするなという方が酷だろう。
「まぁ、エアグルーヴが相手なら仕方のない話さ。いきなりでそう横を走らせてくれる相手でもない」
意気軒昂、高らかに秋名は担当を語る。
「だけど、全く敵わないと思うのは間違いだ。君とエアグルーヴ。今は確かに差が大きいけど、それは経験や知識、体作りの差だ。当然それを埋め合わせることは容易じゃないだろう。だけど、君に素質を感じないだなんて、そんなことは思わなかった。それに――」
ショパンとエアグルーヴは秋名の語りに耳を預ける。
「君たちの走りは少しだけ似ていた。まるでそう……姉妹みたいだった」
……ふわり、少しだけショパンの耳が浮く。
……つねり。秋名の耳は女帝につままれる。
「さっきから聞いていれば、何のフォローだ。貴様の担当はどちらだ」
「あててて……ごめんってば」
「姉妹……」
ぽつん。ショパンは呟く。
「くだらん。だが、ショパン。私からも一つだけ言ってやる。希望は捨ててくれるな。今がどんな非情な現実であっても、希望を捨てれば終わりだ。お前に信念があるというのなら、いちいち下を向くのは時間の浪費だ」
「……うん」
彼女の心を冒す要因は敗北ではない。併走の中で見た、消えゆく母の背中。それがぞくりとショパンの不安を育てた。
しかし、悲しい現実といつか邂逅することになれど、自立しなきゃいけない。
そのために、彼女はここに居るのだから。それを乗り越えるために、エアグルーヴと時を共にしているのだから。
希望は捨てない。いつか、母から立派になったと言ってもらえるその時まで。きっと。
母の言葉を心で復唱して、きっと大丈夫と自分に言い聞かせて、ようやくショパンはエアグルーヴの裾を離した。
「ねぇ、二人とも折角だからこのままご飯でも食べに行こうか? ショパンの歓迎会も兼ねてさ」
秋名は腕を開いて二人に提案を投げる。
「外食か。大方、自炊を避けたいだけだろう?」
「鋭いね。まぁ、たまにはいいじゃない。何かリクエストはあるかい?」
「私は特に。ショパン、あるか?」
二人の視線は
「……にんじんハンバーグがいいな」
ショパンは、少しだけ頬を照らして、そういった。
ショパンのやる気が上がった!