グラスワンダーは骨折によりその選手生命にピリオドを打った。共に走った四年という月日は、彼と彼女の間でどのような違いがあり、またどのような共通点を持っていたのか。引退後のグラスワンダーとその元トレーナーが、一日デートをする物語。
そしてこれは、村上春樹の『バースデイ・ガール』へのラブレターである。
本作品はpixivにも投稿しています。

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スーサイド・ガール

 病院を出る頃には、街はすっかり夜になっていた。少し汗ばむ暑さも、長く伸びる影も、病院にいる間にどこかへ行ってしまったようだ。グラスワンダーは右足に包帯を巻きつけて、松葉杖を使って彼の隣を歩いた。

「どうしましょうか、これから」と彼女が聞いた。

「どうしようか」と彼が後頭部を掻きながら言った。彼が困ったときにする癖だ。

 彼は辺りをぐるりと見渡してから、近くのタクシー乗り場を指さした。断っても、彼の優しさが歩くことを許さないことを知っていた。彼女は黙ってタクシーに乗った。

「トレセン学園まで」と彼がタクシーの運転手に言った。

 運転手は彼女を見て驚いたような顔をして、それから何も言わず後部座席の扉を開いた。霊柩車のような重苦しい空気が流れた車内では、運転手も気軽な雑談を挟むことは無かった。彼女は何も言わないまま、窓の外を眺めていた。そうしている内に気が付けばトレセン学園が見えてきて、そこで降りた。

「詳しい話は、明日……そうだな、学校は休むだろうから、午前中にトレーナー室でしようか」

 彼は運転手に代金を払って、扉を閉めてからそう言った。彼女は「分かりました」とだけ答えた。

「寮まで送らなくて大丈夫か?」

「はい、歩けない程ではありませんから」

「……そうか」

 

   〇

 

 家に帰ると、彼女といた時以上の痛みが心臓を襲った。何をしても落ち着かず、ぐったりとしてベッドに寝転がった。気分を紛らわせるために酒を飲むこともできず、代わりに麦茶を飲んだ。そういえば半日ほど何も食べていないことを思い出して、冷蔵庫のものを適当に口に入れた。コルクボードを砕いたような味がして、不快感だけが残った。

 ネットニュースを開けば「グラスワンダーが不調」だの「グラスワンダーが骨折」だの、様々な記事が出てきた。悪辣な感情ごとスマートフォンを宙に投げ捨てると、彼は突然、衝動に駆られてペンを握った。そして引き出しから日記を取り出して、殴るように文字を書き始めた。

 

6/25

 彼女が骨折した。宝塚記念の後、検査をするまで分からなかった。もっとケガに注意していれば、無理をさせなければ、避けられたことだったはずなのに。おそらくもう二度と、彼女が走ることは無い。そうしてしまった自分が、彼女に走ることをやめろと言わなければならないのが、たまらなく辛い。

 

 書き終えると、彼はげっそりとしてペンを離した。

 彼は初めて彼女に会った時のことを思い出していた。誰のスカウトも受けない優秀な生徒がいると聞いて、話を聞いてみた。「選抜レースで一着を取るまでは、誰のスカウトも受けない」と言うのだ。強情で、面倒で、不思議な少女だった。悪くないタイムで走り抜けても、彼女は一着しか見ていなかった。彼女にはいつも、大人しい素振りの裏側に、どろどろとしたものが流れていた。勝利への執念とか、そういうものだと思う。数日彼女のトレーニングを眺めただけだったが、彼はすっかり彼女が好きになっていた。

 彼女が次の模擬レースで勝つまで、他の誰にも話しかけなかった。次も勝てないかもしれないとか、誰とも契約を結べないかもしれないとか、そんなことは一切頭に無かった。

 彼女が一着しか見えないように、彼も彼女しか見えなかった。

 そして彼女は、次の模擬レースで完膚なきまでの一着を取った。当然数多のトレーナーから手を差し伸べられたが、彼女は迷わず彼の手を取った。

 契約を結んでからも、彼女の中の火が弱まることは無く、薪をくべたように強くなる一方だった。強力なライバルが力を付けることが嬉しかった。彼女とその高い壁を越えられた瞬間が、この上なく嬉しかった。彼女が走って勝つためなら、彼は時間も労力も惜しまず、狂ったようにトレーニングを考えた。

 そうして四年間共に走った彼女の足は、折れた。

 スポーツにケガは付き物だ。勿論起こらないように限りを尽くすが、起こる時は起きてしまう。そういうものだ。仕方がない、世間からもそう思われるのは分かっていて、しかし彼は自分を責めるのをやめられなかった。

 足首の骨折で、幸い綺麗な折れ方だから、完治すれば後遺症も無く生活できるとは言われた。彼女の人生に癒えない傷跡を残すことは無いのが、せめてもの救いだった。しかしもう、レースには出られない。

 厳密には「出るべきではない」のだ。彼女はもう、全盛期を過ぎている。短くて半年、長くて一年のリハビリをかけて復帰して、それだけのブランクが空けば──

 そこまで考えて、彼は思考を手放した。彼女にもう走らないように提案する自分の姿を、とてもではないが見られなくなったのだ。目を背けたい現実は、せいぜい半日もせずにやって来る。何を話すか、なんて考えたくなかった。彼女と会う明日の午前中が、こんなに疎ましいことは無かった。

 

   〇

 

「レースをやめようと思います」彼女は迷いなくそう言った。ある種清々しいものがあった。

「本当に?」

「ええ、考えて決めたことです」

 彼は正直、驚いた。彼女が賢いウマ娘であることは知っていた。しかしこれ程迷いなくきっぱりとレースをやめるなどと言える程、大人ではないと思っていた。一着を諦めない子供に、現実を突きつける大人になるという彼の予想は崩れ、安堵と共に疑問が湧いた。

「正直、グラスが嫌だと言っても、もうレースに出るべきではないと言おうと思っていた」

「なんとなく、分かっていましたよ。先ほどから気配で」

「だから驚いた。そんなに急いだ答えでもない、あと三日くらい、悩んでもいいのに」

「考えて決めたんです。私は、全盛期を過ぎている。リハビリを重ねて復帰したとしても、以前の様には走れない。私はそれが嫌です。後の世代の娘達に胸を張って挑めない。私はもう、舞台から降りるべきなんですよ」

 信じられない答えだった。彼女はそこまで大人だったろうか、あるいは、自分はいつまで過去の亡霊を見ていたのだろう。四年間という時間は、彼にとってはあっという間だったが、まだ年端もいかぬ少女にとっては違ったはずだ。様々を考え、変わった。四年前の彼女が彼の前から消えて、刷新された。

「ですが一つ、引退表明をする前に一つだけ。私の我儘を聞き入れて下さいませんか?」

 彼女は、どこか悲しそうに言った。具体的にどこが悲しそうなのかなんかは彼には分からなかったが、断る理由は無かった。

「俺にできる範囲なら」

「はい……今日一日、私とお出掛けしてくださいませんか?」

 

「バスで行こうか」

 

   〇

 

 月曜日にどこかへ出かけるなんて、久し振りだった。学園から少し離れた、ショッピングモールだった。当然平日だからかがらんどうで、広いこのスペースを二人じめに貸し切っているような優越感があった。

「服を買いましょう」

「プレゼントしようか」

「トレーナーさんは、女の子を喜ばせるのが得意ですね。お気持ちだけ頂きます」

 彼女は上機嫌そうに服屋に向かい、また別の服屋に入ったかと思えば、戻ってくる。彼とは対照的な買い物だった。彼は衣服に頓着しない──訳ではないが、わざわざ比較してより良いものを見つけ出そうなんてことはしたことが無かった。最初に見つけた良い物を迷わず買って、別の店には入らない。より良いものを知らなければ、自分の手元にある物が最高なのだ。昔それを彼女に伝えたら、「迷う時間も、楽しいですよ」と言われたことをよく覚えている。理解はできるが共感出来なかった感情が、今の彼女を見ていると共感できる気がする。ひとしきり店を出入りした後、結局彼女は最初の店に戻ってきて、一つの上着を持って彼に近付いた。彼女の髪よりも少しだけ暗い色をしたブラウンのカーディガンだった。

「トレーナーさん、これ、どうでしょうか」

「グラスになら何でも似合うと思うけど」

「そういうことが聞きたいんじゃないですよ?」

「良く似合うと思う。優しい色をしている」

 彼女はそれを聞くと満足そうに笑って、カーディガンをレジまで持って行った。尻尾を揺らしてはしゃいでいる彼女を見るのは、久し振りな気がした。ここ最近は、宝塚記念のために、根を詰めてトレーニングをしていた。休みもあまり無かった。鬼気迫るような表情をした彼女ばかり覚えていたから、懐かしい感覚もあった。アスリートとしての彼女だけでなく、もっと等身大の、高校生の少女を見ていれば、彼女は──

 

「トレーナーさん?」

「あぁ、いや。何でもない。良い物が見つかって良かった」

「はい。次は、本屋さんへ行きたいです」

「勿論。荷物持とうか?」

「宝物は譲りません。それが例えトレーナーさんでも」

「それは失礼」

 

 

   〇

 

 彼はこのショッピングセンターの本屋が好きだった。所せましと本が詰め込まれた本棚が広い室内にいつくも立ち並び、窮屈に思わせる程迫ってくる。彼はこの本の威圧感が心地よくて、昔はよくここに来ては本棚と手を取り合って一冊を抜き取って買っていた。一冊抜け落ちるごとに、本棚は少しだけ力を失ったようにして、しかししばらくすれば新しい本が詰められる。そんな体験が好きだった。

「あまりトレーナーさんが本を読んでいるのを見かけたことがありません」

「トレーナー室では読まないからね。家では結構読むんだけど」

「どんな本を読まれるんですか?」彼女は一歩彼に近付いて聞いた。

「村上春樹が好きだ。と言っても、分かってくれるか分からないけれど」

「おすすめを教えて下さい。ここの本屋さんならあるはずです」

 彼は彼女と共に本棚の迷宮を歩いた。と言っても、彼はこの迷路を既に何回も解いていた。迷うこともなく村上春樹の本が並べられた棚まで辿り着くと、真っ赤な表紙の一冊を棚から抜いて彼女に見せた『バースデイ・ガール』だった。

「これを買いましょう」

「いいのか? 村上春樹は癖が強い」

「トレーナーさんが普段読んでいるものを知りたいんです」

「それなら俺が買うよ。語り合える人が増えたら、嬉しいから」

 彼女は一瞬戸惑い、しかし本を彼に渡してこう言った。

「いいえ、私が欲しいものです。私が買います」

 彼女は袋に入れられた一冊を店員から受け取ると、さっきのカーディガンを入れた袋と一緒に持った。彼はわざわざ宝物を盗もうとはしなかった。

 

   〇

 

 彼はこれっぽっちも行きたいとは思わない──むしろ行きたくなかったのだが、彼女の希望のままに靴屋にやって来た。綺麗な靴が、腕時計のように大切に飾られている。スポーツ用品店ではないから当然だが蹄鉄がついているものは一つも無く、そのどれもがおおよそ走るのには不向きなものだった。

 彼がここに行きたくなかったのは、嫌でも彼女の骨折を思い出してしまうからだ。目を背け続けた彼女の足首を守るための包帯が、彼女を縛り付けているようで心苦しい。自分がもっと気を付けていれば、彼女の足には今も蹄鉄付きのシューズが──

「トレーナーさん?」

「……あぁ、それで、新しい靴が欲しいのか?」

「はい。私用の靴はあまり使わないので、中々買う機会が無いんです」

「だろうな」

「そして、我儘だとは分かっているのですが、靴を買って頂けませんか?」

「勿論良いけど、言ってくれれば服も本も買ったのに」

「靴だから買って欲しいんです」

「どういうこと」

 彼は彼女の言葉にあまりピンと来ていなかった。彼女はたまに、こうやって独特なことを言う。自分と同じ目線でいるはずなのに、どこか違うものを見ているような物言いをする。身長が違うせいだと思っていた。あるいは、年齢が違うせいかもしれない。彼がそれについて深く考える暇は無く、彼女は子供のように靴屋の中へ入っていった。普段から落ち着き払っている彼女の調子がいつにも増して良いのが嬉しかった。

 

   〇

 

「こちらの靴はどうしましょうか。下取りですと二百円ほど安くなります」

「どうしたい?」

「持ち帰ります。まだ履けるのに捨ててしまうのは、勿体ないですから」

「持ち帰りで」

「ではお会計させて頂きますね──」

 

   〇

 

 ちょうど夏至の頃だと言うのに、外はすっかり暗くなっていた。時計を見れば七時を過ぎていて、腹も空いていた。月曜日と言えど夕食時には店内も混んでいる。並べば、一時間はかかるだろう。

「予約なんかはしていないんだけど、夕食はどうしたい?」

「名前を書いておいて、どこかで待っている、というのはどうでしょうか」

「洋食の気分だ」

「奇遇ですね。私も丁度、洋食の気分でした」

 意見が一致して、それらしい店のウェイティングリストに名前を書いて、待ち時間を確認して店を出た。

「一時間くらい待つみたいだ」

「少し歩きませんか? 夜風が気持ち良いですよ」

「いいね。歩こう」

 

「今日は、一日私の我儘に付き合って下さって、ありがとうございました」

「俺も楽しかったから、こちらこそ」

「骨折の件ですが、私は時期が来たのだと思っています」

「時期?」彼は彼女の方を見た。

「はい。実は、私は遅くとも今年の内に、引退しようと考えていました」彼女は前を見て歩く。

「驚いた。そんなこと一度も」

「はい。言っていませんでした。言いたくなかったので」

「それはなぜ」彼は首を傾げた。

「私が引退すると決めたら、貴方は次に担当する娘について考える」

「トレーナーだからね」彼は答えた。

「そしてこんな風に私とお出掛けしてくれることも、少なくなってしまいますね」そう話す彼女の目は、悲しさの奥に、どこか決意を固めたようなものがあった。レースに向ける時のように、真っすぐな顔。

「トレーナーだからね」

 

 二人はそれから、少しだけ歩いた。彼女が松葉杖で歩くスピードに合わせて、彼が歩調を揃えた。少し先にベンチが見えて、どちらが言い出すことも無くそこへ歩いていき、二人で座った。真正面には街路樹だけがあった。

 

「私は、貴方が好きです。トレーナーとしてではなく、一人の男性として、お慕いしております」と彼女が言った。唇を震わせながら、しかしはっきりと伝わる大きさで。

「……なんとなく、そうなんじゃないかとは思ってた。自惚れもいい所だけど」

「はい。なんとなく、私も貴方が察していると思っていました」落ち着いた声でそう話す彼女の頬は、年相応に染まっていた。遠くの街灯と月明かりしかない暗い道でも見える程、はっきりとしていた。

「走らなくなってしまったら、貴方ともう話せない気がして、引退の件もずっと言えずにいました」

 

「俺は、グラスが好きだよ。走ってる姿が好き、一着に固執する姿が好きだ」

「……はい」

「こうやって一緒に話すのが好きだ。同じ本を読んで感想を語り合いたい。色んな場所に出かけてみたい。走っている姿以外も、見てみたい」

「遠回しなのは嫌いです」彼女は拗ねたように、ぶっきらぼうにそう言った。

「分かった。はっきり言うよ。俺もグラスが好きだ。引退しても、傍に居させて欲しい」

 

   〇

 

「結局、とんだ遠回りだったってことだな」

「そうでしょうか」彼女がグリーン・ティを口から離してテーブルに置いた。

「あぁ、全部伝えておけば全てはもっと早くて楽だったかもしれない」

「確かに、もっと早くて楽だったかもしれません。でも、あの靴も、あの本棚も、あの日の回り道があったからそこにあるんです」彼女はそれらを眺めながらそう言った。

「寄り道して正解だったかな」

「それも分かりませんよ、真っすぐ向かっていれば、違うものがそこにあったかもしれません」

「でも俺は、靴と本棚で良かったと思う」

「はい、私もそう思います」


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