* * *
カナエは指定された空き地にやってきた。
事前にハヤトには「今夜会いたい」とメッセージを送っている。
あとは彼が来るのを待つだけだ。
「……」
カナエは祈るようにスマートフォンを握りしめた。
以前はこうしてハヤトと待ち合わせをするだけでも、胸をときめかせていた。
あの頃の幸せな時間が懐かしい。
いまや、変わり果ててしまった恋人の来訪に怯えてしまっている。
そのことが、ただ悲しい。
なぜ、こうなってしまったのだろう?
……わかっている。すべて自分が恐ろしい『おまじない』をしてしまったせいだ。
間違いだったのだ。軽い気持ちでやるべきではなかった。
専門家でも『どうすることもできない』と匙を投げるほどに危険な『おまじない』。
どうして、と彼女たちを責めることはできなかった。そもそも軽率な自分のせいなのだから。
……だが、なぜ自分だけ『おまじない』が成功したのだろう? 『必ず好きな人と結ばれる』……そういう噂がありながら【アカガミ様】によって結ばれたカップルはいなかった。
だからこそ、怖い迷信があると知っていながら誰もが軽い気持ちで『おまじない』ができたのだ。
所詮は噂。景気づけ程度になればいい。あるいは告白するための後押しになればいいと……。
それでも、するべきではなかった。
カナエの胸に満ちるのは後悔の念ばかりだ。
悲しい。一生に一度の初恋が歪な形で成就したことが、ではない。
自分の行いによってハヤトが変わってしまった。そのことが、ずっとカナエの負い目となっていた。
……もういっそのこと別れを切り出し、自分が神罰を受ければ、ハヤトもおぞましい呪縛から解放されるのではないか?
そんな自暴自棄な思考に至るほど、カナエの神経は危ういところまで来ていた。
カナエの友人、狭間祈が言ったように、カナエは『限界』だった。
ゆえに、それは紙一重のタイミングだった。
オカルト研究部から再びメッセージが届かなければ、カナエは間違いなく進んで破滅の道を選んでいたことだろう。
『あなたの恋人を元に戻す。その協力なら、できる』
絶望の淵に沈んでいたカナエの意識は再び光へ向かって浮上した。
もはや自分はどうなってもいい。
せめて、ハヤトだけは救いたい。
それができれば、もう何も望まない。
ただその一心で、カナエはオカルト研究部の指示に従った。
「……」
ハヤトを待っている間、何気なく空を見上げる。
綺麗な月が出ていた。
デートの帰り道、ハヤトと一緒に見る月が好きだった。
彼と同じものを見て「綺麗だね」と伝え合う。それだけでも、カナエの心は満たされた。そんなハヤトとの時間が、愛おしかった。
本当に、夢のような時間だった。
「カナエ!」
聞き慣れた少年の声。
向こう側からハヤトが駆けてくる。
どこか人懐っこい、快活な笑顔。そんなハヤトの笑顔がカナエは好きだ。
……その笑顔は、いまやカナエだけに向けられている。
ハヤトを独り占めにしたい。そんな黒い衝動が芽生えた瞬間は何度もある。
だが、いざそれが実現してみて思う。
恋人だけを優先し、他は軽んじるハヤト……それは、自分が恋したハヤトではない。
どんな相手にも分け隔てなく陽気に接し、落ち込んでいる人がいれば、一緒に寄り添って慰め、元気づけてくれる。
それがハヤトだ。
たくさんの友人、サッカー部のチームメイト、そして試合を応援してくれる人々に、ハヤトはいつだって感謝を示し、こっちまで明るい気持ちになれるような笑顔をくれた。
『皆瀬さん! いつもサンキューな! おかげで今日の試合も頑張れたぜ!』
カナエは、そんなハヤトに憧れ、恋をした。
だから……。
夢のような時間は、もう終わらせよう。
「ハヤトくん。ごめんね? こんな時間に呼び出しちゃって」
「何言ってるんだ。カナエのためならいつだって駆けつけるぜ」
以前ならば心躍る言葉だっただろう。
だがいまは、ハヤトの口からそんなことを言わせてしまうことに後ろめたさしかない。
「それで、話ってなんだ?」
「うん……あのね?」
メッセージではなく、本人の前で直接伝えなければダメだ。
カナエはそう言われた。
いま胸に秘めている本心を、すべて打ち明ける。
ただし……決して『離縁を匂わす』ような発言だけはしてはいけない。
それを守りつつ、とにかく感情の丈を彼にぶつける。
そうすれば……変化が現れるはずだ。
銀色の髪の、美しい霊能力者の少女。
彼女が語った言葉を思い起こし、カナエは意を決して口を開く。
「……私ね、ハヤトくんと恋人になれて、本当に嬉しい」
「ああ、俺もだぜ」
何を今更そんなことを改まって、とばかりにハヤトが苦笑を浮かべる。
カナエは気恥ずかしさを覚えながらも、さらに言葉を重ねる。
「私、ずっと自分のことが嫌いだった。どんくさくて、気弱で、言いたいことを言う勇気もなくて、いつも周りや友達に支えてもらってばかりで……でもね? ハヤトくんと一緒にいるときの自分は、嫌いじゃなかった。ハヤトくんと話してると『私は私でいいんだ』って、自然と自分を受け入れることができたの」
ハヤトは、いつも気さくに挨拶をしてくれた。カナエが困っていると、さり気なく声をかけてフォローをしてくれた。あまり会話が上手ではないカナエの話にも、ちゃんと耳を傾けてくれ、明るく反応を返してくれた。
ハヤトからすれば、何も特別なことではなかったのだろう。
そんなハヤトだからこそ、カナエは恋い焦がれた。
「私には夢が特にないから、本気でプロのサッカー選手を目指しているハヤトくんが眩しくてしょうがなかった。だからせめて、マネージャーとして好きな人の夢を応援したかったの。昔の自分なら運動部のマネージャーなんて怖くてできなかった。……でも、ハヤトくんのためならって考えると、いくらでも頑張れた。それからは毎日が楽しくて、幸せだった。やっと自分のことが好きになれる気がしたの」
自分でもハヤトの役に立てることがある。
そう思えると、たちまちカナエの日常は輝かしいものに満たされた。
夢に向かって日々努力を重ねるハヤトの姿に、自分も勇気をもらえた。
だから……。
「ハヤトくんは、私の世界を変えてくれた。私にとってのヒーローなの。だから……お願い。もう一度、サッカーと真剣に向き合ってほしいの」
この数日、ずっと胸に秘めてきた本音を、カナエは打ち明けた。
「私のために時間をたくさん使ってくれるのは嬉しいよ? でも……私はやっぱり、ハヤトくんには夢を追いかけてほしい。ハヤトくん、言ってたよね? ユースチームに入って、絶対にプロになるんだって。私もね? 栄養士の資格を取ってハヤトくんの体作りに役立てたらと思って、勉強を始めたの。ハヤトくんなら絶対にプロになれるって、私本気で信じてるから、難しい勉強も頑張れる。……だから、お願い! もう一度、サッカー部に戻って!? きっと皆も監督も許してくれるよ! ハヤトくんには、才能があるもの! 私なんかのために、その才能を腐らせちゃダメだよ!」
気づけば涙声になっていた。
ハヤトの貴重な時間を、自分に費やしてしまった。それも身勝手な『おまじない』によって。
カナエはそれがずっと辛かった。
ハヤトには、間違いなく栄光を手にする力がある。
世界という舞台へ出て、きっと多くの人々に感動を与えることができる。
そんなハヤトを支え、見守ることこそが自分にとっての幸せだったはずだ。
それ以上を望んではいけなかったのだ。
『おまじない』を解くことはできない。
ならばせめて、ハヤトの意識を再び夢へと戻したい。
これ以上、歪な『おまじない』によって結ばれた恋人なんかのために、彼の時間を奪いたくない。
「ハヤトくん……サッカー、大好きだよね? 私も、サッカーに打ち込んでいるハヤトくんが大好き。だから……ね? もう一度、夢に向かって……」
「……なんで、そんなこと言うんだよ?」
「……え?」
「俺はさ、こんなにもカナエを愛しているのに……何で、この思いを受け入れてくれないんだ?」
「ハ、ハヤトくん?」
ハヤトの瞳は虚ろだった。
カナエの本気の吐露すらも、まるでどうでもいいことのように、何の感慨もいだいていない様子だった。
「カナエ以上に大事なことなんてあるか? あるワケないだろ? サッカー? 夢? 知るかよ。そんな、くだらないもの。カナエと一緒に過ごす時間のほうが大切に決まってるじゃないか」
カナエは思わず後退りをした。
ハヤトの表情は正気ではなかった。
「俺は悲しいぜカナエ。これだけお前への愛を毎日まいにち伝えてるのに……ぜんぜん届いてないってことか? なあ、おいっ」
「ひっ」
ドスの利いた声で、もはやカナエのほうに落ち度があるとばかりにハヤトは責め立ててくる。
「俺とカナエは愛し合っている。それでいいじゃないか? ……あ? それともなんだ? 冷めたってのか? 俺と付き合うのはもう飽きたって言いたいのか?」
「ち、違う! そんなこと言ってな……きゃっ!」
カナエは茂みに倒れ込む。
真上に暗い影を貼りつけたハヤトがのしかかっている。
カナエの知るハヤトの顔ではなかった。
「ダメだぜ? 許さねえぞ? お前は俺のものだ。絶対に手放さない」
「ハヤト、くん?」
カナエは困惑に支配される。
誰だ?
自分を押し倒すこの少年は誰だ?
違う。
自分の知るハヤトは、こんな真似をする少年じゃない!
「少し、お仕置きが必要みたいだな。カナエ、お前が悪いんだぞ? 俺を不安にさせるお前が悪いんだからな? 痛い思いをさせるけど、我慢してくれよ? これも、俺の愛なんだ。わかってくれるよなぁ?」
「っ!?」
ハヤトが拳を振り上げる。
その拳は、容赦なくカナエの顔面に向かって振り下ろされ……。
「それだけは、やっちゃダメだろうがよ!」
ハヤトとは異なる怒号が聞こえたかと思うと、一気に重みから解放された。
「大丈夫か、皆瀬さん!」
「く、黒野さん?」
現れたのはオカルト研究部の唯一の男子部員である黒野大輝であった。
一瞬にして、ハヤトを向こう側へ投げ飛ばしたその剛力にカナエは目を丸くする。
「……なんだぁ、てめぇ。俺のカナエに、なに気安く近づいてんだ……あぁん?」
投げ飛ばされたハヤトはむくりと立ち上がり、カナエを庇うように立ち塞がるダイキに敵意を向ける。
「いまよぉ……カナエと大事な話をしてるところなんだよ……邪魔すんじゃねぇよ?」
「大事な話? ……女の子の顔を殴ろうとすることがか!? ふざけるな!」
ダイキの言葉によって、カナエは先ほど起こりかけた事態をようやく認識した。
……そうだ。ハヤトは、自分は殴ろうとした。
あの、ハヤトが?
「……違う」
カナエは咄嗟に呟いた。
違う。絶対に違う。
ハヤトが……あんなことをするはずがない!
「違う……あなたは、やっぱりハヤトくんじゃない!」
カナエはいまハッキリと確信した。
いま目の前にいるハヤトは本物ではない。
その姿を借りた、別の何かなのだと。
「ハヤトくんは、どんなに怒っても、人に手を上げることなんて……女の子に暴力をふるうなんてこと、絶対にしない! 自分の夢をくだらないものなんて言ったりしない! ハヤトくんを……侮辱しないでよ!」
カナエの胸に湧いてきたのは、もはや困惑でも恐怖でもない。
怒りだ。
大切な存在の皮を借りて、彼の名誉を滅茶苦茶にしている何者かへの怒りだった。
「返して……ハヤトくんを返してよ! あなたは……あなたは、いったい誰なの!?」
「……」
カナエのその問いかけが鍵となったのか。
「……グギ」
「っ!?」
ハヤトに異変が起こった。
「グギャ……キャハハ……あーあ。あとちょっとだったのになぁ~……」
ハヤトの声帯に、明らかに彼のものではない、もうひとつの声が混じる。
この世のものとは思えない、不気味な声だった。
「どいつもこいつもイラつくんだよぉ……
奇妙な言葉を発したかと思うと、ハヤトはとつぜん自ら体を押さえて、苦しみだす。
「あぐっ……ぐあっ……あああああっ!」
「ハヤトくん!?」
「近づいちゃダメだ皆瀬さん! 来るぞ!」
「え?」
「……この事件の、本当の黒幕だ!」
ダイキのその言葉を合図にするように……恐怖が、形となって現れた。
「ひっ!?」
ダイキの背を越して見える光景。
そのおぞましい光景に、カナエは思わず口を押さえて腰を抜かした。
「グギギ……グギャ……ギギギィ!」
不気味な声は、もうハヤトの口から漏れてはいない。
それは、ハヤトの背中から漏れ出ていた。
「グゲェ……アギィ……」
奇声と共に、何か赤い沁みのようなものが浮かび上がる。
出血ではなかった。
血よりも毒々しい赤色の粘液が、まるで空中に向かって滴るようにドロリと溢れてくる。
「アッ、アァアアアアアアアァァッ!」
赤い粘液は凝り集まって、ひとつの形を為していく。
不気味な奇声は、いまや赤い塊から発せられていた。
「ヨグモォ……アダジノ計画ヲ、台無シ二、シテクレタナァ……!」
怨嗟を上げながら、ソレは徐々に輪郭を得ていく。
まるでハヤトの背中に寄生した菌糸類のようなナニカが、人の形を取っていく。
「セッカク、アト少シデ……カナエヲ、絶望ニ追い込めたのにぃぃぃ!!」
「……え?」
カナエは己の耳を疑った。
なぜだ。
なぜこの声に、聞き覚えがある?
日常的に聞いてきた自分の名を呼ぶ、この声は……。
真っ赤な流動体が、とうとう完全な人型となる。
全身が赤色でも、その容貌が判別がつくほどに。
そして……その容貌は、カナエがよく知るものだった。
「嘘……
ハヤトの背中から表出した赤色の人型。
……それは、カナエの親友である