泣いている。
女が泣いている。
人気のない港で。
さざ波の音に合わせるように、さめざめと泣いている。
「うぅ、悲しい! 悲しいわ!」
藍色の
髪油を塗ったように濡れ光る黒髪。湯浴みから上がったばかりのように潤いを含んだ色白の肌。
遠目から見れば、否応なく男の気を引くような美女であった。
女は嗚咽を上げながら、大粒の涙をこぼす。
「こんな……こんな惨いことはないわ! ああっ、涙が止まらない!」
張り裂けんばかりの声を上げて、女は
両眼……三つ目、四つ目の瞼からも。
女の左目の下には、小さい目がふたつあった。
切り傷にも見えなくもないが、その中には確かに金色の眼球がギョロギョロと蠢いていて、涙を垂れ流し続けていた。
女の麗しい後ろ姿に惹かれ、彼女の正面を見た男は、陶酔から覚めて畏怖の悲鳴を上げることだろう。
女は明らかに人間ではなかった。
そう、人間ではない。
魂を闇に捧げ、生ける屍となった存在。
常闇の侵徒である。
「ああっ、
女と同族である、影使いの侵徒、影浸。
その影浸が打ち倒されたという報せが入り、女は泣いているのだった。
「邪心母め! あの女のせいよ! あの女のお守りなんかしていなければ、影浸は死ななかったわ! 邪心母、忌々しい女! 私の手で始末してやりたかったわ!」
哀愁から一変。嫉妬の炎を剥き出しにして女は髪をかきむしる。
激しく顔を振り、涙があちこちへと飛散する。
──じゅうぅぅぅっ……。
涙の飛び散った箇所が、溶解し、爛れていく。
まるで女の感情を物語るように、周囲に酸性の白煙が立ちのぼる。
「憎らしい、憎らしい! 邪心母め、いつもいつも私の影浸を独占して! ああ、何故なの影浸! どうして私ではなくて邪心母を選んだの? 悲しい、悲しいわ!」
「
コツコツと、コンクリートの地面を杖で突く音が反響する。
死擦と呼ばれた女の横に、小柄な人影が立つ。
その者は身の丈よりも長い杖を持ち、竹笠帽子を被り、僧侶の法衣を身につけていた。
「
「おぬしのようなおぞましい乙女がおるか」
妖円丸と呼ばれた男は、老齢の言葉遣いで冷たく言い放った。
「とはいえ、影浸や邪心母を失ったのは儂も惜しく思うわい。特に影浸は見所があったからのう。あと数年もすれば儂らも超えるやもしれぬ逸材じゃったというのに」
「邪心母が足を引っ張ったからよ! ああ、だから『私と組みましょう』と何度も誘ったのに! 影浸、最後までつれない御方だったわ!」
「……まあ、あの二人はいずれ打ち倒されると思っておったわい。何せ魔骸転身に躊躇うような半端者じゃったからのう。最後の最後には使ったようじゃが……やはり百年も生きていない若造はダメじゃの」
惜しいと言いながらも、妖円丸はあっさり興味を失ったように切り捨てる。
「所詮は人間の心を捨てきれなかった二人組じゃ。人間臭さを残している侵徒ほど早々に敗れていく」
「私は許さないわ! 影浸を殺したヤツを決して許さない!」
「まあ待て死擦よ。その影浸を倒した小僧じゃが、なかなか見所があるぞい」
妖円丸が地面に向かって杖を突くと、水が満ちた盆が出現する。
盆の中の水が光を発し、こことは異なる景色を映し出す。
場所は
ダイキやルカたちが、邪心母、影浸との死闘を繰り広げた場所であった。
盆の水は、その場で起きた出来事を動画のように再生し始める。
「見よ、死擦。影浸と互角に
「仲間ですって!? 冗談じゃないわ! 影浸を殺したヤツを侵徒にするだなんて! 私は認めないわ!」
死擦は齧り付くように盆の中に顔を近づける。
愛しい男を滅ぼした怨敵を、その四つ目に焼き付けるために。
「よくも私から影浸を奪ってくれたわね! 生まれてきたことを後悔するほどに苦しめてやって……」
忌々しげに怨嗟の声を上げていた死擦の様子が変わる。
影浸と戦う黒髪の少年。
人間の身でありながら影浸相手に生き残り、尚且つ撃破した。
その勇姿に、死擦は引き寄せられる。
「……この人が、影浸を?」
「
「ダイキ……そう、ダイキと言うのね」
死擦は夢見るように頬に手を添える。
先ほどまでの憎悪の色はどこへ消え失せたのか。
とろん、と目を光らせながら、艶の滲んだ笑みを浮かべる。
「ダイキ! ダイキダイキダイキ! ああ、何て素敵な人! 見つけたわ! この人こそが、私の運命の殿方!」
まるで人が変わったように死擦は身を抱きしめ狂い悶える。
「何て逞しい人! 何て気高い人! ああ、欲しい! 私、この御方と結ばれたいわ!」
三日月のように裂けた口から、でろん、と舌が伸びる。
じゅるり、と唇を舐めると、舌はどこまでも長く伸びた。
まるで死擦の感情の昂ぶりに合わせて、鞭のようにしなる。
「ああ、女王様! 感謝いたします! 私はこの御方と巡り会うために死から復活したに違いありませんわ!」
「何じゃ死擦、もう影浸から気移りしたのか?」
「……影浸って誰?」
妖円丸は深い溜め息を吐いた。
「儂はおぬしのそういうところが本当に嫌いじゃ。男に依存せねば生きていけぬ
妖円丸の首が刎ねられ、頭部が落ちる。
「うぅ、どうしてそんなひどいことをおっしゃるの?」
死擦はまたしても泣き出す。
泣きながら、血の付着した長い舌で周囲を斬りつけていく。
コンクリートの壁が紙のように、あっさりと切断される。
「私はただ運命の殿方と結ばれたいだけなのに……おごっ!?」
とつぜん死擦は首元を抑え、苦しみ悶える。
宙を旋回していた長い舌が、急速に勢いを無くして、ブチッと千切れ落ちる。
千切れた舌に、ボコボコと赤黒い発疹が生じる。
無数の泡が膨れ上がったような肉の塊は、やがてドロドロに腐り落ちた。
同様の症状は、死擦の体にも起きた。
「おごぉぉぉ……ぐ、苦じぃ……」
死擦は瞬く間に全身に発疹を生じさせ、バタバタと地面で跳ね上がる。
「まったく相変わらず短絡的な女じゃのう。年寄りをもっと労らんかい」
首を刎ねられたはずの妖円丸から声が上がった。
切断面から、ひとつの突起物が生える。
キノコであった。
一本から二本、次々と切断面からキノコが生える。
数百にも及ぶキノコが首周りに生え乱れると、粘菌のように交じり合う。
粘っこい音を立てながら、妖円丸の頭部は元の形を取り戻した。
「少しは学んだらどうじゃ? 儂に直に触れれば、そうなるとわかっておろう?」
「……ああ、ひどいわ、妖円丸のお爺さま! お肌は乙女の命ですのに!」
発疹まみれの肉塊が縦に裂ける。
裂け目から、粘液まみれの白い女が苦言を口にしながら飛び出した。
生まれたての赤子のように、肌を元の状態に戻した死擦であった。
「死ぬわけにはいかないわ! これから運命の殿方とお会いするのだから! ああ、そういう意味ではお色直しにちょうどよかったわ!」
死擦は発疹まみれの皮膚を、まるで蛇の脱皮のように引き剥がす。
「うふふ。これで綺麗になったわ。この美しい肌を、ダイキは気に入ってくださるかしら?」
美しいと言うには、その肌の潤いと艶は、あまりにも人外染みていて、半透明に近い。
もはや水死体のごとき肌を撫で上げながら、死擦は恍惚と笑う。
「愛しい人! 待っていてダイキ! きっと会いに行くから! あなたとじっくりと愛を育んで、そして……私と
死擦は目を輝かせながら、くるくると踊り始めた。
「心中狂いめ。やれやれ。こんな女に目をつけられるとは小僧も気の毒じゃわい……まあ、儂も興味が尽きぬがな」
妖円丸は口元を歪に釣り上げる。
「
心をへし折ってやりたくなる。
そう呟き、竹笠帽子の奥で邪悪な眼光が瞬いた。
「……しかし、その前に片付けておくべき厄介者がおるのう」
妖円丸は盆の中身を改めて見る。
何度も追い詰められながらも、瞬時に傷を癒すダイキたち。
その脅威の回復力を観察する。
恐らくは霊装による治癒。
妖円丸はその霊装に心覚えがあった。
「
浄耀鐘は鐘を鳴らす者の魂と心が清いほど、回復量が増大する魂魄霊装である。
即ち、それほどの善性の持ち主がいるということ。
その事実を物語る光景を目にして、妖円丸は笑みを消した。
「……気に食わんな」
妖円丸は乱暴気味に杖の先を地面に叩きつけた。
「やはり儂はこの霊装が好かん。使い手の善性をひけらかし、さも『自分は聖人』とばかりに主張されているようで、虫唾が走るわ。純粋な善性? 清らかな魂? ……ふんっ。そんな人間など、おるはずがないというのに」
だからこそ、妖円丸は決めていた。
浄耀鐘の使い手が現れたときは、この手自らで仕留めると。
「魂も、心も、不変ではない。透明であればあるほど、一滴の墨を落としただけで、薄汚く穢れていくものなのじゃ。儂がそれを思い知らせてやろう」
妖円丸はクツクツと笑う。
「試させてもらおうかのう。癒しの鐘が、最期まで美しい音色を奏でるかどうか」
* * *
「すみません、レンさん。
「まあ、べつに構わないけどさ……スズちゃんもマメだね~。今回の戦いを改めてカメラで記録したいだなんて」
「だって、皆さん大活躍でしたもの! この戦いの記録は、もはや永久保存版です!」
スズナは目を爛々とさせながら愛用のハンディカムを構える。
カメラの矛先は、レンの専用霊装となった天眼札。
ドローンカメラのように遠方の情景を映し出すソレは、数時間前の記録も動画のように再生することが可能だった。
辰奥山にて繰り広げられた激闘。
御札型の霊装から鮮明に浮かび上がる戦いの情景を、スズナはカメラで記録していく。
ルカが囚われ、危うく邪心母と融合するかもしれなかった緊急事態。
さすがのスズナも自重して、普段のようにカメラ撮影をすることは控えていた。
だがこうして無事にルカが救出されたならば、もう遠慮することはない。
早速スズナはレンに頼み込んで、改めて今回の戦いを記録し始めたのだった。
「はう~。ルカさんもダイキさんも本当にかっこいいです~! さすがはスズナのヒーローです~」
「スズちゃんは本当にルカとダイくんにお熱だね~」
撮影をしながら「きゃっきゃっ」と無邪気にはしゃぐスズナを、レンは微笑ましげに眺める。
同時に、スズナの熱意に改めて圧倒された。
(推し活……って言葉じゃ済まされないよね~スズちゃんの場合は)
何せ、憧れのルカとダイキの傍にいたいがために、お嬢様校から転校してくるほどだ。
しかも資金面で惜しみなくオカルト研究部の怪異退治を支えてきた。
ついにはレンと同じく魂魄霊装を与えられ、仲間の傷を癒す貴重な戦力となった。
もはやオカルト研究部は、スズナ無しでは、成り立たないだろう。
実際スズナがいなければ、今回の戦いを無事に乗り切ることは絶対に不可能だった。
(スズちゃんの浄耀鐘と私の天眼札を組み合わせれば、皆の戦いに役立てる……今後も私たちで、皆を支えなくちゃね!)
これまでは裏方としてサポートすることしかできなかった非戦力の自分たち。
だが一般人でも異能の力を扱える魂魄霊装のおかげで、後衛として貢献できるようになった。
レンは思う。今後もスズナと力を合わせて、自分たちなりの戦いをしていこうと。
そうスズナに伝えようとしたときだった。
「はぁ……かっこいいな~。本当に、かっこいいです……」
「ん?」
うっとりと溜め息を吐くスズナの横顔を見て、レンはわずかな違和感をいだく。
ルカとダイキの戦いを見つめるスズナ。
その瞳は、いつものように憧憬に満ちている。
二人に向ける熱量は同じだ。
だが……わずかだが、色合いが異なる。
レンには、そう見えた。
特に、ダイキに向ける視線。
四匹の霊獣を宿し、新たな力を覚醒させた少年の勇姿。
それを見つめるスズナの瞳は、明らかにこれまでと異なる感情が宿っているように思えた。
「ダイキさん、凄い。本当になんて……勇ましい御方……」
心なしか、声にも艶っぽいものが含まれている。
そんなスズナの様子を見て、レンはここには居ない少年に向けて溜め息を吐く。
(罪作りだね~ダイくん。スズちゃん、完全にその気になっちゃったみたいだよ?)
レンは乙女として、スズナの気持ちを、もちろん察していた。
だが、これまではルカに向けるものと同じく、憧れの色のほうが強かったように思う。
……ところが、いまはもう違う。
スズナがダイキに向ける眼差しは、もはや憧れなどという言葉で済まされるものではない。
スズナは自覚しているだろうか?
己の女としての一面が、色濃く滲み出始めたことに。
純真無垢な天使のようなスズナ。
そんな少女も、とうとう本格的に色恋なるものに、翻弄されることになるのかもしれない。
「スズちゃんはさぁ……」
「はい?」
「……ううん、何でもない。邪魔してゴメンね」
レンは口を噤んだ。
指摘するのは野暮というものだろう。
こういうのは自分で気づくのが大事だ。
(これは、一波乱起こりそうだな~)
そんな呑気なことをレンは思った。
そして、レンは後悔する。
このとき、スズナに言葉にして伝えるべきだったと。
その胸に宿る気持ちと、どう向き合えばいいのか。
同じ少年を思う乙女として、アドバイスをするべきだったのだと。
そうすれば少なくとも……。
街を巻き込むほどの悲劇。
そんなことには、ならなかったかもしれないというのに。