* * *
「橘さん、今日のお迎えは結構です。ええ、歩いて帰りますので、心配なさらないでください」
送迎の運転手に電話を終えて、スズナはあてもなく街を歩いていた。
知人の誰にも会いたくない気分だった。
そんな感情をいだくのは初めてだった。
だが、いまの自分を誰にも見て欲しくない。
ルカとダイキの交際を素直に祝福できなかった、愚かな自分を。
(……どうして、喜んであげられなかったのでしょう)
オカ研の部室を出てから、ずっとスズナはそう自問していた。
敬愛する二人が結ばれたのだ。誰よりも喜ばなければならなかったはずだ。
でも、できなかった。
あれ以上、あの場所にいたら、言ってはならないことを言ってしまいそうだった。
(私、どうしてしまったの?)
スズナの涙に動揺したオカ研の面々だったが、誰よりも困惑しているのはスズナ自身だった。
生まれて初めて芽生えた感情に、どう向き合えばいいのかわからない。
このモヤモヤはいったい何なのだろう。
(ルカさんは、私が尊敬するヒーローなのに……)
ルカは心より慕う存在。決して悪感情をいだくはずがない相手なのだ。
そんなルカに……。
(私は、何を言おうとしたの?)
祝福とは真逆の言葉。
なぜ、それが頭に思い浮かんでしまったのだろう。
怖かった。こんな一面が自分にあるだなんて、スズナは信じたくなかった。
(お母様……私は、どうしたら……)
亡き母に縋りたい。幼い子どものように泣きついて、そして叱ってほしい。
いまのあなたは間違っている。しっかり心を強く持ちなさい。そう諭してほしい。
スズナにとって、人間としての指針。それが母だった。
自分も母のように強く、気高く、正しい人でありたかった。
そう思ってずっと黄瀬家で研鑽を積んできた。
ルカたちと出会って、ようやくやるべきことを見つけて、他者を救うべく動いてきた。
母のように、理想の道を突き進んでいると信じていた。
……だが、それは慢心だったのだろうか?
いまの自分を、はたして天国の母に胸を張って見せられるだろうか。
(……怖い)
明日からどんな顔でオカ研に行けばいいのだろう。
前のように笑顔で皆にお茶を振る舞えるのだろうか。
ルカやダイキの顔を、まっすぐ見れるのだろうか。
「あ……」
自問自答していると雨がポツポツと降ってきた。
雨は次第に強まっていき、道行く人々が慌てて屋根のある場所へ入っていく。
スズナは鞄から折りたたみ傘を取り出し開いた。
「やだぁ! 予報じゃ降らないって言ってたのに! お母さんの誕生日プレゼントが!」
「あら?」
小さな女の子が胸に小包を抱えながら慌てている。
見たところ、包装紙でラッピングされたプレゼントだ。
スズナは咄嗟に女の子に駆け寄る。
「大変! あの、よろしければ私の傘を使って?」
女の子とプレゼントが濡れないようにスズナは自分の傘を向ける。
女の子はキョトンとスズナを見上げる。
「え? そんな、悪いよ。お姉ちゃんが濡れちゃうよ?」
「心配しないで? お姉ちゃん、もう一本予備で持っているから」
スズナは女の子の小さな手を握り、傘を握らせる。
「本当に、いいの?」
「もちろん。家に同じ物がたくさんありますから、気にしないで使って?」
「あ、ありがとう、お姉ちゃん!」
「どういたしまして。プレゼント、喜んでもらえるといいね?」
「うん! バイバイ、綺麗なお姉ちゃん!」
女の子はプレゼントを大事に抱えながら走っていった。
母の誕生日プレゼントだと言っていた。よっぽど母が大好きなのだろう。
かつての自分の姿を思い出して、スズナは微笑ましい気持ちになった。
「……くっしゅん! いけない、冷えちゃったかしら」
雨に濡れた体を抱きしめる。
予備の傘を持っていると言ったのは嘘だ。
さて、ここからどう帰ったものか。
「立派なお嬢さんじゃ。自分が濡れるのも構わず、
「え?」
透き通るような幼い声が、スズナを呼びかける。
いつのまに、そこに居たのか。
小さな子どもが立っていた。
子どもは僧侶のような法衣を身につけ、幅の広い竹笠帽子を被っていた。
竹笠帽子の下から、端正な顔立ちが現れ、スズナに微笑みを向ける。
まるで絵本の住人のように愛らしい顔だった。
(女の子? ……いえ、男の子かしら?)
中性的な美貌は、男女のどちらとも取れた。
「お嬢さん、そこに立っていては風邪をひいてしまう。こちらにいらっしゃい」
「え、ええ」
子どもはシャッターの閉まった店の下で雨宿りをしていた。
スズナも誘われるがまま、子どもの横で雨宿りをする。
「どうぞ。これで拭くとよろしい」
子どもは手ぬぐいをスズナに差し出した。
スズナはニコリと受け取る。
「ご親切にありがとうございます。ええと……」
「ああ、儂は男じゃよ? よくおなごに間違われるがな」
「では、ボクくん、お借りしますね。改めてありがとうございます」
「礼には及ばんよ。先ほどのお嬢さんの善行のほうが儂には眩しく映るわい」
少年はまるで老人のような言葉遣いでスズナを褒め称えた。
「そんな。スズナはただ傘を差し上げただけですよ?」
「自分が濡れてしまうのに?」
「あの子やプレゼントが濡れてしまうほうが大変です。せっかくお母様のために用意されたプレゼントなのですから」
「……素晴らしい人柄じゃ」
少年はパチパチとスズナに拍手を送る。
「自らが損するのを承知で、持たざる者に向けて財を分け渡す……いやはやこの時代に斯様な慈善の持ち主に巡り会えるとは。儂は感動しておるよ」
「財だなんて……そんな大袈裟ですよ」
「大袈裟ではなかろう? あの傘、一般人では到底手にできぬ代物であろう?」
「え?」
「英国の老舗で扱っている高級品。あれ一本だけで一般の勤め人の月給に相当するはずじゃ。違うかね?」
「ど、どうしてそれを……」
「儂はこう見えて長生きしておってな。お嬢さんよりも数百年生きておる。だから大抵のものは目利きができるのじゃよ」
「まあ! ……うふふ♪ それは失礼いたしました。年上のお爺さまだったのですね」
なるほど、自分はからかわれているんだ。とスズナは思った。
しかし、あの傘が英国の老舗ブランドなのは事実だった。
目利きができるのは本当だろう。
恐らく少年はスズナと同じく、どこぞやの名家の御曹司なのかもしれない。
「あんな高級品を見知らぬ少女に渡してよかったのかね?」
「もちろんです。雨のせいであの子が悲しんだり、風邪をひいてしまうほうがスズナは悲しいです」
「ほっほっほっ。本当に感心なお嬢さんじゃ。孫に欲しいくらいじゃわい」
「お褒め頂き光栄です、お爺さま。」
少年の老人っぽい口調は、尊大な自分を演じたいからかもしれない。
少年のそんな微笑ましい振る舞いにスズナはノってあげることにした。
「ご両親の教育がさぞよかったのじゃろうな」
「確かに厳しい両親でした。でも、おかげで私は黄瀬家の娘として恥じぬ生き方を……」
そう言いかけたところで、スズナの口は止まった。
黄瀬家の娘として恥じぬ生き方。
いま自分にそれができていると断言ができなかった。
「ふむ。何かお悩みを抱えていらっしゃるかな? どれ、よければ儂が占いをしてさしあげよう」
「占い、ですか?」
少年は水晶玉を取り出して、スズナに自信に満ちた顔を向ける。
「儂は数百年生きておるからな。占星術、算命学、四柱推命……あらゆる占いを習得しておる。良い子であるお嬢さんには特別でタダで占ってさしあげよう」
「本当ですか? では、せっかくですし、お言葉に甘えて……」
どこまで本当のことかはわからないが、スズナは笑顔で応じた。
少なくとも、このモヤモヤした感情を忘れる良い気分転換になると思った。
心優しい少年に感謝しつつ、スズナは耳を傾けた。
「ふむふむ……なるほど。財閥の娘として幼少期から習い事の日々だったようじゃな。幼い娘にとっては、さぞ過酷な毎日だったのではないかな?」
「まあ、凄い。正解です!」
スズナは大袈裟に驚いてあげた。
少年の口にしたことは、スズナが令嬢であることを知っていれば誰でも予測できることだ。
だがスズナは少年の自尊心が傷つかぬように反応を示してあげた。
しかし……、
「ほう。だがお嬢さんは泣き言も言わず、習い事をこなしてきたんじゃな。尊敬する母親のようになりたい。その一心で厳しい指導にも耐え抜いてきた」
「え?」
「好きな習い事はバレエ、生け花、バイオリン。特に母親とセッションができる音楽は一番の楽しみだった。逆に苦手だったのは柔道や剣道といった武道。もっとも、精神的に苦手というだけで、技はきっちりと身につけているようじゃの」
まるで見てきたかのような指摘を前に、スズナは唖然とした。
「ど、どうしてそんなことまで……」
「言ったじゃろ? 儂は長生きしておるんじゃ。人相を見るだけで、その者がどういう生涯を送ってきたか見抜けるのじゃよ」
少年の丸い瞳がスズナを射貫く。
無垢であるはずのその瞳に、何か深いものが宿っているようにスズナは感じた。
「お嬢さんの類い希な善性は教育がよかったこともあるじゃろうが、それ以上に母君の存在が大きいと見える。立派な母君という指針があったからこそ、恵まれた環境、豊富な財があれども、歪むことなく真っ直ぐな心を手にしたのじゃな」
「あ、あなたはいったい……」
少年の謎の迫力に、スズナは思わず後退した。
「……じゃが、お嬢さんの場合、母君の真似事をしているだけじゃな。『お母様なら、こんなことはしない』『だから自分もこうすべきだ』と……そうやって振る舞ってきたに過ぎぬ。自分の心に耳を傾ける前に、母君の真似事を反射的にやってしまっている。それによって、お嬢さんは自身の本心を見失っておる」
「っ!?」
「心当たりがあるのではないかな? 長らく『自分が何をしたのいか?』目標を見定めることができなかったのではないかな?」
少年の指摘にスズナは息を呑む。
当たっている。
ルカに出会う前のスズナは、まさにそうだった。
恵まれた環境、恵まれた教育。
その恩恵を受けながら、しかしスズナには何かを叶えたいという強い願望がなかった。
この世に怪異という恐ろしい存在が居ると知ってからだ。
自分のできる範囲で、苦しむ人々を助けなければならないと使命感に燃えたのは。
なぜなら……。
「『お母様だって同じことをしたはずだ』……そうじゃろ?」
「っ!?」
まるでスズナの心の中を覗いているように、少年は言った。
「お嬢さんは、いま選んだ道を自分の意思で決めたと思っておるじゃろ? ……ところが違う。やはり母君の模倣をしているに過ぎないのじゃよ」
「ち、違います! スズナは望んで、人助けの道を選んだのです! 決してお母様の真似事では!」
「……では、なぜいま自分の本心から目を逸らす?」
「え?」
「お嬢さんはいま、生まれて初めて芽生えた感情に翻弄されている。かつて、いだいたことのない思考に困惑し、そして自己嫌悪している。違うかね?」
「そ、それは……」
「お嬢さん。君は、母君の真似事をするばかりに、自らの本心、本音に耳を傾けることを怠ってきた。そのまま成長してしまったのじゃ。それはある意味、無垢な存在とも言えるが、同時に自己の薄い人形とも言える」
「人形……そんな、違います……スズナは、スズナの意思で……」
「それじゃよ。自分のことをときどき『スズナ』と名前で呼んでおるじゃろ? それは、自分を俯瞰から客観視している証拠じゃよ」
「え?」
「自分を自分でありながら、他人のように見ていたのじゃ。『母の意思を継いだ、聞き分けの良い娘』として振る舞うためにな」
少年の口元が、三日月のように裂ける。
「いまのお嬢さんは、ただ自動的に善行をするお人形に過ぎん。事実、さっき助けた少女がどうなるか、想像もできておらん」
「え?」
「雨に濡れずに済んで良かった? ああ、そうじゃな。じゃが、あんな高価な傘を押しつけられた一般家庭はどうなると思う? 儂には悪いことしか起きん気がするがな」
少年の言うことがスズナには理解できなかった。
なぜ困っている人に傘を渡して悪いことが起きるというのか。
「普通の傘であったなら、そこまで問題にならなかったであろう。じゃが少女が持ち帰ったのは英国の老舗の一品じゃ。そんなものを無償で持ち帰ってきた娘を見て、母親はどう思うかのう?」
「え?」
「『盗んできたのか?』と責められるやもしれない。『こんな高価なものを貰うなんて』と叱られるやもしれない。いや、もしも悪知恵の働く親であったら、これに味を占めて娘を利用して『もっと貰ってこい』と荒稼ぎを目論むやもしれん」
「そ、そんな! あの子のお母様がそんなひどい人であるはずがありません!」
「見たこともないのに、なぜそう言い切れる?」
「あの女の子の態度がその証拠です! お母様を深く敬愛しているお顔をしていました!」
「一方的な愛やもしれんぞ? 子は親を選べぬからなぁ。贈り物で母の気を引きたくて必死だったやもしれぬ」
「な、なんてことを、おっしゃるのですか!」
「仮にあの家庭が温かな家庭だとしても、高価なものがあると知った盗人が入り込む危険性があるやもしれぬぞ?」
「っ!?」
「わかるかねお嬢さん? 善意のつもりであの少女に渡したものは、そういう不幸の火種になりかねない代物なんじゃよ。そんな想像もできず、ただ『お母様のように』と真似事で人助けをする」
少年の顔から、笑顔が消える。
「──虫唾が走るわ」
心底不快とばかりに少年は吐き捨てた。
「所詮は温室育ちの世間知らずじゃな。富無き者が、どれだけ惨めな暮らしをしておるか、おぬしにはわからんのか?」
少年の手から水晶が手品のように消える。
代わりに、杖が出現する。
杖の上部に、髑髏がついた不気味な杖が。
「おぬしには想像できるか? 一食すらにもありつけぬ飢えの苦しみというものが」
コツコツと杖をつきながら少年が迫ってくる。
「いい加減にお人形ゴッコはやめる時期じゃよお嬢さん。おぬしは──自分の『醜い本心』と向き合わなければならん」
いつのまにか、周囲に濃い霧が漂っている。
まるで山の中のような空気がスズナの肌にはりつく。
霧の中で、少年は異様な気配を放ちながらスズナを見据える。
その瞳が、毒々しい緑色に光っている。
「あなた……何者、なんですか?」
震える声でスズナは聞く。
目の前にいる相手を、もはや幼い少年とは思えなかった。
得体の知れない何かを前に、スズナは子どものように震える。
少年は竹笠帽子を深々と被って、妖しい笑みを浮かべる。
「
杖についた骸骨も、光を発する。
カタカタと音を鳴らして、閉じていた口元が開き、おどろおどろしい瘴気が散漫する。
「儂が力を貸してあげよう。おぬしの本性を暴いてみせよう。目に見える形で、おぬしに突きつけてやろう」
「い、いや……来ないでっ!」
「無駄じゃ。この街はすでに……儂の領域じゃ」
「ひっ!?」
深緑の瘴気がスズナを包む。
スズナの悲鳴が霧に溶けて消えてゆく。
「始めようか、お嬢さん。おぬしはいったい……どんな分身を生み出すのかのう?」
邪悪な笑みを浮かべながら、妖円丸は姿を消した。
* * *
スズナちゃんの自宅から電話がかかってきたのは、夜に差し掛かった頃だった。
電話をしてきたのは、スズナちゃん専属の使用人である『ばあやさん』からだった。
『大変なのです白鐘様! どうかお助けください!』
「落ち着いてください、ばあやさん。いったい何があったの?」
『お、お嬢様が……』
「っ!? スズナちゃんの身に何か!?」
スピーカー通話から聞こえた内容に、俺も思わず割り込む。
『お嬢様が……増えてしまいました!』
「「……はい?」」
『ああっ! また一人増えてしまいました! いけません! それは旦那様から送られた仕送りですよ! ああ、勝手に冷蔵庫を漁ってはなりません!』
何やら電話の向こう側が騒がしい。
数人のメイドさんたちが慌てる声と、小動物のような声が無数にする。
『ふえ~ん! ルカさ~ん! とにかく来てくださ~い!』
「え? スズナ?」
『スズナ、いったいどうしたらいいのか~!』
てっきり危篤状態にあるかと思ったスズナちゃんの泣き声が響いてくる。
一応、無事ということなのか?
いや、様子からして大変っぽいことはわかるのだが……。
俺とルカは顔を見合わす。
「……とりあえず、行ってみようか?」
「そ、そうだな」
かくして急遽、スズナちゃんが住むタワマンに向かう俺たちであった。