「ああ、ダイキ……行かないでくださいまし! 私を置いていかないで!」
愛しい人が去ってしまった空の彼方へ向けて。
「どうして? どうして私から離れてしまうの? あんなに……あんなに『愛してる』と言ってくださいましたのに!」
ずっと傍にいる、と言ってくれたのに。
永遠の愛の証を結ぼう、と誓ってくれたのに。
そのために心中をする約束をしたはずなのに。
死擦の中では、最愛の人物との逢瀬の思い出が、すでに数え切れないほどにできあがっていた。
「よくも……よくも私たちの心中を邪魔してくれたわね?」
氷のように冷ややかな声で死擦は振り向く。
自分たちの恋路を阻害する女狐たち。
この者たちがいる限り、理想の心中を遂げることは決してできない。
排除しなければ。
許してはおけない。
心中を邪魔するだけでなく、人の男に色目を使うような不届き者を。
「匂う……匂うわ……はしたなく発情する雌の匂いが! 忌々しい! 私のダイキを邪な眼で見ないで! 渡さないわ! お前たちみたいな泥棒猫どもに私の恋人を!」
死擦の髪が無数の蛇へと変化する。
蛇たちは死擦の心情を物語るように牙を剥き出しにして、少女たちを威嚇する。
「お前たちに私の神聖な『
死擦は愛の求道者から狩人へと切り替わる。
すべては最愛の殿方と理想の最期を迎えるために。
* * *
「だ~か~ら~! ダイキは私の恋人だって言ってんでしょうが~!! 泥棒猫はそっちなんだよ! この脳内お花畑心中マニア~!!」
「落ち着きなさい白鐘瑠花! 死擦の妄言に振り回されないで! 私たちがダイキに劣情をいだいているのは事実だけれども!」
「アンタこそ何言ってんのよ緋凰クレハ!? アタシは違うから! あんな鈍感ビビリのことなんて何とも思ってないんだから~!!」
『ああもう! 戦いに集中して皆! いまはダイくんのことはどうでもいいから!』
騒ぎ立てるルカたちに向けて、天眼札からレンの叱咤の声が上がる。
即席の結界の中で天眼札を操作しながら、レンは死擦の出方を慎重に窺っていた。
『とりあえず私の読み通りだね。心中相手であるダイくんが居なければ、死擦はあの霊術を使ってこない』
「ええ、ダイキを死擦から離したのは英断よ赤嶺レン。さっき私たちはダイキと死擦の心中に巻き込まれたに過ぎない。でも、その肝心な心中相手が居なければ、死擦が霊術を使う意味はない」
レンの予想にクレハが同意を示す。
死擦の『死出の坩堝』は、熟練した霊能力者であっても回避不可能な一撃必殺に等しい。
たとえ死擦の気まぐれで蘇生できたとしても、連続で受ければ命よりも先に精神が限界に達し、自害に誘導されかねない。
事実、死擦はそうして多くの霊能力者たちを自滅させてきたのだ。
死擦が最も能力を発揮するのは、心中候補となる男がいること。
即ち、まずダイキを不在にすることが死擦の攻略の入り口である。
レンはそう判断した。
「あなたはやはり賢いわ、赤嶺レン。ひとまず死擦が持つ手札の内、一番の脅威は封じることができたと見ていいわ」
『残る問題は再生能力と、一度受けた攻撃の耐性を得ること……』
「そして死擦の戦闘能力自体も純粋に高いわ。まったく、百年以上存在している侵徒なだけあって、厄介極まりないわね」
『でも、クレハちゃんにはそれに対する秘策があるんだね?』
「ええ。白鐘瑠花と藍神キリカにも手短に伝えておくわ。私の霊術は……」
死擦には届かない声量で、クレハは己の霊術について語る。
話を聞いたルカとキリカは目の色を変えて、クレハを見る。
『クレハちゃんっ……あなたっ、そんなものを背負って……』
レンも動揺を隠せなかったようで、その声は震えていた。
「憐憫は結構よ。そんな暇は無いのだから……来るわよ!」
蛇の群れが津波のごとく、クレハたちに押し寄せてくる。
「コソコソと何を話しているの!? どうせ私からダイキを奪う
怨嗟を上げながら死擦は黒い長髪を伸ばし、その先端を次々と蛇へと変えていく。
『シャアッ!』
無数の蛇が顎を広げ、鋭い牙で獲物を狙う。
「散開して!」
クレハのひと声でルカとキリカは霊装を構えて跳躍する。
鞭のように縦横無尽に飛来する蛇の群れ。
クレハたちは霊力で強化した動体視力を使い、蛇たちの隙間を縫い、攻撃を躱す。
蛇は勢いを維持したままコンクリートの床に直撃し、砂埃を起こす。
──じゅうぅぅぅぅ……っ
蛇が食らいついた箇所は、まるで蝋燭のように爛れていった。
「見ての通り、死擦は強力な酸を使うわ! 直撃を受けたら溶かされるわよ!」
クレハは蛇の顎を回避しつつ、ルカとキリカに情報を伝える。
「そして赤嶺レン! 指揮はあなたに一任する! 作戦はもうできたんでしょ?」
『うん! ルカ、キリちゃん! 二人はクレハちゃんのサポートに徹して! クレハちゃんが死擦に接近できるように、攻撃を捌ききって!』
「できれば私が引導を渡したかったけど……この際、仕方ないよね!」
「ええ、この場は彼女の霊術に賭けるしかないわ!」
レンの指示を聞いて、ルカとキリカは蛇の群れを薙ぎ払う。
『クレハちゃん! 死角からの攻撃は私が伝える! そのまま死擦に近づいて!』
「お言葉に甘えるわ」
クレハは地を蹴りつつ、鞘から剣を引き抜く。
月光を跳ね返す白い両刃。
その刀身にクレハは親指を押し当て、血液を垂れ流す。
「■■を宿せ──『
クレハの血を浴びた刀身が、緋色の輝きを纏う。
まるで炎が揺らめくように。
「覚悟しなさい、侵徒」
緋色の剣を握ったクレハが、夜空を背に駆ける。
「さあ──悪夢を見せてあげるわ」
* * *
「そんな剣一本でどうしようというの? 愚かな娘だこと!」
死擦は自分に向かってくるクレハに冷笑を向けた。
侵徒狩りの緋凰クレハ。
多くの同胞が彼女の手によって討ち滅ぼされていることは、死擦も耳にしている。
だが自分は問題ない。
どんな霊術であろうと、その死は克服される。
理想の心中を運命の殿方と遂げるまで、滅びるわけにはいかないのだから。
そもそも名うての霊能力者ほど、その戦術は知れ渡ってしまうもの。
事実、クレハとの戦いで生き残った同胞たちから、すでに情報は共有済みだ。
(何を仕掛けたところで無駄よ! 知っているのよ、あなたの霊術は……)
そう、クレハの霊術は■■である。
「……え? あれ?」
死擦は自分の思考に困惑する。
いま肝心なこと思い出そうとしたのに、まるでそこだけノイズがかかったように記憶が霞んでいる。
おかしい。思い出せない。
確かに仲間から聞いたはずなのだ。クレハが使う力を。
聞いて、思ったはずだ。
緋凰クレハは危険だと。
絶対に相手にしてはいけないと。
(……なぜ?)
なぜ死を克服する自分が、緋凰クレハを脅威に思わなければならない?
いや、そもそも、どうして一部の記憶だけが抜け落ちているのか?
なぜいまになって、それを自覚したのか。
そして、この胸騒ぎは何なのか?
得体の知れない感覚に、死擦は薄気味悪い思いがした。
(……関係ないわ。そもそも、ここで仕留めてしまえばいいだけのこと!)
そう、さっさと始末してしまえばいいのだ。
蛇と化した髪先でクレハを狙う。
だがルカの鎌が、キリカの木刀が、蛇の群れを斬り刻み、クレハに道を造っていく。
(忌々しい娘ども! こうなればまずはあの二人を消してから……)
死擦は矛先をルカとキリカに向けようとした。
その瞬間、クレハが挑発的な笑みを浮かべた。
「あらあら、恐ろしい顔つきだこと。ダイキが見たら、なんて思うかしら?」
「……なんですって?」
「いまのあなた、般若よりも醜いわよ? まあ、女の命である髪をこんなおぞましい蛇に変えている時点で、乙女として終わってるけど。こんな醜女に好かれるダイキが気の毒だわ」
「……っ!」
憤怒の炎が静かに燃え上がる。
「黙れ黙れ黙れ! 泥棒猫の分際で私のダイキを知った風に言うな!」
死擦は誓う。
やはり、まずはこの女を仕留める。
それも、最もおぞましい手段で。
死擦の額に、一筋の切り傷ができる。
切り傷の中から、ギョロリと血走った一つ目が現れる。
「腐り果てろ、女狐!」
運命の殿方を卑しくも狙う女。
この術は、そんな女に絶望を突きつけ仕留めるために編み出したもの。
言うなれば、一種の呪いであった。
この一つ目を見た女は、自らの体が醜く腐り果て死んでいくのだ。
クレハはすでに死擦の間近まで接近していた。
琥珀の瞳は、はっきりと額の一つ目をとらえている。
死擦は満足げに嗤う。
勝った、と。
「……それを使うのを待っていたわ」
「え?」
おぞましい物体へ成り果てるはずのクレハの体は──。
月光を浴びたまま、その美貌を維持していた。
(な、ぜ?)
死擦の頭が真っ白になる。
その不意を突かれた。
緋色の剣光が死擦に突き刺さる。
「がっ、はっ……」
「残念だけど、私に呪いの類いは効かない」
「あっ、あぁぁぁあぁぁぁぁあぁっ……」
「──
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!?」
死擦の喉元から、絶叫が上がる。
思わず耳を塞ぎたくなるような悲鳴であった。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!」
死擦はのたうち回る。
全身に駆け巡る痛みによって。
胸を剣で突かれた。
只人であれば、確かに正気でいられない激痛であろう。
だが死擦は生ける屍である。
胸を突かれる痛みなど、もはや慣れ親しんだもの。
そもそも、それを苦痛に感じることすらない。
だというのに、その痛みには耐えれなかった。
痛みという感覚を突き詰めたような衝撃が全身を襲う。
(こ、これは、まさかっ!?)
意識が遠のきそうな苦痛の中で、死擦は理解する。
これは物理的な損傷による苦痛ではない。
先ほど自分がクレハに向けた術と同じ類い。
そう、これは……。
「【痛覚の呪詛】。それを貴様に与えた」
「あがぁっ……」
「無限に再生する以上、貴様は滅ぼせない。滅ぼせないのなら……
「【呪詛】……ですって? あなた、いったい……」
「貴様があらゆる死を集めた
「っ!?」
死擦は瞠目する。
恐らく、クレハの身に宿るものを与えられたからだろう。
クレハの体内に、数え切れないほどの呪いが宿っているのが、はっきりと見えた。
まさか、と死擦は戦慄する。
……ほんの一部だというのか?
これほどの苦痛が伴う【呪詛】が。
クレハにとっては、一滴の血と同じように過ぎない。
数ある【呪詛】の内の、ほんの一部だというのか?
「生じたが最後。決して消えない不滅のエネルギーである【呪詛】。そんな【呪詛】を封じるための器が必要だった。それを可能とした特異体質を持つ人間たち……この世のあらゆる【呪詛】は、その一族が一身に引き受けた」
クレハの琥珀色の瞳が、冷ややかに死擦をとらえる。
「これこそが緋凰家の秘術。貴様ら常闇の侵徒を地獄に突き落とすために引き継いだ、私の力よ」