【悲報】ビビリの俺、ホラー漫画に転生してしまう   作:青ヤギ

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悦楽の夢

 

 大谷清香。享年、二十一歳。

 高校時代にスカウトされデビュー。

 その美貌と抜群のスタイルから、一躍人気のグラビアアイドルとして活躍。

 演技力にも優れ、近々、彼女を主演としたドラマが造られる予定であった。

 アイドルとして順調に栄華を極めようとしていた彼女だが……不運が訪れる。

 その不運とは、ネットによる炎上であった。

 

 ──体つきが不自然。きっと豊胸手術をした偽乳。

 ──いきなりドラマの主演に選ばれるわけがない。きっと関係者と寝たんだろう。

 ──清楚系で売り出しているけど、男を取っ替え引っ替えしてるただのビッチ。

 ──男に媚び売りすぎ。素直にAVに行け。

 ──さしてトークもうまくない。見た目と体だけの女。

 ──この間、テレビ局の重役とホテルから出てくるのを見た。きっと不倫しまくってる。

 

 それは、どれも根も葉もない憶測であり、よく見られる悪質な書き込みに過ぎなかった。

 ファンたちの間では「恐らく、あまりにも男受けする要素を持った彼女のことが気に入らない喪女たちによる嫉妬だろう」と囁かれていた。

 ……真相はともかく、冷静に考えれば、悪意に満ちた妄言に過ぎないと誰でもわかる。

 だが、この手の話題で盛り上がる連中にとって、真実など関係ない。

 彼らにとって重要なのは「格好の標的(オモチャ)」を見つけることだからだ。

 

 根拠のない噂は、瞬く間にネットに広まった。

 純粋なファンたちは必死に擁護の書き込みをしたが、どれも火に油を注ぐ結果に繋がるだけだった。

 フェイクニュースをすっかり信じ込んだ一般人たちは、無責任な発言で大谷清香を叩き出した。事務所には抗議の電話も殺到したという。

 マスコミのしつこい取材も重なったことで、すっかり精神的に参ってしまった大谷清香は、活動を休止せざるを得なくなった。

 

 どうやら大谷清香の地元は俺たちの住む街だったようで、静養も兼ねて彼女はつい最近、帰郷してきたのだった。

 ……そして、彼女は帰らぬ人となった。

 河川敷で、溺死体として発見されたのだ。

 遺体から大量にアルコールが検出されたことから、ヤケ酒で悪酔いしながら歩いているところで、運悪く河に落ちてしまったのだろうと警察は推測した。

 不幸な事故としてこの事件は占められたが……一部では「自殺ではないか」と言われている。

 遺書は発見されなかったので、それすらも所詮は根も葉もない憶測に過ぎないが……どちらにせよ、若き女性が、それも女優として輝かしい未来を掴んでいたかもしれない才能の持ち主が、こんな末路を辿るだなんて……あんまりにもあんまりである。

 

「ひどいな、これは……」

 

 帰宅してから大谷清香について個人的に調べてみたが、どの記事も見ていて気分の悪くなる内容ばかりだった。

 

「かわいそうだな、大谷清香……」

 

 購入してきた大谷清香のファースト写真集を手に取る。

 ここに、彼女が生きた証がある。

 写真の中の彼女は、とても素敵な笑顔を向けている。

 これを作り笑いとは思いたくない。

 彼女は心の底から、この仕事を誇りに思って、そして何より楽しんでいた。そう感じる写真だった。

 彼女のインタビュー動画も見てみた。

 媚びを売っているような印象はなかった。

 どちらかといえば、話すことに不慣れな感じで、それでも懸命にファンのことを第一に考えたコメントを残していた。

 きっと、真面目で仕事熱心な人だったのだろう。世間の悪評とはまるで真逆だ。

 彼女は間違いなく自身の実力と努力で人気を得ていた。

 

 ……それなのに、彼女の栄光は人々の悪意によって妨げられ、挙げ句の果て命を落としてしまった。

 こんなことが許されていいのだろうか?

 

「……くっ! なんてことだ! 俺は……俺は忘れないぞ! 大谷清香という素晴らしいアイドルがいたことを!」

 

 ページを捲る。捲れば捲れるほど涙がどんどん溢れてくる。

 素晴らしい……素晴らしく、美しい写真だ。こんなの男なら、皆ファンになるに決まっているじゃないか。

 もっと、もっと彼女の活躍を見届けたかった。だがそれはもう叶わない夢物語になってしまった……。

 ちくしょう! 世の中はなんと理不尽なんだ!

 

「う、うぅ……清香さん。生まれてきてくれて、ありがとう。俺、アンタのことを胸に刻みつけるよ」

 

 一ページ、一ページ、噛みしめるように写真を鑑賞しながら、俺は大谷清香の存在を目に焼き付けた。

 

「ずっと、ずっと覚えているよ。うぅ、うううぅう……うっ!」

 

 その夜は、久しぶりにスッキリした気分で眠りにつくことができた。

 

 

 

   * * *

 

 

 

 夢を見ている。

 いま自分が夢を見ている自覚がある。明晰夢というやつだ。

 というのも、今日起こった出来事がまるで動画再生のように繰り返し起こっているからだ。

 怪異の仕業でない限り、夢に違いないだろう。

 

「あら? ダイキさんじゃないですか? 奇遇ですね♪」

 

 白を基調とした品の良い私服に身を包んだスズナちゃんが登場する。

 どうやら、大谷清香の写真集を買おうとしているところでスズナちゃんに出くわしたことが自分的にはよほど恥ずかしかったようだ。

 印象深い出来事が夢の中で再現されるのは良くあることだ。

 

「うぅ……ダイキさん。あなたは、本当にお優しい御方なのですね? ……この若さでお亡くなりになったこの御方のことを思って、写真集を購入されようとしたんですよね? ああっ、私ますますダイキさんのこと尊敬してしまいます」

 

 まあ結果的には、スズナちゃんにまたもや敬われる形になったので必要以上に気にすることはないのかもしれないが。

 

 ただ……この後、羞恥とはまた別の意味で印象深い出来事が起きたので、こうして夢を見てしまうのかもしれない。

 

「それにしても……本当にお可哀想です。あまりにも早すぎます」

 

 心優しいスズナちゃんは、見知らぬ他人の不幸であっても我が事のように悲しんでいた。

 

「何か思い残されることはあったのでしょうか? もしあるのなら、叶えてあげてさしあげたいです……」

 

 オカ研として様々な怪奇現象に関わり、多くの霊たちの悲しき無念と向き合ってきた俺たち。

 その影響か、俺もスズナちゃんも死者を悼む気持ちが普通の人よりも強い。

 

 大谷清香。アイドルとして、まさにこれからというときに、彼女は理不尽な罵詈雑言を浴び、その栄華を断たれてしまった。

 未練? あるに違いない。

 

「……もしも彼女の魂が成仏できずにこの世を彷徨(さまよ)っているのなら、オカ研として私たちが救ってあげたいですね」

 

 スズナちゃんが祈るように手を組み、呟いたそのときだった。

 

 ──優しい……優しいのね、あなた……。

 

 スズナちゃんとは別の、女性の声が聞こえた。

 

 ……ん? 待て?

 何だコレは? こんな声、あのときは聞こえなかったぞ?

 ……いや、なに夢に対して真面目にツッコミを入れているんだ俺は。

 べつに記憶の回想を映像として見ているわけではないのだ。夢なのだから、何が起こったって不思議ではない。

 ただ……。

 

 ──そうなの。私、まだやり残したことがたくさんあるの。だから……。

 

 ただ、なんだ? この言い知れぬ不安は。

 

 ──お願い。あなたの……貸して?

 

 危機感が募る。確かこの後、スズナちゃんは……。

 

「あれ? 急に目眩が……」

「っ!? スズナちゃん!」

 

 とつぜん倒れ込んだスズナちゃんを慌てて受け止める。

 そうだ。現実でもスズナちゃんはこうして唐突な立ち眩みで倒れたんだ。

 

「大丈夫かスズナちゃん!? どうしたんだいったい!?」

「……あ、ダイキさん。あれ、私……すみません、何だかいきなり意識がボーッとしてしまって。でも、もう大丈夫そうです」

「そんなわけないだろ。念のため病院に……」

「いえ、本当に大丈夫なので、どうか大袈裟にしないでください。それよりもダイキさん、その……手が……」

「え? ……ハッ!?」

 

 スズナちゃんを抱き止める瞬間、俺の手は彼女のたわわな胸を鷲掴んでいた。

 毎度お馴染みのラッキースケベ現象である。

 これも実際に起こったことだ。

 なんということだ。夢の中とはいえ、またしてもスズナちゃんの胸の感触を味わってしまうとは。

 

「す、すまんスズナちゃん! わざとじゃないんだ!」

「は、はい。わかっています。いつものことですし、気にしてません」

 

 確かにいつも通りのことではあるが、そこは苦笑を浮かべるところではなく、怒るところだと思うぞスズナちゃん。

 

「……それに、私、ダイキさんになら、もっと触ってほしいです」

「……え?」

 

 ……言っていない。

 このときのスズナちゃんは、そんなことは当然言っていない。

 大事を取って、そのまま真っ直ぐ帰ったはずだ。

 だが、目の前のスズナちゃんは、どこか蠱惑的な笑みを浮かべて、俺の手を掴む。

 

「いいんですよ? もっと、強引に触っていただいても。ダイキさん、お好きでしょ? 女性の大きなお胸が」

「ス、スズナちゃん?」

 

 スズナちゃんは華奢な両手で俺の片手を取り、自ら胸元へと導いた。

 公式設定でB96cmのIcup。小柄な体格に見合わない大きく柔らかな肉房に、指が沈み込む。

 

「ス、スズナちゃん!? な、何してるんだ!? い、いけないよこんなこと!」

 

 俺は慌てて手を引っ込めようとするが、なぜか離れない。

 おかしい。スズナちゃんにこんな握力はないはず。

 夢の中だからか?

 普段なら簡単に振り解けるはずのパワーが出てこない。

 

「ふふ、スズナにはわかっていますよ? ダイキさん、本当はずっと、こういうことがしたかったのですよね?」

 

 いつもの可憐なスズナちゃんとは異なる、妖艶な微笑みを貼りつけて、彼女は俺を押し倒す。

 抵抗することもできないまま、スズナちゃんが俺の上に跨がってくる。

 いつのまにか、周りの景色も変わっている。

 本屋の風景はいずこかへ。真っ白な空間で、俺とスズナちゃんの二人だけになる。

 

「スズナ、もう我慢できません。気持ちを抑えきれないんです……ああ、ダイキさん。見てください、スズナの、はしたなく育った体……」

 

 まるで見せつけるように衣服を脱いでいくスズナちゃん。

 薄桃色の下着だけを身につけた、あられもない姿になっていく。

 豊かな乳房。くびれたウエスト。丸い腰元。

 相も変わらず、童顔で小柄な少女のものとは思えない、肉感的すぎる体つきだ。

 穢れの一切ない色白の肌が、俺の体に密着する。

 いつのまにか俺も一糸まとわない姿になっていた。

 肌と肌が触れ合い、心地よい感触に包まれる。

 

「ああ、なんて逞しい体……。私、ずっと夢見ていたんです。あなたのように素敵な男の人とこうすることを……」

 

 少女の手がゆっくりと俺の体を這う。

 ゾクリとした快感が走り抜ける。

 

「や、やめるんだスズナちゃん……君は、こんなことをする子じゃ……」

「どうしてですか? 女の子だって、いやらしいことをしたいんですよ?」

 

 ペロリと、少女は舌なめずりをする。

 極上の獲物を前にした女豹のごとく、熱い眼差しを俺の体に注ぐ。

 

「だって、私……ずっと我慢してきたんだもの。ちゃんと大人たちの言うとおり、恋愛も我慢して、どんな仕事も頑張ってこなしてきた……なのに……何ひとつ、報われなかった。だから、いいでしょ? 少しくらい、こうして思い出を作ったって」

「ス、ズナ、ちゃん?」

 

 スズナちゃんの口調に、どこか違和感を覚える。

 いつもスズナちゃんの喋り方からは、育ちの良さが伺える。

 だがいま目の前のスズナちゃんからは、それを感じない。

 まるで、別人のような……。

 

「ねえ、いいでしょ? あなたも、私のこと好きよね? なら、それでいいじゃない」

 

 俺は目を見開く。

 スズナちゃんの金色の瞳が、赤く光っている。

 

「嬉しい……嬉しいわ……私のことをこんなにも強く思ってくれるなんて。こんなにも激しく求めてくれるなんて。私、あなたみたいな男の子と出会いたかった……」

 

 スズナちゃんの輪郭が変わっていく。

 元々大きいスズナちゃんの胸がさらに大きくなり、体つきもますます扇情的になっていく。

 

「こんな気持ち、初めて……。ね? 素直になろ? どうせ、夢の中なんだから。あなたも、いっぱい、いっぱい、幸せな気持ちになって? 私、何でもしてあげる」

 

 ……なんだろう? とってもいい香りがする。

 頭が幸せな心地になるような、細かいことなんてどうでもよくなるような、甘い香り。

 ……ああ、この香りを嗅いでいると、すごく気分がいい。ずっと、ずっと嗅いでいたい。

 

「さあ、一緒に楽しみましょう?」

 

 豊満な女体がしなだれかかってくる。

 心地よい重みが加わって、意識が朦朧としてくる。

 

 ……そうだ。夢の中なんだから、別にいいじゃないか。

 ルカだろうと、レンだろうと、スズナちゃんだろうと……相手が誰であろうと。

 そう……たとえ相手がこの世にいない筈の女性だろうと。

 

「忘れないで……私を忘れないで……刻んで……私で、染まって……」

 

 ねだるように、請うように、あるいは懇願するように、女が囁く。

 溶けるような快楽の波に翻弄されながら、真上で乱れる女の顔を見る。

 それは……。

 

 狂ったような笑みを浮かべる、青ざめた肌の大谷清香であった。

 

 

 

   * * *

 

 

 

「ダイくん? どうしたの? 元気なさそうだね?」

 

 いつものように部室に行くと、俺の顔色を見たレンが心配そうに聞いてくる。

 

「ああ……なんか、朝からちょっと体が妙にダルくてさ……」

 

 今朝は気怠い感覚で目覚めた。

 夜更かしはせず、いつも通りの時間に横になって充分に眠ったはずだが。

 変だな? 夢見もすごく良かったはずなのに……。

 あれ? でもどんな夢だったっけ? 何だか、すごく気持ちの良い夢だったのは覚えているんだが……。

 

「無理はしないほうがいいよダイくん。最近タチの悪い風邪が流行ってるみたいだから。ほら、ルカとか完全にひいちゃってるし」

「ぐしゅぐしゅ。お鼻が詰まっててお菓子の味がわかんにゃいよぉ……」

「ああ……ルカのは、なんというか自業自得だから」

 

 だからあれほど下着姿で自撮り写真を撮りまくるんじゃないと言ったのに。

 そりゃ風邪もひくわ。

 

「こうなると、ルカが治るまでは当面依頼は引き受けられないな」

「え? なんで?」

「ルカって体調悪くなると霊力も弱まっちゃうんだよ。この状態だと簡単な除霊も難しくなるな」

 

 ルカの能力は体調面に左右されやすい。

 風邪などひいた場合、まるで鼻づまりのように霊視や怪異の気配を察知するのも難しくなる。

 

「あと、一度病気になると甘えんぼモードになって全体的にポンコツ化してしまうんだ」

「ダイキ~。だっこ~。頭よちよちして~」

「あら、ほんと。心なしかルカが二頭身サイズに見えてきたよ」

「ああ、俺は『チビルカ』と呼んでいる」

 

 コアラのように引っ付いて甘えてくるルカの頭をよしよしと撫でる。

 幼児退行するあまり体格までデフォルメ化したように錯覚するが、もちろん錯覚は錯覚なので絵面としては相当アレな光景である。

 

「ほら、チビルカちゃん。ダイくん今日は具合悪いみたいだからあんまり負担かけないの。こっちでレンお姉さんと遊びましょうね~?」

「や~。ダイキがいいの~」

「え? やだ、この状態のルカ超かわいいんだけど。食べちゃいたい……」

「ぴぃ!? ダイキぃたちゅけて。ルカ食べられる~」

「はいはい。あんまりその状態のルカを脅かさないでね部長様……」

 

 とりあえず甘えんぼモードになってしまったルカはレンに任せといて、俺は少しソファーに横になるか。

 休み時間の合間に眠ってはいたが……どうにも気怠さが取れない。

 俺も風邪気味かな?

 

「ふわぁ……」

「あれ? スズナちゃんもお疲れ気味?」

「あっ、す、すみません。はしたないところを見せてしまって」

 

 あくびをしているところを見られたスズナちゃんが顔を赤くする。

 

「……やっぱり、具合良くないんじゃないか? 昨日も急に倒れたし」

「いえ、体調面は問題ないのですが……少々、刺激的な夢を見てしまったもので。あまり眠れていないんです」

「夢? どんな?」

「そ、そんなこと口にできません! と、とてもはしたない内容ですから……はう」

 

 そう言ってスズナちゃんはリンゴのように赤くなった顔を手で覆い隠した。

 

「あれ? スズちゃん、香水つけた? 何かいい香りするよ?」

 

 ルカを抱えてやってきたレンが、鼻をスンスンとしながら言う。

 

「香水、ですか? いえ、つけてないですけど……」

「そう? でも凄くいい香りするけどな~。ルカもそう思うでしょ?」

「ずびび。鼻詰まってるからわかんにゃい……へっぷち!」

「あらら、大きな鼻水。はい、チビルカちゃん。チーンしまちょうね~」

「チ~ン!」

 

 香り……。

 そういえば、部室に入ったときにもお菓子とは異なる甘い香りがしたような……。

 その香りは心無しか、スズナちゃんから香ってくるような気がした。

 どこか嗅いだような気がする。

 どこでだっけ?

 なんか、凄く素敵なことしているときに嗅いだ気がするんだけど……。

 

「……ふふ」

 

 ん? いま、誰が笑ったんだ?

 聞き覚えのないような声だったけど。

 ……ああ、ダメだ。頭がボーっとしてきた。

 

「……ねえ、ダイくん? ちょっと本当に大丈夫? 顔色すごく悪いよ? 保健室行く?」

「保健室……ダイキと保健室……ルカも行く~」

「こらこら、保健室で何する気かなチビルカちゃん。……冗談はさておき、ダイくん本当に無理しないほうが……」

「ああ、そうだな。今日はもう帰って休むよ……」

 

 鞄を取ってノロノロと歩く。

 参ったな。足取りまでおぼつかない。

 

「ちょっとちょっと、ダイくんフラフラじゃん! 一人で大丈夫? 親御さんに電話して迎えに来てもらったほうが……」

「ダメだ。親は町内会の温泉旅行に行ってて、今はいないんだ」

 

 俺の様子を見て慌ててレンが心配してくるが、頼りになる両親はすでに家に不在である。

 

「あ、でしたらダイキさん! 私が送っていきます。ばあやに電話して車をすぐに呼びますから」

 

 そう言ってスズナちゃんが素早く送迎の車を手配してくれた。

 ……ここは素直にお言葉に甘えるとしよう。

 何だろう? あの香りを嗅いでから、どんどん力が落ちていくような気がする……。

 

 

 

   * * *

 

 

 

「……ダイキさん? ダイキさん、つきましたよ?」

「え? あ?」

 

 気づいたら高級車の座り心地の良い椅子の上で眠っていたようだ。

 車はすでに俺の家の前に到着していた。

 

「さあ、ダイキさん。私の肩に腕を回してください。部屋までお連れしますから」

「あ、ああ……ありがとうスズナちゃん」

 

 女の子に体を支えられるのは少し気恥ずかしいが、いまは文句を言っていられない。

 スズナちゃんと一緒に車から降りて、玄関に向かう。

 

「あ、それと……橘さん。私の荷物は玄関まで運んでください。あとは自分でやりますので」

 

 橘さんという運転手のメイドさんは、スズナちゃんの指示に従って何かしらの大荷物を玄関に置いた。

 彼女は深くお辞儀をして「ではお嬢様。ごゆるりとお楽しみください」と意味深な笑みを浮かべると車を発進させて去っていった。

 ……って。あれ?

 

「え? 運転手さん、帰っちゃったぞ? 帰りどうするんだスズナちゃん?」

「ご心配なく。迎えは明日の朝に来るように言ってありますから」

「明日の朝? それってどういう……」

「具合の悪いダイキさんを一人きりにするわけにはいきませんから。ですので! 今日はスズナがつきっきりでダイキさんのお世話をしてさしあげます!」

「はい?」

 

 スズナちゃんはニコリと無垢な笑顔を向けて、とんでもないことを言いだした。

 

「不束者ですが、一日ご厄介になります♪ うふふ♪ スズナに何でも言ってくださいね?」

「え、ええ~?」

 

 かくして、とつぜんスズナちゃんがお泊まりすることになった。

 しかも両親が不在の俺の家で。

 ……え? まずくないかい、それは?

 

「……本当に、何でも、おっしゃってくださいね。ふふふ……」

 

 玄関の扉が閉じられる。

 また、あのいい香りが鼻孔を突いた気がした。

 


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