良かれと思ったんだ。
あのまま強制的に除霊をしたら、彼女があまりにも報われない。
わずかな時間でもいい。楽しいひとときを過ごして、幸せな気持ちで成仏してほしかったんだ。
でも……それは、間違いだったのか?
俺が「大谷清香の一日だけの恋人になろう」と言ってしまったばかりに、こんなことになってしまったのか?
「ダイキくん……私、あなたが好き。優しいあなたのことが本当に好き」
スズナちゃんに取り憑いた大谷清香が、スズナちゃんの声で思いを打ち明ける。
「こんな気持ち……初めて。ああ、どうして生きているうちに、あなたに出会えなかったんだろう」
甘い甘い囁き。
男にとってこの上なく、嬉しい言葉。
しかし、いまそれを素直に受け入れることができない自分がいる。
足が一歩下がる。
冷や汗で濡れた肌を、生温かい夜風が撫でる。まるで見えないナニかの舌で舐められるような薄気味の悪い感触に、皮膚が粟立つ。
「羨ましいなぁ。スズナちゃんたちが、羨ましいわ。彼女たちはこれからもこれからもこれからもあなたと一緒に過ごせるのよね? ああ、本当に羨ましい。生きていれば、あなたと素敵な時間をもっともっともっと共有できたのに。ああ、本当に……生きているあなたたちが
「あ……あっ……」
呼吸が荒くなる。カチカチと繰り返し奥歯が鳴っていることに気づく。
足がさらに一歩下がる。
体が震える。
潜在的な恐怖によって。
目の前の相手は、あの愛らしい女の子であるスズナちゃんなのに。
その中にいるのは、憧れのアイドルである大谷清香なのに。
そんな相手に俺は……。
恐怖を感じている。
「ダイキくん。優しいダイキくん。あなたなら、私のお願いを聞いてくれるよね?」
「ひっ……」
白い細腕が伸びる。
指先が俺の首筋に触れる。
とても、冷たい。
デートをしているときは、あんなにも温かく感じていた彼女の体温が氷のように冷え切っている。
知っている。これは……。
死者の、冷たさだ。
「この世の未練? もう、そんなの、どうでもいいの。私はただ、大好きなあなたと、一緒になりたい。もうそれしか望まない。だから、ダイキくん。お願い」
彼女の口元が三日月のように歪む。
夜闇に包まれた河川敷の下で、まるで誓いの言葉を綴るように、彼女は俺に呼びかける。
一 緒 に 死 ノ ウ ?
【 《ダイキ》 から 《離れろ》 ! 】
夜空に響く言霊。
白い閃光が瞬くと同時に、見えない力によって相手は吹き飛ばされる。
「ダイくん! 大丈夫!? しっかりして!」
腰を抜かして倒れ込む俺をレンが受け止める。
眼前にはルカの後ろ姿。
俺を守るように立ち塞がる。
「ルカ……」
「ダイキ。もうわかってるでしょ? 私の言霊が
「……」
「大谷清香は……もう怪異になってる!」
「っ!?」
突きつけられる事実に歯がみする。
「そんな……どうして……どうして!」
思い描いていた未来とは異なる結果を前に、心が理解を拒む。
「清香、さん……」
言霊の力によって向こう側へ吹っ飛ばされた彼女を見やる。
強力な霊術をその身に浴びたにも関わらず、彼女は平然とそこに立っていた。
「ふふふ……アハハハ……」
嗤っている。
おぞましい闇色の瘴気を放ちながら、ソレは嗤っている。
「邪魔をしないでよ……私とダイキくんは向こうで幸せになるの。永遠に……誰にも邪魔されることなく……」
衝撃によって髪留めのリボンが外れたのか、彼女のツーテールがほどける。
シャイニーブロンドの長い髪が広がり、風に従って揺れる。
「いいわよ……望み通り、なってあげるわ……この世を憎み、呪いを撒き散らし、欲望のままにヒトを襲う……バケモノに!」
赤く発光する瞳。
闇の気配が密度を増す。
心臓を鷲掴みにされるような悪寒。
ああ、なんてことだ……。
本当に、本当に彼女は……。
もう認めるしかない。
清香さんは……俺たち人間の敵になった。
この空間は、完全に怪異の領域となった。
「見てダイキくん……私、こんなこともできるわよ?」
彼女の長い髪が、風に逆らうように蠢く。
伸びる。ただでさえ長い髪が、さらに伸びてく。
異様なまでの長さに伸びた髪が、まるで毛の一本一本が意思を持つように、触手のごとく逆巻いていく。
人外へと変質していくその様子を、横にいるレンが「ひっ」と悲鳴を上げる。
「やめて……やめてよ! スズちゃんがスズちゃんでなくなっちゃう!」
仲間の見た目が化け物となっていく。
とても耐えられる光景ではない。
「清香さん……スズナちゃん……くっ! ちくしょう……ちくしょう!」
……もう、やるしかない。
憑依されたスズナちゃんの体を取り戻すには……もう清香さんを、倒すしかない!
「ダイキは連れていかせない。スズナの体もこれ以上、好き勝手にさせない!」
声に怒りを滲ませてルカが叫ぶ。
「来い、
「ルカ!? どうしたの!?」
専用の霊装を取り出そうとしたルカだったが、とつぜん茂みに倒れ込む。
レンが慌てて駆け寄り、ルカを抱き起こす。
「やだ。すごい熱……ルカ、しっかりして!」
「はぁ、はぁ……」
「ルカ!」
もともと風邪で体調が悪かったルカの様態が、ここへきて悪化する。
ただでさえ霊術を使うにはその身に宿る霊力だけでなく、体力も使う。
さっきの言霊を唱えたところで、すでに限界だったのか。
消耗しきったルカは、苦しげに呼吸を繰り返している。
「あらあら。頼みの綱であるルカちゃんが使い物にならないみたいね?」
「くっ……なめ、ないで……これくらいのことで……私はっ……!」
相手の挑発で奮起したルカが、再び手を前にかざす。
「紅糸繰!」
ルカの指先から紅色に光る糸が標的に向かって伸びる。
霊力を帯びた複数の糸は、そのまま標的を捕らえるはずだったが……。
「……あはは。ざんね~ん」
シャイニーブロンドの髪が鞭のようにしなり、紅糸繰を弾く。
「いまは私のほうが強いみたい」
そんな!
霊力の差で、ルカが押し負けただと!?
なんてことだ。
いまのルカはそこまで弱体化してしまっているのか!?
「くっ……もう、一度……」
「ルカ!? ダメよ! そんな体でこれ以上霊力を使ったら!」
「でも、このままじゃ、スズナが……くぅ……」
レンの注意も聞かず、再度霊装を仕掛けようとするルカだったが、その右手は上がることなく地面に落ちた。
「……俺がやる」
「ダイくん!?」
懐から切り札であるお札を取り出す。
霊力の無い人間でも使用できる一回限りのお札。
ルカが戦えない以上、いま清香さんを除霊できる手段はこれしかない。
「無茶だよダイくん!」
「やるしかないんだ。俺の……俺の責任なんだ。俺のせいでこんなことになったんだ」
あの夜、スズナちゃんに清香さんが取り憑いているとわかった時点で、迷わずこのお札を使うべきだったんだ。
そうすれば……少なくとも清香さんの魂が穢れることはなかった。
スズナちゃんが危機に瀕することもなかった。
だから……。
「俺が必ず助ける。この命に替えても、スズナちゃんを取り戻す!」
「で、でも、そのお札はルカのお母さんが造った貴重なものなんでしょ!? 一度使ったら、もう代わりはないんでしょ!?」
「いま使わないで、いつ使うんだ!」
お札を握りしめて、駆け出す。
迷っている時間はない。
一刻も早く、スズナちゃんを助け出す!
「ダイくん!」
「レン! ルカを頼む!」
レンの静止の声を振り切って走り出す。
チャンスは一度きり。
対象にお札を貼りつけ、起動条件となる言葉を発せば、お札の中に込められたルカの母の霊力が発動し、除霊できるはずだ。
「ああ、ダイキくん嬉しいわ。あなたのほうから来てくれるなんて……でも、乱暴なのはだーめ。大人しくしなさい。お姉さんが優しく抱きしめてあげるから」
長く伸びる髪が蛇のように蠢き、俺の体を捕らえようとする。
「くっ!」
変則的に襲ってくる触手状の群れ。
……だが気配を感じ取れば躱せる。
ほぼ動物的な本能で、この身を絡め取ろうとする髪の包囲網をくぐり抜けていく。
「っ!? すごい……すごいわダイキくん! ああっ、なんてかっこいいの。あなたってやっぱり素敵……」
ウットリと恍惚しながらも、彼女の猛攻はやまない。
さらに髪の量が増え、隙間を埋めるように襲ってくる。
長期戦は不利だ。
距離を縮めろ。
最短で辿り着け。
込み上がる恐怖は誤魔化せ。
このままスズナちゃんを失う恐怖に比べれば、何てことないだろ。
走れ。足を動かせ!
「うおおおおお!」
「っ!?」
跳躍によって彼我の距離を埋める。
相手はすでに間近に。
手に持ったお札を張り手の要領で前に突き出す。
……許してください、清香さん。
あなたがこれ以上、人を脅かす存在になる前に、せめて俺の手で……。
「……忘れてないかな、ダイキくん?」
「あっ……」
ガクン、と膝から力が抜ける。
筋肉が弛緩し、立っていることもままならない。
甘い香りがする。
嗅ぐだけで意識が遠のき、どんどん脱力していく、この香りは……。
「そう。私には……この力がある」
「あ、あ……」
相手の意識を狂わせる甘い芳香。
失念していた。
そうだ、これは清香さんの霊としての能力。
あの夜にも、さんざん浴びた彼女特有の異能だ。
しかも怪異と化したことで、より強力となった芳香は意識だけでなく肉体の力まで奪っている。
これが、怪異としての大谷清香の力。
強すぎる。
これでは、何も抵抗できない。
「あっ、ぐっ!?」
「大丈夫。怖くないから」
触手と化した髪が俺の体に巻き付く。
体が!
まずい、このままでは……。
一か八かだ! ここでお札を発動するしか!
「……あ、べっ……れっ……おっ……?」
……喋れない。
口の筋肉が弱まって、呂律も回らず、ろくに言葉も発せない。
ダメだ。お札は俺の言霊を鍵として発動する。
これでは、お札が使えない。
「大人しくしてね? 痛いようにはしないから」
「あっ、かっ、はっ……」
赤く光る両目が、俺を愛しげに見つめる。
「安心して。すぐに終わるよ? 眠るように、気持ちよく……あなたの命を奪ってあげる」
「……かふ……こふ……」
吸われる。
生命力が吸われていく。
恐ろしい。
自分の命が徐々に削られていっているのに……それに心地よさを覚えてしまっている。
その快感を求めてしまっている自分がいる。
なんて、恐ろしい。
「あっ……ああっ……やめて……お願いやめて清香さん! ダイくんを連れていかないで!」
「ダイキっ! ……いや……いやああああ!」
レンとルカの悲鳴が届く。
……ごめん、二人とも。
見栄張っておきながら、こんなザマで……。
「さあ、ダイキくん。一緒に行きましょう? 私と永遠の世界へ……ダメです、清香さん。それだけは、いけません……え?」
「……っ!?」
同じ口から、同じ声で、意思の異なる言葉が紡がれる。
彼女自身、己の発言に戸惑っている。
これは……まさか!?
「ど、どうして? あなたの意識は、完全に眠っていたはず……いいえ。眠っていません。ずっと、ずっと起きていました。ただ、表に出ていなかっただけ。それがあなたのためになると思ったからです。未練なく、あなたの魂が救われるのならと……でも」
赤く光っていたはずの両目。
その片目だけ、色が変わっている。
それは……スズナちゃんの金色の瞳だった!
「どうか、やめてください。ダイキさんは、私の大切な人なんです」
「スズナ、ちゃん……?」
間違いない。
この口調は、雰囲気は、スズナちゃんだ!
「清香さん。これ以上は、いけません。こんなことをしたら、あなたの魂は一生救われない。来世に生まれ変わることもできなくなってしまう。だから、どうか」
彼女の口の形が崩れる。
悔しさを顕わに、唇を噛みしめる。
「やめて……そんな言葉聞きたくない!」
赤く光る片目から涙がこぼれる。
「わかってる! こんなこと、間違ってるってわかってる! でも……だったら私は、何を救いにすればいいの!? 私の人生、いったい何だったのよ!? わかるわけない……生きているあなたたちに、私の気持ちがわかるわけない!」
奇妙な光景だった。
ひとつの体に、ふたつの意識が混ざり合って、お互いに主張し合っている。
「なにひとつ……なにひとつ、いいことなんてなかった! 報われたことなんて一度だってなかった! こんな……こんなことのために、私は生まれたんじゃない!」
少女の体に、透き通った人影が重なっている。
見間違えるはずがない。
あれは写真集で何度も見た、大谷清香、本人の姿だ。
泣いている。
彼女の霊体は、嗚咽するほどに泣いている。
『未練なんて、たくさんあるに決まってるじゃない! 幸せになりたかった……ただ、それだけだったのに……どうして、どうして世界はこんなにも理不尽なの!?』
泣き叫ぶ声は、もはや彼女の霊体から発せられていた。
それは世を呪う悪霊の叫びというよりも……あまりにも無慈悲な現実に対する嘆きの声だった。
『……わかるわけない! アンタたちなんかに、私の気持ちがわかるわけない!』
「……いいえ。わかります」
『……え?』
霊体であるはずの清香さんを、抱きしめる腕があった。
それは、スズナちゃんの霊体だった。
これは……二人の魂が触れ合っているのか?
いま二人は、同じ肉体を共有している。
それによって起きている奇跡だというのか?
「清香さん。私この三日間、あなたの魂にずっと寄り添っていたんですよ? だから、わかります。あなたが、どれだけ頑張っていたか」
『あ、ああ……』
「……ずっと、努力されていたんですね? 自分を変えるために、必死に。……なんて、なんてお強い御方」
スズナちゃんに取り憑いた清香さんは、スズナちゃんの記憶から俺のことを知り「惚れた」と言っていた。
……ならば、スズナちゃんも同じように、清香さんの記憶を見たのではないか?
きっとスズナちゃんは知ったのだ。大谷清香の生涯を。
つまり、いまのスズナちゃんは……この世で数少ない大谷清香の理解者ということになる。
「お辛かったですよね? でもあなたは乗り越えた。自分を変えるために、戦った。それが、どれだけ凄いことか」
『私、は……私、ずっと変わりたかった。デブってバカにされ続けて……だから、見返したかったんだ。有名になって、自分をバカにしてきた世の中を驚かせてやるんだって。こんな私でも、何か栄光を掴めるんだってことを、証明したかった』
幻影を見る。
こことは異なる光景が、意識の中に入ってくる。
これは……清香さんの記憶?
彼女に捕らわれているためか。俺も、彼女の意識を共有しているのか?
見えるのは、薄暗い部屋に引きこもっている小太りの女性。
あれは……まさか、清香さん?
女性は雑誌に映るモデルの美人たちを、羨ましげに見ている。
姿見に映る自分の姿と見比べ、彼女は何か決意に満ちた顔を浮かべた。
景色が切り替わる。
今度は必死にダイエットをしている女性の姿。
ランニングやゲームセンターのダンスゲームで、必死に脂肪を落としている。
段々と痩せていく女性。やがて見覚えのある姿へとなっていく。
まるで別人のようになった彼女が、スカウトを受けている。
……そうか。これが、清香さんが歩んできた道なのか。
『アイドルになって、私の世界は変わった。私の写真で、トークで、歌とダンスで、皆に喜んでもらえることが嬉しかった……本当に好きだったの、あの仕事が。生まれ変わったような気持ちだった。もっと、もっと、続けたかった。もっと人気になって、それで……お母さんに、恩返し、したかったのにっ』
涙が頬を伝う。
大谷清香の本当の未練を、目の当たりにする。
『お母さん……お母さんっ! ごめん……ごめんなさい。私、私っ、ずっと謝りたかったのに。迷惑かけたくなくて、帰れなかった……本当は、いますぐにでも、会いたかったのに! お母ぁさん……ごめん……ごめんねぇ!」
きっと、誤魔化していたんだ。自分の本当の気持ちを。
受け入れてしまったら、あまりにも辛くて、耐えられないから。
喧嘩別れしてしまった母に謝りたい。
それが清香さんの本当の未練だったんだ。
声を上げて泣く清香さんを、スズナちゃんの魂が、優しく抱きしめる。
「優しい御方……お母様を、本当に大事に思っているんですね? 私も、母を愛しています。強く、賢く、優しい母は、私の誇りです」
『スズナ、ちゃん……あっ……ああ、見える。あなたのお母さんとの記憶……本当だわ。なんて、綺麗で、かっこいい人……スズナちゃん。あなたは、こんなに小さい頃に、お母さんと……』
景色が再び切り替わる。
今度は、どこかの立派なお屋敷の一室。
ベッドの上で、痩せこけながらも美しさを損なわない女性が、小さい少女を優しく撫でている。
女性と少女は同じシャイニーブロンド色の髪。
これは……スズナちゃんの記憶?
『スズナ。何も悲しむことはありませんよ? あなたの思い出の中に、私は生き続けるのですから』
『おかあさまぁ……』
スズナちゃんのお母さん……確か、スズナちゃんが幼い頃に病気で亡くなったと聞いた。
これは、お母さんとの最後の思い出なのだろうか。
『スズナ、母の言葉をよく聞きなさい。きっとこの先、あなたは多くの試練とぶつかるでしょう。でも、そんなときこそ、自分としっかり向き合いなさい。心の声に耳を澄ませなさい。誰かに言われたことじゃない。自分が正しいと信じた道を進みなさい。あなたが「あなた自身」でいられるように生きなさい』
『はい……はいっ、おかあさま』
『スズナ。あなたは優しくて、心の強い子。あなたが信じて進む道なら、多くの人を救い、幸せにすると私は信じています。……ああ、スズナ。私の誇り。私の天使。愛しているわ』
なんて温かくて、優しい記憶。
この思い出が、きっと今日までのスズナちゃんの支えとなり、力となっていたんだ。
「寂しくはありません。母とは、いずれ会えると私は信じていますから。……だから、清香さん。あなたもどうかお母様を向こうで待っていてあげてください。もう一度、会えるように。再会したとき心置きなく思いを伝えてあげられるように……だからお願いです。憎しみに囚われないで。バケモノなんかにならないで。あなたの魂を、救わせてください。あなたが来世で今度こそ幸せになれるように、祈らせてください」
『あ、ああっ……』
濃密に漂っていた闇の気配が、薄れていく。
異形になりかけていた少女の輪郭が、徐々に元の姿に戻っていく。
『なんて……なんて温かいの……優しくて……とても心地良い……そうか、これが……スズナちゃん、これはあなたのお母さんの……』
髪による拘束が解ける。
意識と肉体の力を奪う香りもしない。
怪異による異常が、嘘のように霧散していく。
……俺は、幻を見ているのか?
怪異になったはずの清香さんが……清香さんの魂の穢れが、消えた?
「あれって……?」
「……信じられない」
「ルカ?」
「浄化、した? 一度怪異になった魂を、浄化したというの? 霊力が無いはずのスズナが……スズナ、あなたいったい、何者なの?」
ルカが驚きの声を上げている。
俺も、とても信じられない。
だが事実、怪異の気配は消えた。
……清めたというのか?
魂と魂の触れ合い。それによって、清香さんの憎しみを消し去ったというのか!?
ルカは言っていた。
スズナちゃんの魂は透き通っていて、とても綺麗だと。
霊にとって、とても心地の良い器だと。
それが、関係しているのか?
「あ……」
ふと、以前アイシャが語っていたことを思い出す。
そうだ。彼女も言っていたではないか。
スズナちゃんの特異体質のことを。
『……スズナさんは不思議な御方ですわね。これまでの怪異関連の事件を撮影し続けていることもそうですが……彼女、もしかしたら怪異の『毒』に強い耐性を持っておられるかもしれませんわ』
怪異の『毒』……どんな強靱な精神力の持ち主でも、怪異を前にすると毒を浴びたように精神に異常をきたし、最終的に発狂する。
霊力を持つ霊能力者たちや、俺のように数珠などの加護を持っていればある程度は防げるが、それでも限界はある。
……だが思えば、スズナちゃんが怪異を前にして恐怖に震えたことがあっただろうか?
いや、もちろん危機感や恐怖感は覚えてはいるだろう。
だが、そういう人間ならば極当たり前に持っている原始的なもののことではなく……そう、怪異の『毒』で発狂しかけたことは一度もなかったのではないか?
もちろん、霊力の持たないレンやスズナちゃんは俺と同じ数珠を持ち、定期的に怪異を遠ざけるまじないがかけられている。
だが何度も言うように、どれだけ対策しても、防備には限界があるのだ。
あまりにも長い時間、怪異を直視すると例外なく発狂する。
……それでも、毎度まいど怪異との戦闘を後方から撮影しているスズナちゃんが、怪異の『毒』に汚染された様子はちっとも見受けられなかった。
……それは、アイシャの言うように『毒』に耐性を持つ特異体質だからなのか?
『……わたくし、初めてスズナさんとお会いしたとき、驚きましたもの。「なんて清く綺麗な魂の持ち主なんでしょう」って。教会の人間といえども、魂の姿までは偽れません。聖職者でありながら、歪な形を持った魂はいやというほど見てきましたわ。……でも、スズナさんは、時代が時代ならば……「聖人」と称されるような器の持ち主です。彼女の祈りによって昇華された魂は、きっと未練なく、清々しい気持ちで浄化されることでしょう。……もしかしたら「聖女」という称号は、わたくしよりも彼女にこそ相応しいかもしれませんわね? ……いえ、あれはもう寧ろ「天の御使い」と言うべきでしょうか?』
原理はわからない。
だがこうして事実……清香さんは、スズナちゃんによって救われた。
魂が、清められたんだ。
『……ごめんなさい、スズナちゃん。私、取り憑いたのがあなたじゃなかったら、きっと今頃……皆にも、ごめんなさい。私、危うく取り返しのつかないことをしてしまうところだった』
清香さんの霊体が、ゆっくりとスズナちゃんの体から抜けていく。
「清香さん!」
『ダイキくん……ごめんね? 私に優しくしてくれたのに、ひどいことして……あなたの気持ち、本当に嬉しかった。忘れないよ? 向こうに行っても、あなたのこと……ありがとう、ダイキくん』
清香さんの霊体が、天に向かっていく……。
成仏する気なんだ。このまま。魂が清いうちに。
『生姜焼き、「おいしい」って言ってくれて、ありがとね? 料理の中で、一番上手に作れるやつだったから、嬉しかったな……』
「清香さん……」
『最後に出会えたのが、あなたたちで良かった……』
涙の雫が夜空に散っていく。
それに合わせるように、彼女の輪郭も粒子になって上へ上へと昇っていく。
「……清香さん。忘れません! 俺も、忘れない! この世界に大谷清香っていう素敵なアイドルがいたこと! あなたと過ごした時間を! 絶対に……絶対に忘れない!」
「私もです、清香さん。あとのことは、任せてください。だからどうか……安らかに……」
スズナちゃんと共に別れの言葉を贈る。
消えていく彼女の最後の表情は……笑顔だった。
『ありがとう。本当に、ありがとう……さようなら』
月に向かうように、光の粒子が昇っていく。
大谷清香の姿は、もう見えなくなった。
──……気をつけて? この街には……ううん。この世界には、何か、恐ろしいものが居る……。
最後に、そんな言葉が夜空に響いた。
……そうだ。
これで、終わったわけではない。
清香さんを殺した何者かが、この世に存在する。
清香さんの言葉を信じるなら、その下手人は最初から清香さんを怪異にするために殺害した。
いったい、何の目的で?
謎は尽きないが……必ず見つけ出し、仇は取る!
「……『怪異の長』?」
「え?」
隣でスズナちゃんが奇妙なことを呟く。
「……清香さんに、伝えられました。この世界には、何か、途轍もなく恐ろしい存在が居ると……その存在こそが、すべての元凶だと」
「元凶、だと?」
そういえば……怪異になりかける瞬間、清香さんは何かを異様に恐れていた。
何かが自分に囁いてくる。「こっちにおいで」と自分に語りかけてくると……。
「ダイキさん……もしかしたら、私たちは、とんでもなく大きな存在を相手にしているのかもしれません」
スズナちゃんは鬼気迫った顔で言う。
「とても、嫌な予感がします……
「っ!?」
言葉どおり、スズナちゃんは震えている。
怪異の『毒』に耐性を持っているかもしれない彼女が、恐怖に怯えている。
「……なんだ? ソイツの、名は……」
息を呑みつつ、尋ねる。
スズナちゃんは、その名を言葉にすること自体を躊躇うように、ゆっくりと口を開く。
「清香さんを襲った下手人……共有した記憶が曖昧で、私もはっきりと顔を見たワケではないのですが……ただ、こう口にしていたことを覚えています。……『すべては、我ら主君の復活のため』だと」
「復活?」
「はい……『すべての怪異の頂点に君臨する者』。その名は……」
震える唇から、その名が、明かされる。
「──【常闇の女王】」