人食いの『肉啜り』。
その名の通り、人間の肉を生きたまま啜り、貪ることを好む怪異だという。
肉啜りは狙った獲物を決して逃さない。
目を付けた『好物』を必ず味わうために、どんなに逃げても、どこまでも追いかけてくるという。
この話を聞くだけでも充分恐ろしい怪異だが……肉啜りの真の恐ろしさは別にある。
それは、完全なる擬態能力である。
肉啜りは食らった人間の皮を被り、その人物になりすますことができる。
食らった人間の記憶と経験、技術を丸ごと継承するため、一見すると本人とまったく見分けがつかない。
だが霊能力者たちならば容易く見破れるのではないか?
……実はそうもいかない。
厄介なことに、この擬態能力は、自身の『怪異としての気配』すら消すことができる。
強力な感知能力、霊視能力の持ち主であっても、その正体を見抜くことはできないという。
肉啜りはそうして長らく霊能力者たちの目をくぐり抜け、見事に人間社会に潜り込み、存分に獲物を貪ってきた。
肉啜りの討伐には、様々な案が出された。
だが高度な擬態能力だけでなく、優れた知能をも持つこの怪異は、幾度も自身を狙う狩人を欺いてきた。
何せ、どんな人物にもなりすますことができるのだ。とうぜん機関の人間に化けて内部に潜入することもできる。
肉啜りはよく知っていた。冷静さを失い、恐怖に囚われた組織は脆いということを。
ある日、肉啜りの巧妙な策謀によって悲劇が起きた。機関の人間にしか使えない端末に、以下のメッセージが届いたのだ。
『はじめまして、肉啜りです。ただいまこちらにお邪魔させていただいております。こちらはおいしそうなお肉でいっぱいですね。どれから味見しようか、とても悩んでいます』
その後、機関内部で、皮だけになった人間の死骸が発見された。
機関内部は一気に混乱の渦に陥った。ついには「お前が肉啜りか!?」と疑心暗鬼に陥ったエージェントたちによる同士討ちが起こった。
危うく機関が崩壊しかけるほどの大事件だったという。
だが不幸中の幸いか、肉啜りが機関に潜入したことによって、討伐の機会に恵まれる。
肉啜りは本能に抗えない。
気に入った獲物を前にし、ソレにとって『食べ頃』だと判断すると、食欲を抑えきることができず、瞬く間に正体を現す。
ある意味、それが肉啜りの唯一の弱点であった。
そして、その瞬間に偶然立ち会った草薙家の当主によって、肉啜りは倒された。
……そう、倒されたはずなのだ。
なのに現在、肉啜りと酷似した事件が相次いでいる。
怪異の中には似通った特性を持つものが複数存在するが……今回に関しては、あまりにも共通点が多く、どう考えても同個体としか思えないのだという。
実は討伐しきれず、逃げていたのか。あるいは何らかの方法で復活したのか。
……ハッキリしていることは、肉啜りによる被害はすでにあちこちで広がっており、とうとう俺たちが住むこの街にも現れたということ。
そして奴は現在……俺を次の『ご馳走』として、付け狙っているということだ。
* * *
「肉啜りが機関に潜入したことをキッカケに『擬態能力を持つ怪異』の対策が早急に作られたの。もしも怪異が機関の人間や霊能力者を襲って本人になりすました場合……肉体に埋め込んだ微粒子レベルの霊的端末が本部に警報を鳴らすようになってる。いまのところ、その警報は鳴ってない。機関内部に肉啜りはいないと考えていい。つまり私とキリカも肉啜りじゃない。……だから、ダイキ。どうか私たちのことを信用して? 今日から付きっきりで、ダイキを守るから」
ルカはそう説明して、俺の手をギュッと握った。
肉啜り……どんな人間にも、小型の動物にすらも化けることができるという厄介な怪異。
正体を見破る術がない以上、もはや学園ですら安全な場所ではない。
しばらくの間、俺はルカの屋敷で閉じこもることになった。
「先生。ダイキが首を怪我したので早退します。私とキリカも具合が悪いので帰ります。では」
戸惑う担任教師にルカはザックリと言い放って教室を出た。
「ああ……とうとうこのアタシがズル休みをしてしまった。委員長であるアタシがぁ……」
キリカは虚偽で早退することに後ろめたさを感じて、廊下を歩きながらブツブツと呟いていた。
見ていて気の毒になるほどの落ち込みっぷりだ。
「なあ、ルカ。何もキリカまで早退させなくても良かったんじゃないか?」
「キリカには一緒にいてほしいの。肉啜りのことは機関からいろいろ情報を貰ってるけど……正直、未知数なことのほうが多い。奴の特性上、集団で活動するのは本来は賢いやり方じゃないんだけど……ダイキを守る手段は、できるだけ多くしておきたい」
不安を孕んだ声色でルカはそう言った。
「何より、肉啜りがもしもあの夜に私の屋敷に来ていたのだとしたら……奴は屋敷の『結界』に引っかからなかった。ってことになる」
……そうだ。もしも、あの夜にクロノスケが肉啜りに攫われ、襲われたというのなら、ルカの屋敷に張られた『結界』が警報を鳴らしたはずだ。
それが無かったということは……肉啜りは何らかの方法で警報を回避したことになる。
確かにルカの言うとおり、未知数な相手だ。
いままで相手してきた怪異とは明らかに異なる、高度な知性を感じる。
……そんな奴に、俺はいま狙われているのか。
包帯で覆った首元を撫でる。
肉啜りによってマーキングされ、不気味に変色した首筋。
痛みや痒みはない。
だが首に浮かび上がった腫瘍のようなものは、いまも心臓のように脈動している。
遠くにいるであろう肉啜り本体に呼びかけるように。
「……」
思い起こされるのは、肉も骨も眼球も、中身だけが綺麗に無くなった皮だけの骸。
これから俺も、あのような末路を辿るかもしれない。
肉啜りはクロノスケの仇だ。憎むべき相手だ。奴に対する感情は怒りしか無いはずだった。
だが……いまその怒りの感情は自分自身に向いている。
肉啜りが俺を標的に選んだことで、奇しくも報復の機会に恵まれた。
……だというのに、いま俺は不安と恐怖に駆られている。そんな自分が情けなくてしょうがない。
恐れと怒り。感情がごちゃ混ぜになって、どうにかなりそうだ。
「ダイキ、落ち着いて。大丈夫。私とキリカが必ず肉啜りを倒すから」
俺の様子を見かねてか、ルカはそっと手を伸ばして優しく背中を撫でてきた。
……そうだ、落ち着け俺。
結局のところ、肉啜りをどうにかできるのはルカやキリカのような霊能力者たちだ。
霊力のない人間が復讐心を燃やしたところで、できることはない。
大事なことは、その悔しさや無念を、できる者に託す勇気を持つこと。璃絵さんの言葉を思い出す。
いまが、きっとそのときなのだ。
俺はクロノスケに対する無念をルカとキリカに託し、何が何でも怪異の魔の手から生き残る。それが俺がすべき戦いだ。
そう自分に言い聞かせるが……それでも、心のどこかで「本当にそれでいいのか?」と問いかけてくる声があった。
「あ~大変たいへん。資料の用意してたから授業に遅れちゃいます~」
向こう側から資料を抱えた水坂先生があたふたとしながらやってきた。
「おやおや? 黒野君たちじゃないですか。どうされました? そろそろ授業始まりますよ?」
予鈴が鳴る直前だというのに鞄を抱えて廊下にいる俺たちを見て、水坂先生はキョトンと首を傾げる。
「あー、その……ちょっと首を怪我をしたので早退を」
「まあ! 大丈夫なんですか黒野君!? 良かったら先生が病院までタクシーを手配しましょうか?」
「あ、いえ。大丈夫ですよ。自分の足で行きますから……」
「そうですか? ええと、黒野君はともかくそちらのお二人は?」
チラリとキリカとルカに目を向ける水坂先生。
キリカはビクッと体を強張らせて、わなわなと口を開いたかと思うと。
「アタシタチモ、具合ガ、トテモ、悪イノデ、早退、シマス」
「あら、ほんと! 藍神さんったら凄い顔だわ! お大事になさって!」
嘘を吐く罪悪感からか、まるで福笑いのように顔面全体が歪に変形したキリカが片言で喋る。
うん、これなら誰が見たって早退させねばと思うな。
「……先生。急いでるんでしょ? そろそろ行かないと授業に間に合いませんよ?」
とつぜんルカが割って入る。
俺を背に隠し、水坂先生から遮るように、どこか冷ややかな態度で。
「あっ! そうでした! ええと、それでは三人とも、どうか気をつけて帰ってくださいね? ひええ、また指導教諭の先生に怒られちゃいますぅぅぅ」
水坂先生は慌てて担当の教室に向かっていった。
その後ろ姿を、ルカは鋭い目で見ていた。
* * *
先にキリカの住むマンションに行き、お泊まりのための着替えや日用品などを用意してもらった。
制服姿で出歩くのはイヤだということで、私服に着替えて降りてきた。
トレーニング用のパーカーに、ショートパンツ一体型のレギンス。
いつもどおり、動きやすさを重視したキリカのスポーツウェア姿だ。
手には大きめのお泊まり用のバッグ。そして背には……キリカの霊装が入った長方形の包みがあった。
「数日もズル休みするなんて、アタシはゴメンだからね? 早いところ決着つけるわよ」
それはキリカなりの激励だった。
こんな悪夢の時間はさっさと終わらせて、平和な日常に帰ろう。遠回しにそう言っているのだった。
あの堅物委員長が、校則を破ってまで俺の命を守ろうとしてくれている。
そのことに、俺は深く感謝した。
「ありがとな、キリカ。俺のために」
「なっ!? べ、別にあんたのためってワケじゃないわよ! これはアタシの信念の問題なんだから!」
赤くなった顔をプイッと逸らして、キリカは強めに言い放った。
「前にも言ったでしょ? アタシはもう、この世界から目を逸らさないって決めたの。知り合いが危険な目にあってるってわかってるのに、見ないフリをする自分が許せない。それだけよ。……まあ、最近はヘコんで駆けつけられなかったけど」
バツが悪そうにキリカは唇を尖らせた。
「と、とにかく。アタシだって仮にも退魔巫女の娘なんだから! 自分にできることは精一杯やるわ! ……何よりカワイイかわいい猫さんの命を弄ぶとか絶対に許せないんだから! 見てなさい肉啜り! アタシがギッタンギッタンにしてやるんだから!」
激しく意気込みながら、キリカはズカズカと俺たちの先を進んでいった。
頼もしいな。
キリカはよく自分を落ちこぼれだと卑下するが……こうして危機を前にして顔を上げられる彼女を、俺はとても強いと思っている。
悩みはするし、落ち込むことは多々あれど……それでも一度決めたことから、キリカは決して逃げない。
それは、どんな優秀な霊能力者にも負けない、キリカだけが持つ強さだと感じる。
無事にルカの屋敷に着く。
だが門の前に、見知らぬ人影が二人分あった。
向こうも俺たちの気配を感じて、一斉に視線を向けてくる。
その顔を見て、俺はギョッとした。
瓜二つの容貌をした少女たちだった。
二人とも黄緑色のベリーショートで、作務衣に似た服装をしている。
まったく見分けが付かない、まるで鏡映しのような二人だった。
明らかに一般人とは異なる雰囲気を醸し出している。
「「こんにちわ」」
一切のブレなく、二人の少女は同時に喋った。
「機関から派遣されました、
「同じく、妹の
「「肉啜りの退治に参りました」」
恐らく双子であろう少女たちは、簡潔にそう言った。
ルカは明らかに面倒くさそうな顔で双子の前に出る。
「草薙姉妹……お噂はかねがね。双子で当主を継いだとか何とか……ところで救援を呼んだ覚えはないけれど?」
義務的な挨拶は適当に済ませて、ルカは本題に入った。
草薙姉妹は不敵に笑った。やはり一切のブレなく同時に笑った。
「肉啜りとあらば、草薙家の我々が出向くべきと思いまして」
「こちらの地区は、白鐘瑠花さん、あなたの担当だけれど……やはり適材適所というものがありますからね。機関もそう思って我々をこちらに派遣したのですよ」
どこか含みのある言い方だ。「あんたじゃ肉啜りを片付けられない」と言外で小馬鹿にしているように思える。
何だか、イヤな感じだ……。
ルカもさすがにムッとしたようで、ますます表情が強張った。
「それで仲良く双子で来たってわけ? 私も人のことは言えないけれど……擬態する相手に対して二人組で行動するのは、あんまり賢いとは思えない。いくら霊的端末が警報を知らせるって言っても、それを認知できるのは本部からの連絡があってからよ? その一瞬の隙を突かれて二人諸共やられたらどうする気?」
「「ご心配には及びません。双子ですから。入れ替わったなら、すぐに気づけます」」
双子は自信満々に言った。
「私たちは一心同体です。魂の片割れの変化に気づけないような浅い関係じゃございませんの。ねえ、杏子?」
「はい、柚子姉さま」
双子はうっとりとした顔で見つめ合った。
姉妹仲が良い……という単純な言葉では済まされない雰囲気をそこから感じた。
アブノーマルな気配にドン引きしていると、双子の目線が俺のほうに向いた。
正確には、包帯が巻かれた俺の首元にだ。
「「ああ、あなたが今回のターゲットですか。お気の毒に……」」
双子は哀れむような目を向けて言った。
「でもご安心なさって? 私たちが来た以上、事件は解決したも同然です」
「我が一族は擬態能力を持つ怪異を狩ることに特化しています。肉啜り程度の怪異など、あっさりと片して参りますわ」
双子は断言した。
誇張ではなく、ありのまま事実を口にするように。
「随分と自信があるのね? 肉啜りの正体を見破れる方法はなかったはずだけれど?」
呆れ顔でルカが言うと、双子は得意げに笑った。
「我々には肉啜りの正体を見破る秘策があるのですよ。前当主が編み出した術を、我々は見事に継承しています」
「もっとも極秘ではありますがね。手の内をすべて明かすほど、我々はあまり機関を信用しておりませんので」
「そう……まあ、そっちでさっさと退治してくれるのなら、べつに私も文句はないわ。私はダイキが無事なら、それでいいし」
手柄に興味のないルカは、突き放すように言い放った。
これ以上、この双子の相手は億劫だとばかりに。
それは俺たちも同じだった。
屋敷に入るルカに続いて、俺とキリカも続く。
「「あら? もしかしてあなた……藍神家のご息女では?」」
通り過ぎるとキリカを、双子は呼び止めた。
「そうだけど、何かしら?」
双子のあからさまに好意的ではない気配を前に、キリカは怒気を孕んだ目で双子を睨んだ。
双子は臆することなく、キリカを見てクスクスと笑った。
「まあ、びっくりね杏子。霊力を全然感じなかったから、一般人かと思ったわ」
「ええ、姉さま。あの藍神家の娘でありながら、なんて貧弱な霊力かしら」
「お可哀想。噂は本当だったのね。藍神家の四女は歴代で一番の落ちこぼれだと」
「お可哀想。あの程度の霊力でいったい何ができるのかしら?」
遠慮のない言葉を双子は並べる。
キリカは歯噛みし、拳を握りしめる。
反応したら負けだ。そう言い聞かせるようにグッと堪えている。
ムキになれば、一層相手を調子づかせるとわかっているから。
だから我慢している。
……でも、俺は我慢できない。
「キリカを笑うな」
「「は?」」
「ちょ、ちょっと黒野!?」
後ろからキリカが止めにかかるが、構わず俺は双子と向き合う。
「怪異を退治しに来てくれたこと……それは感謝します。でも仲間への侮辱は許さない」
冷静に話せるよう、なるべく気持ちを押し殺すが、やはり少々鋭い物言いになってしまう。
双子たちはここで初めて、動揺する気配を見せた。
「一般人の俺が、守ってもらってる俺が、偉そうなことは言えないけれど……キリカだって霊能力者として、覚悟を持ってここにいるんだ。霊力が多いだとか少ないだとか関係ない。そんなキリカを笑うな」
双子たちは息を呑んでたじろいだ。
「それに……キリカは弱くない」
「「は?」」
「断言できる。この中で一番強いのは、キリカだ」
「「……」」
「嘘は言ってないぜ?」
そうだ。嘘ではない。
事実、俺たちは何度もキリカによって救われている。
キリカがどんなに「アレはアタシの力じゃない!」と否定しようとも……キリカが覚悟を持って怪異に挑まなければ、俺たちはいまこうして生きていない。
初めてキリカと関わった、あの廃病院での出来事が特にそうだ。
「……草薙家も落ちたものね。キリカの素質にも気づけないほど、目が曇ってしまったのかしら?」
「「なんですって?」」
ルカの指摘に、双子たちは眉をひそめる。
「あなたたちみたいなのが当主じゃ、草薙家も長くないわね。一族の人たちが気の毒だわ」
キリカを侮辱されて、ルカも苛立っているのだろう。
容赦のない罵倒を双子にぶつける。
「「このっ!」」
双子たちは感情的に口を開こうとしたが、それは彼女たちにとっては屈辱だったのか、ひと呼吸置いて、再び不敵に笑い出した。
「杏子。どうやらこの人たち、いままで弱小の怪異にしか遭遇しなかったようね」
「そうね、姉さま。きっと貧弱な霊力でも倒せるような相手ばかりだったのでしょう」
「やはり肉啜りは私たちが退治するしかないようね。この方々のお手を煩わせるワケにはいかないわ」
「ええ、姉さま。きっとこの人たちの手には余りますもの」
「「それでは、我々はこれで」」
最後まで気にくわない台詞を残して、双子たちは去っていった。
「……ありがとう」
静かになった門の前で、キリカは俺たちに向けて、小さく呟いた。