静かな夜が過ぎていく。
静か過ぎて、逆に不気味だった。
キリカはそっと窓の外の様子を窺う。
……いまのところ、悪しきものが近づいてくる気配はない。
屋敷の古時計が何度目かの鐘を鳴らす。
時間がただ緩やかに流れていった。
ダイキはいまも穏やかに寝息を立てて、深く眠っている。
……だがその首元では、肉啜りによってつけられた不気味な痣が脈動し続けている。
獲物はここにいるぞ。そう本体に呼びかけるように、ドクン、ドクンと。
心なしか、脈拍が早まっているように見えた。
もしかしたら……肉啜りがこちらに近づいているのかもしれない。
「……」
ルカとキリカは、少年の傍で警戒を強める。
いつ敵が攻めてきても動けるように、神経を研ぎ澄ませ、専用の霊装を握りしめる。
「……草薙姉妹は、どうしたかしらね? 肉啜りを見つけたのかしら」
「さあ。機関から報告がないから、まだ討伐したわけではないと思うけど」
完全擬態能力を持つ肉啜りの正体を見破る術がある、と自信満々に語った草薙姉妹。
あれほどの大口を叩いた以上、そろそろ標的と接触していないと、面目は丸潰れであろう。
憎らしい二人ではあったが……肉啜りを討伐してくれるのなら、それは願ったり叶ったりだ。
とにかくダイキが無事であれば、少女たちにとっては、それで良いのだから。
できることなら、今夜のうちに決着がつくことを願うばかりだった。
能動的に動ける草薙姉妹と異なり、ルカたちは受け身に徹するしかない。
肉啜りがどんな人間に擬態しているのか、わからない限りは。
……だが、なんとなく目処はついていた。
「……ねえ、ルカ。あんたもしかして、肉啜りの正体が誰なのか、実はもうあてがついているんじゃない?」
キリカの問いに、ルカは頷いた。
「……ダイキがマーキングされたときの話を聞いて、正直もう確信はしてる。皆の前じゃ言いにくかったけど……私は、あの人が肉啜りとしか思えない」
肉啜りの出現に合わせるように、学園に新しくやってきた人物。
ダイキが首元にマーキングされたとき近くにいた人物。
それは……。
「私は……水坂先生が肉啜りじゃないかと思っている」
教育実習生として学園にやってきた水坂牧乃。
……確かに、彼女が仮に肉啜りだった場合、辻褄は合うのだ。
学園の関係者になりすませば、獲物であるダイキの動向を見張ることができるし、接触することも容易だ。
……そして何より、肉啜りはわざわざ黒猫を襲い、ダイキの恐怖心を煽った。
獲物を恐怖で苦しめることで、その肉を自分好みの味に仕立て上げる肉啜り。
……つまり、肉啜りは知っていたのだ。ダイキが黒猫を大事にしていることを。黒猫の骸を見せつければ、ダイキは絶望感と喪失感によって苦しむことを。
そのことを知れる人物……オカ研のメンバー以外では、あの日、部室で黒猫と一緒に戯れた水坂牧乃しかいないのだ。
オカ研の部室で楽しく語り合い、もしもこの学園に赴任したら顧問になると約束までした、ちょっと天然気味な教育実習生。
……だがその内で、おぞましい怪異の本性を滾らせていたのだとしたら?
いまかといまかと標的であるダイキを見て、舌舐めずりをしていたのだとしたら?
「もしも水坂牧乃が肉啜りなら……私は絶対に、許さない。私たちと仲良くしておいて……クロノスケの命を奪っておいて……あんな風にヘラヘラ笑っていたのだとしたら!」
ギリッと歯を噛みしめて、ルカは怒りを募らせる。
その矛先は水坂牧乃だけでなく、憎き仇の正体を見破れなかった自身にも向いていた。
「……水坂先生に対して急に態度がキツくなったのは、やっぱりそういうことだったのね。レンやスズナがショックを受けるかと思って、アタシも言い出せなかったんだけど……やっぱり、あの人の可能性が高いわよね」
確たる証拠があるわけではない。
だが、疑ってかからなければ、情にほだされて隙を突かれてしまいかねない。
もはや水坂牧乃は親しみを向けるべき相手ではない。最も警戒すべき存在となった。
……そう、もしもこのタイミングで水坂牧乃がこの場に現れたとしたら、もう疑いの余地なく、彼女は……。
来客を報せるチャイムが鳴る。
こんな真夜中にも関わらず。
ルカとキリカはビクッと体を強張らせ、互いに目を合わせる。
「ルカ……」
「……私が出る。キリカ、ダイキを見てて」
ルカは居間に備え付けられた画面付きのインターホン機器に寄り、ボタンを押す。
インターホンのカメラが、玄関の映像を映し出す。
そこに映っていたのは……。
水坂牧乃であった。
「っ!?」
落ち着け、と自らに言い聞かせて、ルカはひと呼吸置く。
向こうに動揺を悟られてはいけない。
あくまでも冷静に、見知った相手が来たときと同じ対応をしなければ、不審に思われる。
いまは相手がどう動いてくるか……その動向を見極める段階だ。
ルカは恐る恐る、インターホンのマイクに向けて返事をする。
「……はい」
「あ、夜分遅くすみません。水坂です。えーと、黒野君たちの様態が気になってしまって、お見舞いに来たのですが……先ほど黒野君のご両親にお話を聞いたら、こちらにお泊まりしていると聞いたので。あのぉ、白鐘さんも具合はどうですか? 一応ゼリーを買ってきたんですけど~」
口調だけなら、体調を崩した生徒を心配しにやってきた教師の発言だ。
……だが、その内心までは計れない。
そもそも、こんな真夜中にアポイントメントも無しに生徒の家に来るのは不自然だ。
お見舞いといえば聞こえはいいが……何か、他に狙いがあるとしか思えない。
やはり、この女が……ルカはより警戒を強める。
「……お気遣いありがとうございます、先生。ですが、急に来られても困ってしまいます。どうか、日を改めていただけませんか?」
「あっ! そ、そうですよね!? ごめんなさい私ったら、黒野君たちのことが心配なあまりそこまで気が回らなくて……あ、あのっ、長居はしませんから、どうかゼリーだけでも受け取っていただけませんか? そうしたらすぐ帰りますから」
「……わかりました。いま、そちらに向かいます」
ルカはもう迷うことなく、霊装を構えた。
ルカの専用霊装、
紅色の糸が幾重にも束ねられ、大鎌の形態を取る。
もしも水坂牧乃が本当に肉啜りだとしたら……ここがチャンスだ。
正体を現した瞬間、斬りつけてみせる。
ここで逃したら、後々、奇襲を許すことになってしまうだろう。
仕留めるなら、いましかない。
ルカは正面からやり合う覚悟を固める。
「ルカ!」
「キリカ。大丈夫、私がやる。キリカはダイキを守って」
「違う! 窓の外が……外の様子が変なの!」
「え?」
キリカの指摘に、ルカの意識は窓の外である庭に向かう。
確かに、何やら庭が騒がしい。
悲鳴染みた声に、殺伐とした物音。明らかにただ事ではない。
「し、白鐘さん!? なんだか、庭が騒がしいようですが……何かあったんですか!? け、警察呼んだほうがいいですか!?」
玄関にいる水坂牧乃も、庭で起こっている喧噪に慌てふためている様子で、扉越しから声を張り上げている。
ルカは混乱した。
何? 何が起こっているの?
混乱を余所に、事態は進行していく。
ダンっと、窓に何かが叩きつけられる激しい物音。
それは、血だらけの手だった。
「た、助けて……」
掠れるような声が、窓越しから聞こえてくる。
声の持ち主は、草薙姉妹の片割れだった。
姉か妹、どちらかはわからないが……全身血まみれの、重傷であった。
ここまで必死に走ってきたのか、息は絶え絶えで、いまにも意識を失いそうな様子であった。
そんな状態にも関わらず、彼女は声を張り上げた。
「……助けて……お願い、助けて!」
あれほど自信過剰だった草薙姉妹が、格下に見ていたルカとキリカに対して、藁にも縋るような切迫した様子で助けを懇願してきた。
「違う! 報告と違う! 何だアレは!? 知らない! 私たちはあんなの知らない! どうして……どうしてこんなことに!?」
完全に正気を失った草薙家の霊能力者は、血を吐き出しながら喚く。
「完璧だった! 先代の技でヤツの擬態を見破れた! なのに……どうして!?
血の混じった涙を流しながら、草薙姉妹の妹……
草薙家の当主としての貫禄も風格も、そこには微塵もなかった。
「イヤだ! イヤだイヤだイヤだ! 死ぬのはイヤだああああ! 助けて! 助けてよぉ! 謝るから! バカにしたことは謝るからああああ! ダメなの! 姉さま無しじゃ戦えないの! 助けて助けて助けて! イヤだイヤだイヤだ! 生きたまま食われるのはイヤだああああ! ア、アァァァァァ……」
悲鳴は途中から声にならなかった。
ルカたちは見た。
太く、長い、触手のようなものの先端が、草薙杏子の頭に埋め込められたのを。
一瞬だった。
一瞬で、草薙杏子は、皮だけの骸と化した。
ルカもキリカも、頭が真っ白になって、動けなかった。
「お、お邪魔します! お庭から失礼! 白鐘さん! いったい何があったんですか!?」
騒ぎを聞きつけ、慌てた様子で玄関から庭に入ってきた水坂牧乃。
庭の惨状を見て、彼女は顔を真っ青にした。
「ひい!? お庭が血だらけぇ!? しかもそこにあるのは……な、何ですか? 人の着ぐるみ? き、着ぐるみですよね? 妙にリアルですけど……ま、まさか本物の人の皮じゃないですよね!?」
ますます、ルカは混乱した。
どういうこと?
肉啜りは水坂牧乃のはずだ。
だが……水坂牧乃はいま、庭にやってきた。
まるでただの一般人のように、この現状を前にして目を回している。
だったら……いま、草薙姉妹の片割れは、誰に食われた?
ヒュンッ、と空を切る音と同時に、窓が割られる。
飛び散る破片から、少女二人はダイキを反射的に守った。
「……っ!? な、何だ!?」
深く眠っていたダイキも、この騒ぎで、さすがに目を覚ます。
「ル、ルカっ、キリカっ、いったい何が……」
「ダメ! ジッとして!」
「アタシたちの後ろにいて!」
霊装を構えながら、ルカとキリカはダイキを背に隠す。
「ひっ!? こ、今度は何ですか!?」
水坂牧乃が腰を抜かして震える。
ズルズル……と太く長いものを引きずるような音が庭に響く。
屋敷中の照明がとつぜん消える。
頼りになる明かりが、月明かりだけとなった。
ダイキを庇いながら、ルカとキリカは見た。
月明かりの下で、庭に立っている人物を。
ゆっくりと、ゆっくりとこちらに向かってくる人物の顔を見て、ルカは目を見開いた。
「……獣医さん?」
ルカは、その人物に見覚えがあった。
眼鏡の似合う、優しそうな女性……間違いない。拾った黒猫を看てくれた動物病院の獣医だ。
彼女はニコッと穏やかな笑顔を向けた。
「こんばんは」
黒猫を検査したときと同じように、慈しみに満ちた声で彼女は挨拶をした。
「その後、具合はいかかですか? そろそろ頃合いだと思いまして、お伺いしました」
丁寧な物腰で、獣医の女性は微笑む。
「前菜はじっくりと味わわせていただきました。ですので」
菩薩のように優しげな顔。その片側が、ひしゃげて、歪む。
体がボコボコと膨らんだかと思うと、衣服が裂け、赤黒い触手が無数に生える。
ぐちゃぁ、とまるで涎を垂らすように、粘液を滴らせた肉の触手……その先端では、荒い息を吐く口が牙を剥いていた。
いくつもの触手が、一点に向かって狙いを定める。
その矛先は、言うまでもなく、黒野大輝であった。
「ひっ!?」
本能的な恐怖を覚えて、ダイキは震え上がる。
その様子を快く思ったのか、獣医は辛うじて残った人の顔で、満面の笑みを浮かべる。
「ああ、いい匂い……よく、仕上がっていますね。モウ、我慢デキナイ」
ベロリ、と異様に長い舌で唇を舐め、顎が外れるほどに口を大きく開く。
「それでは──イッタダキマァァァス!」
獣医……否、人食いの怪異『肉啜り』の宴が始まった。