逃げる。
とにかく逃げる。
止まったらいけない。
そうしたら、終わりだ。
本能がそう告げている。
「はぁ……はぁ……!」
出口の見えない闇の中をひたすらに走る。
どこに向かえば助かるのか。そんなことを考える暇もない。
ただ、アレに捕まってはいけない。
わかっているのはそれだけ。
絶対に、捕まってはいけない。
あの……
「あっ!?」
走りっぱなしの足がとうとう限界を迎えたか、障害物も無いのに躓いてしまう。
倒れ伏す体。
背後から迫り来る濃密な気配。
「ひっ!?」
感じる。
近づいてる。
それは確実に、標的である俺を目指して、追ってきている。
だって、ほら……暗闇の向こうで、光っている。
血よりも鮮やかな、赤色が。
赤、赤、赤。
赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤
「……た、助けて……助けてくれ……」
幼子のように縮こまって震える。
無理だ。
アレだけは、どうすることもできない。
どんな怪異よりも、ずっと恐ろしいナニカ。
怖い。怖い。怖い。
お願いだ。誰か、俺をここから救い出してくれ!
──大丈夫だよ?
「え?」
ふと、温かなものが俺を包む。
──待たせて、ごめんね? やっと、やっとボクたちは君の力になれる。
誰かが、俺に寄り添っている。
それはとても懐かしい感触。
俺は、知っている。この温もりを。
顔を上げる。
そこには、四つの輝きがあった。
光は動物の形を取っていた。
赤色に光る犬。
金色に光る猫。
緑色に光る鳥。
青色に光る魚類。
「まさか……お前たちは……」
前世で一緒に暮らしてきた家族同然のペットたち。
皆、俺よりも先に逝ってしまった大切な存在。
その面影を残す光が、そっと俺に触れてくる。
──あとは、君次第だよ。ボクらはいつでも、君の呼びかけに答えるから。
赤色の光が、穏やかな声でそう言う。
赤は俺にとって恐怖の色……だが、この光を恐ろしく感じることはなかった。
だって、目の前にいるのは……。
「……
かつての愛犬とうり二つの形をしている光に手を伸ばす。
光は「くぅん」と嬉しそうに身をよじる。
──恐怖に負けないで。君とボクたちなら、きっと乗り越えられる。
気づけば恐怖は消えていた。
もう大丈夫だと、そう思えたから。
彼らと一緒なら、俺はきっとどんな相手にも挑める。
我ながら不思議ではあるが、そんな気持ちになってくるのだった。
──忘れないで。ボクたちは、いつだって君の傍にいる。
その声を最後に……俺は夢から覚めた。
このホラー漫画の世界に転生してから、何度か見ている悪夢だった。
ナニカから必死に逃げていて、最後に捕まりそうになって、息を荒げながらいつも飛び起きるのに……。
だが、今回は違った。
珍しく、夢の内容をハッキリと覚えている。
あの四つの光は──まさか、俺がこの世界に転生したように彼らの魂もこっちに……。
「……まさかな」
ただの夢だ。
もちろんそんなことはわかっているが……でも、どこか心が期待してしまう。
どんな形でも、もう一度あの四匹に出会えたら、それはどんなに素敵なことだろうと。
* * *
衣替えの季節になった。
今日から夏の制服を着て学園に通うことになる。
通気性のいいズボンを履き、黒のTシャツの上に半袖のワイシャツを身につけ、準備を終える。
「しかし、今年はまだ梅雨入り前だってのに暑いなぁ……」
気の早い蒸し暑さに参りながら、俺はいつものようにルカを起こしに行く。
肉啜りに壊された屋敷の修繕はすでに終わっており、ルカは俺の家から実家に戻っている。ルカ自身は「やだ。ずっとダイキの家で暮らすんだもん」と帰ることを渋っていたが。
「お~い、ルカ。起きてるか~」
「あ、ダイキ。おはよ」
珍しいことにルカはすでに起床していた。
着替えも済ませており、夏の制服に替わったルカとご対面する。
「見て見てダイキ。夏服似合う?」
ルカがぴょこぴょこと両腕を振りながら、期待の眼差しを向ける。
どうやら夏用の制服姿をいち早く見せたくて早起きしたらしい。
可愛らしいやつめ!
どれどれ。まじまじとルカの夏服姿を観察してみる。
スカートはやはり短め。黒タイツの代わりに、黒のサイハイソックスを履いている。色白の絶対領域がとても眩しい。
上着はブレザーから身軽な半袖の白ブラウスに。赤色のネクタイは相変わらず、特大の山の上に乗っかって見事に湾曲している。
そう、山である。ブレザーという拘束具から解放されたルカの双子山は、とんでもない存在感を放っている!
ていうか……あれ? 待って! 透けてない? ルカさん、ちょっとピンク色の花柄がブラウス越しに見えてません!?
「ふふ、ダイキ? どこを見てるの?」
ルカはクスクスと微笑みながら、挑発的に上半身を揺らす。
すると薄い白生地に包まれた双子山が大地震を起こす。
そりゃもう、ぷるんぷるんと!
た、大変だ! こんな過激な制服姿で学園に通ったらルカが男子たちの注目を浴びてしまう!
そんなの許さん!
「に、似合ってるぞルカ! でも何か上着を羽織ったほうがいいんじゃないかな!?」
「うん、ちゃんとベスト着けるよ? だってブラ透けちゃうもん」
「え?」
「ダイキだけに特別に見せてあげてるんだよ? ふふ、興奮した?」
ルカは蠱惑的な仕草で俺を見上げる。
幼馴染の妖艶な眼差しに、思わずドキドキ。
ルカめ! なんて小悪魔ちゃんなんだ!
「……見たいなら、もっと見ていいよ?」
「え?」
「ほら、お顔を寄せて?」
じりじりとルカが距離を詰めてくる。
迫り来る白い双丘。うっすらと見える桃色の花柄。そしてルカの甘い香り。
蜜に誘われる虫のように、そのまま柔らかな丘に顔を突っ込んでしまいそうになる。
「来て、ダイキ」
赤子を受け止める母のごとく、両腕を広げるルカ。
深い慈愛のこもった声と仕草。
このままルカの胸の中に飛び込んで抱きしめられたら、どれほどの幸せが感じられるだろうか?
「ル、ルカ……」
「いいよ? 我慢しないでダイキ」
とろけた声色で俺を誘うルカ。
アカン。こんなのもう辛抱できるはずが……。
「お嬢様~? 朝食の準備ができましたよ~……って、あら、すみません。お楽しみ中でしたか? どうぞごゆっくり~」
「ああっと! 違うんですよ椿さん! すぐにリビングに行かせますので!」
家政婦の椿さんの呼びかけでなんとか正気に戻る。
アブねえ、あのままだと確実に遅刻する流れになっていた。
「ちぇ。あともうちょっとだったのに」
ルカは不満そうに呟きながら、青色のベストを着た。
……ああ、スケスケの花柄が隠れてしまった。
「そんなに残念そうな顔しなくても大丈夫だよダイキ」
露骨に落ち込む俺の耳元に、ルカはそっと唇を寄せると、
「……続きは、今日の帰りでね?」
「なっ」
なんて刺激的なことを言うんだルカ!
「さてと、朝ご飯食べてこよっと。もうちょっと待っててねダイキ?」
「お、おう……」
顔を熱くする俺を放ってルカはリビングに向かった。
……何だろうな、最近のルカ、随分と積極的な気がする。
いや、これまでだって充分に激しいアピールをしてきたけれど……
気を抜いたらさっきみたいに我を忘れて、本気で一線を越えかねない勢いだ。
いかんぞ、ダイキ。いっときの衝動に負けて大切な幼馴染に手を出すのは。
じゃないと天国の璃絵さんに申し訳が立たない……と思ったところで、ふと母に言われたことが頭によぎる。
──ダイキ! ルカちゃんがあんなにも『好き好きアピール』をしているのに、あなたときたらそのアピールを無下にするような素っ気ない態度ばっかり取って! 女からしたら『自分に魅力ないのかな?』とショックを受けるに決まってるでしょ!? 愛想尽かされてもしょうがないわよ!?
ルカの様子がいっときおかしくなったときに向けられた母の指摘。
実際は母の思い違いだったわけだが……あれ以来、妙に俺の心に引っかかるようになった。
……思いを告げるのは俺の覚悟が固まったときでいい、とルカは言った。
これまではその言葉に甘え、じっくりと自分の心と向き合うつもりでいたが……。
もしかしたら、もう覚悟を固めるべき時が来たんじゃないだろうか。
窓の外を見る。
夏を予期させる青空が広がっている。
この世界に転生して、十六回目の夏が来ようとしている。
ルカと過ごす夏……これまでとは違う夏になるかもしれない。
そんな予感をいだいていた。