ムジツさんは今日も無実   作:じゃん@論破

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第4話「証明してごらんあそばせ」

 

 約束の時間が迫る16時25分、学園内はずいぶん静かになっていた。多くの生徒はすでに下校し、最後まで鍵を手に入れようと足掻く部会も僅かばかりだ。

 物が片付けられて整然としている学生生活委員室は、まるでこの学園の理事室のようだった。漆塗りの艶やかな木製机が部屋の奥に置かれ、委員長の名札が立てられていた。それより少しスケールダウンした高級そうな事務机が部屋の両側に3つずつ並び、部屋の中央には応接用のガラステーブルとソファが構えている。委員長席の後ろには大きな旗が校旗と交差して飾られており、ガラス戸のついた戸棚にはトロフィーや盾、賞状が丁寧に並べられている。絨毯は中央に人ひとり分にワインレッドのラインが引かれ、両縁をなぞる金の刺繍以外は一面カーキ色に染まっていた

 田中(たなか) 光希(みつき)は、委員長席でペンを走らせながら待っていた。鍵の争奪戦に勝利し、その証を持って現れる者を。約束の時間はもうすぐ、いま取り掛かっている仕事がひと段落するのもその時間。完璧な時間調整で、1秒たりとも無駄にしないスケジューリングのはずだった。

 

 「!」

 

 時刻は27分。まだ約束の時間までは3分もある。だというのに、委員室のドアをノックする音がした。委員ではない。委員には特殊なノックの方法を伝えてある。それ以外でこの時間に扉を叩く者などひとりだ。つまり、約束の時間より早く鍵を持って現れた者がいるのだ。

 

 「どうぞ」

 

 短く返すと、扉はゆっくり開かれた。暖かい部屋の空気が外に流れ、冷たい廊下の空気が足元になだれ込む。その向こうから遠慮がちに現れたのは、体の全面を埃と土で汚した生徒だった。目元と鼻が赤らんでいる。鍵を巡ってずいぶんと争い、駆けずり回ったのだろう。

 田中は微笑んだ。汚れた生徒は扉を閉め、入口近くに立ったままお辞儀した。

 

 「あ、あの……約束の時間には早いですけど……もう、私以外に人がいなくて……いいかなって」

 「まあまあ。そんなにお顔もお召し物も汚れてしまって、お可哀想に。そちらにお手拭きがあります。どうぞお使いになって」

 「は、はあ……ありがとうございます」

 

 田中は保温機を手のひらで示し、生徒に汚れた顔を拭かせた。そうしている間にも、手元のペンは止まらない。

 

 「お名前とクラスをお聞かせくださる?」

 「さ、鯖井(さばい) (はる)です。2年Dクラスです」

 「春さん……ああ、ごめんなさい。今日のお昼にお話ししたばかりでしたね。確かサバイバルゲーム同好会の」

 「いえいえいえ!そんなそんな……!副会長いそがしいですし、名前なんていちいち覚えてらんないすよね……いくらでも名乗りますから……!」

 「ふふふ。サバイバルゲームというのは、とても刺激的でスリリングなスポーツと伺っています。春さんは同好会としての活動を楽しんでいらっしゃいますか?」

 「は、はあ……いやあ、あまり頻繁には……。あ、で、でも楽しいですよ!モデルガンを撃ったりするのは気持ちいですし!」

 「それは何よりです」

 

 田中のペンが止まった。それと同時に、壁にかけられた振り子時計から音楽が流れる。伊之泉杜学園の校歌だ。16時30分。約束の時刻になった。鯖井は緊張で口の中がカラカラになる。田中は、薄く微笑んだまま口を開く。

 

 「春さん。鍵をこちらへ」

 「は、はい!」

 

 田中が、机の上に置かれたフェルトの敷かれたトレイを指し示す。鯖井は手が戦慄(わなな)くのを押さえながら、ポケットから鍵を取り出し、そこに置いた。極度の緊張のせいか、鯖井は田中に近づいたのに、再び入口近くまで下がってしまう。

 

 「どうか緊張なさらないで。いくつか質問をさせていただきますので、正直にお答えください」

 「……はい」

 「春さんは、こちらをどのようにお手にされたのでしょうか」

 「あ、あの、同じクラスの、牟児津さんっていう子から……か、掠め取りました」

 「なるほど。その方はお怪我なされていませんか」

 「だ、大丈夫です。怪我はしてません」

 「そう……安心しました」

 

 鍵を手に取り、田中はそれを注意深く見つめる。まるで鍵を鑑定しているようだ。鯖井は、田中の質問に正直に答えた。ウソを吐く理由もないが、仮に理由があったとしても下手なウソは田中に通じない。そう感じさせる迫力があった。全校集会のときに見せた柔和で可憐な印象は感じない。

 しばらく鑑定と質問が続いた後、田中は鍵をトレイに戻した。そして、鯖井を見た。その目は、突き刺さるように鋭かった。

 

 「春さん。残念です」

 「へ?」

 「これはわたくしがお持ち頂くよう申し上げた鍵ではありません。偽物です」

 「……はあああっ!?」

 

 思いもよらない田中の発言に、鯖井は大声を出す。そんなことはお構いなしとばかりに、田中は立ち上がってガラス戸を開けて、中から天秤を取り出した。シンプルながらも上品な装飾が施された、いかにも高級そうな天秤だ。そこに、鯖井が持ってきた鍵と、委員会室の鍵を、それぞれ左右の皿に乗せた。鯖井の持っていた鍵が大きく沈む。

 

 「えっ……!?」

 「この学園の鍵は偽造や複製を防ぐため、様々な工夫が施されています。たとえば、鍵の重さは全て等しく製造されています。ところがご覧のとおり、この鍵は明らかに重いようです。よく出来てはいますが、残念ながらこれを認めるわけには参りません」

 「んなバカな!!そ、そんなはずは……だってそれは確かに……!!」

 「申し訳ありませんが、春さん、鍵が偽造されていると分かった以上、あなた自身についても今一度考え直さなくてはなりません」

 「は……?わ、私……?」

 「この部屋から鍵を盗んだ犯人、春さんがその方ではないと、今ここで証明できますか?」

 「なっ、なっ、なにを……!?」

 「あなたがこの部屋から鍵を盗み去った。そしてわたくしのお願いをお聞きになったあなたは、偽物の鍵を用意してわたくしに返却し、鍵が更新される前に本物の鍵を使って空き部室を占拠しようとした。それを否定できますか?」

 「い、いやいやいや!そんなことするわけないじゃないですか!っていうか、私は鍵を盗んだりなんかしてないですよ!」

 「先ほど牟児津さんという方から掠め取ったとおっしゃいました。それも立派な窃盗です。それが事実であろうとなかろうと、あなた自身が自らを、窃盗をする人間だと告白しているのです。悲しいことですが、疑わざるを得ません」

 「そ、そんな……!」

 「今この場では否定も肯定もなさらなくても結構。調べれば分かることです。あなたの制服のポケット、学園カバン、机の中、どこであろうと痕跡があれば必ずそれは見つかります。あなたが犯人ではないと仰るのなら、堂々となさっていればいいのです」

 「あ……?ああ……?」

 

 息つく暇もないほどの密度。付け入る隙もないほどの固さ。理解の追いつかない鯖井の脳は田中の言葉に押しつぶされた。もはや何も考えられない。何がどうなっているのか分からない。田中は鯖井に近付き、その肩を叩いた。その手は優しく、鯖井は、田中が触れている部分以外は五感が失われてしまったような感じがした。そして、扉の方に鯖井の体を向けさせた。

 

 「申し訳ありません、春さん。ですがこれは大きな問題です。粛々と対処しなくてはなりません。ご理解ください」

 

 田中は扉を開き、鯖井の背中を軽く押した。手が離れてしまうと、鯖井は全身の力が抜けて前につんのめった。崖から突き落とされるような虚無感。頼みの綱を切り離されるような絶望感。鯖井は受け身を取ることさえ忘れていた。

 一瞬、体が浮いたような気がした後、鯖井は温かい体に抱き留められた。

 

 「?」

 

 委員室の扉の前には、背の高い生徒が立っていた。艶やかな黒髪を真っ直ぐ降ろした、3年生と肩を並べるほど大きな1年生だ。鯖井を受け止めたのはその生徒だ。

 その隣に、ざくろ色の髪をした背の低い2年生が立っていた。その目は真っ直ぐ田中を見つめている。

 

 「この委員室から鍵を盗んだのは鯖井さんじゃありません。犯人は──!」

 

 その指は、真っ直ぐ室内を指さした。

 

 「副会長さん。あなたです」

 

 牟児津(むじつ) 真白(ましろ)は、自分の心音が強すぎて自分の声が聞こえなかった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 学生委員室内には、振り子時計が規則正しく時を刻む音だけが響く。委員長席に座った田中と、応接用のソファに腰かける牟児津と瓜生田、そして鯖井。外はすっかり暗くなっていたが、委員室の明かりは煌々と灯っている。

 

 「先ほどのお話ですが」

 

 唐突に田中が口を開いた。その声に、牟児津と鯖井はびくっと肩を跳ねさせる。落ち着いているのは瓜生田だけだ。

 

 「牟児津真白さん──真白さんとお呼びしても?」

 「……はあ」

 「そちらは、図書委員の瓜生田李下さんですね。李下さんとお呼びしてよろしいですか?」

 「もちろんです」

 「ありがとうございます。それで真白さん?先ほどお部屋の入口で仰ったことですが……虚を突かれたと申しますか、あまりに突然のことでしたので聞き漏らしてしまいました。恐縮ですが、もう一度、()()()()()仰ってくださいませ」

 

 田中は念を押すように言った。表情はにこやかだが、声色には明らかに牟児津への圧がこもっている。

 

 「この委員室から鍵を盗んだのは鯖井さんじゃありません。犯人は副会長さんです」

 「!」

 

 牟児津は単純に繰り返した。そうしろと田中が言ったからだ。そして全身に押し寄せる痛いほどの圧力は、はち切れんほどにがなる心臓の鼓動で相殺されて感じていなかった。それでも田中は眉一つ動かさず、あくまで穏やかに続けた。

 

 「空き部室の鍵を私が盗んだと、そう仰いますの?」

 「はい。副会長さん以外にあり得ません」

 「真白さん。これはとても大きな問題です。どのようにしてその結論に至ったのかは存じませんが、軽々に口にすべきではないことですよ」

 「分かってます」

 「……」

 

 あくまで冷静に。穏やかに。諭すように。田中は牟児津に語りかける。一方の牟児津も決して引かず、淡々と応じる。我を忘れるほどの緊張下にあるおかげで、牟児津は田中とまともに話せている。普段の牟児津なら、最初に圧をかけられた時点で降参していた。

 

 「そう。そこまで仰るのなら、わたくしとしても聞き流すことはできません。本当によろしいのですね?」

 「……はい」

 

 牟児津の返事を確認し、田中は小さく息を吐いた。誰にも気付かれないほど小さなため息だ。そして、それまで見せていたにこやかな表情を止めた。今も微笑んではいるが、それは全く別の表情だ。盾突く者を嗤うような、刃向かう者を嘲るような、そんな冷笑だった。

 差し出した手は美しいほど白い。そんな何気ない仕草さえ優雅だ。傍から見る者が抱くのはそんな感想だ。だがその手とその表情を向けられた者には、とてつもないプレッシャーがかかる。

 

 「どうぞ。証明してごらんあそばせ」

 

 もはや撤回は許さない。完全な証明でなければ認めない。決着をつけるまで絶対に逃がさない。牟児津たちにはそう聞こえた。

 

 「それじゃあまず、副会長がどうして今回の騒動を起こしたのかをお話しします。いいですか?」

 「ご自由にお話いただいて構いませんよ。必要があれば質問にもお答えします」

 「ありがとうございます。えっと……まず、ある人から副会長さんについて聞きました」

 

 いきなり不安な出だしだが、牟児津は川路の名前を出すかどうかを迷った結果、出さないことにした。ここで名前を出すことがどういう意味を持つか、はっきりとしたことは分からないが、不用意なことを言えば川路の立場が危うくなることは確かだった。なるべく迷惑はかけたくない。

 

 「今日の鍵争奪戦はおかしいことだらけだそうです。まず争奪戦の実施は、副会長さんが独断で決めたことだそうですね。普通こういうことをするなら、生徒会に掛け合うものじゃないですか?」

 「各委員長には、自らの業務管轄の範疇において生徒会の決議なしで決定する専決権という権限が与えられております。部室の管理は学生生活委員の管轄ですので、わたくしが専決いたしましたの」

 「うりゅ、そうなの?」

 「うん、そういう決まりはあるよ。だから委員長の影響力は大きいんだ。ちなみに、専決取消請求権っていうのもあるけどね」

 「李下さんはお詳しいのですね」

 「恐縮です」

 

 牟児津は瓜生田に確認した。単純に知らなかったというのも理由のひとつだが、校則や委員会規則に詳しい人物がいるとアピールすることで、田中にでたらめを言わせないよう牽制すある意味もある。どれほど意味があるか分からないが、まずは手筈通りに話を進める。

 

 「その人はこうも言ってました。副会長さんなら、その決定がどんな影響を出すか分からないはずがないって。部室を獲得するチャンスを鍵の奪い合いなんかで手に入れさせたら、学園中が大混乱になるって、副会長さんに予測できないはずがないんです」

 「まあまあ。高くご評価頂いて光栄ですが、残念ながらその方は私を買い被っていらっしゃいます。わたくしも所詮は一介の高校生ですよ。思慮の浅いばかりに不測の混乱を招くこともあります」

 「予想できなかったってことですか?」

 「お恥ずかしながら」

 「じゃあ、次は私の疑問です」

 

 深入りを避け、牟児津は話題を変える。ひとつの疑問を突き詰めても、田中はのらりくらりと追及をかわしてしまう。田中を突き崩すのに必要なのは多角的な攻撃だ。これまでの疑問点をひとつひとつつなげて、田中への疑いを複雑化させていかなければいけない。

 

 「どうして争奪戦をする必要があったんでしょうか」

 「……失礼、質問を理解するのが難しいので、もう少し詳しくお尋ねくださいますか?」

 「この争奪戦は、最終的に盗まれた鍵を副会長が回収するために実施したことになっています。でも、本当にそうする必要があったんですか?部室を餌にすれば犯人が鍵を持ってやってくると、本気で思ってるんですか?」

 「まあ、争奪戦や餌なんて粗野な表現はなさらないでください。わたくしは、確実に鍵を回収することに加え、部室を持てない部会の皆さんにチャンスをお示ししたまでです。学園としても、空室のままにしているよりどなたかにご活用頂く方が合理的ですから。結果的には争奪戦の様相を呈してしまいましたが、犯人でない方であれば鍵を持参することへの心理的障害が軽いと判断したので、そのような形式を採用しました」

 「ですからおかしいですよ。そんなことをする前に、もっと確実に鍵を回収する方法があるじゃないですか」

 「なんでしょう?」

 「今日の全校集会の前の時点で、オカ研が部室を引き払ったことを知ってるのはほんの一部の生徒だけでした。全校集会で副会長がそれを発表したとき、めちゃくちゃどよめいてたじゃないですか。あれが証拠です」

 「そうですね」

 「部室に空きができてることを知らなければ、その鍵を盗み出すことを考えることすらできないんです。だから鍵を盗み出せたのは、空き部室の鍵が委員室で保管されてることを知ってる人たち……20人かそこらしかいません。その人たちを個別に捜査すればいいじゃないですか。どうしてそうしなかったんですか?」

 「個別捜査には時間がかかります。少なくとも今日中に完了させることはできません。その間に盗んだ鍵をご自宅にでも持ち帰られてしまえば、回収が非常に困難になります。今日、この学園から鍵を出さずに回収することを考えれば、個別捜査は適しません」

 「でも今日のやり方だと、オカ研とか委員とか、部室争奪戦に参加する意味のない生徒が鍵を持ってたら同じことじゃないですか。そもそも委員が盗んだ可能性は考えないんですか?」

 「な、なんてことを……!」

 

 学生生活委員が鍵を盗んだ──牟児津の発言に田中は面食らった、ような反応を示した。状況だけを考えれば当然疑うべき可能性だ。しかしこの状況で、それを学生生活委員長である田中に対して、部外者である牟児津が指摘するのは、少々意味が変わってくる。

 それでも田中はすぐに冷静さを()()()()、考えるような仕草をしつつ再び牟児津を促した。

 

 「すみません。状況が状況ですから、語勢が強まるのは仕方がありませんね。今の暴言は聞かなかったことにします。ですが真白さんも、ここからはお言葉にお気を付けください」

 「……じゃあ次は、副会長さんの同級生に聞いた話です」

 

 牟児津はあっさり話題を変えたが、瓜生田は静かに奥歯を噛んだ。牟児津の指摘を暴言と言い換え、自分への疑いを寛容な態度で誤魔化し、さらにそれ以上の追及を封じ込んだ。演技があからさまに感じるのは、自分たちが疑いの目で見ているからだろうか。

 

 「3年生の間では、副会長さんは部会嫌いで有名だそうですね」

 「そういう噂は存じております。ですがあくまで噂に過ぎません。何の根拠もないことです」

 「そうですか?私は本当だと思います」

 「なぜでしょう」

 「副会長さんは2年生のころ、学生委員の副委員長になったんですよね。そしてそのときに、今の部会に関するルールを作ったとか」

 「ええ、そうですね」

 「全ての部会に活動実績定期報告書の提出を義務付けたり、部の設立に人数制限を作ったり、同好会の予算を削ったり……どれもこれも、部会の活動を厳しく制限するものばかりじじゃないですか。結果、副会長さんの就任前と後とでは、高等部の部会数が全然違います。副会長さんは、弱小部会を潰すためにこんな制度を作ったんじゃないですか?」

 「人聞きの悪いことを仰らないでください。わたくしはあくまで、学園生の皆様が公正かつ自由に部会活動を行えるようなルール作りをしたに過ぎません」

 「でも明らかにこのルールのせいで消えた部会がいくつもあるのは事実です。そして、この結果を副会長さんが予測できなかったわけがない」

 「……」

 「本当は全部分かってたんじゃないですか?今日だってそうです。鍵を巡って争った部会の人たちは風紀委員に逮捕されました。鍵を諦めて下校した人たちは、明日からの部会活動に対する心を折られてます。鯖井さんだって、部室どころか鍵を盗んだ犯人にされかけてます。誰一人得をした人はいないんです。去年のルール作りも今日の騒動も、副会長さんが主導して、最終的にたくさんの部会が活動停止に追い込まれる結果になってるんです。副会長さんは、部室を持つことができない弱小部会を徹底的に減らすために、今日の騒動を引き起こしたんじゃないんですか」

 

 牟児津は思い起こしていた。追い込まれて悪事に手を染めた辺杁の葛藤を。部室を手に入れるまでもう少しのところで捕らえられた鯖井の無念を。田中には聞こえていないし見えてもいない。この学園で部会活動をする生徒たちの苦労も、迷いも決断も。今それをぶつけられるのは牟児津しかいない。

 しかしその声は容易には届かない。田中は依然として涼しい顔で牟児津の追及を受け止め、煽るように笑う。

 

 「それで?今日のことが私の意図したことで、その目的が真白さんの仰る通りだったとして、なんですの?それと私が鍵を盗んだこととは、どう関係しますの?」

 「認めはしないんですか」

 「まさか。ですが真白さんが、それを前提としてお話しされることを妨げることは致しません」

 

 まだ話の途中だろうということだ。田中はひとつひとつの推理について判断を下すことはしない。木を見て森を見なければ、気付かないうちに相手のペースに取り込まれるだけだ。逆に牟児津の推理が長く大きくなるほど、些細な綻びをひとつ指摘するだけで、推理全体の信憑性を堕とすことができる。瓜生田には田中の意図が分かっていた。分かっていて何もできなかった。

 

 「じゃあ、今までのことを踏まえての話ですけど……副会長さんは、おかしいと思わないんですか?」

 「なにがでしょう?」

 「さっき副会長さんは、鯖井さんの鍵が偽物だと証明しました。だったら、どうして本物の鍵を持った人は現れないんですか」

 「……あっ」

 

 声を漏らしたのは鯖井だ。魂が抜けたようにソファに座り込み、牟児津と田中の静かな対決を右から左へ聞き流していた。しかしようやく、鯖井にも理解できる範囲の話になってきて気付かされた。確かに、本物の鍵は今、どこの誰が持っているのか。

 

 「鍵を盗むことを考えられたのは数人。その中で、今日の騒動を受けてもまだ鍵を持ち続けることにメリットがある人はいません。どういう目的であれ、さっさと用を済ませて返しちゃえばいい話です。なのに、その人は一向に現れない。なぜなんでしょう」

 「さあ。物を窃取した経験はございませんので、わたくしにその方のお気持ちは何とも」

 「本当に鍵は盗まれたんですか?」

 

 ひくと田中の口元が歪んだ。ほんの僅か、ともすれば気のせいかと思うほどの刹那の間のことだ。しかしこれまで能面のようだった田中の顔に、初めて意図しない表情が生まれた気がした。

 

 「今日の昼休み、副会長さんは鯖井さんを訪ねてうちのクラスに来たらしいじゃないですか。そのとき何をしに来て、何をしたのか、聞いてもいいですか」

 「……そちらの春さんが提出なさった活動実績定期報告書に不備がありましたので、修正して頂こうと思い、ご返却に伺いました。春さんはお席に座っていらっしゃいましたから、そちらまで参りまして、返却と、併せて激励のお言葉を差し上げました」

 「鯖井さん。間違いない?」

 「へっ?う、うん。そうだね。間違いない……」

 「つまり、鯖井さんに実定を返すためだけに、副会長さんはうちのクラスまで来たってことです。でも副会長さんは、学生委員長と副会長を兼任しててめちゃくちゃ激務だそうじゃないですか。実定の返却なんて委員にさせればいいのに、なんでわざわざ自分でしようと思ったんですか?」

 「たまたまお仕事に隙間ができましたので、たまには皆さんとの触れ合いも必要かと……いえ失礼、建前はやめましょう」

 

 流れるように吐いた言葉を急に切り、田中は頭を振った。そして少しだけ今までより柔和な言葉と笑顔を晒した。まるで、これが本当の表情だと主張するように。

 

 「気分転換です。ずっと委員室にこもって仕事をしていると、たまには訳もなく外を出歩きたくなるんです。長時間の着座は業務効率を低下させますので。実はこのお部屋に一人のときは、歩き回りながらお仕事したりしているんですのよ」

 

 こんなときでなければ、それは少しだけ恥ずかしい秘密を告白するいじらしい姿に映ったかも知れない。しかし今は、田中の本性を覆い隠す仮面のひとつを外させたことを意味するに過ぎない。

 

 「気分転換だけのために、鍵もかけずに委員室を空けたんですか?実定を鯖井さんに返すためだけに、忙しい時間を割いて気分転換をしたと、本気でそう言うつもりですか?」

 「ふふふ。私のほんの気まぐれまで、あなたに否定できて?」

 「その外出に別の意図があることを証明すれば否定できます。副会長さんは、ただ鯖井さんを訪ねてうちのクラスに来たんじゃない。放課後に鍵争奪戦を起こすために来たんだ」

 「否定には相応の根拠が必要ですのよ」

 「根拠はあります。ついさっき見つかりました」

 

 わざとらしく笑う田中だが、目元は一切笑っていない。柔らかく優しい眼差しを直視すると、包み込まれて囚われてしまいそうな深淵を感じる。田中は優秀だ。学業も運動も人の心を操ることも、牟児津より遥かに有能だ。しかしだからこそ、そこには弱みが生まれる。全てを知っているつもりでいるという慢心だ。

 唯一、牟児津が知っていて田中は知らない事実がある。田中を突き崩すチャンスはそこにある。

 

 「副会長さん。その鍵を最初に見つけたのは、私たちなんです。その鍵が見つかったのは、私のカバンの中です」

 「……はい?」

 

 初めて、田中が聞き返した。どれだけ牟児津が推理を話しても、どれだけ揺さぶっても、どれだけ追及しても一切動じなかった田中が、たった一つの事実を理解できなかった。やはり、ここが田中の弱点だった。

 

 「その鍵は、今日の放課後、私がカバンをひっくり返して見つけたんです。委員室から盗まれた鍵がどうしてそんなところにあったと思いますか?ちなみに私のアリバイは、クラスのみんなが証明してくれます」

 「そんな……ことが?」

 「意外ですか?そうですよね。だって副会長さんは、()()()()()()()()()()()()()()ですもんね」

 「!」

 「えっ……!?な、なに?どういうこと?」

 

 思わず鯖井が声をあげる。一体何がどういうことなのか、まだ理解できない。田中の顔はいつの間にか笑顔が薄れ、机に置かれていた手が持上がり肘をついていた。しきりに親指が動いているのが見える。

 

 「副会長さんはさっき、昼休みにうちのクラスまで来て、席に座ってた鯖井さんに実定を返したって言ってましたよね。だけどそのとき鯖井さんが座っていた席は、鯖井さんの席じゃなかったんです」

 「あっ……!ああっ……!!そ、そうだ……!!」

 「副会長さんが来たとき、鯖井さんは私の席に座ってた。だから副会長さんは、そこが鯖井さんの席だと勘違いした。そして、鯖井さんのカバンだと思い込んだ私のカバンに、隠し持った鍵を入れた。鍵争奪戦の引き金にするための、偽物の鍵を!」

 「!」

 「鯖井さんを選んだのは、本当に偶然かも知れません。だけど、その鯖井さんが座っていた場所に副会長さんは来た。そこにかかっていた私のカバンに鍵が入っていた。しかもその鍵は偽物だった。副会長さんなら鍵を持ち出すことができたし、鍵の偽物だっていつでも作ることができた。何もかも偶然というにはできすぎです!全ては空き部室を餌に自作自演で争奪戦を煽って、この学園から弱小部会を一気に削減するため──そんなことができるのは副会長さん、この学園であなただけだ!」

 「……」

 

 沈黙。窒息しそうなほど空気が重い。小さな音が聞こえる。何かをこすり合わせるような、乾いた音。田中は俯いている。その親指は激しく動いていた。親指の爪をもう片方の親指でひたすらこすっている。その音だけが、委員室に小さくこだまする。決して大きくないのに、全ての壁と天井から響いてくるような、威圧感のある音だ。

 

 「……根拠は、ありますか?」

 「空き部室の鍵を元々しまっていた場所を教えてください。本物の鍵は今、そこにあるはずです」

 「そう、ですか」

 

 音が止んだ。再びの沈黙。そして、田中が顔を上げると、牟児津たちは戦慄した。また田中の表情が変わった。それは、仮面の微笑みでも、慢心による冷笑でもない。勝利を確信した、どこまでもおぞましい笑みだ。

 田中は不意に席を立ち、鍵専用の戸棚に近付いた。中には手前にスライドする板が縦向きに並んでいる。そのうちの一つを引き出すと、面に取り付けられたいくつものフックのひとつひとつに、それぞれ鍵がぶら下がっていた。その中のひとつ、空き部室の番号が記されたフックに、鍵はかかっていなかった。

 

 「……!」

 「ご苦労様でした、真白さん。そして……わたくしの()()()()認めましょう」

 「……?落ち度?」

 「ええ、認めざるを得ません。わたくしが、鍵をお持ちいただければ部室を渡すなどと言ってしまったばかりに、このような事態を引き起こしてしまいました。結果的に皆様のお気持ちを傷つけてしまい、自らの至らなさに忸怩(じくじ)たる思いでいっぱいです。申し訳ありませんでした」

 「そんな……!そんな逃げ方は卑怯です!」

 

 声を荒げるべきではないと、頭では理解していた。自分が何を言おうとも田中を追い詰めることはできないと、冷静に考えて分かっていた。しかし瓜生田は叫ばずには、立ち上がらずにはいられなかった。田中が自分の()()()()()を認めて謝罪する、たったそれだけのことでこれまでの牟児津の追及が全てなかったことにされるのが、我慢ならなかった。

 

 「きちんとムジツさんの指摘に向き合ってください!田中先輩は部会を一斉に削減するために、空き部室の鍵を無断で複製した挙句、盗まれたと学園全体に狂言を働いて生徒の感情を煽ったと言ってるんです!判断ミスなんて言ったところで、部会の人たちはひとつも救われないんですよ!自分の責任から逃げないでください!」

 「お気持ちはお察し致します。ですが、わたくしは初めに申しました。証明してごらんあそばせ、と。真白さんの指摘には証拠が不足しています。証拠のない指摘を証明とは申しません」

 「なんっ……そ、それは……!詭弁です……!そんなものは悪魔の証明です!」

 「それに挑んだのはあなた方です。わたくしに責任から逃げるなと仰るなら、あなた方こそご自分の発言に責任を持ちなさい」

 

 田中は毅然と言い放つ。推理が綱渡りだったことなど、牟児津が一番よく分かっていた。2年前の同級生の印象に始まり、田中の実績が残した結果という間接的な状況証拠や憶測によるバイアスがかかった言動の解釈、どれもこれも抽象的ではっきりと証明することのできない根拠ばかりだった。唯一の物的証拠であった本物の鍵がそこにないのなら、牟児津の推理を支えるものは実質的に何もないのと同じだ。田中が鍵戸棚を開いたとき、牟児津は賭けに負けたのだ。

 

 「とはいえ、今回の件の責任は全てわたくしにあります。後日、学園により然るべき処分が下されるでしょう。お三方のこともお名前は伏せて報告致します。よろしいですね」

 「……ちょ、ちょっと待ってください!え?じゃあ、私はどうなるんですか!?さっきの鍵を盗んだ云々って話は……!?」

 「その件については何も変わりありません。少なくともここにあるはずの鍵を持ち去った人物が存在することは確かなのですから、捜査は行われます」

 「そんなあ……!」

 

 放心していた鯖井は我に返った。牟児津が田中の真意を暴いて打ち負かせば、自分への追及はなくなるはずだった。しかしそれに失敗したということは、鍵泥棒の疑いは残っているということだ。そうなれば部室云々どころか、同好会活動すらできなくなりかねない。

 

 「これらは学生生活委員長としての専決による決定です。あなた方に取消の権限はありません。話は以上です。既に下校時刻を過ぎていますので、速やかに下校なさい」

 「ま、待ってください!それじゃあ私は……!私は何のためにこんな……!」

 「そうです!これはあまりに横暴です!納得できません!」

 「わたくしは下校を指示しました。これ以上の滞在は不退去罪にあたる可能性があります。重ねて申しますが、この指示はわたくしが委員長として決定したものです。それに従わないというのであればこの学園から──!」

 

 

 「WAIT A(ちょおっと待) MOMENT(ったあああっ)!!!」

 

 

 声が轟く。力強くて明朗な、波動を伴う大声だ。その波動は田中の言葉を遮り、瓜生田と鯖井の抗議を止め、委員室内の注意を一手に引きつけた。委員室の扉は開かれていた。叩き開かれたのだ。

 暗い廊下に委員室の光があふれる。その光を受けてなびく髪は美しく銀河のようで、輝く瞳は星空をはめ込んだようだ。混沌とした委員室内を浄化するような底抜けの明るさと煌めくオーラが、極限まで緊張していた牟児津の心をほぐした。

 

 「あっ……ああっ……?」

 「ミツキ!あなたの専決を取り消させに来たわ!」

 

 広報委員会委員長、旗日(はたび) (よる)は堂々宣言した。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

──私立伊之泉杜学園高等部生徒会本部規則の抜粋──

 

『委員長の専決に係る規則』

  (目的)

 第一条 この規則は、伊之泉杜学園高等部生徒会本部の委員長が行う専決に関し必要な事項を定めることにより、業務の組織的かつ能率的な事務処理を図ることを目的とする。

 

  (専決権)

 第二条 各委員長は、特別の場合を除き、所属する委員会の業務に係る意思決定について専決することができる。

 二 前項規定による決定の責任は、専決を行った委員長及び専決に関わった委員長にのみ及ぶものとする。

 

  (専決取消請求権)

 第三条 専決の取消は、生徒会長または生徒会副会長の宣言を以て決定する。

 二 各委員長は、以下に定める場合において、生徒会長または生徒会副会長に専決の取消を請求することができる。

  ア 専決を行った委員長及び専決に関わった委員長より多数の委員長による取消請求の支持

  イ 専決を行った委員長及び専決に関わった委員長を除く全ての委員長による取消請求の支持

 三 専決の取消は、当該専決が行われてから7開校日以内に請求されなければならない。

 四 前項規定により取消請求があった場合、請求を受けた生徒会長または生徒会副会長は、速やかに専決の取消または請求の棄却を裁決し、宣言しなければならない。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 旗日の乱入により、学生生活委員室は数秒前とはまるで状況が変わっていた。田中は学生生活委員長として圧倒的優位な立場で、牟児津の指摘を一蹴し強制退去させようとしていた。そこへ、広報委員長として田中と同等の権限を有する旗目が現れたことで、牟児津たちに強力な後ろ盾が生まれた。

 

 「こんな時間になんですか。ノックもせずに闖入(ちんにゅう)するなんて無礼ですよ」

 「ノックならもちろんしたわ!ヒートアップしていたみたいだから、聞こえるように少し強めに叩いたのよ。そのままドアが開いてしまったことなんてちっぽけな問題よね」

 「それは“押し入る”と言うのです。とにかく今はお帰りになってください。わたくしはこちらの方々と大切なお話をしていたのです」

 「話はまだ終わっていないのかしら?」

 「いいえ。もう終わりました」

 「ならワタシたちがいても問題ないわね!ハァイ、ムジツちゃん。ステキな夜にステキなヨルが助けに来たわよ」

 「あ、ああ……どうも……」

 

 空気を読まず明るく振る舞う旗日が牟児津にウインクする。牟児津はどうリアクションしていいか分からず、中途半端な笑顔を返した。そして旗日は瓜生田と鯖井の顔を順番に見た後、再び田中に向き合った。人を威圧する田中の笑顔も、とことんまでポジティブな旗日にはあまり効いていないらしい。旗日のフィルターを通せば笑顔は全て肯定的な意味合いになるのだ。

 

 「一連の話は聞かせてもらったわ!ミツキ、あなたとんでもないことしてくれたわね!おかげでワタシのカワイイ委員が何人か巻き込まれてしまったのよ!ただでさえ過労で疲れてるのに、ケガでもしたら仕事にならなくなっちゃうじゃない!」

 

 自覚があるなら休ませればいいのに、と牟児津は思って言わなかった。

 

 「そもそも部会の大量削減なんて、伊之泉杜学園(うち)の理念に真っ向から背く横暴よ!部活紹介は“蒼海ノア”の紹介動画でも目玉なの!それをなくすなんてナンセンス!マジであり得ない(NO WAY)!しかもあなた今、ムジツちゃんたちに何を言おうとしたの!?そんなことワタシが絶対に許さないわよ!」

 

 押し寄せる波濤の如く、旗日の言葉はみるみる内にその迫力を増していった。横で聞いていた牟児津たちすら、その言葉の力強さに気圧されていた。直接それを向けられている田中に動揺した様子はない。しかし、明らかに牟児津たちを相手にしていたときとは違い、警戒心をあらわにしていた。

 ひとしきり喋った後、旗日は田中を真っ直ぐに指さし、再び堂々たる宣言をした。

 

 「ミツキ!今日あなたが行った専決に対して、広報委員長の権限において取消を請求するわ!」

 

 おお、と瓜生田が声を漏らした。まさかこの土壇場になって、他の委員長が現れるなど予測していなかった。さらには牟児津に味方し、田中に対して専決取消の請求まですることなんて。そんな瓜生田の熱視線を感じ取ったのか、旗日は得意げにふふんと鼻を鳴らす。

 指さされた田中は、不愉快そうにその指先を見つめる。しかしまだ余裕の態度は崩れない。旗日の取消請求は、まだ何の力も持たないからだ。

 

 「ふふふ、夜さん。ちょうどこちらに、生徒会本部規則にお詳しい瓜生田李下さんがいらっしゃいます。お伺いを立ててみてはいかがかしら」

 「うん?」

 「李下さん。委員長による専決取消請求権の発動要件を覚えていらっしますか?」

 「……ッ!」

 

 当然、瓜生田は覚えている。専決取消の請求には、その専決をした委員長と関わった委員長より多くの委員長による支持が必要だ。今の場合は、少なくとももう一人の委員長による支持がなければ旗日の請求は要件を満たさず成立しない。

 田中は、それを敢えて瓜生田の口から言わせようとしている。田中が言うよりも公正で、牟児津たちが認めざるを得ない人物の口から。その悪辣さに瓜生田は寒気がした。だが旗日は一顧だにしない。

 

 「あはっ!そんなこと訊くまでもないわ!当然分かっているもの!ねえ?」

 「!」

 

 旗日は振り返らず背後に語り掛ける。開放されたドアが廊下に落とす影の中から、彼女は現れた。一日一回出会うことさえ、牟児津にとっては心臓に悪い。今日はこれで三度目になる。それでもまだ牟児津の心臓が停止しないのは、今日だけはその顔に怯える必要がないからだろうか。

 その生徒はすらりと伸びた美脚で委員室の絨毯を踏み潰し、堂々たる態度で旗日の隣に並び立つ。

 

 「風紀委員長の権限において、旗日の取消請求を支持する」

 「……まあ」

 

 川路(かわじ) 利佳(としよ)は短く言い切った。田中は小さく声を漏らす。

 

 「利佳さんまで……?理由をお聞かせ願います」

 「私は貴様を信用していないからだ」

 「まあまあ。風紀を守るべき風紀委員長であるあなたが、個人的な感情でこんな大それたことをするなんて。思ってもみませんでしたわ」

 「なぜ鍵の盗難を風紀委員に報告しなかった。牟児津の言う通り、貴様の独断でこんな騒動を起こす前に風紀委員に任せるべきだ。そして貴様ほど能力がある人間なら、自分の発言に伴う影響は当然分かっていたはずだ。争奪戦の発生が予想できたのなら、専決する前に私に相談すべきだった。貴様は学園内で起きた盗難事件の通報を怠り、自らの影響力を考慮せず当然にすべき相談をも怠った。いったい貴様の何を信用しろと言うのだ」

 「……」

 

 おそらく田中は、他の委員長を相手するつもりはなかったのだろう。牟児津たちより旗日と川路の言葉は少ないが、明らかに田中は追い込まれつつある。そもそも二人とも、牟児津たちとは立っている土俵が違う。委員長としての権限など牟児津たちにはない。武器を持っていないのだから、初めから戦いにすらなっていなかった。川路と旗日による糾弾を目の当たりにして、牟児津はそう感じた。

 田中が親指をこする。まるで田中の焦りと苛立ちを表すように。その指は強く、速く、熱く、同じ動きを繰り返す。

 

 「いちおうお尋ねしますが、取消を請求する専決とは具体的には何を指すのでしょう?」

 「盗難された鍵に関する捜査権の発動、争奪戦の開催決定及び部室使用権の譲渡だ。他にあるか、旗日」

 「ついでにそこの子たちへの個別捜査権と下校命令もね!」

 「……承知いたしました。決まりですから仕方ありません」

 

 指が止まった。深く、深く息を吸った後、田中はため息を交えてそう言った。しかしそれは諦めではない。

 

 「それでは、田中学生生活委員長による専決について、旗日広報委員長及び川路風紀委員長より取消請求がありました。生徒会副会長の権限において、裁決を下します」

 「……えっ!?な、なにそれ!?副会長さんが決めんの!?」

 「そんなんアリ!?」

 「バカな。そんな主張が通るわけないだろう」

 「お黙りなさい。本来ならば会長に諮るべきですが、本日会長は不在にしていらっしゃいます。()()()()()()()()()()()()()()()、生徒会副会長として私が代理で裁決を行います!」

 「そんな……!」

 

 誰が聞いても無茶苦茶だった。だが、規則上は成立し得る。もはや田中にとってこれは最終手段だ。まさか委員長による専決取消の請求までされるとは考えていなかった。しかし万が一、あり得ないほど僅かな可能性が現実になったら──。そんなときのために用意していた切り札を使わされた。そうなった時点で、既に勝敗は決しているにもかかわらず。

 田中が口を開き、裁決を下──。

 

 

 「いいえ田中さん。代理には及びません」

 

 

 その言葉は部屋の中央から聞こえた。全員の耳に同時に響き、そのとき全員が同時にその姿を認識した。まるで今この瞬間、何もない空間からその場に現れたようだった。一切の物音を立てず、一切の視線をかわしつつ、一切の存在感を消し去って、いつの間にか部屋に入ってきていた。

 やわらかな白い手袋が、興奮した田中の手に重なった。対峙する川路と旗日に向き合い、田中を庇うように、その生徒は立っていた。雪のように白い髪と透き通った湖のように碧い瞳は、その姿を認識した後も、気を抜けば見失ってしまいそうな儚さをまとっていた。

 

 「生徒会長の権限において裁決を下します。取消請求を認容し、田中学生生活委員長による専決の取消を宣言します」

 「……ッ!!」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 生徒会長は簡潔に述べた。その言葉が持つ力に釣り合わないほど簡潔に。その言葉を理解するのと、その存在が誰なのか認識するのと、ほぼ同時だった。

 

 「か、会長……!?」

 「せ、せせせ、生徒会長ォオオオッ!!?あわあわわわ……ぶくぶく」

 「鯖井さーーーん!?ウソでしょ!?気絶した!!って生徒会長!?この人が!?」

 「……し、失礼ですよ!指を下げなさい!」

 「ひぃ」

 「驚かせてしまって申し訳ない。そちらの方はソファに寝かせておしぼりで汗を拭いてあげてください。すぐに良くなりますよ」

 「えっ、あ、は、はあ……そう、します。うりゅ、鯖井さん寝かせて」

 「う、うん……」

 

 生徒会長は牟児津の非礼は全く意に介さず、牟児津と瓜生田に鯖井に対する適切な処置を指示した。せかせか動く牟児津たちを優しく見守る姿と先ほど発した言葉に、旗日は驚きよりも喜びが勝った。

 

 「あはっ!専決の取消を宣言します、だって!やったわねトシヨ!ムジツちゃんたち助かるわ!」

 「抱きつくな。それと私は自分の委員会を守るために支持しただけだ。牟児津は関係ない」

 「どういうこと?」

 「今日だけで逮捕者が百人以上出た。そいつら全員に事情聴取して処罰するなど人手がいくらあっても足らん。だが田中の専決が取消されれば、不正確な情報により暴動を指嗾(しそう)されたとして減刑が可能だ。つまり我々の負担が減る」

 「えっ!仕事を減らすなんて発想、ワタシなかった……!」

 「黄泉は苦労しているだろうな」

 

 飛びつこうとした旗日の顔面を押さえつけて川路が距離を取る。ただひとり、この部屋で納得のいかない顔をしている田中は、自分の前に立つ生徒会長の背中を睨みつけていた。そんな視線は一切気にせず、生徒会長は鯖井を看病する牟児津たちに近付いた。

 

 「うひっ」

 「こうして顔を合わせるのは初めてですね。牟児津真白さん」

 「……はっ、ひぅ?」

 「(よう)は高等部の生徒会長をしております、藤井(ふじい) 美博(みひろ)と申します」

 「よ、よう……?」

 「この度は田中がお騒がせを致しました。特に牟児津さんには、様々ご迷惑とご心配をおかけしました。お疲れになったでしょうし、怖い思いもされたことでしょう。田中に代わり、深くお詫び申し上げます」

 「ひえぇ……」

 

 藤井は牟児津より視線を低くするため、床に片膝をついた。そして牟児津の手を取り、恭しく(こうべ)を垂れる。間近に寄ると、(たお)やかな花を思わせる香りが牟児津の鼻に飛び込んできた。

 上から下までしわ一つない整った服装。ワイシャツとジャケットの間にはべストを着込み、首元にはクロスタイをかけている。右肩に光る金色の腕章と手首から先を覆うシルクの手袋。身に着けるひとつひとつすら気品を感じさせ、幻のように儚げなのに強烈な存在感を与えていた。

 

 「此度の件に係る処分については、(よう)にお任せいただけないでしょうか。必ずや、御納得いただけるように致します」

 「は、はあ……え、でも……?」

 「大丈夫よムジツちゃん!」

 

 不安げな牟児津に、旗日が声をかける。

 

 「ミヒロは必ずあなたを助けてくれるし、あなたのお友達も助けてくれる!そういう人よ!」

 

 何の根拠もない言葉だが、旗日の明るさがその言葉に説得力を持たせていた。藤井は田中の専決を取消した。立場上は田中と同じ生徒会本部だが、今は牟児津たちの味方をしてくれている。それなら、信じていいのかも知れない。そう思った。

 

 「わ、私は……平和で静かで、ゆるい毎日を過ごしたいだけなんです。あと、私に関わったせいで、鯖井さんたちが可哀想なことになったりしたら……すごく嫌です。だから、それさえ約束してくれるなら……」

 「はい、お約束します」

 「それなら……うりゅはどう思う?」

 「私は……ムジツさんがいいなら、言うことはないよ」

 「じゃ、じゃあ、そんな感じで」

 「はい。ありがとうございます。ああ、そうだ。こちらを」

 

 藤井に真正面から見つめられると、川路とは違う意味で心臓に悪い気がした。まともに目も合わせられなかったが、牟児津は藤井を信用することにした。

 ふっと笑って立ち上がろうとした藤井は、おもむろに制服の内ポケットから袱紗(ふくさ)を取り出し、牟児津に差し出した。何を意味しているのか分からず、牟児津は袱紗と藤井と瓜生田を順番に見やる。藤井は再び笑った。

 

 「どうぞ。疲れの取れる入浴剤やアイマスクが入っています。お納めください」

 「いやいやいや!こんな高そうなのもらえないです!」

 「銀座の高級老舗和菓子屋のネットショップで使える商品引換券も同封しております」

 「謹んで頂戴つかまつりますぁ!!」

 「はやっ!?ワタシのときは受け取ってくれなかったのに!?」

 「状況とモノが違うんでぇ……!」

 「川路さん。皆さんを校門までお連れしてください。下校時刻を過ぎていますので、川路さんもそのままご帰宅くださって結構です。お疲れ様でございました」

 「……承知した」

 

 藤井に指示されると、川路は素直に従った。普段は人に指示を飛ばしてばかりの川路のそんな姿が珍しく、牟児津は目を丸くした。しかしそこで、瓜生田が気付く。

 

 「あれ、でも鯖井さんがまだ戻ってきてないですよ」

 「ご心配なく。あと3つ数えてください」

 「んえ。3、2、1──」

 「はうっ!?」

 「うおおおっ!?なに!?手品!?」

 

 牟児津が数えると、それを聞いていたかのように鯖井が息を吹き返した。寸分違わぬ見立てに、牟児津も瓜生田も驚いて気絶しそうになる。鯖井は自分がなぜソファに寝そべっているのか分からず、周りをきょろきょろ見回していた。

 

 「え、えっと……?どういう状況?」

 「鯖井さん。どうかご安心を。(よう)があなたを守ります」

 「はわ……」

 「旗日さん。お帰りの道中で鯖井さんに事情をご説明頂けますか。これから(よう)は、田中さんとお話がございますので」

 「もちろんよ(Of course)!それじゃあみんな!ワタシとトシヨについてきて!」

 

 目覚めて早々に藤井の強烈な笑顔にさらされた鯖井は、すっかり顔が上気してしまった。牟児津と瓜生田はそんな鯖井を担ぎ上げて、旗日らと一緒に委員室を後にした。見送っている間、委員室の扉が閉まるまで、藤井は牟児津たちに深く礼をし続けていた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「わたくしを守ったおつもりですか?」

 

 二人きりになった学生生活委員室に、田中の冷たい声が響いた。

 

 「どう思われますか?」

 「わたくしが質問しているのです。答えなさい」

 「……はい。お守りしました。これ以上は、あなたの手に余ると判断しました」

 「手に余るとはどういうことですか」

 

 高圧的な田中の物言いに、しかし藤井は笑顔を絶やさない。それどころか、まるで謝罪するように頭を下げて言う。

 

 「牟児津様らお三方だけであれば、強引に捻じ伏せることも可能でした。しかし旗日様と川路様が現れてしまった。彼女らが牟児津様に(くみ)したことで、あなたひとりでは対処しきれなくなった。故に、助けに入りました」

 「副会長としての権限を以てすれば、委員長2人などどうにでもなります」

 「畏れながら、副会長としての権限を使わざるを得なくなった時点で、あなたの敗北と言えるのではないでしょうか」

 「なっ……!?」

 「あなたは、あくまで学生生活委員長として彼女方と対決していました。しかし最後にあなたは副会長の権限を行使しようとした。それは明確な越権行為です。たとえあなたにその権限があるとしても、勝負の前提を破棄することは敗北も同義と言えます」

 「いつ誰が勝負なんてしたのです!よくもそんないい加減なことを!」

 

 藤井が委員長席に近付く。天秤に乗せられた偽物の鍵をつまみ上げた。

 

 「いいえ。これは勝負でした。あなたは何者かがこうしてあなたを糾弾に現れることに備え、勝利のためにあらゆる手を尽くしていた。だからこそ──」

 

 藤井がポケットに手を入れる。抜き出したものを、空いた天秤の皿に載せた。ゆっくりとその両腕が動きだし、机面と平行になった。

 

 「(よう)に本物の鍵を預けたのです」

 

 天秤の皿には、学園のシンボルが刻まれた真鍮製の鍵がある。田中は天秤が釣り合った事実に驚きはしなかった。藤井がそれを持っていることにも驚きはなかった。全て分かっていたことだからだ。

 何も言えない。何かを口にすれば、敗北を認めてしまいそうだ。ただただ唇を噛んで悔しさに耐えていた。その悔しさすらも敗北の証左であるように感じられる。

 

 「手段と目的を混同しないようお気を付けを。あなたの目的は、部会の削減などではないはずだ」

 「……当然です。分かっています」

 「それなら、部室ひとつに拘泥(こうでい)することもないでしょう。肩の力を抜いて考えれば良いのです。こんな風に」

 

 すっと藤井が手のひらで委員室のドアを示す。それを合図にしたかのように、ドアを叩く音がした。扉の向こうに誰かがいる。

 

 「?」

 「どうぞ」

 

 田中に代わって藤井が応えた。ドアが開かれ、おそるおそる中を覗く鹿撃ち帽が現れた。

 

 「あ、あのぅ……実定、まだ間にあ──でええっ!?せ、生徒会長!?」

 「遅くまで残ってお作りくださったんですね。ありがとうございます。確かに、受理いたしました」

 「ちょっと!それはわたくしの仕事です!」

 「ちょうど良いところにいらっしゃいました。こちらをどうぞ」

 「へ……?な、なにこれ……?」

 「空き部室の鍵です。差し上げますので、どうぞご自由にお使いください」

 「……はあ?な、なんで?えっうそ!?マジで!?やったあ!!やったやったわーい!!」

 「何をしているんですか!」

 

 活動実績定期報告書を受け取った藤井は、それと交換するように本物の鍵をその生徒に渡してしまった。突然のことに驚いていたが、その生徒は大喜びして帰って行った。藤井は改めて田中に向き直る。

 

 「より良い学園作りのため、そして生徒の自主性を育むためには、彼女らを温かく見守ることも必要です。大丈夫です。この部会に部室を与えるのが相応しいか否か、すぐに分かりますよ」

 

 穏やかに、そして確信を持った顔でそう言われ、田中はまた言葉を失った。何も根拠のないことを自信たっぷりに言って、結果その通りになる。藤井の言動はいつも予想がつかなくて、にもかかわらず正しい。

 

 「そうですね。会長の直感は、今まで間違ったことがありませんもの」

 

 ふつふつと煮え滾る腹を抱え、精いっぱいの皮肉な笑顔で田中は言った。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「なんでダメなんですか!!」

 

 益子が部長席を叩いた。机の上には、益子が勢いのままに(したた)めた記事の原稿がある。鍵の盗難から牟児津と田中の対決、そして生徒会長の乱入に至るまで、今回の事件の全てが書かれていた。

 牟児津と瓜生田は、昨日の事件とその結末を報告するため新聞部を訪れた。そこで、寺屋成ともめる益子を見つけたのだ。寺屋成は、席に座って目を閉じている。

 

 「こんなビッグニュース、一刻も早く伝えるべきです!!昨日の今日で学園中の興味は最高潮!!増刷に次ぐ増刷は間違いありませんよ!!」

 「な、なになに?どしたの益子ちゃん?」

 「あっ!ムジツ先輩!瓜生田さん!おはようございます!いや部長が、昨日のことは記事にしちゃダメだって言うんですよ!お二人からもなんか言ってください!」

 「えっ!?マジで!?記事にしないの!?ぁざーーーっす!!」

 「さすがにあれはね〜」

 「ちょっとお!ここは私を援護する流れでしょ!」

 「そんな流れはない!!」

 

 益子の当ては外れた。牟児津にしてみれば、登校した時点ですでに記事にされていても仕方ないと思っていたが、意外なことに寺屋成がストップをかけていたようだ。どう足掻いても避けられないと思っていたことを避けるチャンスが訪れ、ご機嫌に頭を下げた。

 寺屋成は益子を落ち着かせるため席に座らせ、牟児津たちにも適当な椅子を勧めた。そして、理由を端的に述べた。

 

 「時期尚早だよ、益子くん」

 「ジキショーソー?」

 「確かにセンセーショナルなネタだし、これが頒布されれば高等部だけでなく学園全体で一大牟児津旋風を巻き起こすことができるだろう。新聞部としては願ってもないことだ」

 「人の名前を勝手に旋風にするな」

 「台風みたい」

 「しかし同時にこれは、田中くんの敗北を報せるものでもある。そんなことをしたら、我が部はどうなる?彼女は学生委員長であり副会長でもある。何より強かだ。今回、牟児津くんが曲がりなりにも勝利できたのは、旗日君と川路君に助けられて、さらに生徒会長の取成しがあったからこそなんだろう?」

 「そうですよ!激熱じゃないですか!」

 「激熱だがこんなものはすぐに冷める。第一、新聞部には何の後ろ盾もないんだ。今これを記事にしても、田中くんに握り潰されて新聞部に圧力がかかるだけだ。部の登録抹消も辞さないだろう。すなわち廃部だ」

 「マ、マジで?懲りるとかないんかあの人……?」

 

 冷静に分析する寺屋成の顔は、いつもの詭弁家の顔とは違う、真剣な表情だった。忘れていたが、寺屋成は田中や川路たちとは違い、学園に無数にある部のひとつをまとめる立場に過ぎない。できることも守れることも、彼女たちに比べれば遥かに狭く少ない。理由さえあれば、田中が新聞部を廃部にすることなど簡単なのだろう。

 

 「しかし、今回の件で逮捕された部会への処罰はごく軽いもので済んだし、廃部を余儀なくされた部会は0だ。牟児津くんは田中くんの思惑を阻止したと言えるだろう。誇っていい」

 「誇らなきゃダメですか……?」

 「聞いたことない日本語を使わないでくれ。せめて我々だけでも君のしたことを称えないともったいないじゃないか」

 「はあ、そう」

 「でも寺屋成部長!それはつまり、公権力に忖度して報道の自由が脅かされてることになりませんか!?いいんですかそんなことで!メディアは真実を報道すべきです!」

 「駅前にいる人みたいなこと言うなあ」

 「もちろんさ。だからこそ時期尚早だと言ったんだ」

 「まだ早い……いつかは報道するってことですか?情報は鮮度が命って前におっしゃってたじゃないですか」

 

 瓜生田の問いに寺屋成は不敵に笑う。ちっちっち、と指を振って、また詭弁家の顔を覗かせた。

 

 「ワインは樽の中で熟成させることで、より香りと味に深みが増すんだよ」

 「未成年にも分かる喩えにしてくださいよ」

 「味噌は樽の中で熟成させることで、より香りと味に深みが増すんだよ」

 「分かるけどおしゃれじゃね〜」

 「要するに、今このネタは寝かせておくのが吉だ。既に似たような噂は流れているし、敢えて我々が報じなくても田中くんの信用にヒビは入る。今は発行してしまうより発酵させておく方が得策だ」

 「上手いこと言いますね。都合の良いこと言ってるようにも聞こえますけど、一理はあるかも」

 「そもそも田中くんの闇はこんなものじゃない。今回の事件だって、彼女にしてみればゴミ箱にちり紙を投げ入れてみたようなものだ。失敗したところで大勢に影響はない」

 「そうなんですか!?あんな大騒ぎだったのに!?」

 「彼女自身は一演技して部屋で待っていただけだからね。思いがけず熱くなってしまったのは彼女のミスだが、それも生徒会長によってフォローされた」

 

 結局、牟児津は田中に勝利したのか敗北したのか、田中の思い通りになったのかならなかったのか、よく分からない。部会の削減や鯖井への追及は避けられたものの、目論見が外れたところで田中は何も失ってはいない。とんでもないことに巻き込まれた割に、最後には何事もなかったかのように元通りだ。牟児津はそれに、なんとなく物寂しさのような感情を覚えた。

 

 「というわけで、益子くんが書いてくれたこの記事は保留だ。契約では協力するごとに記事にするという話だったが、今回は面白い話が聞けたからサービスしておこう」

 「わあ。いずれ記事にするつもりなのに、まるで免除したみたいに言ってる」

 「おやおや。やっぱり瓜生田くんは(さか)しいな。ははは」

 「あはは」

 「いっつも最後これがこえ〜んだよな」

 

 寺屋成の詭弁を瓜生田がすぐに見抜いて指摘する。初めはバチバチに火花を散らしていた気がしたのに、今ではお決まりの流れのようになっている。しかし二人とも目が笑ってない笑顔をするので、傍から見ている牟児津は背筋が寒くなるのだった。

 

 「サービスと言えば、ムジツ先輩、生徒会長から何もらったんですか?」

 「なんかいい匂いのする入浴剤とあったかいアイマスクと、あと和菓子屋の商品券と……なんか他にもいろいろ」

 「いろいろ?」

 「スキンケア用品とか観劇チケットとか、とにかく薄くて良いものがたくさん」

 「あれにそんな入ってたんだ。すごいね」

 「なんか悪い気がしてきた。もらい過ぎじゃないかな?」

 「返すのも失礼だから気にしないでおいた方がいい。さあ、そろそろ朝のHRの時間だ。部室を閉めるから君たちも行きたまえ」

 「はい。お邪魔しました〜」

 「失礼します〜!ムジツ先輩、今日はどんな事件が起きると思いますか?」

 「なんで起きる前提だ!起きねーよ!」

 

 寺屋成に促されて三人は部室を出た。牟児津は階段を上って2年生のフロアに行く。教室が近付いてくると少し緊張してきた。一晩経って鯖井は昨日の事件から立ち直れただろうか。クラスメイトは鯖井のことを受け入れてくれているだろうか。

 元通りだと思っていた学園の風景が、昨日までとは少し違って見える。自分を助けてくれた人たちは、自分が救いたい人を許してくれているだろうか。不安な気持ちはあるが、牟児津は急ぎ足で自分の教室に向かった。事件を通じて牟児津は、たくさんの人が自分を助けてくれることを知った。そして自分にとって理想的な学園生活を送るためにリスクを冒す人たちが多くいることも知った。その中で、自分だけ問題に向き合わずにいることはできないと、強く感じたのだった。


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