誰だって、母には弱いものである。
*
慣れないチャンピオンの仕事に四苦八苦しながらも、ようやく手に入れたお休みの日。ワイルドエリアで気晴らしに散歩をした後、今夜はポケモンセンターでゆっくりしようとナックルシティの石畳を歩く。
ふと、どこかから漂う美味しそうな香りを鼻が捉えた。さんざん歩き回ったあとの私はとっくに空腹を訴えていて、ポケモンセンターに行く前にちょっとだけ、ちょっとだけ寄り道をと普段通らない細道に入っていった。
観光客の多い表通りとはまた違う、地元のひとたちが住まうエリアのようだった。日も暮れた細道の人通りはそれほど多くなく、その代わりに周囲の家々から家族の団らんの声が聞こえる。
こういうの久しぶりだな、とちょっとハロンタウンを懐かしく思いながら香りのもとをたどると、たどり着いたのはオレンジのカーテンが鮮やかなレストラン。ここだと店の前に立つと、ベルとともに扉が開いた。出てきたのは、背の高い健康的な褐色の肌の女性。ママと同じくらいの年齢のように思うが、確かではない。
何というか迫力のある美人で、頭の上でまとめられたドレッドがゆらりと揺れる。
「おや、お客さんかい?」
私の姿に気づき、垂れ気味の水色の瞳が柔く細められた。少し申し訳なさそうな笑みは、ひどく優しい。
「せっかく来てくれたのにごめんねえ、急なんだけど今日はお休みすることにしたんだよ」
「あ、いえ、美味しそうな香りに釣られてきちゃっただけなので……また来ます」
「あら、嬉しいこと言ってくれるね。あれ、アンタ、」
じっと、顔を見つめられる。え、と目を見開いたとき、唐突にきゅう、と音が響いた。ふたりして目線が私のお腹に注がれる。自分のお腹が鳴ったことをようやく把握し、かあっと顔が熱くなった。
「あ、あの、ええと…!」
「あっはっは! そんなにお腹がすいてたんだね! 大丈夫、恥ずかしがることはないよ、お腹が鳴るのは誰にも止められないからね! 健康的で何よりさ!」
そう豪快に笑われ、ますます顔が熱くなる。楽しそうに言うそのひとは笑ってごめんよと私の肩を叩き、がちゃりと店のドアを開けた。
「お腹をすかせた子をほってはおけないねえ。さ、入んな。お腹いっぱい食べさせてあげるよ」
「で、でも今日お休みって、」
「なぁに、構わないよ。ほらつべこべ言わないで入った入った!」
そしていつの間にか椅子に座らされ、いつの間にか目の前には美味しそうなシチューとパンが並べられ、そしてそのひとは向かいに座ってにこにこと笑っている。遠慮する暇もなかったというか、「子どもが遠慮するんじゃないよ!」とすっぱり言われて何を言うこともできず。
しかしとにかく今は、鳴り響くお腹が目の前のシチューとパンを求めていた。
「ほら、冷める前に食べちゃいな」
ツノと名乗ったそのひとは、優しく瞳を細めた。その笑い方に誰かが思い浮かびかけたけれど、とにかく今は空腹です。考えるのは後!
「い、いただきます!」
「はいどうぞ」
結論として、美味しそうな香りは伊達ではなかったです。じっくり煮込まれたシチューはハロンタウンのママが作った味を思わせ、柔らかく焼いたパンはふんわりと甘い。美味し~、と頬を押さえると、ツノさんは嬉しそうに笑った。
「気持ちのいい食べっぷりだねえ、よっぽどお腹がすいてたみたいだ」
「今日はワイルドエリアでずっと歩き回ってたので、もうぺこぺこだったんです」
「へえ、あんな危ないところで散歩なんて、さすがチャンピオンだねえ」
さらりと言われて一瞬むせた。さっと差し出された水を一気に流し込む。ツノさんはけらけらと笑いながら手を振った。
「アンタの顔を知らない人間はこのガラルにはいないよ。もうちょっと自分が有名人だって自覚は持たないとねえ」
「こほ、……そ、そんなに?」
「アハハ、チャンピオンなりたてなら自覚がないのも無理はないけどね。うんうん、そうやって擦れてないところも可愛くていいじゃないか」
おかわりあるからたくさん食べるんだよ、とツノさんは豊かな胸の前で腕を組む。
チャンピオンとしての仕事の多くをまだまだダンデさんに任せてしまっている状態のせいか、あまりにも実感がわかない。確かに街角で声をかけられることは増えたけど、と首をひねった。
「話に聞いてた通りだねえ。うちの子なんて有名になった直後からあんなんだったから逆に新鮮だよ」
「うちの子?」
「あ、まだ言ってなかったか。アタシはね、」
ツノさんが言いかけたちょうどそのとき、ドアベルの軽い音と、たでーま、という気の抜けた見知った声が聞こえた。
*
「……って、何でユウリがいるんだ?」
「え、キバナさん?」
「俺もいますよ」
「ネズさんも?」
ドアベルに招かれてきたのは、キバナさんとネズさんだった。キバナさんは少し驚いた顔をして、でもすぐにいつも通り笑ってくれた。
「今日休みか? お疲れさん」
「キバナ、アンタこっち来るときはちゃんと前の日には言いなって言ってるだろ」
「しょーがねーだろたまたまネズと会ったんだから。ほらネズまたこんなガリガリになってるし、メシ食わせねーと」
「余計なお世話ですよ。それはそれとして急に来てすみません」
「ネズくんはいいんだよ、遠慮せずいつでも来てくれて」
交わされる軽い会話に、瞬きしかできない。そんな私に気づいたのか、キバナさんは不思議そうに首をかしげる。
「……もしかして知らなかったか? ここ俺の実家」
「えっ」
「ツノさんはキバナのお母さんですよ」
「えっ」
驚かせたかねえ、と苦笑したツノさんはシチューのおかわりを差し出しながら言う。
「そこの馬鹿息子がいきなり今日帰ってくるって言うから急遽店を休みにしたんだよ。キバナが店にいると騒ぐ客も多くてねえ」
「オレさま人気者だから」
「調子乗ってんじゃないよ万年二位。ああ、これからは万年三位だね」
「いくらお袋でも言っていいことと悪いことがあんぞ。つーか次は勝つし」
ちなみにこれ恒例だから聞き流しなさい、と呆れた顔をしたネズさんが隣に座った。シチューでいいかい、とツノさんに聞かれ、ええ、と頷く。
「ネズさんもよく来るんですか?」
「たまにですかね。ナックルシティでキバナに捕まると連れてこられるんです」
「ガリガリのやつ見るとメシ食わせたくなるんだよ」
俺もメシ、とキバナさんも逆隣に座るが、アンタは自分でよそいな、と容赦のない声が飛んできた。へいへいと諦めた顔のキバナさんは再び席を立つ。
「…言われてみたらよく似てますね」
鍋の前で並ぶふたりの後ろ姿を見ながら、こっそりとネズさんに話しかける。本当に、とネズさんも大きく頷いた。
「ジムリーダーになったばかりのころのキバナなんてもっと似てましたよ。あいつも成長期来る前は可愛い顔してましたから」
「えっそうなんですか」
「よく女の子みたいだとからかわれては大暴れして、ツノさんにひっぱたかれ説教されてたそうです」
「想像つか…いや、つきますね」
「俺もそう思います」
キッチンから聞こえてくる親子の軽口に、何となくかつての光景が想像できて、少し笑った。ネズさんも面白そうに、口の端だけでニヒルに笑う。
両手にシチューの皿を持って戻ってきたキバナさんは、何ニヤニヤしてんだと怪訝な顔。それにまたネズさんは笑い、口を開く。
「キバナはマザコンだって話ですよ」
「違ぇわ。信じんなよユウリ、俺は自立してます」
「お母さんのこと大好きなキバナさん素敵だと思います!」
「あっこれ聞いてねえな? 面白がってんじゃねーぞユウリ、噂になったら火消しすんの大変なんだからマジでやめろ」
本気で嫌そうな顔でシチューの皿を置くキバナさん。その後ろでカトラリーを持ってきたツノさんすらも嫌そうな顔をしていた。
「自分の息子がマザコンとか恥ずかしくなるから本当にやめとくれ」
「何だ、嬉しくねぇんですか」
「マザコンなんて子育て失敗も同然だろ。子どもを独り立ちさせるのが親の仕事なんだから」
この子だって大抵のことはひとりで出来るように仕込んであるよ、とキバナさんの頭をぺしぺしと叩くツノさん。キバナさんは心底嫌そうな顔をしつつも、甘んじてそれを受け入れていた。いろいろと思うところはあるらしい。
それを聞いたネズさんはスプーンを持つ手を止め、ふと思い出したように言った。
「そういえばキバナは意外と家事一通りできますよね。トーナメントの控え室でボタン付けしてる姿はなかなか愉快でしたが」
「えっ可愛い」
「可愛い言うな」
俺が針持つだけで皆意外そうな顔しやがってとキバナさんは言うが、正直仕方ないと思う。イメージが違いすぎる。
当然のようにツノさんは胸を張った。
「ボタンつけとほつれたところの直しくらいは出来ないとね」
「こう言って五歳の俺に針を持たせたのはお袋だよ。わかるか、五歳だぞ」
「そもそもアンタが毎日のように暴れ回って服をダメにして帰ってくるからじゃないか。アタシだって暇じゃないんだよ、自分でダメにしたんなら自分で直しな」
シチューを口に入れながら不貞腐れるキバナさんに、ネズさんとふたりで小さく噴き出した。いつも笑顔で優しい「大人の男」という感じのキバナさんも、お母さんには頭が上がらないみたいだ。笑ってしまった私たちを見て、キバナさんはさらに眉を寄せる。
「ほら、仏頂面で食べてんじゃないよ」
「うるへー」
「口にものを入れたまま喋らない!」
ごくん、とキバナさんの喉が思い切りよく飲み込んだ音が聞こえた。正直本当に可愛い。
「じゃあキバナさんはお料理とかも得意なんですか?」
「まあ一通りはな。ひとに振る舞える程じゃねえけど」
「ツノさんの教育のたまものですか」
「イマドキ男でも家事くらい出来ないとね!」
あっはっはと豪快に笑うツノさんはとても気持ちがいい。きっとそうやっていろんなことを笑い飛ばして乗り越えてきたんだろうなぁなんて、そんなことをふと思った。
とても優しいひと。強いひと。きっと、負けないひとだ。そして同時に納得した。嗚呼、このひとは確かにキバナさんのお母さんなのだと。上手く言葉にできないけれど、確かにふたりには同じ「何か」を思わせる。
ふふ、と少し笑うと、楽しそうにツノさんは私を見て笑った。
「うんうん、ユウリちゃんはやっぱり可愛いねぇ。こういう娘もいたら楽しかっただろうに」
「はいはいすいませんね可愛くない息子でよ」
「本当だよ馬鹿息子。早いとこ可愛い彼女のひとりくらい連れてきな」
「ダンデに勝ったらな」
いつになるやらと大袈裟に嘆いてみせるツノさんに、キバナさんはまたうるせーと不機嫌そうに返す。その漫才のようなやり取りは、親愛と気安さを感じさせて温かかった。
すっかりまたシチューの皿が空になった頃、時計を見たツノさんがおやいけない、と長い睫毛を瞬かせる。
「話し込んじまったね。ユウリちゃん、今日はポケモンセンターに泊まるんだろう? そろそろ出た方がいいよ、夜更かしはお肌に悪いからね」
「わ、本当だ。お休みの日なのにご馳走様でした。お会計を、」
「今日は無理やり店に入れちゃったようなもんだからね、構わないよ」
そうはいかないと慌てて腰を浮かせると、ちょん、と唇を人差し指でつつかれる。口からんむ、の変な声が出た。
「言ったろ、子どもが遠慮すんじゃないよ」
そしてぱちんとウインクまでもらってしまったら、私にはもう何も言えず。むむむと黙ると隣のキバナさんが楽しそうに頭の後ろで腕を組んだ。
「ここは甘えとけよユウリ。気になるならまた食いに来てやってくれ」
「……絶対また来ます」
「嬉しいねえ。キバナ、送ってってやりな」
「わかってる」
行くぞーと立ち上がるキバナさん。私も慌てて上着を羽織った。
「んじゃちょっと行ってくっから、ネズ、先に飲んでてくれよ」
「そうさせてもらいますよ。気をつけて行くんですよユウリ、キバナが何かしやがったらインテレオンのねらいうちを食らわせてやりなさい」
「マザコンに加えてロリコンの疑惑まで付けようとすんじゃねえよネズ! お袋もそんなまさかみたいな顔で乗ろうとすんな!」
最後まで賑やかで、これで噴き出したのも何回目かわからない。
絶対また来ようと心に決めて、名残惜しい気持ちでドアベルの音を聞く。
「本当に美味しかったです! また来ます!」
するとツノさんはキバナさんと同じ色の瞳を優しく煌めかせて、鮮やかなリップに彩られた唇で綺麗な弧を描いた。
「いつでもおいで」
またね、と小さく手を振ってくれたその姿が、ハロンのママと重なる。ツノさんとママは全然似ていないのに、何故かこのときの笑顔は「同じ」だったように思えた。
お付き合いありがとうございました。
おまけの人物メモ書き。
・迫力ある年齢不詳系褐色美人ツノさん
キバナさんの実の母。出てこなかったけど旦那さんは世界を飛びまわるパイロットで、滅多に帰ってこない。けど帰ってきた時は薔薇の花束抱えて熱烈なラブシーンを披露する。滅多に会えないからこそ愛情表現が大事なんだそう。らぶらぶすぎて息子が引いてる。
いつのまにか旦那さんの荷物にくっついてたハハコモリ(イッシュ生まれ、当時クルミル)と暮らしている。息子は千尋の谷に突き落とす主義。旦那さんがほとんど留守だからこそ、自分に何かあったときにひとりでも生きていけるように家事を仕込んだ。
実はメロンさんと仲良し。息子のはなしでいつも盛り上がっている。
「ダンデくんとのバトル? まあいつか勝てるといいんじゃないの、アタシはバトルのことはわからないから口を出す気はないよ、茶々は入れるけどね!」
・ここでは家事全般得意な家庭的男子キバナさん
あまりにも当然のようにツノさんが教えるので、それくらいの家事はできるのが普通だと思ってた。ダンデお前ボタンつけ出来ねえのマジ? え、料理洗濯掃除とか常識だろ? 一人暮らしのキバナさん宅はいつもピカピカです。
経済的、精神的に自立しておりマザコンではないが、ほぼ女手一つで育ててもらったことに感謝してるので理由を見つけてはたまに帰るようにしている。ネズさんに飯を食べさせる、も理由のひとつ。でも実際あいつはもっと飯を食うべき。