All for the queen.   作:ふみどり

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英国の闇

 窓の外でコマドリが鳴いている。朝の訪れを喜ぶ彼らは、いつもと変わらぬ軽やかな鈴の音を奏で、また遥か空へと飛び立って行った。カーテンを開けながらその姿を見送ったルカ・タナカは改めて視線をベッドにやり、口を開く。

 

「おはようございます、お嬢様。今朝のモーニングティーにはアッサムをご用意いたしました」

「おはよう、ルカ。良い朝ね」

 

 すでに目覚めていたらしい主人、エマ・ファントムハイヴはゆったりと枕から頭を上げて伸びをひとつ。忠実な使用人の手から目覚めの紅茶を受け取り、優雅なしぐさでカップに口をつけた。音ひとつ立てることなくカップとソーサーを操るその指にすら、淑女としての気品を思わせる。

 

「本日のご予定ですが、朝食の後10時より病院の慰問。子供たちに寄付するおもちゃとお菓子の用意は完了しております。ランチは院長との会食を予定。14時にはファントム社の本社で書類の確認をして頂き、15時より新商品の企画会議となっております」

 

 一切の顔色変えないまま、忠実な使用人はすらすらとスケジュールを並べたてる。たとえ返事がなくとも、主人がそれをきちんと聞いて頭に入れていることを彼女は知っていた。

 そしてひと呼吸置いて、今朝の朝刊を差し出す。

 

「ご覧になりますか?」

 

 そこで初めて淑女の唇に微笑みがのる。

 カップから漂う上品な香りを楽しみながら、いっそ愉しそうにその唇は音を紡いだ。

 

「後でいいわ。問題ないのでしょう?」

「もちろんです」

 

『女王の番犬』は、主人の微笑みを曇らせるものを決して許しはしない。朝刊の一面に何が載っているかなど、とっくにふたりは承知していた。

 

「……昨晩は申し訳ございませんでした」

「あら、昨日も言ったでしょう?例の彼に絡まれて動けなかったのは貴方のせいではないし、滞りなく掃除は済んだのだから気にすることではないわ」

「しかし……」

「ルカ」

 

 朝食は、ワッフルをよろしくね。

 何度も同じことを言わせないでと笑顔で告げる主に、ルカはぐっと息をのみこみ、深く礼を返した。

 

 

 *

 

 

 時同じくして、ニュースを見たバーボンは愕然としていた。一大事件の舞台として、昨晩雇われていた屋敷がテレビに映し出されている。門の前には多くの報道陣が詰めかけ、我先にと得た情報を放送しているようだ。

 確かに、あの屋敷の主人はうさんくさい人間であったし、昨夜のパーティに招かれた客の一部にも品位の低そうな貴族はいた。しかし、まさか。

 屋敷の主人による、欲求不満な貴婦人への「使用人」という若い男の斡旋。闇風俗とでも言えばいいのか、そんな下劣で下品な場を設けていたとは! 道理で臨時の使用人、それも若い男が多かったはずだ、とバーボンは嫌悪感に身を震わせる。通常ならありえないほどなみなみと注がれたシャンパングラス、そして含み笑いでこちらに向かってきた女性の意図を理解して、いっそ吐き気すら覚えた。加えて流れてくる、「買われた」被害者たちへの仕打ち。違法薬物の使用や暴力はもちろん、もはや人身売買ともいえるようなことを行っていたようだ。

 その主人と、それに加担していた者、そして顧客の全てが昨夜遅くに逮捕されている。スコットランドヤードの慎重な捜査による賜物だとニュースでは持て囃しているが、さて。本当にこれは、ヤードの活躍によるものなのか。

 バーボンの脳裏に浮かぶ、ブロンドの淑女と黒髪の使用人の姿。彼女らのひと芝居が、もしもこのためのものであったとするならば。ただ善意からバーボンを助けようとしただけにしても、つまり彼女らはその犯罪をもともと知っていたことになる。

 より詳しい情報を得ようと、手元のスマホをいじる。昨夜行われていたパーティの参加者の名前が上がっていた。カモフラージュのために呼ばれていた無関係の客も多かったようだが、その全員がヤードの事情聴取を受けているらしい。そしてその不運な貴族たちが名を連ねるそのリストの中に、「ファントムハイヴ」の名前はなかった。

 バーボンはさっと身を翻し、根城にしているホテルの外に出る。ホテルのすぐそばの電話ボックスに入り、おもむろに番号を押した。

 

「風見か?至急、手筈を整えて欲しいことがある」

 

 英国の電話ボックスは真っ赤に彩られている。あの男を思い起こさせる赤い箱に入るのは不快極まりなかったが、職務のためとなれば耐えられるのが降谷零という男だった。

 

 

 *

 

 

「お嬢様、ご報告が」

「なにかしら」

「探られております」

「あら」

 

 思ったよりも遅かったわね、と微笑んだエマは、忠実な使用人にひとつ目配せを送る。全てを承知している使用人は、かしこまりました、と静かな声を返した。

 

 

 *

 

 

 用意を整えるのには、数日の時間を要した。成したことを思えば随分と早く済んだと言えるだろうが、当然と言えば当然だろう。何しろ、本来ならバレることのないよう慎重に慎重に進めるべきところを、今回はあえてそうしなかったのだから。

 

「Mr.Amuro」

 

 聞き覚えのある、硬質な声。来るだろうと思っていた。バーボンは特に驚く様子も見せず、もったいつけるようにゆったりと振り返る。

 

「またお会いしましたね、Ms.Tanaka」

 

 あの夜と変わらない、黒いスーツを身にまとった女性。その瞳には一切の表情もなく、バーボンの声にも反応しない。ただ命じられたことを命じられたように動くその姿は、まるでドールのようだった。

 

「改めて、あの夜はハンカチをありがとうございました」

「これはご丁寧に」

「その件を主に伝えましたところ、是非直接お礼をお伝えしたいと」

 

 そう言って差し出されたのは、金飾りのついた白い封筒。促されるままに中を確認すると、二つ折りのカード。それを開くと、ふわりと優しい薔薇の香りが広がった。

 丁寧な筆記体で書かれた、お茶会へのお誘い。最後の署名はエマ・ファントムハイヴ。目の前にいる彼女の主からバーボンへの、招待状だった。

 

「いらして頂けますでしょうか」

「もちろん、身に余る光栄です。楽しみにしておりますとお伝えください」

「結構。では当日、宿泊先のホテルまでお迎えに上がります」

 

 ハンカチも当日お返しいたします、と一礼をして去っていった彼女。驚きはしないが、バーボンの宿泊先を知っていることも隠さなかった。つまりお互いを探っていたことについて、こちらも隠し立てをする必要はないらしい。

 思い通りの展開に、()()()は口角を吊り上げる。

 

「さて、どう来る?『女王の番犬』」

 

 ゲームへの招待状には深紅の薔薇がちりばめられていた。

 

 

 *

 

 

 その美しい薔薇の庭は、あくまでも和やかな雰囲気で包まれている。

 植え込みの中に用意されたテーブルとイス、英国が誇るアフタヌーンティの文化に則って用意されたサンドイッチやケーキの数々、そして気品高く香る最高級の紅茶。大貴族であるファントムハイヴの名に恥じないもてなしであったが、それでも必要以上の格式を感じさせないのは、さすが社交界でも名高いエマ嬢というところだろうか。

 

「当家の使用人にお気遣いくださったと伺っております。本日はマナーなどお気になさらず、どうぞ楽しんでいってくださいね」

 

 そう穏やかに微笑む彼女の腹の内を疑える者が、さてこの世には何人いることやら。残念なことに疑ってしまううちのひとりである降谷は、同じく穏やかに微笑んだ。

 

「ただハンカチをお渡ししただけでこんなに気遣って頂いて、むしろ恐縮ですよ。こんなに素敵なイングリッシュガーデンでお茶を頂けるなんて感激です」

「当家自慢の庭ですの。ちょうど薔薇が盛りのころで良かったわ」

 

 赤い薔薇を中心に彩られた、よく手入れされた庭園。しかしイングリッシュガーデンの特徴である自然体な風合いは損なっておらず、良いガードナーを雇っていることがよくわかる。いくつかの植え込みが重なるように配置され、このお茶会は完全に外部から遮断されていた。

 丁寧にサーブされた紅茶を片手に、降谷はその香りを楽しむ。妙な匂いはなく、茶の色もいたって普通。極上品質の紅茶であるということ以外は、特に何の変哲もない紅茶だった。

 

「日本の方と伺ったのでダージリンを選びましたの。グリーンティと味わいが似ていますから日本でもよく好まれてると伺ったのですけれど」

「お気遣いありがとうございます。ええ、ダージリンは日本でも特に有名な茶番のひとつですね。……ああ、美味しいですね。こんなに美味しい紅茶は初めてです」

「まあ、嬉しいことを仰ってくださるのね」

 

 ひとくちで口内に広がる味わいは、まさに一級品。毒などという安直な手を使って来るとはもともと思っていなかったが、やはりそういう「下品」なことはしないらしい。

 

「英国にはお仕事で?」

「半分は仕事、半分は趣味といったところでしょうか。僕、探偵をやっておりまして」

「あら。我が国が誇る名探偵にはお会いになりました?」

「ベイカー街にお伺いしたのですが生憎お留守でした。さすがは世界一の名探偵、事件の捜査でお忙しいようだ」

 

 投げられたジョークに軽く返しつつ、降谷の蒼がここできらりと輝いた。先手必勝とばかりに、刃で切り込んでいく。

 

「実は、『女王の番犬』の正体を探れなんて依頼が来ましてね」

 

 まず、降谷のカードが切られた。その口元には余裕の笑みを乗せたまま、さあどうだと言わんばかりの表情で。対するエマは、少し驚いたようにまばたきをひとつ。

 

「……『女王の番犬』の正体、ですか」

「ええ。『番犬』のことはご存知ですか?」

「それはまあ……上流階級で育った者ならたいてい言い聞かされているのではないかしら」

「ホー……?」

 

 エマ曰く、「女王の番犬」とはいわば日本で言う「おばけ」や「なまはげ」の類なのだと。英国において、貴族のもつ力は大きい。その力を私利私欲で行使すればたちまち国が乱れ、多くの民を苦しませてしまう。決してそうなることのないように、家や自身のもつ力を正しく社会のために使うように、多くの貴族は「番犬」の名を借りて子息子女に言い聞かせるのだ。

 

「わたくしも幼いころはよく言われたものです。ファントムハイヴ家に相応しい淑女にならないと、『女王の番犬』がやってきますよって。そういったおとぎ話の類だと思っていたのですけれど」

「なるほど。では実在するとは思っていなかったと」

「ええ。実在するんですの?」

 

 きょとんとした顔を見せる彼女はそもそも降谷よりいくばくか年下だが、それよりもさらに少し幼く見える。あまりに自然な表情、自然な対応。そうこなくては面白くない、と降谷は足を組み替えた。

 

「ひとつきほど前に大通りで殺人事件があったのをご存知ですか?非合法なクスリをばらまいていた売人が、陰惨な姿で発見された」

「ええ、存じております。確か犯人はまだ捕まっていないとか……まさか、『女王の番犬』の仕業だと?」

「売人は死の直前に電話をしていたんです。何かに追われながら、藁にもすがる思いで助けを求めた。そのときに、電話口で叫んだそうです。『女王の番犬』に、殺される、と」

 

 まあ、とエマ嬢は形のいい眉尻を少し下げる。そっと隠された口元に浮かんでいるのは、果たして。事件について思い出すように少し考えた後、改めてエマは口を開いた。

 

「……本当にそうであれば恐ろしいことです。罪を犯した者は法の光に照らされて等しく裁かれるべきでしょう。それをまさか……」

「ええ、仰る通りです。しかし売人は見せしめのように殺され、スコットランドヤードはろくに調べもせず捜査を打ち切った。そこで僕は『女王の番犬』が実在すると仮定して、調査をしていたんです。『悪の貴族』とも称されるその存在ならおそらく上流階級ではあるだろうと、例のパーティに」

 

 そうだったんですね、とエマは頷く。彼女はいまだ「何も知らない」仮面を取ることはない。さて、その仮面がいつまでもつか、と降谷は内心でつぶやいた。そっと視線を彼女の背後にやるが、静かに控える使用人も一切の顔色を変えていない。

 

「そこで、あの事件です。……ご存知でしたか?あのパーティの裏の顔を」

「まさか。存じておりましたら招かれていても顔を出したりいたしません。……確かに、少々良くない噂があったのは事実ですが」

「噂、ですか」

「と言っても不確かで曖昧なものです。良くないことをしている可能性がある、という程度の。けれど今にして思えば、確かに規模の割に使用人が多すぎましたし、それもその……立ち振る舞いではなく容姿で使用人を選んでいるような節は見受けられました」

 

 ああ、もちろん安室さんのことではありませんのよ?と慌てたように言うエマ嬢に、降谷は笑顔を返した。彼女の言っていることは降谷も感じていたので同意するしかない。顔こそ整っていてもシャンパングラスひとつ手渡すのに苦労している人間もいたくらいで、当初は降谷も何を基準に人を雇っているのかと首をひねったものだ。

 そして降谷は、しかけるならばここだと、不敵に笑う。

 

「てっきり僕は、貴女方は彼の悪事について全てご存知だったのかと思っていました」

「まあ、どうしてですの?」

「彼女が、僕を助けてくれたからです」

 

 そういって降谷は、静かに控える使用人に目をやる。ルカは目を伏せたまま反応を示すことはない。エマはあら、と少し首をかしげて、不思議そうに言った。

 

「あれが、貴方を?」

「ええ。あれは明らかに僕を狙って仕掛けてきていました。ぶつかった衝撃でシャンパンを自分にかけ、叱責のふりをして僕を別室に連れ出そうとしていたのでしょう。正直なところ、その通りになっていたらと思うとぞっとします。ミス・タナカのおかげで助かりました。……が、ミス・タナカほど忠誠心の強い方が、わざわざ主から離れて見ず知らずの使用人を助けるというのもおかしな話です」

 

 あれは、貴女の指示だったのではありませんか?

 降谷の言葉に、エマはその大きなグリーン・アイを瞬かせ、ルカは相変わらず微動だにしない。手元のティーカップを空にしてから、降谷はまた口を開く。

 

「そう考えれば合点がいくんです。貴女は彼の悪事を知っていて、その証拠を掴むためにあの夜パーティに訪れた。僕という餌に狙いをつけた夫人を見咎め、その邪魔をし、貴女はお詫びをする振りをして内部へと侵入する。もしかしてミス・タナカは会場の外に出て別のルートから侵入する手筈でしたか?そうであったらすみません、僕が邪魔をしてしまいましたね。……そして何らかの証拠、目星を掴んだ貴女方は早々に会場を抜け出し、ヤードを動かした」

 

 降谷は手持ちのバッグから一枚の書類を取り出し、上質なクロスに覆われたテーブルにそれを置く。あのパーティに招かれ、ヤードの取り調べを受けたという不幸な貴族たちのリストだった。

 

「不思議なことに、ヤードの発表ではあの晩貴女方はあの会場にいなかったことになっています。ダミーとして呼ばれた無関係な貴族も含め、全員が取り調べを受けたはずなのに、貴女だけは免れている。また、僕はこの中のひとりに直接お話を伺ってみたんですよ。あのパーティ会場で、貴女を見かけなかったかと」

 

 そして返ってきた答えは「No」。あれほどまで会場で注目を集めていた「社交界の華」を、見かけなかった、いなかったと。白々しくも、そう答えたのだ。

 エマは表情を変えることなく、少し首を傾けたまま降谷の言葉の続きを待つ。

 

「罪を犯した者を陰から探り、己の痕跡を残すことなく片づける。しかも、今回は主犯やその誘いに乗っていた貴族こそ生かして捕まえましたが、それ以外は始末しましたね?」

 

 ヤードが逮捕した「犯人」たちは、その事件の規模からいって少なすぎる。違法薬物を提供していた人間や薬漬けにした人間を売買していた人間、つまり裏社会の人間も数多く関わっていたはずだ。そしてその疑いの濃い者たちは、降谷が調べた限り、その夜を境に姿を消している。

 

「地位ある者には社会的に、地位なき者は物理的に。もっとも苦しむ方法で制裁を下し、英国の秩序を……いえ、女王陛下の平穏を守った。まさに……『女王の番犬』だと、僕は思いました」

 

 そこで初めて、エマの口元が綻ぶ。その目元にも笑みが浮かび、それこそまるで子どもの戯れを微笑ましげに見る聖女(マリア)のような、人間の足掻くさまを愉しむ悪魔のような。相反する印象を与える笑みを浮かべた彼女は、ゆったりと長い髪をかき上げる。何気ない仕草だが、多くの者はたったそれだけで気圧されてしまうだろう。その風格たるや、まさに大貴族の淑女に相応しい。

 しかしその程度で気圧されていては、日本狼(こうあん)など務まらない。

 

「僕は、貴女があの夜あの場所にいたことを証明できる」

 

 これはほんの一部ですが、と降谷は写真を一名リストの隣に差し出した。そこにはパーティ会場で微笑む淑女の姿。まぎれもなく、エマ・ファントムハイヴの姿がある。

 探偵ならば、カメラとボイスレコーダーは必需品である。調査に出るなら画像と音声の記録は当然の嗜みと言えよう。もちろんこの夜も例外ではなかった。

 

「これを全世界に発信する用意は整っています」

 

 データのコピーを日本に送り、部下を動かしてすべての手筈を整えさせた。降谷の指示があれば、あるいは降谷と連絡が取れなくなれば、すぐにそれらを公開することになっている。帰国したらものの数日で良い仕事をしてくれた部下を労わなければ、と降谷は頭の片隅で思った。

 

「ええ、これは貴女が『女王の番犬』だという証拠にはなりません。しかしこの際それはどちらでもいいんです。貴女があの夜あの場所にいたことをもみ消したという事実が、『女王の番犬』という疑惑と共に広がることに意味がある。きっとメディアは、騒ぐでしょうね?そして今後なにかしらの事件が起こるたび、人々の脳裏には『女王の番犬』と貴女の顔が浮かぶようになる」

 

 それはきっと、貴女にとって嬉しくないことなのでは?

 降谷の言葉を最後まで聞いたエマは、さらに笑みを深くして、ゆったりした呼吸を崩さないまま、薔薇色の唇を開いた。

 

「それだけお喋りをなさったら喉が渇いたでしょう。紅茶のおかわりはいかが?」

 

 降谷は平然として、それではいただきます、と笑顔を返した。

 エマはそっと立ち上がり、支度を進める。ポットにお湯を注ぎ、茶葉を蒸らし始めたところでようやく改めて口を開いた。

 

「ノブレス・オブリージュをご存知かしら」

 

 急な話題に驚きつつも、降谷は意図を読むべく脳細胞を働かせる。とりあえずは知識にあるまま、答えを返した。

 

「高貴なる義務、ですか」

 

 ノブレス・オブリージュ。西洋社会における倫理的概念とでも言うのだろうか、特権的地位にある者はそれ以上の義務を負うべき、という社会的通念である。ボランティアやチャリティなど手段はそれぞれだが、これを果たさない者はその地位に相応しい者として認められず、批判の対象になることもある。

 

「ええ。もちろんファントムハイヴ家も、貴族に名を連ねる者としてその義務を果たしております。兄は当主やファントム社の仕事がありますから、そちらの方面についてはわたくしが主に務めを果たしております」

 

 ファントムハイヴ家はその事業のこともあり、特に子どもへの支援に力を入れている。未来ある子どもたちが笑顔で日々を送れるようにと、その関連のパーティでスピーチをしたこともあるのがエマ嬢だ。

 

「つまり何を申し上げたいのかというと、()()()()()()()でわたくしの名誉に傷がつくとでもお思いなのかしら、ということなのですけれど」

 

 にこりと笑って見せた、麗しき大貴族の令嬢、社交界でも名高いレディ。

 当主たる兄を支え、ファントム社の経営を手伝い、忙しい生活の合間を縫っては自社特製のおもちゃを抱えて病院や孤児院を訪問している。そんな彼女の姿が偽りなどといったい誰が信じるだろうか。どうせ醜い嫉妬だろうと一蹴される結末が目に見えている。

 そしてそのことを、誰よりも彼女自身がよく理解していた。

 

「いえ、全く名誉に傷がつかないというのはさすがに強がりですわね。それなりに有名になってしまっている以上、全く敵がいないとは申しませんもの」

 

 けれど、と美しい声でコマドリは囀る。鈴のように、愉しそうに、軽やかに。

 

「致命的とは程遠いですわ。実際、わたくしはヤードに事情を説明いたしましたし、ヤードにわたくしの存在を伏せるようになどとは申し上げておりません。そのリストにわたくしの名前がないのは、ヤードの勝手な気遣いでしょう。メディアにマイクを向けられたら、わたくしは誠心誠意それをご説明いたしますわ。何でしたら涙のひとつでも流してね」

 

 その程度にはわたくし、自分の地位というものを確立しておりますの、と笑うレディは、あくまでも無邪気で。

 

「ふふ、まあノーダメージのカードでなかったというだけでも評価できるかしら。100点満点で言うなら50点くらい? おまけしすぎかしら」

 

 ねえルカ、貴女はどう、と愉し気に尋ねる主人に、忠実な使用人はお嬢様のよろしいように、と無機質に返す。その返事さえも愉快なようで、エマは上機嫌に続けた。

 

「とても素敵なカードを見せて頂いたわ。今度はわたくしの番ね」

 

 お互いのカードを見せあうまで、ゲームは終わらない。内心の悔しさを力づくで押し込めて、降谷は笑った。己のカードの弱さを思い知っても、決してそれを表に出してはならない。ポーカーフェイスならばお手の物、最後まで余裕を崩してなるものか。

 

「どうかお手柔らかに、レディ」

「まあ、思ってもいらっしゃらないことを」

 

 降谷のその見事なポーカーフェイスにさらに評価を上げながら、エマは己のカードを切る。ゲームにおいて負け知らずの令嬢の切り札(カード)の威力は、如何に。

 

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