約束の時刻になっても戻らなかった奴隷の女性を置いて、モビー・ディック号は出発した。名残惜しそうに船尾から島を見つめるローゼマリアを、エースは慰めるでも無くただ寄り添うように傍に居た。
髪に指を通すように頭を撫でれば、もっと撫でろと言わんばかりにぐりぐりと擦りつけてくる。
「心配か」
「……あの人は私の鞭打ちの練習用に買い取られた奴隷なの。それまで他の家で散々鞭を打たれて、背中、傷だらけよ。膿んでしまった傷もあるわ。寒いあの場所で痛むはず……」
「治らねえ傷か」
「拒まれたの」
するりと長い髪を毛先まで撫でたエース。寂しそうに笑うローゼマリアはぶるりと身体を震わせた。
「中に入ろう。さみぃよな」
「うん」
寒い海は荒れているのか左右に揺れる船内へ戻り、エースはそのまま多目的ホールへと足を運ぶ。モビー・ディック号の多目的ホールは、集会などで船員たちが集合しても余りあるように作られているらしくとても広々としていた。
今日は元々ウインディと遊ぶ約束を結んでいたエースは出すようにお願いしてくる。
「一体いつ?」
「冬島に着く前、ディアナを傍に置いといたろ。そん時にな」
「……ああ、なんかやたらとディアナがエースくんと遊びたがってた日があったわね」
冬島に着岸する前日。寒いからとウインディとフシギバナ、という二体を傍に置いていたローゼマリアはやけにエースにじゃれつくウインディを不思議がっていた。
ローゼマリアのポケモンたちは各々バラつきがあるものの、出す子ほぼ全員が概ねエースに懐いているのは知っている。一番警戒心が高く懐きづらい最初のパートナー、フシギバナでさえ内心では認めているとローゼマリアは確信していた。
ぽうんと音をさせて出てきたウインディはまずローゼマリアに挨拶するようにアタックして、身体全体でマーキングのごとくスリスリすり寄ってからエースを見つけて駆けていく。
「よーしディアナ! 俺と遊ぼうぜ!」
「ガウ!」
どたたた、と走って行くエースたちを見送ってから「こっちいましょ」とフシギバナとともに端っこに腰を下ろした。
いまだ解けない監視をする隊長たちも、イゾウの一件があってからは「基本的に害を加えなければ安全だ」と判断したらしくローゼマリアの近くに腰を落ち着ける。ローゼマリアが完全にポケモンたちを御せると分かったからかもしれない。
「やってるねぃ」
「1番隊隊長さん」
「よぅお嬢さん。隣、失礼しますよぃ」
どっこらしょい、とおっさん臭い言葉を漏らしながら腰を下ろしたマルコは、ワフワフ言いながらエースを追いかけるウインディと、回避の訓練さながらに逃げ回るエースを眺めていた。若者は元気だねぃ、なんて目を細めながら。
「ディアナはまだ子供なので、元気が有り余っていて。エースくんがああして遊んでくれて正直助かってます。いつ遊ぶ約束したのか全く知らなかったけど」
「あの図体で子供なのかよ」
「ええ。ディアナ――ウインディはガーディというポケモンが進化した姿なのですが、あの子は少々特殊な事情がありまして」
きゃっきゃっと嬉しそうにジャンプしたりするウインディ。マルコたちはいつも気難しそうに唸って威嚇している姿しか見たことが無かった。エースには比較的早くから甘えている印象はあったが。
「あの子は子供なので、善い人か悪い人なのかはほぼ直感です。子供ゆえの無邪気さで見抜くのです。エースくんは良くも悪くも裏がない。だからこそ真っ先に懐いた」
んん、とあぐらをかいたマルコは膝の上に肘を突く。監視を続けている自分たちにポケモンが懐かないのはそれが原因だと暗に言われているようで、現にそうなのかフシギバナのぷすっと笑う声がした、気がした。
「よしディアナ。次は――ディアナ?」
ふと戯れていたウインディの様子が変わったことに気付き、エースが声をかける。近付いて触れようとして――
「バウッ! バウッ! バウッ!」
「おわっ」
体勢を低くし一点を睨むウインディ。慌ててローゼマリアが側に寄れば体勢こそ戻ったものの警戒状態を解こうとしない。
「急にどうしたんだよぃ」
「わかんねえ。今の今まで何でも無かったのに」
「威嚇してるわ。……エースくん、他の船が傍を航行してない?」
「! 確認する」
船内を繋ぐ子電伝虫で見張り台と連絡を取り合い始めるエース。のそりと動き出したフシギバナもローゼマリアの傍にぴたりと張り付き威嚇するように巨大花をゆらゆら揺らしていた。
「まさか、敵襲か!」
「分からない。ただディアナも、ネーラも威嚇してるってことはマズいことになってる可能性が」
ドォン
突然の横揺れに、悲鳴が上がる。何かにぶつかられたような、そんな衝撃だった。同時に子電伝虫が緊急回線を告げる。
「敵襲! 敵襲ー!!」
総員持ち場に――ビリッとした緊張感がたちまちホールを埋め尽くした。この場に居るのは隊長格ばかり。みな、己の隊を指揮するために散っていく。
「ロザ! お前はナースたちと親父の傍にいろ。いいな!」
「分かったわエースくん」
行くよ2人とも、と声をかけたローゼマリアはエースの命令通りに船長室へまっすぐ向かった。モビー・ディック号に乗船している女性はナースのみ。非戦闘員は彼女たちくらいなものだが、今は元奴隷なども乗っている。その全員が集められていた。
「お嬢様! ご無事で何よりです」
「ルルン、ガロ、みんなも大丈夫そうね」
大巨漢の白ひげに合わせて作られた室内はナースたちや元奴隷たちが集まっても窮屈には感じられない。その部屋のドアが破られてもいいようにウインディ、フシギバナ、新たにラプラスを出し配置する。
「お前ェ、危ないから下がらせろ」
「……なぜ?」
「お前の大事な友達が傷つくぜ」
破られた場合、白ひげがステゴロでどうにかしようとしていることに気付いたローゼマリアは、綺麗に笑った。
「エースくんにはあなたに従うよう言われてないからイヤ。私はナースとあなたの傍に居るようには言われたけど、全面的に従えなんて言われてないもの。それに、死に際のご老人は無茶をしない方がいいわ」
そのままぷいっとそっぽを向くローゼマリア。「オヤジ様になんて口!」とナースたちには大ブーイングを食らうが何処吹く風だ。
「エースに言われりゃァ、俺に従うか」
「それがエースくんの願いなら当然のこと。私、エースくんのお願いは全て聞くわ」
「死ねと言われてもか?」
白ひげの問いの意図を掴みきれないルルンとガロは、それを不敬と問い詰めることも出来ず歯がゆそうに成り行きを見守っている。
ローゼマリアはエースに「死ね」と言われたら死ぬのか、と問われて不思議そうな顔でキョトンと白ひげを見た。
「エースくんが望むなら」
その純真無垢な目は全てを受け入れていることを物語っていた。エースの言うことを全て額面通りに受け取るローゼマリアの中にある、ある種の狂気を感じた白ひげは渋い顔になる。
この狂気は誰かから「躾け」られたものだと長く生きた者の直感が訴えてきた。天竜人特有の狂気ではない。もっと別の、愛と付くものをない交ぜにしてドロドロに煮込み、すり込んだような。
「(どちらにせよ、まともな愛し方ではねえ。あの親はこんな愛し方しねえだろうし、もっと血の遠いやつの仕業くせえ)」
幼馴染みの言うことを聞き、遂行する。恐らく誰かがそのように仕込み、それを「愛」だと教え込んだのだ。そう白ひげは推測した。
「それは、エース隊長の奴隷だわ」
ナースの誰かがぽつりと漏らす。
「奴隷というより隷属よ」
「? 奴隷は意思に反して無理やり、でしょう? 私は私の意思でやってることよ」
白ひげは手を振りやって無駄だと合図した。奥まで根深く絡みつくソレは、ちょっとやそっとじゃビクともしない。それこそ
耳に痛い沈黙が部屋を支配することしばらく。甲板の方で聞こえていたドンパチが止んだかと思えばドアが乱暴に叩かれる。
「2番隊、急患だ! 開けてくれ!」
エースの声で急患が叫ばれた。ウインディが瞬時に「キャウッ」とローゼマリアへ訴える。
躊躇なくドアを開けると、重体の船員を肩に抱えたエースがなだれ込んできた。