Spica   作:一等星

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 ───────嬉しかった。出会わなければ、個々としての私を見てくれる人は、いなかったのかもしれませんね。


抱きしめてしまう程に。

「さて、と。戦績チェックはするとして……」

 

 契約の次の日から、レースの特訓が始まった。数日、まずは様子から始める。ダッシュトレーニング。水泳。あとはウサギ跳び。勉強で回しているが、概ね正解かもしれない。

 

「あの特訓、通用はするんだな」

 

 ともすれば、訓練は何とかなるだろう。次は、最初に狙うカップは何かを見定める事にする。ここまで来れば、いくつかの候補を定める。その為には、スズカが走ったレースを知らなければならなかった。過去のデータを見ると、書いてある文字は香港国際の文字。なるほど、丁度最初の頃に比べて落ち込んできたところなのか。と把握した上で、疑問が発生する。

 

「あれ、リギルに所属してた訳じゃないのか。それに、バレンタインカップに出走の記載がない」

 

 こうしてみると、彼が持つ、彼自身の知識とは、大分かけ離れていることが伺えた。これに関しては、並行世界線という言葉もあるくらいなのだから、仕方ないとは受け入れている。引っかかることはあるが、後回しでいいだろう。傍から見れば、楽観的ではある。だが、目の前のことで精一杯なのだ。

 

「それにしても、無理に先行に変えていた、か」

 

 ここ数試合のデータを見る。専属ではないものの、サブトレに話を聞いていたのか、スズカの走りを先行に矯正しようとしていた気配が残る。

 

 だとしたら、彼女本来の走りに切り替えた方が、必ず勝てる。そう確信して、トレーニングを詰め込むことにした。

 

「トレーナーさん。今日はどうなさりますか?」

 

「ああ、スズカ。レースのことを考えていてね」

 

 あれから、一週間が経った。さて、そろそろ挑む杯を決めなければいけないところだ。方針を決めれば、後は一直線。それが彼女に良いと思っていたほどだ。そういえば、中山。と聞いて、三月中のとあるレースを思い出す。今年の桜は早咲きだったのだろう。そう思うと同時に、何かの ズレ を、またひとつ感じた気がするが、今は放置することに決めた。

 

「弥生賞。これに出て欲しいと思うんだ。どうかな」

 

「これ、今度の土日の……まだ、トレーニングの状態は完璧ではないと思うのですが」

 

 当然、訝しむだろう。だが、自分は今でも勝てると思っていた。それを示すための、調整段階だと思っていたのだ。

 

「勝てるよ、スズカなら」

 

「……え?」

 

 これは、困惑の返答だろう。一週間も共にすごせば、多少の癖は見抜けていた。だから、このままスズカに勇気を出してもらうためにも、まずひとつ。

 

「君は勝利する。逃げで行こう。先の景色を譲ることは、絶対に無いはずだから」

 

 

 

■■■

 

 

 

「中山。あの頃は特にお世話になったな」

 

 何の因果か、この世界に来る前のこと。麦星ではなく、思い出せない名を名乗っていた頃は、競■場に随分と世話になっていた。別に、賭け事をするからという訳でもなく、単純にレースを眺めることが好きだった。

 

 それが何の因果か、調教師。つまり、トレーナー側としてこの地に立つとは思わなかったのだ。

 

「それにしても、本当にあの指示でいいんですか?」

 

 そんな自分に確認するかのように、彼女は問いかけてきた。まあ、基本的にあんな指示は荒唐無稽だろう。トレーナーのする指示では、凡そない。

 

「好きに走れ。好きに逃げろって事かな?」

 

「はい。具体的な指示も、ないので。その、縛らないのですか?」

 

 普通なら、どこかで手綱を握るべきなのだろう。しかし、彼女にそれはふさわしくない。麦星というトレーナーであるからには、彼女を好きに走らせ勝たせたい。その上で、必要なトレーニングにおいては全力で補佐する。そう決めたのだ。

 

「ああ。レースにおいて、君を縛る枷はいらない。だって、俺はスズカなら大丈夫だと信じているから」

 

 故に、委ねる。これで負けたら。と言う思考の選択肢は、一切ない。スズカは驚きに見開かれた目と、これからのレースに心を躍らせ、頷いた。

 

「わかりました。では、逃げてきますね」

 

 歩き去るスズカを見送ると、観客席へと向かうため、彼自身もまた戸に手をかけ呟く。

 

「うん、それでいい。このレースで、君は大事な景色を手に入れるはずだから」

 

 それは、ここに来る前から持っている知識によるものではなく、心の奥底にある確信めいた何か。それが、口になって出ていた。ふと、幼き日のことを思い出す。ああ、そうだ。

 

「忘れていたな、俺が憧れたもの。だから俺は……」

 

 その時見た景色は、まだ鮮明には思い出せない。だが、在りし日の記憶が糧になっていると、そう信じて───────。

 

 

 

■■■

 

 

 

「本当に、不思議な人」

 

 新人のトレーナーのはずが、自分に全信頼を置いて、任せるとまで言いきった胆力。それは、どこからくるのだろうか。スズカは悩む。そもそも、先頭の景色という単語は、あまり人に話した覚えはない。だが、勝つという単語と共に添えて、あのトレーナーは発したのだ。

 

「それで、やる気になってしまう私も私ということかしら」

 

 なぜだか、その疑問要素が大きく残るトレーナーを、信じてみようという気持ちが強く出る。スピカと自身を例えた彼を、受け入れようという気持ちが強くあるのだ。まるで、ウマソウルに直接訴えかけられているような気もしている程に。

 

「勝ちます」

 

 念じるように、呟いた。ゲートに入る。周りのウマ娘の喧騒なんて、耳には入らない。

 

 精神と視界。共にクリア。ゲート難は起こさない。スタートと同時に逃げに走ることはもう決まっている。

 

「……そう。これよ」

 

 ザッ、ザッ、ザッ。と、勢いよくターフを踏みしめる音が響く。集中力は乱れない。ひとつ、またひとつと後ろとの差が開く。好きに逃げれば、本来スタミナなんて足りないはず。だが、なぜだか踏み込める気がした。

 

「私の前は、走らせない」

 

 その逃げに釣られ、掛かるウマ娘も存在した。途端に後続のスタミナは切れていく。

 

「むーりー」

 

「なによ、アレ!?」

 

 かけられた言葉を思い出す。それは更なる勇気をくれる。ああ、私はこのために、今ここに存在するんだ。そう示すかのように、第四区間を回ってラストへ。

 

「行け、スズカ!」

 

「!」

 

 ふと、観客席を見た時、麦星の声が聞こえた。最後のスパートで押し込むことを、躊躇わせないかのように、声をかけられた。

 

「分かったわ。トレーナー。……先頭の景色は、譲らないッ!」

 

 それが、伝説の始まりとなる弥生賞を決めたと、後に彼女は語る。麦星の声が届いてからの彼女は、ただ前に進む事のみを考えた。

 

『ラストスパート残り200! 既にこの時四バ身差。最後の直線駆け抜けて、脚色全く衰えず! サイレンススズカ。堂々の一着です! なんという逃げ足でしょう。これが新たなる伝説の幕開けとなるのか!?』

 

「……勝った」

 

 なんと甘美な響きだろうか。ここまで勝利に対して嬉しく思うのは、スズカ自身久しぶりの事だった。滅多なことでは成功しないと言われる、大逃げという戦法を使って、勝ちきったのだ。

 

「スズカ!」

 

 麦星の声が聞こえる。何も言わずに、駆け寄った。信じてよかったのだと、彼女は自身の高鳴りを隠すことすら億劫で。

 

「トレーナーさん。私、勝ちました!」

 

 熱い抱擁。傍から見たら、恋人同士のようなそれ。でも、誰も咎めない。劇的な勝利は、人々の脳内に麻薬にも近い作用を起こすのだ。要するに、美しき光景にしか見えないのだから、誰もそこに野暮を挟むことはしないのだ。

 

「す、スズカ?」

 

 ただ、麦星は多少の恥ずかしさを含むためか、赤面をしてしまう。"トレーナーたるもの、現役ウマ娘に恋情を抱くのは良くない。"という教育をされるのが本来だが、その過程を得ずにトレーナーになった麦星にとって、全身に受ける柔らかさは、とても大変なものである。

 

「……ほら、ライブもあるよ、いっておいで」

 

 だが、それでもトレーナーとしての本分を果たすべき。そう決めて、フリーズから解けた彼は、優しく告げる。

 

 勿論スズカも分かっていたというように、相変わらず天使のような、満面の笑みを向けるのであった。

 

「はい。行ってきます!」

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