「なっ、なんだこの炎は!?」
模擬戦を観戦していた1人、服部の驚愕の声が響く。そしてその言葉はこの場にいた全員が共通して抱く思いを代弁していた。肌で感じる膨大な熱量は、しかし彼らを焼くことはない。
「幻覚……? でもこの炎は確実に燃焼現象のもの」
「ならばいったい何を燃やしているんです! 黒い炎などありえない!」
鈴音の疑問と驚愕の呟きに、服部が声を荒げたまま答える。炎──火には、特定の物質を入れるとその色を変える炎色反応というものが存在する。例えばカルシウムを燃やせば橙赤色、ナトリウムを燃やせば黄色に色を変える。
だがこの世のどの物質を燃やしたとて、黒に変わることはないのだ。何故なら火、燃焼とは光と熱を発する。ならばこの光を呑むような暗黒の炎など世界に存在しない、否、してはいけないのだ。
この場にいる全員が例外無く体を震わしている。この炎を前に彼らは、己の深く無意識、深層意識よりも尚奥深くにある人間として──星に根ざす生物としての根源的な本能が畏怖しているのだ。
「……涼さん。汗が凄いですが大丈夫でしょうか」
「問題ない。達也、この炎が燃やしているものは分かるな」
ヒトとしてではなく、目の前に聳える形ある旧支配者最高位神格の神威そのものを知覚する涼は体中から冷や汗を流しながら達也に小声で問う。
「……あぁ。信じられないが、この炎は"エイドスを燃やしている"」
「────お、お兄様? 失礼ながらどういう意味でしょうか。無学な妹をお許し下さい」
「どうもなにも、言葉通りだよ。……俺は初めてこの"眼"の異常を疑っているよ」
間違いであってくれ。との現実逃避気味の深雪の遠回しな理解への拒絶は、達也の事実の肯定によって砕かれる。サッと血の気が引いたように顔を青くした深雪の目にははっきりと恐怖が浮かんでいた。
エイドスとはサイオンで構成された事象に附属する個別情報体である。森羅万象あらゆる全ての事象はエイドスに記録されている。魔法とは、そのエイドスに干渉し改変する行為を指す。そして魔法ではエイドスの改変が限界であり、人間のキャパシティを超える改変は不可能だ。
例外として外宇宙魔法、そしてその大本である神格が挙げられる。神格の権能を基に造られた外宇宙魔法は現代魔法よりも強力かつ広範囲の改変が可能であるし、大規模な儀式を用いれば星単位の変革すらも不可能ではない。
それこそ神格において旧神は息を吐くようにエイドスの大規模改変を行えるし、旧支配者の一部はより上位の
外神はそもそも三次元宇宙なぞ自由自在に操れるので論外としておく。
「あの精霊──イェブと言っていたか。あれの炎は魔法の域を凌駕した、事象の創造そのものだ。それこそ情報体を燃やすという神の如き御業のね」
「あれが燃やすのはエイドスという万物の情報そのもの。……それにもし焼かれた場合、末路は一つ」
即ち、───存在の
ヒッ、という声にならぬ深雪の悲鳴は、喉元まで迫り上がったところで口許を抑えた両手で塞がれ嚥下された。会話を周りに聞かれないようにするという意思と兄の前で無様は晒せないという深雪の精神力の賜物だ。達也自身も魔法師を原子レベルで分解し消し去る軍事機密魔法『トライデント』を持つ。だがこの炎はそんなものではない。過去から、現在から、未来から、在ったことが、在ることが、在りえることが、この世界から1つ残らず消えて失くなる。全てが無に還るのだ。
「そっ、そんなことより会長、早く止めないと!! こんな炎の中じゃ渡辺先輩とアルハズラットくんが……!」
代わりというように悲鳴にも似た酷く狼狽した様子のあずさの叫び声が響く。炎は今なお燃え盛っておりその熱量は依然変わらない。
「いいえ、大丈夫よあーちゃん。炎の中で2人……いえ、精霊も含め無事よ」
先程とは打って変わって落ち着いた様子そう語る真由美。その言葉を聞いていくらか冷静になったのか安堵の息を吐くあずさ。彼女が言うのなら事実なのだろう。実際、『マルチスコープ』を持つ真由美には中の様子が見えている。
「……全く。気遣い上手なのはいいけれど、やりすぎなのよウェイトリーくん」
◇
轟々、轟々と黒き炎が壁となって周りに聳える。その中心で
「うぉぇっ、げぇぇ……!」
「……これは酷い。イェブ、やり過ぎだ」
吐いていた。そこには腹部を抑え、倒れ伏しのたうちながら吐瀉物を散らすあられもない摩利の姿があった。
経緯は単純。摩利がイェブに攻撃を仕掛けたあの瞬間、イェブは摩利に目も向けずにその尾を振るい摩利を突いた。──偶然、丁度胃の辺りを。たまたまその瞬間が見えてしまったウェイトリーが、急いでイェブに黒炎を指示。
主の意を汲んだイェブが円状に壁を貼ったことで、少女の嘔吐公開という尊厳破壊にも程がある光景を見事防いだのだった。
「申し訳ありません、主様」
「いやまあ、存在格の差からしてよく加減したと言うべきなのか……。まずいな、吐血してきた。胃が破れたかもしれない。イェブ、治療を」
「御意に」
イェブが手を翳した直後、摩利を襲っていた地獄の苦しみが完全に消え去った。撒き散った血とゲロと一緒に。
「ッ……! ハァ、ハァ、……すまないアルハズラット。それと──」
「彼女はイェブといいます。イェブ、挨拶を」
「……私はイェブ」
何やら不服そうにしながらも、華麗にスカートの裾を摘みカーテシーをするイェブ。見事な所作に一瞬見惚れるが、表情を正す。
「あぁ。ありがとうイェブ。それよりアルハズラット、この炎は?」
「……いえ、流石に模擬戦とはいえ美しいレディのあのような姿を見せるわけにもいかないので」
「そうか……まぁ、どこまでも気遣いありがとう。炎はもう止めていいぞ」
実は中の様子は達也と真由美に知られているのだが。まあ達也は状態だけしか見れないが、真由美に関しては一連の光景をしっかり見ていたりする。
「分かりました。イェブ」
命じられたイェブがパンッ、と小さく手を叩くと炎は初めから存在しなかったかのように跡形もなくなった。
「ッ、渡辺先輩!」
この中で最も彼女の身を案じていたあずさが摩利の姿を見た瞬間、喜びの声を上げる。
「フフ、完敗ね。摩利」
「……そうか、おまえは見えるんだったな。あぁ、全くだ──降参だ、アルハズラット」
どういうことですか!! と声を荒らげる服部をいなす摩利を見た後、ふと横に目をやってみる。するとイェブが心做しか落ち込んだ様子で俯いていた。おそらく自分は創造主の命を果たせなかったと思っているのだろう。
「……ありがとうイェブ。よく私の願いに応えてくれた。流石は我が子だ」
「! えへへ、ありがとうございます」
そう頭を撫でながら褒めてやると、普段は無表情を崩さない鉄面皮を綻ばせ、森羅万象を魅了するような微笑みを見せるイェブ。何とも愛らしい旧支配者がいたものだ。
「手加減とかもまた覚えていこうね。まあそれはともかく」
視線を上げれば、向こうで呆れたように笑いながらも兄の勝利に歓喜の拍手を送る涼がいる。涼にさせられているのだろうか、戸惑いながらも司波兄妹も拍手をしているし、真由美は困ったように微笑み、手を挙げた。
「弟に勝利を届けれたので、良しとしよう」
「──勝者、ウェイトリー・アルハズラット!」