BOOTHで販売している短編集「翌/風星群」に収録されています。
木造屋根が寝転がるひなびたホーム、去っていく快速、流行外れの自販機、やけに真新しいフェンス、高すぎる入道雲。青い青い宇宙の壁にもたれかかった真っ白な彼女の影に包まれるすべてを置いてけぼりにしながら帰った。ぱらぱら、からから、きらきら、降り頻る雹の中を鬱陶しげに俯いて。
雹は白くて冷たくて、ときどき大きなものが薄いブラウスを切り裂きすらした。鈍くも冷ややかな痛みが体中に落ちた。他愛無い話でもしながら歩けば瞬く間に過ぎてしまう坂道を上るのに何兆年もかけた。
ちょうど耳くらいの高さに結んでいたポニーテールが解けた。ぶちりとちぎれた音が聞こえた気がする。思わず振り返って、私がずっと左手に捕まえていた少女の暗い瞳に視線が吸い込まれた。
夏の星屑に濡れたミディアムのエアリーボブ。ブラウスは私と同じようにほつれてインナーが薄く透け、スカートは水分を吸って重たい色に潤っている。私より少し低い背、坂の下り側、上目遣いと言うにはどこか剣呑に寄った眉間の皺。掴まれてピンと伸びた彼女の華奢な右腕には、青黒い血管だけでなく悲痛の色も浮き上がって見えた。
ソドムを裁いた神の火と対極の冷たい流星群が降り注ぐ。言葉を待つ。目が逃げる。入道雲が果てない空をひとり遮っている。
「……もう、おしまいだよ。私たち」
私の左薬指の爪に色はなくて。
彼女は左手を後ろに隠していた。
「別れよう」
束ねた造花のように繋いでいた手が、するりと引き抜かれた。
「うわぁ、良いホテルだここ」
濃紺のノースリーブシャツ、ハイウエストのイエローパンツにクーラーで冷えすぎないためのベージュジャケットを羽織った私は、パンプスのヒールを軽やかに鳴らしながらキャリーケースを引く。
無教養だからまず空調の完璧さに慄いた。その次に広々としたロビーの高級感と利便性の両立したデザイン、最後にノイズの少なさにため息が漏れる。
おそらくは取引先との折衝のために訪れたであろうスーツ姿の女性であったり、出張でここに宿泊していると思しき男性、もちろん普通の客もいて、人通りはそれなりに多い。足音だけでなく話し声、キャリーケースを引く音、エレベーターのチャイム、人間がいるところには必ず音があるはずだ。にもかかわらず、壁の少ない吹き抜けの構造に加えて換気のために開けられたドアや窓から余計な音が抜けていく。視聴覚の双方から客の快適を追求していることが感じられて、改めて思う。良いホテルだここ。
「ここで結婚式か、あの子も立派になっちゃってまあ」
しみじみ。
高校時代から成績優秀で真面目で、それでいてほどほどに得をするために他人を貶めない程度の手抜きもできる要領のいい友人だった。ハーフアップをお団子にしてすっかり垢抜けた彼女からは同窓会で素敵なホワイト企業に入ったと聞いていたけれど、こうして人生のトロフィーを順調に解放していく様を目の当たりにすると誇らしいような、どことなく寂しいような。
さて。道に迷うことを想定して早く出たらなんら問題もなく、予定よりかなり早く着いてしまって少々暇だ。仕事用のノートパソコンはこのキャリーケースに入れているけれど取り出す気はない。心置きなく有給を堪能するためにこうして仕舞い込んでいるのに、隙間時間ができたからって労働にいそしむのは違うでしょ。
……よし。
「……もしもし? 今さぁ……そう、うんうんロビーロビー。えー? 確かに久し振りだけどさ、もういちいちムード気にする関係でもないでしょ。……え? どこって」
電話の向こうでぷりぷり怒った友人は通話を切ってしまった。
「……流石に結婚式前日に新婦を呼び出すのは無神経だったかな」
ぷらぷらとスマホの角を摘んでぶら下げながら反省するも、背後からこれでもかと高らかに鳴らされる足音がすべて吹き飛ばした。肩を怒らせて歩いているのが目に浮かぶから振り向きたくないんだけどそうもいかない。
足音がカツンと止まって、澄んだ声が聞こえる。
「……ほら、来てあげたよ?」
ひえっ。
内心恐る恐る、表面は見栄っ張りなので精一杯平静を装って、余裕綽々の顔を向けた。
「いやぁごめんごめん、暇でさぁ」
「そこらの喫茶店でも入ればよかったのに……」
素敵な女性が立っていた。
久し振りに顔を合わせた友人はすっかり大人になっていた。呆れのため息すら艶やかに染まるルージュ。髪がハーフアップなのは記憶のままだけど、同窓会で顔を合わせたときより伸びている。高校の頃の私と同じくらいかな、肩甲骨に届くその先まで丁寧に磨き上げられて余計なクセは少しもない。涼しげな白いフレアブラウスと明るいペールブルーのカフェパンツがふわりふわりと揺れていて、そこにいるだけで穏やかな風を感じられそうなコーデだった。
彼女は表情も風のように崩して、それから私にハグをした。
「おっと……なに?」
「まあまあ……来てくれてありがと」
「当然でしょ」
私もそっと手を回す。抱き締めることを恐れなくていい強さの宿る背中。鼓動のリズムで数度叩いてやると、くすくす笑った彼女は少女に戻っていた。
隣へ滑るように離れて「じゃ、どこ行こっか」と微笑む彼女はなかなか乗り気だ。
「……呼んどいてなんだけど、明日の準備とかいいの?」
「昨日までに準備もリハも済ましてるよ。準備で疲れて本番に遅刻しましたーじゃ話にならないし、今日は休みなの」
「そっか。……じゃあ、夜更かしはできないね」
「5時くらいまでかな」
「朝?」
「花嫁が朝帰りなんかできませーん」
「そらそうだ」
手を後ろに組んで可愛らしくターン、おどけて笑う彼女はそのままホテルの出口へ歩き出した。私もその後を付いていく。キャリーケースは結局引いたまま。
「鍵は開けておくからノックして」
ふしだらな高校生活の中で、それは合図だった。声を潜めた数秒の通話。要件もなくだしぬけに都合を尋ねて、場所を伝えて、最後にこの言葉。
あの子とは体を重ねる関係で、幼さを振り切った逢瀬はとうに数えきれない。どちらからというわけではないけれど、彼女の方から誘われた回数の方がきっと多い、はず。
ただ、いくらなんでも音楽室を指定されたのは初めてだった。
「今日カラオケいくー?」
「あー、ごめん。今日はパスで」
窓の外は曇り空。クラスメイトを適当にあしらいながら、頭の中は恋人のことでいっぱいだった。
特別棟に繋がる3階の連絡通路に出ると、黒南風のぬるい指がうなじを撫でる。まだ潮の匂いは薄いけれど、これがもう半月もして……そう、空が晴れて入道雲が立ち上るころにはもっと強まっているに違いない。
夏が待ち遠しいのではなく、ただの現実逃避だとは、自分でも。
この学校にも吹奏楽部はあるけれど熱心ではない。他の音楽系の部活は私とあの子の所属する音楽同好会のみ。ピアノと歌とクラシックギターを楽しむ集まりは案外真面目なもので、来るだけはそれなりに来ているから、ここで演奏もせず駄弁っていても怪しまれはしないと思う。もっといえば、今日は音楽教諭が出張でいないらしい。人目を忍ぶにはうってつけという訳だ。
ノックをして、上履きを脱ぎながらSNSで連絡する。向こうから返事の来ないことはわかっているので、「入るよ」とだけ口の中で転がしてドアに手を掛ける。
途端、引くまでもなくドアが開いて、私は引きずり込まれた。
「いっ……つ」
手をつくこともできないでカーペットに倒れ込んだ私を迎えたのは、幾度となく味わった甘い肉と骨。人ともつれ合って転んだことに気付いたのはその感触と、私の隣に深い琥珀色の髪が見えたから。
彼女だった。
まだ少し固い夏服。半袖の薄いブラウス越しに震えが伝わった。感じる体温はわずかに低い。雲から透ける僅かな光すら入らない淀んだ影に明かりも点けず浸ったまま、私はかたわらの彼女の髪に指を通した。
「……なにか、あった?」
目を合わせると彼女はただ小さく、小さく、首を横に揺らした。指の隙間をさらりと滑る髪には、ほんの僅かに枝毛があった。
目元には薄い隈。頬は少しこけているように思えた。恋人繋ぎで絡ませた彼女の左手はお菓子のように頼りなくて、他の爪には細かな皺が浮いていた。
野球部のノックがしんと響く。言葉もわからないほど遠い喧騒と、耳の奥で鳴る時間の
「……おねがい。めちゃくちゃにして」
高校2年生。未来を取り巻く薄靄が化け物に変わる年。
親への尊敬と反抗心、保身と破滅願望、友情と害意、愛憎のアンビバレンスで編まれたポニーテール。私はシュシュを解いて、すがりつく彼女の首に噛み付いた。
成績優秀で品行方正な女子高生の仮面を砕かんばかりに。鎖を千切らんばかりに。
親の言いなりじゃなくて夢を追ってもいい、って。
ついぞ言えなかった言葉の代わりに。
「……もっと。傷にしてよ、これ」
「わかった」
牙は既に刺さっていた。それでももっとと言うなら、溢れる血を啜りながらでも消えない傷にしてあげたかった。
息が荒くなっていく。足を、腕を、身体を、心の外装を少しでも近付けていく。どろりとまとわりつく六月の温湿度に、汗も体温も同化していく。
それでも二人を遮る布切れは剥がないでいた。命綱でもあったし、言い訳でもあった。
傷の舐め合いも汚れた舌では腐らせるだけだとわかっていながら淫靡に耽るばかりの私たちが、これより獣に落ちないために、必要なカーテンだった。
「……え、なにこのセット……やば……」
「でしょでしょ? 実は紹介したかったんだよ」
一見なんの変哲もないミルクレープ……しかしどうやら手作り、後味の粘りが強いガッツリ甘い一品だけれど、たぶんエクアドル系と思われるさっぱりしたコーヒーがすべて包んで洗い流してくれる……こだわりだ、こだわりがあるよこれ。
絶品のコーヒーと絶品のミルクレープに挟まれて私まで絶品になっていると、机に両肘ついて組んだ指に顎を乗せた彼女が「そんなマイペースな感じだったっけ?」と苦笑していた。別れてからあの同窓会まで、それから更に今日まで、さて何年経ったんだか。仕事に慣れたあたりから肩肘張った振る舞いしなくなったなぁと思い返しながら、私は「こんなもんじゃなかったっけ」なんてとぼけてみせた。鼻で笑われる。黙ってコーヒーを啜った。
外から車の足音がさぁっと響く。楽しそうな子供たちの声がする。店内から誰かの恋愛相談が聞こえる。コーヒーの匂いを撹拌してちりばめるシーリングファンが唸っている。
「……変わんないね、そういうとこ」
カップから口を放して、私は首を傾げた。
「どういうとこ?」
「口が塞がってるときに、そうやって耳すませて周りに気をやるとことか」
「昔から私がマイペースな感じなのは、やっぱ間違いじゃなくない?」
「ううん、昔はそうでもなかったよ。……無理にあれこれ聞こうとしないとこも、変わんないね」
「……」
目を閉じてケーキを一口。……うん、美味しい。
洗い流すようにコーヒーで飲み下して、私は化粧気の薄い唇を小さく舐めて湿らせた。
「……いま、なんの仕事してんだっけ?」
「ほら、そういうとこ。……空間デザイナーだよ。先輩が目を掛けてくれててね、ようやく独り立ちできそう、って感じ」
「そっか、よかった」
「お陰様でね」
「……私はなんもしてないでしょ。でも、うん。おめでとう」
「それは明日また言ってよ」
「帰りにでもね」
「……やっぱりスピーチ頼めばよかったかな?」
「勘弁してよ。大学の友達とか職場の先輩とか、もっと相応しい人がいるでしょ」
彼女は目を細めた。シーリングファンが何度も回った頃、窓の外を眺めながらコーヒーに口を付ける私の耳に「……どうだろうね」なんて低い呟きが、ゆらりと触れて立ち消えた。
彼女が机に投げ出した手を組むのが見えた。
「あなたはずっとそう。人に興味がないよね」
「……ないわけじゃないよ」
私は嘘偽りなく誠実に答えた。
そう、ないわけじゃない。むしろ自分では他人のやることなすことに興味津々な不躾な人間だと思っている。でも、それを遠慮なく表に出していいわけじゃないのは小学生だってわかるだろう。
「私だって人に興味くらいあるよ。今の仕事……空間デザイナー、高校のときから夢だったでしょ? 叶ってよかったなぁって思うから聞いたの。あと、このセットも貴方が勧めてくれるのはどんなものだろうって興味を持ったから頼んだ。うん、無関心なわけじゃ……」
「無関心じゃないなら、私の旦那が誰かは知ってるの?」
からん、と氷が鳴いた。
「……ほら、その程度」
彼女は自分のアイスコーヒーを手に取って一口啜った。思ったより冷たかったのか小さく呻いて眉を寄せ、それでも一気に飲み干してみせた。
「大学でね、それなりに友達は作れたよ。職場でもまあまあ上手くやれてると思う。……隠し事なんか、高校のときに全部解消しちゃったからさ」
「……私との関係とか?」
「家族との関係とか」
彼女の手元で、また氷が崩れた。
私の家族は揃って音楽好きで、高じてグランドピアノまで備えてあったので、私がピアノを弾くのは当然だった。それを仕事にする気は毛頭なかったのもまた親譲り。
親の背中は子の目には未来に見える。たぶん未成年なら殊更顕著だと思うけれど、必ずしもその先に幸せがあるとは限らない。医者の背中を見て育った彼女は、私の指に違う未来を見ていたらしかった。
ある放課後。教室の窓際、後ろから二番目の日当たり良好な席。薫る風にふわふわと浮いた雲が頬染める空をぼうと眺めるばかりの私は、前の席から椅子を逆にして同じ机を挟む彼女に、ぽつんと言葉を投げてみた。
「メロディ思いつきそう?」
「うぅん……ダメそ」
夢はなくとも定められた将来への反発くらいはある。私が彼女から乞われたのは作曲指南だった。音楽同好会では楽譜を追って演奏するのが常だけれど、自分で作るのも楽しそうだから、らしい。実際作る側としてはそうでもないというか楽しみの種類が別なのではと思うものの、口にはしなかった。恋人と同じ趣味を持てるなら悪くないことだし。
とはいえ。
「そっちは?」
「ダメそー」
私たちは特段天才なわけでもない。こんなものだった。
なにも思いつかないので、私はとうとう彼女の髪をさらさらと掬って遊びはじめた。途端、きれいな眉を寄せて「もう、邪魔しないの」とぷりぷり怒る。当たり前か。
「あなたと違って作曲初心者だよ」
「まあまあ。無理に悩んだって出ないときは出ないから。気楽にやろ」
「……なんか、含蓄あるね。さすがコンクール受賞者……」
「あはは」
コンクール受賞者、それ以上でもそれ以下でもない。聞かれているわけでもないのに言葉が続いた。
「仕事にしたいってわけじゃないんだけども」
「そうなの? ピアノ上手いのに」
「食べていけるほどまで磨く意欲はないかな」
サン=サーンスやドビュッシーを弾くのに楽しさは覚えても、それで食べていきたいとまで思いはしない。自信の有無じゃなくて、私の音楽との付き合い方は生活に結びつくものじゃないというだけの話だった。明日の食い扶持があるに越したことはないけれど、持ち得るすべてを余すところなく使い切ろうと躍起になるほどでもない。惰性的と言われても、うん、否定はしないだろう。
「もったいないなぁ」
「趣味は所詮趣味だしね。……うん、そういうこと」
なんの気なしに打った相槌が、思ったよりしっかり腑に落ちた。
するとどうだろう。趣味として打ち込む分にはそう悪くないのが音楽だ。ピアノ以外にも興味は色々あるし、休みや在宅ワークの多い仕事が望ましい。
「将来は……どうしようかな。ウェブデザイナーとかも興味あるし、UIデザインも面白そうだし」
「……デザイン系に行きたい感じ?」
「いや、なんとなくビジョンが見えるくらいに知ってるのがそのあたりってだけ。両親のしてる仕事だから」
髪から耳へと指を滑らせる。ピアスホールもない可愛らしいそれを爪弾きながら彼女の鼻先に口付けして、くすぐったそうな彼女に聞いてみる。
「そっちこそどうなの、成績優秀者さん」
「……さぁね。これから先サボりにサボって壊滅させたら、とりあえずお医者さんにならないで済むだろうなぁ、ってとこ?」
「つまり模索中ってわけか。お揃いだ」
彼女は嬉しそうに微笑んで、私へ同じように唇を返してきた。
戯れに鼻先へ。押しずれて頬へ。流れ落ちて唇へ。思わず徐ろに立ち上がりながら、指を組みながら、支え合って息と唾液を交わしながら。
彼女の絡めた指、左手薬指の爪は今日も美しい藍色に染まっていた。愛おしくなって踊るように腕を引き、机を避けてくるりと彼女の隣に滑り壁に押し込んだ。夕日に焼かれないようカーテンを盾にして、私たちは陰の中でまたキスをする。
「ん……ふ……う、ん……」
「……息継ぎ、うまくなったね」
「はぁ……ぁ……おかげ、さまで」
付き合い始めてから一週間、たくさん、たくさんキスをした。背丈も、髪の長さも、鼓動の数も違う。同じなのは制服と性別だけ。百年の中の一瞬を少しでも貼り付けて揃えたら近づくだろうか。親の期待に反発しながらも努力できる、夢の標がなくても暗闇の中を歩める、普通の努力を積み上げられる美しい彼女に。
それを穢したくない。
彼女の爪に残る私の色を見ながら、胸中で言い聞かせた。
人生の長さを映画のフィルムにたとえた、ちょっとキザなラブソングを電子ピアノで歌い上げる。男性の曲だけれどハイトーンだから、女の私でもやりやすい。ちょっとだけかっこよく声を作って、新郎……なんだっけ、パンフレットに銀行員って書いてあったかな? ともあれ、その人が感情移入できそうな感じで。
ソロだからちょっとだけテンポの緩急を作ってダイナミックにしつつ、最後のフレーズは少し優しげに。
「……改めて、ご結婚おめでとうございます。お幸せにね。ご清聴ありがとうございました」
彼女に向かって微笑みかけると、一拍遅れて万雷の拍手が轟いた。
高級なホテルでやってるだけあって、来賓の数は結構なものだ。人望溢れる新郎新婦に招かれて、新郎の務める大手銀行の支店長やら有名企業の課長やらのお歴々から大学時代のそれぞれのサークルメンバーだのゼミ生だの……厳選はされているようだけれど、それでも誇張抜きに百人は超えているだろう。
ボロ泣きしていてコメントどころではなそうな新郎をそのままに、司会者が彼女にマイクを向ける。
「うちの旦那にぶっ刺さったみたい」
「見りゃわかるよ」
和やかな笑いが起こる。
「昔より歌上手くなったね」
「仕事の合間にボイトレ通ってるんだ。こうやって褒めてもらえる機会まで恵まれたし、やっててよかったわ」
「歌手になれるって! デビューとか目指さない?」
「目指さない目指さない」
覚えてるでしょ? 目を細めれば、彼女は自分の鼻の頭をちょこんとつついた。
私は音楽を続けていた。彼女が音楽同好会をやめても、進級してクラスが分かれても、放課後にギターもピアノも響かなくなっても、ずっと。
上手くなることが楽しかった。好きな曲をなぞることが心地よかった。他者の意思が介在する余地のない自己完結的な趣味は、そのまま私の性質を表していた。
畢竟ひとりきりで構わなかったのだ。あれから恋人ができなかったわけじゃない。友人も増えなかったわけではない。彼女は私を無関心だと評した。当たり前だ。恋人になるための恋人、友人になるための友人。入道雲がなくても夏の空は青いのに、その内側が雨なのか雹なのか、わざわざ気にするだろうか。
私の空は快晴だ。百合を編んだような白い塔はもうどこにもなく、まっさらな藍ばかり。もうなにもない。
何事かを彼女と話して、私は席に戻った。高校時代の親友枠として用意されたテーブルでしばらく談笑し、新婦の好物らしい見知らぬ料理をちびちび摘む。
余興はまだ続いた。知らない芸人のネタ。知らないマジック。知らない似顔絵。知らない人々によるスライドショー。
「……結婚、しちゃったんだな」
少しぬるくなった瓶ビールを今更開けて飲んでいると、司会が前に出てきた。余興もおしまいらしい。
「……さて、披露宴といえば最後はこれでしょう。ブーケトスを行いますので、どうぞ皆様、こちらから外へ」
「よっしゃぁ……取るぞ……!」
鬼気迫る顔で同級生がテーブルを立つ。他の面々が苦笑いしながら続く中、私も声をかけられた。
「あんたも行くでしょ?」
「……そうだね。ちょっと待って、飲みきっちゃうから」
「ゆっくり飲み歩きなさい」
「行儀わるぅ」
従う私も横着者である。
渡り廊下から外に出ると、綺麗に整えられた芝生と噴水、それから真っ白なチャペルがあった。誓いのキスを、神様は見ていたのだろうか。
ちょっと大きな人だかりに向かうと、その隙間に彼女の顔が見えた。無理に取る気はないので隅の方へ流れていこうとした矢先、目があった。笑顔だった。こちらも微笑み返すけれど、瞬く間に人垣に消えていってしまう。幻ではなかっただろうか。高校生の頃、何度も胸に刻んだ笑顔が重なっただけではないか。
ざわめきが静まって、高く、高くブーケが舞う。白と青の入り混じった美しい花束。段取りと違ったのか戸惑いの声すら上がる中、ぼうと見上げて——
「……えっ」
——風が吹いた。
まだ春だ。七分咲の桜から花弁をかすめ取って窓辺に置いていく風にピアノの音を返す。ポップロック的な四つ打ちのリズムで、どこまでも飛んでいくような推進力を帯びるキャッチーなメロディ。吹奏楽部の休暇日で誰もいない放課後の音楽室に、梅雨明けの風をイメージした音楽が88の鍵盤から吹き上がる。
傍らには、適当に引っ張り出した椅子にキラキラした顔であの子が座っていた。
「かっこいい……! 今のなんて曲なの?」
「
ほら、と譜面をゆびさすと、彼女は子犬みたいに寄ってきて顔を綻ばせた。ところどころのメモが明らかに違う人物のものだ。おそらくふたりで相談かなにかしながら書いたのだろう。微笑ましく感じたらしく、くすくす声を漏らした。
私が顔を見ているのに気付いて彼女は首を傾げた。ミディアムのエアリーボブがさらりと揺れる。
「どうしたの?」
「ん? んー……可愛いなぁ、って」
「へ!?」
ぼっ、と赤くなった彼女の左手を上から重ねる。綺麗な藍色に染まった爪に、私の百合色の爪を乗せて。互いの色。去年の今頃に友情の証として色付け合ったそれを見て、ふと思った。
「このネイルさ、塗り方変えてみない?」
「変えるって、ラメでも入れる?」
「違う違う。……左手の、薬指だけにするの」
彼女はきょとんと首を傾げて手元に目を落とし、やがて大きく目を見開いた。
「それって……もしかして」
何も言わずに重ねた手を握り込んだ。
「……私たちは、その、友達だよね」
「そうだね。今までは、ずっとそうだった」
「……」
彼女は俯いて、私の座るピアノ椅子の端っこに引っかかるように腰掛けた。
知っている。医者の娘として将来が定まっていること。それに抵抗を持ってはいないけれど、ときどき嫌気が差すことを。親の期待や女子高生としての生活どころか社会的な安全すら放り捨ててしまいたくなるけれど、それがただの好奇心と反抗心から来る破滅願望で、決して本気じゃないことを。
同級生に、片思いの相手がいることを。
知っている。トップの成績表を物憂げに見るのを。美貌に注がれる男子からの視線に困ったように俯くのを。恋愛相談が妙に遠回りで、それじゃあろくなアドバイスも出来ないと言っても口を割ってくれない頑固さを。しっかりものに見えて意外と幼く無邪気なことを。
上辺を繕っている私を、頼りに感じてくれていることを。
私でもいいじゃないか。
「私じゃ、ダメかな」
花弁がどれだけ散っただろうか。春風すら固唾を呑んで待つ静かなピアノの前で、私は彼女の真っ赤な耳を見る。
「ね。返事、ちょうだい?」
「……ずるいよ、それ……」
彼女は、狭い椅子から落ちそうな体を目一杯私に押し付けて抱きついた。細くて、弱々しくて、抱き締め返したらそのまま折ってしまいそうな背中。
「んっ……」
唇に、日差しより熱い温度。
鼓動が聞こえる。私のものか、彼女のものか、あるいはふたり融け合ってしまったのか、もうわからないほどに。
魂を流し込むように上から啄む。片目を薄く開くと、彼女は瞼をきゅっと閉じて震えていた。一層強く抱き締めて、その心を貪ろうと唇を交わす。
やがて、燃やし尽くした酸素を求めてどちらからともなく離れた。
「……あっ」
「わ、ちょっ……大丈夫?」
「……腰、抜けちゃった。どきどきした」
椅子から滑り落ちた彼女を抱え起こすと、ふやけた笑顔を返された。熱に浮かされた声で私の名前を呼ぶ。
「……今度は、そっちからして」
「……わかった」
ねえ。
私もさ、あれがファーストキスだったよ。
どきどき、したよ。
「……ん」
目を覚ました。
地元の路線、都市部から離れていくこの電車には平日午前中の利用者が少なく、私の乗っている車両には他の乗客がいない。冷房はついていなくて、いくつかの開け放たれた窓から吹き込む風が草香る涼しさを齎している。実家にも顔を出したくて、今日明日だけ帰ることにしたのだ。しばらくゆっくりして、週明けからはまた仕事である。
あのブーケトスは段取り通りなら最前列近くのご友人方に届くはずだったらしく、あんなに高く投げたのはもちろん、風に流されて離れた私にまで届いたのだって想定外だったらしい。文句を言うわけにもいかず複雑そうな顔をしたご友人方に、彼女は申し訳なさそうに照れ笑いしていたっけ。
ちょうど降りる駅に着いた。行きと違ってシンプルな白いワンピース姿の私は立ち上がって、キャリーケースと、ブーケの収められたバケットを手にする。白百合をベースにスターチスなどの青い花でまとめられた夏空のような花束。降車しながら、私は思い立って真ん中の一輪——一際大きくて、染料で藍色に染められた百合を抜き取った。
木造屋根が寝転がるひなびたホーム、去っていく快速、流行外れの自販機、やけに真新しいフェンス、高すぎる入道雲。夏に透かすように花を眺める。深く吸い込めば彼岸まで飛び込んでしまえそうな香りに目を閉じると、なにかが顔に落ちてきた。
ぱらぱら、からから、きらきら。次第に音を立てて、光を跳ねて、勢いを増す白い礫。
雹が降ってきた。
「あぁ……」
思い出す。彼女と初めてあったときのこと。
登校初日、教室で全員自己紹介していたときだ。窓際の最後列から二番目の彼女は、ふわふわした髪型のよく似合う優しい笑みを口元に湛えていたのだ。
友達になれたらいいと思った。
きっと素敵な人なんだろうと思った。
……いや、すべて後付けだ。
窓辺、雲が日を遮って薄ら青い影に教室が染まる中、サイアノタイプにただひとり総天然色で浮き上がった彼女に、一目惚れした。
それだけのことだった。
屋根の下に逃げ込んで、私の色に染まった彼女の花に面影を透かし見る。あの七月が砕けて降り落ちているようだった。風に照り返す夏の流星群に、あったかもしれない未来を思う。
藍色の百合にキスをする。
「……どきどきする」
優しい一輪に、まだ、恋をしている。