レースを描写する機会はしばらく後になると思いますが、
ここでキャラクターたちを掘り下げていくつもりですので、
お付き合いいただきたく存じます。
「は、自分も?」
朝、ホームルームが始まる前にグラウンドでストレッチしていたシンリョクメモリーは、突然の声に素っ頓狂な声を上げた。
目の前にはモノノフキッドとチーラヒメ。
話を聞くに、まだデビューが決まっていないキッド、それからジュブナイルポールが並走トレーニングをするという。それに参加してくれないか、ということだ。
当然、誰かと共に走ることで得られるものもあるだろう。しかし。
「悪いけど、遠慮する」
「お願い、キッドのためなのよ。友達なんでしょ?」
そう言われても、シンリョクは承諾しなかった。
足を延ばし、背中を伸ばし。四肢の感覚を確かめるように丹念にストレッチしてゆく。
既に数人のウマ娘が走っている様子が見える。遠くの方にはダイモンジの姿もあったが、こちらに気づいてはいても構う様子はない。
「自分は、キッドやライズとは違って、まだまだ力不足。役には立てない」
それに。とシンリョクは付け加える。
「あまり体調が良くないんだ。今だって、身体が鈍らないようにほぐすだけだし。走るのはちょっと」
「そうは見えないけど、じゃあ、無理に付き合わせるわけにはいかないな」
あっさりとキッドは引き下がった。
本人が体調不良だというのならば仕方ない。どうにも元気そうには見えるのだが、もし仮病だったとしても、走りたくない理由があるのだろう。
できれば多くの意見を取り入れ、また様々なウマ娘の走りを目の前で確かめたい気持ちもあったに違いないが、ひとまずはポールとの並走で何かしらのヒントが掴めるだろう。
ヒメの方も、キッドが諦めたのならばと無理強いすることはしなかった。
誘いに乗ってくれないと分かった二人は、さっさとその場を引き上げて教室の方へ向かってゆく。
その背中を目で追いながら、シンリョクはジャージの裾についた土埃を払った。
「……コホッ」
少し、咳が出る。
ただ、それだけ。熱があるとか、だるいとか、そういったことは特にない。
体調が悪いというのは言い過ぎかもしれないが、大事を取るに越したことはないのだ。
やはり、走り込みは控えよう。
その後もシンリョクは少しだけストレッチを続けた後、教室へ向かうのだった。
「ほんなら、八〇〇メートルな。目標は、五十五秒を切るタイムで走る。ええな?」
「分かった。ちなみに勝敗は?」
「負けた方がニンジン一本奢る、でどうや」
授業も終わって放課後。
日が傾くにはまだ時間がある。
約束していた通り、ジュブナイルポールとモノノフキッドはグラウンドにある練習用コースで顔を合わせた。チーラヒメも交えて並走の段取りを決めてゆく。
八〇〇メートルを五十五秒というのは、ウマ娘がデビューするに足る実力を身に着けたか否かを判断する基準だと噂されるタイムだ。
ちなみにこの速度は、実際にデビューしたウマ娘がレースで走る時のものに匹敵するので、並走とはいうものの実戦にかなり近い形。
キッドが「勝敗」という言葉を用いたのもそのためだった。
距離、時間を確認すると、ヒメは合図用の旗を持ってゴール地点へと移動する。
天候は晴れ。芝の状態は良。走りやすい条件がそろっている。
今回の条件では、走り出してすぐ左回りのコーナーに差し掛かり、直線もそこまで長くはない。ならば内側についたポールの方がやや有利にはなる。とはいえ、賭けもしたがこれはトレーニングの一環だ。勝敗を強く意識する必要はないだろう。
ゴール地点についたヒメがストップウォッチ片手に旗を上げる。
合わせてキッドとポールがスタートの構えを取った。
数秒の間。
旗が振り下ろされた。
同時に二人のウマ娘が走り出す。
お互いの実力を探り合いながら。
教室では、席に着いたままグラウンドの様子を伺うシンリョクメモリーの姿があった。
クラスメイト達はトレーニングや各々の用事のために出払っていて、今ここには彼女しかいない。
視線の先には、キッドとポールの姿があった。
並走というよりもキッドが前を走り、この後ろからポールが追いかけているようだ。実戦形式だろうか。
カーブを曲がってゆく。
(あの走り……そうか、キッドはそう走るのか)
何を感じたのか。
二人が直線を向いたところで一つ咳をすると、シンリョクは寮へ帰る身支度を始めた。
その脳内には、いつか彼女らと走った時、どう立ち向かおうかと描いて。
「ゴール! 二人ともお疲れ様。キッドは五十四秒七、ポールちゃんは五十五秒一。うーん、惜しい!」
展開としては終始キッドが前を走る形となった。コーナーを曲がりきったところからポールが追い上げにかかるものの、最後まで捕らえ切ることはできなかった。
ニンジンを奢るのはポールに決まったわけだが。
「どうだったかな、私の走り。今の並走でも、やっぱり違和感があったんだけど」
「うーん、そうやなぁ」
本来の目的は、互いの走りを間近に感じて、互いの弱点を指摘し合うことだ。勝ち負けではない。
問われたポールは額に指を当て、走っている最中に見た光景を思い返す。
「負けたウチが言うのもなんやけど、なんちゅうか、ヨレるクセがあんで。こう、フラフラ、っとな。走っとって姿勢が安定しとらんわ。それでもこんだけ速いんやから、大したもんやけど」
ポールが自分の腰に手を当てて、フラリと身体を揺らしながら足踏みする。
簡単に言えば、体幹が不安定だ、ということ。
指摘されて初めて、キッドは少し気づけたことがあった。脚を前へ出す時、身体がふわりと浮き上がるような感触を覚えたことがある。そして地面に踏み込んだ時には、どうにも踏ん張り切れないと感じたことも。
フラフラ、とポールは言うが、キッド自身が感じるものとしてはフワフワ、といった方が近い。
最大のヒントは、ポールの仕草にあった。
「そうやって、身体を揺すって走っているように見えた?」
「せやなぁ。なーんかこの辺が、ブレとるように見えてな」
アドバイスをするポール自身も、見て感じたことをどう伝えるべきか考えあぐねているようだったが。
そこにいち早く気づいたのは、二人の走りを見守っていたチーラヒメだ。
「もしかして、
「そうや、それや!」
ポールが手を打つ。
途端にヒメとキッドは、なんだそういうことか、後日整体にでも行こうなんて会話を交わす。
しかし。
「そんな甘いモンとちゃうで」
声のトーンを落としてポールが呟いた。
ウマ娘にとって、腰が不安定であるということがどれほど重大なことか、彼女には分かっていたのだ。
そして、真後ろで見ていたからこそ気づいたこともある。
「そんまま走れば、身体壊すで。それも、二度と走れんくらいにな。せやかて、ちょっとやそっとのマッサージ程度で改善はでけへん。あんま詳しいわけちゃうけど、治療レベルのモンが必要やないか」
大げさな、とキッドは笑った。
一方で、ヒメは幾分か真剣な顔つきでその話を聞いている。彼女にとってはキッドが全てなのだ。もしも、キッドの抱える不安が競争生命に大きく関わるのだとしたら、看過することはできない。
決してそれは、大げさなどではなかった。
「ゲホッ」
深夜。
ウマ娘たちは寝静まった頃。シンリョクメモリーは自分の布団を頭まで被った。
苦しい。
昼間は少し咳が出る程度だった。周囲から見れば体調が悪いようには思えなかっただろう。
しかし今になって、胸が締め付けられるような苦しさを覚えるようになった。まるで肺を鷲掴みにされたかのような、首を絞められたかのような息苦しさ。一回の咳が重く、その度に意識を持っていかれそうになる。
ルームメイトに心配をかけるわけにはいかない。こうして布団の中にいれば、眠っているライズエンペラーの耳に咳が聞こえることはないだろう。
だが、暑い。そして酸素が入ってこないために、苦しい。
「ゥ、ごほっ」
嗚咽も混じる。
どうにかこの夜を越して、翌日には体調も回復していることを祈ろう。
そのためには、多少無理にでも眠らなくては。
眠らなくては……。
「ッ! ゥェ、ゴッ、カハッ」
「ゴソゴソうるせーぞシンちゃ――しっかりしろ、おい!!」
喉に引っかかった痰と、内蔵ごと飛び出してきそうな咳に喘ぐと、途端に被っていた布団がはぎ取られた。
眠っていたはずのライズが起きてしまったのだ。
彼女は、まさかシンリョクがこんな状態になっているとは夢にも思わなかったのだろう。
顔を真っ赤にして、寝巻までぐっしょりになるほどの汗をかき、虚ろな目で意識も朦朧としている様子を目の当たりにして、ライズの表情は変わった。
「何ですぐあたしに言わなかったんだ。いや、ンなこたァ今はいい。待ってろ、すぐ助けを呼ぶからな!」
そう声をかけ、ライズは部屋を飛び出した。
バタバタと駆け回る音が届いてくる。寮母を叩き起こし、看病に必要なものをあれこれと用意しているのだろう。
シンリョクが最も避けたかった事態だ。己の体調のせいで、誰かに迷惑をかけることは耐え難いことだった。
しかし悶えて縋るように握ったシーツは乱れ、長身痩躯な身体はひと際細く見える。今更ケロっとした表情を作って変わりない風を装っても無駄だろう。
しばらくすると、ライズが濡れタオルを持って戻ってきた。何か色々と声をかけられたようだが、シンリョクにはそれを理解するだけの気力も残っていない。
ライズは汗を拭きとってやると、シンリョクが通学に使っている鞄を取り出した。中に入っているもの(といってもノートと筆記用具だけだが)を机の上に取り出すと、代わりにシンリョクの衣装ケースから着換えになるものを詰め込んでゆく。
ほどなくして、中山寮前に救急車が到着。
シンリョク自身は何が何だか分からないまま、病院へと搬送されていった。
もちろん、付き添いでライズエンペラーも同乗して。
数日後。
「え……。私が、レースに出れない?」
モノノフキッドの腰の状態を不安に思ったチーラヒメは、あまり乗り気でない彼女を強引に引っ張って病院を訪れていた。
触診にレントゲン。筋肉の付き方や骨のバランスを加味し、数々のウマ娘を診察してきた医者が出した結論は、
これはジュブナイルポールが指摘した通り、腰に不安が見られたから。筋肉のバランスが悪く、自動車並みの速度で走るウマ娘の力を支えきるには足りない。
かといって、筋肉トレーニングで腰を鍛えるわけにもいかず、こればかりは持って生まれた体質と言わざるを得ないそうだ。
「先生、何とか、キッドがレースに出られる体になりませんか。ターフを走ることが、そして、『天』を駆けるウマ娘になることが、キッドの、私の夢なんです!」
掴みかからんばかりの勢いでヒメがまくしたてる。
当事者であるキッドは、思いもよらない宣告に呆然自失。
狭い診察室で、医者は困ったように腕を組み、少し考えてから看護師に何か指示を出した。
「上手くいくかは分からない。これでダメだったら潔く諦めること。いいね?」
看護師が棚から一冊のファイルを受け取った医者は、そこに収められた資料を取り出す。
乱針手術。そう書かれていた。
医者の説明によると、今回であればキッドの腰に太く大きな針を刺す。この時にできる傷を治そうと体の免疫が働く。すると、針を刺す前よりもその部位が強くなる。これを何度か繰り返せば、腰が強くなって状態が良くなるかもしれない、とのことだった。
必ず成功するわけではないし、目論見通りになる保証もない。
それに、かなりの痛みや出血を伴うし、施術したら月単位の静養が必要になる。
「もし、その手術をやりたくないと言ったら?」
「レースに出ることは諦めて、違う生き方を選んだ方がいいだろうね」
暗い声でキッドは尋ねる。
医者はあっさりと返した。
沈黙。
不安そうにヒメがキッドの横顔を覗く。
キッドは俯いて考えを巡らせていた。
この治療には時間がかかる。もしかしたら、皐月賞やダービーといったクラシックレースまでに戦績を積み上げることができないかもしれない。
そうなれば、天を掴むという夢は破れてしまう。
しかも、月単位で静養するということは、その間に鍛えてきた筋肉も衰えることだろう。仮に施術が上手くいったところで、身体を再び鍛え直すのは茨の道。
さっさと夢を諦めて、故郷に帰るのも良いかもしれない。そういえば、デビューして間もなくトレセン学園を去ったウマ娘だって何人かいたはずだ。
「私は……」
ギュ、と、膝の上で拳を握る。
痛みも苦しみも、全てを受け入れ、乗り越える覚悟を固めて。
「それでも、夢を追いたい!」
乱針手術というのは、いわゆる笹針治療のことです。
ちなみに、この治療法は2022年4月から禁止となりました。
焼烙、ブリスター治療も同様です。
これらの治療方法というのは、馬の怪我や病気に合わせ、敢えて傷をつけたり出血させることで、この傷を治そうとする体の働きを利用して、
「傷を治すついでにこの病気も治っちゃったらいいな」と期待するものです。
こうした治療には、実は科学的な根拠がないとされ、言ってしまえば動物虐待に当たるとの考えもあって禁止となったそうです。
今回は作品に取り入れている乱針手術ですが、割と最近まで効果があると信じられていたようですね。
※ちょっとした日記
何頭かの引退馬に会ってきました。
一番の目的は、個人的に大ファンのタニノギムレット。ニンジンを献上したり、撫でさせていただいたり、大興奮でした。
心の中は限界オタクでした。
同じ牧場に静養されているローズキングダムやビービーガルダン、YogiboのCMでおなじみアドマイヤジャパン、スイープトウショウの息子であるスイーズドリームス、最強の1勝馬エタリオウ。彼らは間近で見たり触らせていただいたりしました。
スカーレットレディも近くで見たかったのですが、放牧地の遠いところにいて、カメラで最大望遠にしてもよく撮影できず。残念。
代わりに、レディとエルコンドルパサーの子であるヴァーミリアンには近くで会うことができました!
最近はウマ娘でダート路線の競走馬が次々と新規ウマ娘になっていますが、このヴァーミリアンもとんでもない成績の持ち主なんですよ。
それから、有馬記念を制したブラストワンピースにもお会いしてきました。馬房の中で首をゆらゆらと振っておりましたが、これって確かあまり良くない癖だそうで。
しかし名馬たちが引退して尚、静かに暮らしているというのは感慨深いものがあります。
またお金と時間を工面して、今度はこの作品でモデルになったお馬さんたちのお墓参りもしたいですね。
G1級9勝という、化け物です。