レースらしいレースは、次の次くらいになりそう、な気がしますので、
今はデビューに向けたシンリョクやキッドを追うような形で話をまとめていきます。
『やはり強い強い逃げて突き放す圧倒的なスピード! これまでの逃亡劇は伊達ではない、後ろは大きく離れてゴールイン! ダイモンジ、無傷の三連勝を達成しました。いやー、どうですか今回の走りは』
『これまでのレースと同じく、最初から先頭をキープしていますからね。逃げているというよりは、スピードがありすぎるために他のウマ娘と比較して前を走ってしまう印象を受けますね』
『ダイモンジはデビューから少しずつ距離を伸ばしてきましたが、一六〇〇メートルの今回、クラシックレースに向けてやはり主役になりそうですか』
『この距離で走るのはもったいないと思いますよ。どちらかというと、中距離や長距離のレースに適しているようにも見えますから、間違いなく来年のクラシックを盛り上げてくれるでしょう』
阪神三歳ステークス。
後に、J組の中でもティアラ路線へ進むことを申請したウマ娘のみが出走可能という条件が設定され、名も阪神ジュブナイルフィリーズと改称されるレースだ。
ティアラ路線とは、桜花賞やオークスなど、世間的な注目度が皐月賞やダービーに比べて落ちる代わりに、ティアラ限定のレースが数多く設定された進路である。ちなみにティアラ路線に進むウマ娘は耳飾りを左耳に、もう一方のクラシック路線に進むウマ娘は耳飾りを右耳につけるよう指示される。
この頃はまだ、阪神三歳ステークスに限って言えばそうした厳密な条件はなく、J組でありなおかつ一定の競争成績を収めたウマ娘であれば誰でも出走登録のできる決まりであった。
ラジオから聞こえてくるレースの実況を耳に、シンリョクメモリーは昼間の公園で足を伸ばすストレッチに励んでいた。
天気は晴れているものの、夜中に降った雨の影響で、未だに土がぬかるんでいる。
『結果が出ました。何と七バ身! 文句なしの――』
ラジオの電源を切ると、シンリョクは鞄にそれをしまい、ベンチに置く。
今度は軽く腕を抱えるようにして肩を伸ばし、腰を回して、その場で腿上げ。
足が着地する度に泥が跳ねる。ジャージが汚れるも、そんなことは気にならないようだ。
「よし」
一つ息を吐いて、公園の中を周るように軽く走る。
特に広くもない、一般的な子供向けの公園だ。滑り台もあればブランコもあるし、砂場や小さなアスレチックも。何人か小さな子供を連れた母親もここを訪れていたが、シンリョクはお構いなしだ。
一周、二周……。
少し走ってベンチに戻って、首を傾げながらまたストレッチ。
肺炎をこじらせて思わぬ長期入院することになったが、無事完治して退院してからというもの、走る感覚を取り戻すために人知れず自分のフォームを研究しているのだ。
「どうしても体がフラつく。体調は万全なのに、走り方のどこに問題が?」
走ってみると、姿勢が安定しない。
左右に揺さぶられるような、そんな感覚。
力強いコーナリングや直線でのスパートが思ったようにできないのは、これからレースに出ていくにあたって大きな課題である。
上体の角度や腕の振り方、目線、ストライドの長さ。様々に工夫をしてみるものの、どうもしっくりこなかった。
「わーん、たおれちゃったよぅ」
「あはは! ぼくのかちー」
子供達の遊ぶ声が聞こえる。
休憩がてら、また脚を伸ばしながら声の方へと目を向けた。
砂場だ。少し水を含んだ泥混じりの砂を使って、二人の男の子が棒倒しで遊んでいた。
砂で山を作り、そのてっぺんに棒を刺して、順番に山を崩していき、先に棒を倒してしまった方が負け、という子供の遊びだ。
「すぐたおれちゃうからつまんないよー」
「じゃあ、こうしようよ!」
男の子たちはまた砂山を作って、その辺に転がっていた木の枝を刺す。
何となくその様子を見ていたシンリョクは、直後に大きく目を見開いた。
彼らが、すぐに棒が倒れないようにと施した工夫。それはとても単純なことで、枝を深く山に突き刺すことだった。
「ほら、これだけやったら、たおれないよ!」
「ほんとだ! じゃあこんどはまけないぞ!」
そうだ。
簡単な理屈だ。
上体がヨレるのは、足元が不安定だからに相違ない。ならば、バ場に足先を食い込ませてバランスを取れば良いのだ。スポーツシューズによくある、スパイクと考え方は同じである。
「もう一度!」
シンリョクがまた走り出す。
今度は脚を大きく上げて、爪先を地面に突き刺すよう勢いよく踏み込む。
一段と大きく泥が跳ねる。
反動で体が前へ出る。しかし、フラつきはない。
跳ねて、突き刺し、飛ぶように、どんどん前へ、前へ。
これだ。この走りだ。
今の自分にとって理想の走り方は、ここにあったんだ。
生徒会室では分厚い冊子をめくりながら唸るハレルヤの姿があった。
そこに収められた資料には、まだデビューを果たしていないウマ娘の、トレーニング成績がファイリングされている。
季節は冬。もう年末に差し掛かろうとしているこの時期。翌年のクラシックを目指すウマ娘たちにとって、そろそろ初出走を果たしていなければ、皐月賞やダービーへの出走が間に合わないという頃合いだ。
八大競争として格付けされたレースは、「出走したい」と言えば簡単に登録できるものではなく、それまでの競争成績、着順などを考慮して出走登録が認められる。
当然、一度も勝ったことがないウマ娘はそもそも出走権がなく、一度勝ったくらいでは認めてもらえないのだ。
数度の勝利を経てようやく、といったところか。皐月賞や桜花賞は四月に行われるため、今デビューしてから毎月レースに出走し、その度に勝利するような成績でもないとURAからの承認は下りないだろう。
「ハーレちゃんっ!」
「おぉっ!?」
その肩越しに資料を覗き込んだウマ娘。
いつの間に入ってきたのか。今まで全く気付いていなかったようで、ハレルヤは素っ頓狂な声を上げた。
「ノックくらいしたらどうだい。あぁ、驚いた」
軽く咳払いして、ペタリと背後にくっつくそのウマ娘に離れるよう手をヒラヒラと振る。
栗毛は長く美しく、全身スラリとまるでモデルのような体型。凹凸の少ないシャープなシルエット。くすくす笑う様子は少女の愛くるしさと淑女の気品を兼ね備えていた。
「ごめんごめん、大変そうだから邪魔しないようにって思ったけど、ついいたずらしたくなっちゃって。あ、金平糖食べる?」
「いや、今は……」
そう、と残念そうに呟いて、ポケットから取り出した缶ケースから金平糖を取り出し、ポリポリと口に含む彼女。
会長から離れ、ケースを持ったまま後ろで手を組み、ぶらぶらと歩くようにして壁に掛けられたカレンダーの前へ。既に十二月のページが開かれている。
「J組の子たちの出走計画で悩んでるんだよね。じゃあさ、一緒にデビューさせたい子達がいるんんだ」
「また何か、良くないことを企んでいるんじゃないのかな、メーベル?」
溜息交じりに吐き出された言葉を聞くと、彼女――メーベルはまたニコリと笑んで、ステップを踏むようにまたハレルヤに寄り、顔を覗き込んだ。
「ハレちゃんにお気に入りがいるように、私にもお気に入りがいるの。それも二人。だけど一人はさっさとデビューしちゃったから……もう一人。ちょっと貸して」
冊子のページをパラパラとめくり、J-2組の未出走ウマ娘から一人の生徒を選んで指を差す。
その名を見て、ハレルヤは目を細めた。メーベルの企みを察したからだ。
「一応聞くが、誰と出走させようと?」
「分かってるクセに」
返事に困り、ふむ、と息を漏らす。ハレルヤは額に指を当てて考えを巡らせた。
考えをまとめながら、呟く。
悪くない案だ、と思う。しかしその二人を同時に出走させてしまえば、互いに悪い影響が出るかもしれない。当人たちだけでなく、もしかしたら周囲にも。何か保険をかけねば。だとしたらやはり適切な方法は。そうか、彼女も合わせて三人でデビューさせてみたらどうだろうか。
「はい、決まったでしょ」
「むっ!?」
伏していた目を上げると同時に、何かが口に押し込まれた。
反射的に噛む。ポリ、と歯切れの良い音と共に、甘味が舌の上に広がった。金平糖だ、と理解するのに数秒を要したが、そんなことよりも。
「今回は、私の勝ち。じゃ、それでよろしくねー」
息がかかるほど顔を寄せて、にこにこと勝利宣言をするメーベルの姿にドキリと心臓が跳ね上がった。
かと思えば、さっと身をひるがえして、手をひらひらと振りながら部屋を出て行ってしまう。
何だったんだ、と思いつつも。
「アイデア勝負をしたつもりはないが。ふむ、彼女の祝福に乗るのも悪くない、か」
冊子を閉じると立ち上がり、カンカンと足音を鳴らして生徒会室を後にする。
かつて一つのゴールを目指し、死闘を演じた相手も、今となっては気まぐれに生徒会室へ遊びにくるだけ。
一時期はメーベルを副会長に、とも考えたが、彼女はそういう性分じゃない。
きっと、あの時のリベンジを、今も晴らしたいと思っているのだろう。時として、意味のよく分からない勝負を吹っかけてきては、勝手に勝ち負けを決めてゆく。
もしも正式に生徒会のメンバーとして迎えてしまえば、自分のために生徒会を私物化してしまいかねない。
今回の提案も、彼女なりの挑戦状だったのだろう。何に勝ちを確信したのかまでは分からないが。
「よっし、こんなもんかな。今日はよろしくね、ダイモンジ」
「言っておくけど、本気は出さないよ。まだ本調子じゃないキミを打ち負かしたところで何の意味もない。いつか必ず……いや、クラシックの舞台で勝負しよう。だから今回は軽い調整をする程度。まずは走り方を思い出すことに徹するといい」
放課後のグラウンド。
秋シーズンのレースも終わり、年内の大きなレースといえば有馬記念を残すのみといったところ。
多少は学園敷地内の設備も融通が利くようになったことを幸いに、モノノフキッドはクラスメイトでもあるダイモンジに並走トレーニングを依頼していた。
腰の不調から入院し、乱刺手術を幾度も受けたキッドは、つい最近になってようやく退院を許された。というのも、骨格や筋肉のバランスに改善が見られたとのこと。
もちろん、しっかりと体を作って、走ってみなければ結果が出ているかどうかは断言できない。
いずれにしてもこれ以上入院期間を延ばしたところで、今以上に体が出来上がる保証はないのだ。
ストレッチを済ませたキッドは、スタートラインの前に立つ。
少し離れたフェンスの方から、ダイモンジに向けた声援が飛んでいた。相変わらずファンが多いらしい。当のダイモンジはそれに軽く手を振って、あまり気に留めない様子でキッドの隣に並んだ。
スタートの構えを取ったところで、クラスメイトの一人がストップウォッチを持って手を挙げた。
数秒の間。
手が振り下ろされる。
同時に駆け出す。
先を行ったのはダイモンジだ。
芝を蹴り上げ、力強い踏み込みで前へ体を押し出してゆく。
元より圧倒的なスピードで他のウマ娘たちを置き去りにしてきたのだ。トレーニングといえども、やはりその力は伊達ではない。
キッドは二バ身ほど後方から追走して第一コーナーへ。
「どうしたんだいキッド、やっぱりまだ体が戻っていないんじゃないのかい。少しペースを落とそうか?」
「いやいや、いいよ。このペースで走ろう」
心配したダイモンジが振り返るが、キッドは提案を断った。
今は自分の体と向き合う時。それに、こうして並走する機会もそうそうないだろう。
第二コーナーを曲がって、互いの距離は一定のまま。
バックストレッチを進むが、宣言していた通りダイモンジは多少手加減して走っているようだ。
一方のキッドは。
(走っていての違和感はかなり薄れた気がする。力をセーブして走る分には何も問題がない。それに、以前より軽く脚が上がる。やっぱり、以前とは違うみたいだ)
自分の体を確かめるように、一歩一歩踏みしめて走っていた。
かつての走りとは違う。体の中心に一本の芯が通ったようだ。疲労も少ないように思える。
第三コーナーが見えてきた。少しだけ、ペースを上げても良いかもしれない。
少し外へ持ち出して、ダイモンジを内ラチ側に見る。
ぐっと膝を曲げて、脚をバネにする要領で前へ。
体が跳ねるような足運び。一歩ごとに大きく体が前へ出る。しかし次の一歩はすぐに着地。軽やかに蹴り出す。そのフォームは、足の回転を速くし、短い間隔でどんどん地を蹴るピッチ走法に見えるが、それにしては踏み込む度に随分と距離が延びる。
前を走るダイモンジとの距離がぐんぐん詰まる。
第四コーナーに差し掛かる頃にはもうほぼ並びかけていた。
外へ持ち出したため、コーナリング中にはこれ以上距離を詰めることができない。
直線を向いた。
この、弾むような走りなら、もっと先へ行けるかもしれない。……が。
「あれ、え?」
より強く踏み込んだはずだった。さらにスパートをかけたつもりだ。
なのに。
ダイモンジを抜かすどころか、どんどん置いていかれる。
詰めたはずの距離が、離されてゆく。
気が付けば、ゴール地点。
駆け抜けた先、二人の差は四、五バ身にまで開いていた。
「ふぅ、どうだったかい? 少しは走り方の感覚は掴めたかな」
息を整え、額の汗を軽く拭ったダイモンジが振り返る。
振り返れば、悪くはない走りができたように思える。最終直線では思うような踏み込みができなかったが、ペース配分やフォームはかなり改善されている。
「うん。おかげで良い間隔が掴めたよ。はは、でも最後はダメだったなぁ。もっと鍛えるよ、今日はありがとう!」
キッドはニカッと笑って立ち去ってゆく。
そのタイミングを見計らってか、ダイモンジのファンがタオルを持って駆けよってきた。
改めて汗をぬぐったダイモンジは、キッドの背に視線を送る。
(退院したてであの走り。まさか、ね)
彼女が奥歯を噛み締め、タオルを握る手が震えていたことに気づいた者は、いない。