白い呼吸を繰り返し、ウマ娘は走る。
辺りはすっかり暗くなり、寮の門限も迫る頃。静まり返った学園のグラウンドに、彼女はいた。
ドドドと音を立てて駆け抜けるチーラヒメ。その表情にはどこか鬼気迫るものが滲む。
そんな姿を眺めながら、ゴール地点に立つ二人のウマ娘。その内の一人は、ヒメにとっては大先輩にあたるティアラ路線覇者メーベルだ。
「どう? あの子、結構いいでしょ」
ストップウォッチを片手にニコリと笑む。
もう一方のウマ娘は、フンと鼻を鳴らしてウェーブのかかった肩甲骨までの髪を指先に巻くようにいじってそっぽを向いた。
冬の学園では芝の香りも落ち着いて、頬を刺すような風が時折吹きつける。
気づけばヒメがゴールラインを超え、徐々に速度を落としながら二人の元へ戻ってきた。頭からは湯気が出ている。
「お疲れ様。なかなかのタイムだけど……もう少しペース配分ができるといいわね。最後にバテて、時計がかかってるわ」
ストップウォッチを見せるメーベル。
一定の距離ごとにしっかりとラップも取られており、ラストスパートをかけるべき最終直線ではほとんどスピードに乗り切れていなかった。
「そう、ですか。でも、もう少しスタミナをつけて、距離にさえ慣れてしまえば――」
「およしなさい」
己の走りと今後の目標を改めて設定しようというヒメの言葉を遮ったのは、ウェーブ髪のウマ娘だった。
「その程度の走りで、ティアラを目指す? 悪い冗談だわ。まだデビューもしていない、この距離でスタミナももたない。そんなことでは、そもそも八大競争への出走すら難しくてよ」
相変わらずくるくると髪を指に巻いて、どこか勝ち誇ったようにニタニタと笑う彼女。名をディアナといった。
ティアラへ進路を取ることを申請したウマ娘の中では唯一年内四勝を挙げており、この年におけるティアラ部門最優秀新入賞は彼女が獲得するだろうと誰もが認めている、実にとびぬけた実力の持ち主である。
そんな彼女に目をつけたのがメーベル。ここへ誘い出して、デビューを控えたヒメの走りを共に観察していたのだが。
「勉強になるからと言われて、どんな凄い子の走りを見せられるのかと思えば。確かに多少は速いことを認めてあげてもいいわ。でも、期待外れね」
ごめんあそばせ、と、言いたいことだけ言って、ディアナはさっさと立ち去ってしまった。
残されたのは呼吸を整えながら立ち尽くすヒメと、困り顔を浮かべたメーベル。
冬の風が汗を乾かし、体温を奪う。
ぶるりと震えるヒメに、メーベルは帰ろうか、と声をかけた。
「先輩。私、やっぱり……」
寮へ向かって歩き始めると、俯いて呟く。
ハッキリと実力不足を指摘されて、落ち込んでしまったようだ。
「あの子は間違いなく、あなたの世代ではティアラ最強に名乗りを上げるわ。でもいつかあなたは、あの子と競うことになるはずよ。そして食らいついていくの。勝ち負けじゃない、結果さえ出せればあなたにとっても、私にとっても夢に一歩近づけるわ。だから顔を上げなさい」
タオルで顔を覆うヒメは、小さく頷いた。
彼女にとって、レースでの勝敗にそこまで大きな拘りがあるわけでもない。それでも近頃は余念なくトレーニングに励んでいた。今までは幼馴染の世話を焼くことが最優先だったようだが、心境の変化があったのだろうか。
あるいは、誰かが変えたのか。
言われて空を見上げた。陽はすっかり落ちて薄暗く、遠くに夕日の残す橙が帯のように広がっている。いくらか星も瞬いて見えた。
「それでも、勝ちたいです」
「ええ、そうでしょうね」
走って、勝ちたい。
ウマ娘の本能的欲求に背くことはできない。その想いが呟かせたのか。
いや。彼女に限っては、そうではなかった。
「勝って、キッドの幼馴染として相応しいウマ娘に、なりたいです」
やはり。
チーラヒメの原動力は、モノノフキッドなのだ。
未だデビューしていないとはいえ、キッドは同世代の中でも頭一つ抜けた実力の持ち主として注目されている。
だからこそ。「あのスーパーウマ娘の幼馴染」と呼ばれて、キッドが恥ずかしい思いをすることがあってはならないと考えたのだろう。
そんな呟きを、メーベルは静かに頷いて肯定した。
数日後。
有馬記念も終わり、世間が注目する八大競争は春のクラシックまでお預けとなった年末。
間もなく学園がいわゆる冬休みに入ろうかというところ。
その発表は突然だった。
「はァ? おいおい学園は何を考えてンだ!」
「自分は構わない」
「構えよ、ちっとはよォ!」
昼休み。J-1組教室内ではシンリョクメモリーがプリントを眺めていた。
とうとう彼女のデビューが決まったのである。年が明けた一月の末、東京レース場の芝一四〇〇メートル、十八人立てだ。
しかし問題はそこではない。
シンリョクが手にする出走者リスト。そこには、覗き込んだライズエンペラーもよく知る名が記されていたのだ。
四番、チーラヒメ。そして十八番、モノノフキッド。
あの幼馴染二人が、シンリョクメモリーと共にそろってのデビューだというのだ。
「分かってンのか、この中で一着になれるのは一人だけ。一月の末に初出走ってンじゃ、クラシックに出るにゃ一度だって負けてられねェだろ。あんたか、キッドか、あのおヒメさんか、誰かは春を棒に振るンだ。それでいいのか!?」
胸倉を掴まんばかりの勢いでまくしたてるライズ。
幾度かの勝利、そして実績を積まなくては、そもそもクラシックレースに出走することが認められない。
常識的なローテーションで考えれば、敗北は即ち皐月賞への出走権を失うことと同義。
体の不調があったためにデビューが遅れたシンリョクとキッドだが、それにしたって同じ日に、同じレースでデビューするというのはどこか作為的なものを感じずにはいられなかった。
一方でシンリョクは、表情一つ変えることなく、小さな溜息を吐く。
「皐月賞、ダービー、桜花賞、オークス、菊花賞、有馬記念……あと、天皇賞が春と秋で二つ。八大競争はこれだけある。どれかに出走して、いつかどれか一つでも勝てたら、それで良い。皐月賞やダービーに拘りはないんだ」
「ダメだ、拘れ! なぁシンちゃん、あたしはな、あんたのこと結構好きなンだぜ? あのお坊ちゃんやキッドだって嫌いじゃねェ。誰が一番強いのか、クラシックで競いたいじゃねェか。あたしはダービー狙いだけどよ、三冠を賭けて全力でぶつかりてェんだよ!」
どこまでもドライなシンリョクと、興奮して机を叩きながら訴えるライズ。
教室に残っていた他の生徒は、そんな二人の様子をクスクスと笑いながら遠巻きに見ていた。
また、シンリョクが溜息。
「いずれにしても、これは学園が決めたこと。自分はこれに文句はない。後は力を出し切るだけだから」
リストをしまって、席を立つ。
ライズはというと納得いかない様子で、何かブツブツと言いながらどっかりと自分の席に腰を下ろした。
教室を出る。
昼休みの時間も限られているので、ひとまず食堂へ。
トレイに食事を受け取り、空いているテーブルを探す。と、そこへ。
「おや、シンじゃないか。今日は一人?」
声をかけてきたウマ娘がいた。
視線をそちらへ移すと、半分ほど食事を進めていたモノノフキッドの姿がある。いつもついて回っているチーラヒメの姿はなく、彼女も一人のようだった。
「まぁね。あ、ここいい?」
「もちろん。はは、やっぱり誰かがそばにいないとなんだか物足りないと思ってたんだ」
対面の椅子を引いてシンリョクはそこへ収まった。
しっかり手を合わせて、箸を取る。
「ヒメは?」
大して視線も合わせず、味噌汁を啜るシンリョク。
退院してからしばらく、そういえば二人が一緒にいるところをほとんど見かけない。
彼女らはルームメイトでもあるので、寮では共に過ごしているのだろうが、学園内ではキッドはいつも一人だ。キッドは時々ダイモンジを誘って食事やトレーニングをしているという噂は聞くものの、ヒメの方はいったいどうしているのだろう。
「この頃、避けられているんだよね。入院中もさ、最初の内はお見舞いに来てくれてたんだけど、途中から全然。退院の時は迎えに来てくれたけれど。さっきも会いに行こうとしたんだけど、教室にいなかったんだ」
「ケンカでも?」
「そんな覚えはないけど……」
以前、キッドはヒメに黙って北海道へ行ったことがあった。その時には何だかんだケンカになったもののすぐに仲直りしていたはず。
いつもヒメの方から追いかけまわしていたのに、いったいどうしてしまったというのだろうか。
そんな様子だったから、キッドもたまには一人になりたい時もあっただろうに、今は多少の寂しさを覚えていることが見て取れる。
「話し合ったりはしないんだね」
「いつも話をそらされちゃってね。でも、私も今は目の前のことに集中しなきゃいけない時期だから。部屋でも必要なことしか喋らないんだ」
目の前のこと、というのは言うまでもない。
翌月の末に控えている、デビュー戦のことだろう。腰の具合が良くなってからというもの、キッドは日々のトレーニングにかなり熱心に取り組んでいたのだ。
クラシックレース出走を見据えるにあたって、ここを負けるわけにはいかない。今後の運命を左右するといっても過言ではないからだ。
「お互い、同じレースでデビューだから。今の自分にできる精一杯でぶつからせてもらう。でも、キッドは、気にすることが多いだろう」
出走者のリストを受け取ったのは今朝のホームルームでのこと。
その場では担任がデビューの決まったウマ娘の発表があっただけで、リストを受け取った当事者しかどのレースに出走するかは知らないはず。
が、先ほど教室でライズが大いに騒いだおかげで、シンリョクとキッドが同じレースに出走することはその場にいたクラスメイトに知れ渡ってしまった。
とはいえ、同じクラスメイト同士では遅かれ早かれ一着を競うことになる。それが、この二人にとってはデビュー戦であっただけのこと。
シンリョクにとって、その覚悟はとっくにできていたのである。それよりも気がかりなのは、やはり話題に上げたヒメのこと。
「うん。きっと、彼女とレースに出るのは最初で最後になると思う。ヒメはティアラに進むからね」
「だとしたら、ヒメも、このデビューで勝てなかったら、桜花賞には間に合わなくなる」
しばし、沈黙。
サラダをつまみ、ニンジングラッセを頬張り、シンリョクはどんどん食を進めた。
一方のキッドは、シンリョクが席に着いてから一口も食べていない。
当人にしか理解できない、複雑な感情が胸の内に渦巻いているのだろう。友人と話すことによってその言葉にしきれない思いがより大きくなって、重くのしかかっているに違いない。
「キッドにとっての、“天”って何?」
「えっ?」
唐突に、シンリョクが問いかける。
何度となく問われてきた疑問だ。キッド自身、「天を掴む」と公言してきたが、その真意はいつもはぐらかしてきた。
答えは常に明確に抱いていた。そのはずだ。
だが今、キッドは言葉に詰まった。
「やっぱり。迷ってるんだ」
「いや、私にとっての、“天”は、その……」
おかしい。
気持ちが揺らいでいる。掴みたいと強く願ったものが、霞んで見えなくなってしまった。
シンリョクはそれをよく見抜いたようである。
「あと一か月ちょっと。デビューまでにもう一度、夢を見直すと良い。今のままだと、ヒメががっかりするよ」
ごちそうさま、と手を合わせてシンリョクはトレイを持って去ってしまう。
何も答えられないまま、キッドは自分の食事に目を落とし、飲みかけの味噌汁に手を添えた。
「……冷めちゃったな」