モノノフキッドがデビュー戦を圧勝してから二週間。
二月の末に次のレースを控え、キッドも、シンリョクメモリーも、チーラヒメもそれぞれ調整を進めていた頃のこと。
東京レース場には出走の時を待つ二人のウマ娘があった。
「キミとこうして争うことになるなんてね。クラシックまで勝負は預けるんじゃなかったのかい?」
「うるせェよ。ダービーにゃ、まず出走できなきゃ意味がねェ。何がどうなって成績が足りないなんて言われるか、分かったモンじゃないからな」
「ははっ、ではなおさら、ボクとの対決を選んだのは、失敗だったね」
得意気に話すダイモンジ。
一方で少し不機嫌そうにゲートを睨むのはライズエンペラーだった。
二人ともこの時点でレースに勝利した回数は三回ずつ。ライズは年が明けてすぐの京成杯を制しており、ダイモンジとはいうと三戦三勝の負け知らず。
無敗、と言えば聞こえが良いが、URAの評価自体は出走回数が多く、二着、三着とはいえ掲示板に残り続けたライズの方が高かった。
だから、現時点で皐月賞や日本ダービーで成績を理由に除外される心配などない。むしろ、誰もが納得の上でクラシックへと推されることであろう。
「違ェよ。今、ここで勝とうなんざ思っちゃいねェって」
腕を組み、目を閉じて、顔を背ける。
その胸の内には、これまで走ってきたレースの記憶が駆け巡っていた。
『逃げる逃げるソウルトレード、二番手以下は総崩れになったか追い上げるも伸びがイマイチであります。ブレイブエンブレム抜けてきた! 前走快勝のマッコウショウブ、三番人気ライズエンペラーこれは苦しい。エンブレム、ソウルトレードを捉えた、並んで抜け出したところでゴールイン!』
『直線を向いて長い府中の直線であります。団子状態の大混戦、誰が先頭かも分かりません。抜け出るウマ娘はおりません! 四〇〇を過ぎてサトリコンコが脱落してゆきます。一人、また一人! 熾烈なハナ争い、最後に残るのは、ライズだ、ライズエンペラーだ、今ここでゴール! 根性勝負を最後に制したのはライズエンペラーであります』
負けたレースも、勝ったレースも。
ここしばらく、気持ちよく走れたものはなかった。いつもペースが乱れ、自分の走りができないまま、ようやく終わったと思った先に結果が待っているだけだった。
その影には必ずあのウマ娘の存在があったのである。
サトリコンコ。後方を走りながら全体のペースを操り、他のウマ娘を疲弊させ、コース取りや仕掛けのタイミングを狂わせ、レースそのものを搔き乱す走りが特徴。彼女自身、このところ勝ちを拾えていないようだが、どちらかというと展開を操ることに快感を得ているようにも見える。
ライズは、初めて彼女と対峙した時から、出走者リストの中にサトリコンコの名があるだけで胃を掴まれた感覚を覚えるようになってしまった。このレースにサトリの姿はないが、これは狙って出走登録をしたからに他ならない。
例えそこに、J-1最強格と目されるダイモンジが出走していようと。これに挑む方が、よほど気持ちの良い走りができるのではないかと感じたからだ。
二月も中盤。クラシックの開幕までもう時間がない。少しでも自分の走りを掴んでおく必要があった。
ゲート入りが始まる。たった六人の東京クラシックステークスが始まろうとしていた。
「こっち、こっちです!」
「なんや急に引っ張りおうて。ちょいと、許してくんなまし。あ、どうも、失礼」
一方、観客席。
このレースを一目見ようと、客の入りは上々だった。ダイモンジファンが声援に駆け付けたのはもちろん、ライズエンペラーだって人気では負けていない。むしろこの二人が人気を独占し、三番人気以下とは大きな人気投票の差があった。
いわば世間の目から見るに、二強対決。
サトリコンコは顔見知りに手を引かれ、スタンドを前へ、前へとつんのめっていく。他の観客にぶつかったり、足を引っかけたり。その度、律儀に謝るものの握った手に引かれるのだから仕方がない。
「だって、ライズさんが、ジュニア級で一番強いって言われているダイモンジさんに挑むんですよ。ちょっとでも近くで応援したいじゃないですか!」
「そない言うても、わっちは応援するつもりなんて……」
しかし。あっという間に最前列。ウマ娘としても小柄な二人にとって、観客の隙間を縫って前へ出ることはそう難しいことでもなかったようだ。
隣に並ぶのは、おさげが愛らしいホッポウセブン。スタンドの壁に手を乗せ、身を乗り出すようにして出走者の姿を探していた。
サトリは、彼女に移した視線を下へ下へと送る。おさげのウマ娘は、左足に包帯を巻いていた。脛のあたりを保護し、隙間に保冷剤のようなものが押し込められている。トレーニング中に起こしたケガだと聞いた。
こんな脚で、あれだけグイグイと引っ張って前へ出ようとしていたのだから、よほどこのレースを自らの目で見たいらしい。
所属するクラスが違う関係で、普段学園内で顔を合わせる機会は少ないものの、ターフでは幾度となく競い合った相手だ。ライバルとして認めないわけでもない。
「ライズはんは、よう強ぉなりんした。せやけどなぁ、わっちが勝てたんは、函館で走った一回きり。いつかは超えたい、超えたいと思いつつ、様々に策を巡らせて、よぉ引っかけた思うても、そもそもライズはんが持ってる力でねじ伏せてきよる。わっちが一番苦手なタイプなんよ」
「だから、ライズさんは凄いんじゃないですか!」
無邪気に、セブンは笑う。
心の底から慕っていて、噓偽りなくライズエンペラーを尊敬しているのだ。
その気持ちを共有したくて、ここに誘ったのかもしれない。
あまりにも純粋な彼女の気持ちに、サトリは何となく、触れてはいけないような気がした。
「凄い……。確かに、凄いなぁ。もうわっちらじゃ、アレには勝てないんやろなぁ。せやから、今は。イジワルするんが精いっぱいやわ」
そこまで言って、何かを思いついたのか。
サトリは静かに口角を持ち上げた。
『六人、ゲートに収まりました。東京クラシックステークス……スタートしました! ぽーんと飛び出したのはやはり行きます一番人気のダイモンジ。他五人は一塊になって控えます。注目のライズエンペラーは三番手付近、まずは様子を見ようといったところでありましょうか。先頭からおしまいまで十バ身もない、ギュッと詰まった展開になりました。コーナー抜けての向こう正面、早くも隊列が固まろうかというところ』
逃げを打ったダイモンジ。合わせてスタンドから歓声が上がる。
後方集団は位置取り争いに決着をつけぬままスタートのコーナーを抜け、ライズは三番手、四番手辺り。内につけて走る。その外並んでゼッケン五番のウマ娘。彼女と展開を争う形だ。
(そんなところで牽制し合っていて、このボクに追いつけるとでも言うのかい、ライズくん?)
ハナを切るダイモンジには、後方の様子が手に取るように分かっていた。どの程度のペースで走るべきかを瞬時に割り出し、己が勝利するビジョンを脳内に描く。
ただ。今回の競合相手であるライズエンペラーは、いつ何をしでかすか分からない不気味さを備えているのだ。油断するわけにはいかない。
バックストレッチを駆ける間、これといって展開に変化はない。ダイモンジに続く五人のウマ娘たちは、距離を詰めるでもなく離れるでもなく。己の仕掛けるタイミングを計っているようだった。
第三コーナーに差し掛かる。
ライズはほんの少しだけ前へ踏み込んで、並走する五番のウマ娘の前を横切るようにして外へ持ち出した。そこから少しずつ少しずつ、進出してゆく。
(簡単にゃ逃がさねェぜ、お坊ちゃんよ。直線向いてからが勝負だ!)
(やはりここで仕掛ける体勢に入ったね。いいとも、キミの挑戦、受けて立つさ)
『第四コーナーではまだダイモンジ先頭、ダイモンジ先頭。後続との距離を引き離しにかかりますが、外を回りこんでやはりこのウマ娘、ライズエンペラーが猛然と追走! 坂を駆けのぼって行きます!』
直線を向いた。
ここからは根性比べ。四〇〇メートル以上の長い道のり、高さ二メートルに及ぶ上り坂。気力の続いた方が勝つ。
いかに苦しかろうと、勝利の瞬間を奪い取った快感は何物にも代えがたい。
それに。ライズにとって、これほど純粋な力同士のぶつかり合いは久しいものだった。世代最強の称号を得た貴公子様に一泡吹かせる、またとない好機なのだ。
「ぬぉぉォォオオオオッ!!」
坂を半分ほど登ったところ。ライズは足にありったけの力を込めてラストスパートをかける。
先を行くダイモンジに並びかける。もう目の前にまで迫っている。
届く。そうだ、届く……!
「ライズはーん!」
声が響いた。
スタンドから。どこかで聞いたような、少しおっとりとした、それでいて嫌味のような呼び声。
ついそちらへ目が引かれる。
客席の最前列でニタニタと笑みを浮かべて、肩のところで小さく手を振っているウマ娘があった。サトリコンコである。
「てめェッ、キツネ! 何でこんなところに……ッ、やべ、それどころじゃ!」
一瞬の隙が命取り。
客席に気を取られた束の間。ハッとして前を向くと、あれだけ距離を詰めたはずのダイモンジはトップスピードに乗ったままどこか余裕のあるフォームで走っている。
気を取り直してもう一度スパートをかけるも後の祭りで。
『一時はダイモンジを追い詰めたライズエンペラー、しかしここから縮まらない。ダイモンジ譲りません。半バ身の差を保ったままゴールイン! 三番手以下を大きく離した叩き合いを制したのは――』
「なにが、叩き合いだ……っ」
息を切らせて実況席の方をギロリと睨むも、そこに怒気が滲んでいることに気が付いた者は少なかった。何しろ、観衆の注目は一着で駆け抜けたダイモンジに集中していたのだから。
もう少しで並べたというのに。ひょっとしたら追い抜けたかもしれないというのに。
そうだ、あのウマ娘だ。ここからという時に余計な茶々を入れてくれたサトリコンコだ。
視線を巡らし、スタンドからもう一度彼女を探す。ほぼゴール版の正面に近い位置でニタニタとした笑みを顔に張り付けたサトリを発見するのは容易く、その姿を確認したライズは一目散に駆け寄っていった。
「おやまぁお疲れさん。やっぱり相手は最優秀新入賞、一筋縄ではいかへんなぁ」
「冗談じゃねェ、誰のせいだと思ってやがンだ!」
「わっちはただ、声援を送っただけのこと。贔屓のウマ娘さんを応援するのが、どうしていけないん?」
あっさりと言い返され、ぐぬぬと唸ることしかできないライズ。
しかしサトリはこうなることを分かっていたに違いない。
これまで何度も同じレースを走ってきた。ライズは着実に実力をつけ続け、それこそひょっとしたらジュニア級の代表にも追いつこうかという脚を見せるまでになっている。到底、正面から挑んで勝てる相手ではないとサトリ自身気が付いているのだ。
だからこそ、サトリは己が勝利することよりも、レースを支配することに快感を見出しているのであろう。
ライズがそうしたかく乱を好まないというのは承知済み。顔を見せれば何かと突っかかってくるわけで、レース中に自分が呼びかければ集中力を失うであろうことは容易に想像がつくのだ。
「あ、あのっ、ライズさん! さっき、ですね。レース中にサトリさんが言っていたんですけれど」
「これ、おさげさん。それは内緒ゆうたでしょうに。バラしたらいけませんわ」
サトリの隣に控えていたホッポウセブンは、険悪な空気を変えようとでも思ったか、身を乗り出すようにして口をはさんでくる。
それをサトリは諫めるが、彼女はおかまいなしのようで。
「ダイモンジさんの走りなんです。最後の直線で実は……」
ここまで言ってしまえば、もう止めtることはできまい。
いや。サトリに止める気はなかったのだ。ニタリとした笑みを浮かべるだけで、「まぁ、聞いておきなさい」といった様子。
セブンが続けた言葉。
聞いて、コースを振り返る。
長い直線、緩やかながらも高低差の大きな坂。
客席からレースを搔き乱そうという目で見ていたからこそ見つけられた、ダイモンジの弱点がそこにあった。
【快勝!ダイモンジ負けなしの四連勝】
【東京CSダイモンジが制する】
【ダイモンジ圧倒的逃亡劇】
翌日に新聞には、華々しくダイモンジを称える見出しがついていた。
目についた新聞を片っ端から買いあさり、当事者であるダイモンジは寮で記事をスクラップしてゆく。
シワにならないようマット紙に張り付け、そのまま書類用封筒へと入れていった。
ふと、手が止まる。
どの新聞社も、この勝利は圧勝である、という見解だった。鮮烈に、そして華麗に。完璧な勝利だと。
ただし、一社だけ見解の違うところがあったのだ。
【ダイモンジ辛勝】
自分の名前が見えただけで手に取り、買い求めてきたのだから、中身まではしっかりと読んでいなかった。だがこの見出しは、他と違う。
そしてドキリと心臓が跳ね、首を絞められるかのような息苦しさが襲ってくる。
すぐ隣には副題がついていて。
【半バ身差の猛追!ライズエンペラー今年のクラシックに名乗りを上げるか】
自然と、新聞を持つ手に力が入る。
誰の目にも余裕の勝利に見えるよう走ったはずだ。苦しい顔なんてしたつもりはない。
結果としては確かに半バ身差だが、いわゆる僅差圧勝として捉えられるはずだった。
そうだ。この記事はただ着差だけに注目したに過ぎないはずだ。どこの新聞社も一着にばかり注目することだろうと見越して、二着に食い込んだライズエンペラーに焦点を当てて他社との差別化を図ったに違いない。
ならば。わざわざこの新聞をスクラップにして残しておく必要などないはずだ。
時計を見る。もうそろそろ騒がしいルームメイトが帰ってくる時間だ。
わざわざ集めた新聞を見つけられては、どんな噂をたてられるか分かったものではない。
急いで散らばった新聞紙をまとめて紐で縛り、スーツケースの中へ隠す。
次のレースまでに処分する算段を立てながら、スクラップを入れた封筒に糊付け。送り先の住所は北海道であった。
本編ともいえるクラシックの開幕までは、もう数話ほど置かせてください。
キャラクターが増えてきた関係で、掘り下げておくべきことが次々と出てきたものですから……。