「ねぇ、キッド。何それ、新聞?」
昼休み。モノノフキッドは幼馴染のチーラヒメと食堂で過ごすのが日課になっていた。
二人はクラスこそ別だが仲が良く、このことは周囲も公認するほど。
しかしその実態は少し違っていて、キッドの行く先々にヒメがついてくるのが本当のところ。
トレイに食事を盛って席についた時、キッドは鞄の中から折りたたまれた新聞を取り出して見せる。そこには翌日開催されるレースの枠順が記載されていた。
札幌レース場第一レース。この二枠二番に収まるウマ娘を指さして。
「そう。また出るんだ、彼女が」
ライズエンペラー。二週間前のデビュー戦では勝利を逃した、J-1組のウマ娘。
それが、中一週で再び出走するという。
実はメイクデビューで勝てなかったウマ娘がこの厳しいスケジュールでレースに出ること自体は、そう珍しくない。というのも、この頃の規定としては、デビューから一定期間内のレースであれば何度出走してもデビュー戦として扱う、というものがある。つまり、初レースを敗北しても、二回目のレースで勝つことができれば、デビュー戦に勝利した、と見られるのだ。
「前回負けてしまったのは私だって悔しい。クラスメイトだからね。だから、明日は勝ってほしい。でも……」
「心配しすぎよ」
ヒメはキッドの不安を一蹴して、少し不機嫌そうに箸を取った。
サラダを一口放り込むようにすると、目線だけで「新聞をしまえ」と訴える。
しょんぼりしたように目を伏せて、キッドは鞄に新聞を押し込んだ。まるで母親に叱られた子供のように、食事にも目を向けることできずに居心地が悪そう。
「私のクラスからも同じレースに出る子がいるの。でも、私にとってはその子が勝っても、キッドのクラスの子が勝っても……二人とも負けたとしても、構わないわ」
「それは、少し薄情じゃないかな」
「いいえ」
呟いたキッドの言葉に、ヒメはピシャリと返して、わざと音を立てるように箸を置いた。
こっちを見ろ、という言外の圧力を感じてか、キッドが顔を上げる。
「私は、キッドがレースに出て、キッドがカッコよく勝つところを見たいの。それだけ。キッドが、自分の出ないレースに注目して、そこのウマ娘の心配をしているのが、私は許せない」
わがままだ。
ヒメにとっては、キッドが全てなのだろう。それ以外のことは、どうでもいいのかもしれない。
だからこそ、キッドが自分以外のウマ娘に「よそ見」することが気に食わないのだ。
ウマ娘同士にしても、いやウマ娘同士だからこそ、何か重たすぎる感情がそこにあった。
「それとも。その、ライズなんとか、ってウマ娘。キッドのライバルにでもなるの?」
言いたいことを言って少し溜飲が下がったのか、いくらか表情が和らいだヒメが再び箸を持つ。相変わらず口に運ぶのはサラダだった。
「……うん。そうだね、ライズエンペラーは、ライバルだ」
気持ちに整理ができた様子のキッドがようやく食事に手をつける。ライズエンペラーと己の関係、彼女に対する感情を頭の中で言語化しつつ、味噌汁を啜った後、グラッセしたニンジンの刺さるハンバーグを箸で切り分けた。
「ふーん」
気のない相槌を打ったチーラヒメ。
この時間の食堂はいつもガヤガヤと騒がしいものだが、いつの間にか随分と静かになっていることに気づく。
さっと目線だけで周囲の様子を探ったヒメは、自分たちが注目を集めていたことを悟った。
食事をしながらケンカをしているようにでも見えたのだろうか。
それはいけない。ヒメにとって、そのように思われることだけは、あってはならないのだ。
「だったら、心配するのは間違いよ」
ハンバーグを口に運んでいたキッドがヒメと目線を合わせる。キッド自身は周囲の注目を浴びていることに気づいていないようだった。
「ライバルなら、無事に勝って帰ってくるって信じてあげなくちゃ」
七月も中旬に入った頃。
曇天の札幌レース場は前日に降った雨の影響で、ダートのバ場状態は不良と発表。まるで水田のようだ。
少し汚れのついた体操服を纏って、ライズエンペラーは控室を出てパドックへの道を歩む。
二度目のレースだ。ここを逃せば、デビュー勝ちの称号を得ることは叶わない。
あの日、逃げ切り勝ちをもぎ取って、わざわざ控室にまで挨拶をしに来たホッポウセブンの緊張した笑顔がちらつく。
レースを楽しむ心構えは、ライズの価値観にはなかったものだった。勝利か、敗北かの二元論として捉えていた気がする。
しかし、今は。
「待っとけよ、すぐに追いついて、リベンジしてやる。この――」
「ライズエンペラー様を見とけってんだッ!」
パドック。
ステージの上で見栄を切ったライズエンペラー。ここはその日までの仕上がりや、レースに向けるモチベーションの高さを見せる場である。
マントを羽織って登場し、ここぞというタイミングで脱ぎ捨てて己の肉体を披露する瞬間には、時として歓声すら上がるほど。
そのため、応援に駆け付けたファン、マスコミも特に注目する場面であるのだが。
『お知らせします。第一レース、一番カスミステルシップは、急病のため出走取消となりました』
そういえば。先にパドックに現れるはずの一番枠に指定されたウマ娘の姿が見えなかった。あまり順番など気にしていなかったライズは、せっかくの啖呵が邪魔されたと感じてふくれっ面をしながら、マントを拾ってさっさとステージ奥へと引っ込んでしまう。
本バ場へ移動しようと地下道へ。ここは“はなみち”と呼ばれ、観客も入ることが可能な空間。これからレースに赴くウマ娘に直接声をかけたり触れ合ったりすることができる場でもある。
二週間前と同様、客席に人はまばらに見えたが、こうして少し詰まった空間になるとそれでも多くの人が集まっているようにも見える。格の高いレースが開催される時には観客でひしめき合うのだろうが、午前中に行われるメイクデビュー戦だということを思えば、よく人が集まった方だろう。
「ようよう、パパーッと勝ってきてやるからよォ、応援ヨロシクちゃん」
ひらひらと手を振りながらはなみちを進むライズだが。
「こら、キミ! 勝手に抜け出したらいかんだろうが!」
「い、いやです。私、レースに……ここで、勝たなきゃいけないんです」
後方。パドックに繋がる通路。控室と繋がる丁字路になっているあたりで、何かもめる声が聞こえてきた。
振り向いてみると、警備員らしき男性たちが誰かを取り押さえようとしている。三人がかりだ。
右手や肩を掴まれ、それでもパドックの方へ向かおうとしているのは、一人のウマ娘。白いゼッケンには、一の数字。
あのウマ娘が先ほどアナウンスにあったカスミステルシップだろうか。
「かわいそうになぁ」
「お腹を壊したらしいね。緊張しすぎたんじゃないかな」
「あの子、二週間前にも走ってたよな。ほら、そこのライズエンペラーが走った次の日」
「あの時は一番人気で着外。ここで結果を出さなきゃってプレッシャーもすごいんだろう」
騒ぎを目にした観客たちが口々に囁き合う。
ライズの耳に届いた範囲の情報から推測するに、前走での惨敗から、デビュー戦勝利の評価を得られるラストチャンスとなる今回のレースにかける思いのあまり、体調を崩したようだ。見てみれば、左手で腹部を押さえているように見える。
大事には至らないようだが、この状態ではまともに走れないと医者が判断したのだろう。
さっさと本バ場へ向かおうと思っていたライズだが。
「おい、アンタ」
気づけば踵を返し、レースを諦めきれずにもがくカスミの下へつかつかと歩み寄っていた。
顔面蒼白なまま見上げるような姿勢で振り返る彼女に。
「勝ちたくて走るンなら、まずは体を管理しろ。そんな状態で出てこられても、こっちとしたって迷惑なんだよ」
「だ、だけど、うぅ、私のデビュー勝ちが……」
「ハッ! 勝てる気でいンのか!!」
カスミの返事を、ライズは笑い飛ばした。
誰がどう見ても、体調が悪いです、とても全力で走れません、といった様子なのに。このカスミステルシップというウマ娘は勝利するつもりらしい。
「ナメんのもたいがいにしろ。あたしはな、そんなボロボロのウマ娘にやられてやるほど間抜けじゃねェぞ!」
怒鳴りつけられて黙り込む。
誰だって、負けたくて走るわけじゃない。目指すのは勝利。その気持ちはどのウマ娘にとっても共通のものだろう。
だからこそ。走ることもなくレースを終えることは、敗北以上に惨めさを覚えるものなのかもしれない。外から見れば今後生きていく上で大切な英断とも取れるかもしれないが、当事者の心情はそう簡単に割り切れるものではない。
「それでも、私……」
腹部に添えていた左手を握り込み、とうとう涙まで流すカスミ。
一方のライズは苛立ちが募ったと見えて片眉を吊り上げ、奥歯をギリと噛みながら。
「ガタガタ抜かすな!!」
カスミに掴みかかった。
『あいにくのバ場状態となりました札幌レース場ですが、一番のカスミステルシップ出走取消のアクシデントもあり、波乱の展開となりそうですね』
『これで五人立てとなったわけですから、ダートの一〇〇〇メートルでどういったレースになるか楽しみですね。今回は二組のウマ娘たちが再戦という形になりますか』
『二番ライズエンペラーと三番ブロッサムベースは二週間前のメイクデビューで顔を合わせていますね。それから五番イレブンスノウ、六番ハナブサヴァジュラですか』
『メイクデビューではありますが、出走ウマ娘が全員二走目ということもあって――』
中継ではアナウンサーらが出走までの時間を稼いでいる内に、ゲート入りは着々と進んでいた。
空となった一番を飛ばし、二番の枠に早々と収まったライズはしきりに体操服の裾を伸ばして整えるようにしている。ダートというより沼のようになったコースだ。走り終える頃には真っ黒になっていることだろう。
目を閉じ、精神統一。今回走るメンバーは、デビュー勝ちの称号を得る最後のチャンスとして出走しているウマ娘ばかりだ。気を抜くわけにはいかない。
距離は前回と同じ。あの日の敗北から得られた反省さえ生かせば、勝機は必ずある。
ガシャ。
最後のウマ娘がゲートに収まる音。
パッと目を開いたライズ、他の出走者たちも一斉にスタートの態勢を取る。
『スタートしました!』
実況のアナウンスと共に五人のウマ娘たちが飛び出す。
先頭は一番人気のハナブサヴァジュラ。これから二バ身ほどおいて二人のウマ娘が並んで追走。さらに一バ身差でライズエンペラーはここ。最後方から遅れてブロッサムベースといった出だし。
隊列が整った頃には第三コーナーが見えている。
前回とは違い、ぬかるんだコースは一歩ごとに足が食い込み、またとても滑りやすい。
慎重に走らねば大きな事故になりかねないだろう。
それに。
「うわっ!」
「ちょ、くぅ……」
二番手、三番手のウマ娘がしきりに顔をぬぐっている。
先頭を走る子が跳ね上げる泥が顔にかかって仕方ないのだろう。
それでも、ライズエンペラーは前を走る三人の位置取りに鋭く目を光らせていた。
仕掛けるタイミング、コース取りが勝敗を分ける。こんな泥に気を取られて、チャンスを見逃すわけにはいかない。
気づけば第四コーナー。
先頭のハナブサヴァジュラが少し外へ膨らんだ。追走する二人も同様、安全な位置を選んだようだが。
「待ってたぜェ!!」
ギラリと不敵な笑みを浮かべたライズは、泥を蹴り上げてインコースをついて一気に加速態勢に入った。
『ここで動きましたライズエンペラー! しかしこの不良バ場で危険な内ラチ沿い、コースをものともしないとんでもない脚で追い上げる!』
実況がこだまする。
わずかな隙間を縫ってでも、多少の無理をしてでも、最短距離を選ばなければ、この条件での勝利は難しい。
顔も体操服も真っ黒にしながら、駆け出したライズエンペラーは止まらない。
「先行くぜ! オラオラァッ!!」
「わ、私だって……!」
「無理ぃ!」
グイグイと前へ出ていくライズ。
他のウマ娘たちもつられて加速していく。ブロッサムベースは出足の遅れから弱音を漏らすものの、それでも必死に足を動かしている様子だ。
直線を向いた頃には、ライズエンペラーが二番手。先頭とは全くと言ってよいほど距離がない。
『先頭ハナブサ、ハナブサ! ライズエンペラーが強引に迫る! 内へ切り込んでシダーブーケ、ここで抜き去ったライズ! シダーブーケが突っ込んでくる!』
すぐ後方、必死に追ってくる音が聞こえる。
もう前には誰もいない。足がダートに食い込むが、逆に蹴り上げる力が増しているような感覚だ。
そしてゴール版。
『勝ったのは二番ライズエンペラー。真っ黒になった体操服をたなびかせ、勝利をもぎ取りました泥だらけの皇帝です! あぁ今、ライズエンペラーが客席に大きく手を振っ……おや、何でしょうか、あーちょっと!』
「見たか、これがライズエンペラー様の走りだ! それから」
真っ先にゴールへ飛び込んだライズは、客席に向かって勝利を宣言。
手を振って声援に応えると、その中から一つの影を見つけてニヤリと笑む。かと思えば。
「おーい、勝ってやったぞー!!」
注目を一身に浴びる場で、体操服の上着を脱ぎ棄ててしまった。
ウマ娘といえど、年頃の少女の肉体であることは間違いない。それがこのような行動をするのは問題とも言えるが、もちろんこれには意味がある。
体操服の下には、まるでサラシのように一枚の布が巻かれていた。緑と黄のストライプ、縁を赤で囲んだ柄。跳ねた泥が染み込んで少し変色してしまっているが、誇らしげにそれを見せつけたい相手がいるのだ。
「ライズ、さん……なんてことを」
頬を赤くして手で顔を覆い、指の隙間からライズを見る少女の姿が、客席にあった。
それは、出走取消となったカスミステルシップ。
ライズがその身に巻いているのは、先ほどはなみちで奪い取った、カスミがパドックで使うはずのマントであった。