この年の盆は土日に接続した関係でやや長く休みを取った社会人が多かったことだろう。
世間の長期連休も最終日。函館レース場には多くの観客が詰めかけていた。
「昨日も多かったけど、今日も多いなァ。こっちに回ると全然違って見えるモンだな」
「あ、あの……本当に良かったんですか? お友達と別々の席のようですけど」
スタンドにはライズエンペラーとホッポウセブンの姿があった。
実はこの二人、前日にここ函館で三度目となる勝負を行っている。お互い初めての芝コースで距離は一二〇〇メートル。
結果は、セブンの逃げ切り勝ち。ライズは三着と及ばなかった。
「あっちはあっちで騒がしいンだよ。それに、アンタとゆっくり話す機会もなかったからな」
いよいよこの日はダイモンジのデビュー戦。この観戦でもしようとライズが誘ったのだ。
少し視線を移すと、スタンド最前列には異様な熱気を放つ一団があった。
この日のために押し寄せてきたダイモンジ応援団。J-1組総出だ。
恐らく教室はもぬけの空だろう。
もとよりファンの多いダイモンジのことだから、こうなることはなんとなく想像できたことだ。その熱気に巻き込まれたら、必要以上に疲弊するに違いない。
「ところでよ。アンタ、レースを走るのって、どう思ってンだ?」
「え? 楽しいですよ」
初のデビュー戦ではまんまと逃げきられ、再戦した時は無我夢中で勝利をもぎ取り、昨日の三度目となる対決ではやはり楽な手ごたえで逃げられてしまった。
実力でライズが劣っているようには思えない。だがどうしたことか、なかなか追いつくことができずにいた。その原因はどこにあるのだろう。
セブンは、レース後にわざわざ他の出走者全員の控室を回って挨拶していくようなウマ娘だ。少なくともライズとは違った心持でレースに臨んでいるはず。
そう考えての質問だが、その思惑はやはりというべきか。
しかし本題はここからだ。
「ライラック賞の時もか?」
「あの、私が負けちゃって……ライズさんが勝った時のレースですよね。楽しかったですよ?」
ニコリと、屈託のない笑顔を添えて、さも当たり前のように返答するセブンは、少し眩しくもあった。
このウマ娘は、勝ち負けよりも、レースをどう楽しむかに重きを置いている節があるようだ。それはもしかしたら、勝負根性という面では弱さを見せるものかもしれない。一方で、常に自分のポテンシャルを高い水準で引き出す心構えを持ち合わせているようだ。
「悔しいとか思わねェの?」
「でも、楽しかったので! すーっと前へ滑るように走っていくサトリコンコさんはキレイでしたし、ものすごい勢いで追い上げるライズさんはかっこよかったです!」
敗北した時ですら、他のウマ娘の走りに見とれたりして。
ただ走ることが好きで。ただウマ娘の走る姿が好きで。
それなら。毎回ハナを切って走るのは少し矛盾する。後ろから眺めていたって良いわけだ。
「じゃあ真っ先に先頭を走ろうとするのは何でだ?」
これは大した意味を持たない、ちょっとした疑問だった。
だから特に回答を期待したわけでもない。
ところが。
「やっぱり、私より速いウマ娘さんの方が、かっこいいですから。だから私はいつでも前を――」
きっと彼女自身は深い意味を持たずに、速く走るウマ娘を称賛するつもりだったのだろう。
そんなことは分かっていても、ライズはどうしても素直に受け止めることができなかった。そしてセブンのおさげを少し乱暴に掴んで。
「
ギロリと睨みつける表情に恐怖したセブンがビクリと体を震わせ、小声でごめんなさいと漏らす。
何故怒らせてしまったのか、彼女が理解しているのかは疑問だが。
ライズはフンと鼻を鳴らしておさげを解放してやると、腕を組んで目を逸らしてしまう。
丁度その時。スタンドの前方では黄色い声が上がった。
次のレースのパドックに、彼女が出てきたのだ。
九人立てメイクデビュー、芝一〇〇〇メートル。番号は八番。
圧倒的な一番人気に支持され、パドックで颯爽とマントを脱ぎ棄てる姿。その一挙手一投足に歓声が上がり、チラリと見せた笑顔にはスタンドの乙女を悩殺する魅力が備わっている。
彼女こそJ-1組の星、ダイモンジであった。
ゲートに収まり、少し周囲に目を配ると、誰もが一様に緊張した面持ちでいた。
当然だ。初めてレースに出るウマ娘ばかりなのだから。中には既に一度出走した者もいるのだろうが、少なくとも全員が未勝利である。
しかし、ダイモンジの胸には確かな自信が宿っていた。
追い風となる声援もあり、この日に向けての調整も万全だ。
何より。
「ボクは……」
ゲートが開かれる。
「負けていられないんだ!」
『スタートしました! ダイモンジ好スタートからぐんぐん前へ前へ後方九人を引き連れ、いや引き離してあっという間の逃亡劇!』
「キャー!」
「ダイモンジ様ー!!」
スタンドの最前列に詰めかけたJ-1組が声援を送る背後で、レースにくぎ付けとなるウマ娘がいた。
彼女らと同じクラスメイトであり、この日のためにわざわざお忍びで北海道を訪れたモノノフキッド。それに、強引に連れてこられたシンリョクメモリーだ。
力強い踏み込みで先頭へ躍り出たダイモンジが誰よりも早く第三コーナーへ差し掛かろうとしている。
「ダイモンジ、飛ばしすぎ……でも」
「うん、この短距離なら、これしかないと思う。何よりも凄いのは、これを可能にするだけの実力があること」
たった一〇〇〇メートルしかないレースでは、距離ロスが結果に大きく左右する。
外枠というだけで不利。それでも八番で最も人気を集めたダイモンジへの注目度の高さは大したものだが、実際にこれで勝利するにはそれなりの策が必要になる。
即ち、スタート直後から内ラチに向けて切り込むこと。だが、ゲートが開いてからすぐは当然内側に多くのウマ娘がいるために進路がない。
ならば一気に先頭に立ってから内へ入るのが最善であるのだが、短距離であるが故に、誰もが最初からハイペースで駆け出すことは目に見えている。
他の出走者よりも速く、誰よりも前へ。
しかし先日ライズエンペラーが慌てて速度を上げたことでカーブを曲がり損ねたこともある。
ペースをコントロールするのは至難の業だが。
『コーナーを曲がって後続も一気に追い上げてきます。差が詰まって直線を向いた! 一番人気ダイモンジもこれまでか!?』
「これまで? この程度の距離でボクがいっぱいになったとでも?」
直線を向いた。
途端、ダイモンジが強くターフに踏み込む。
スタートにも見せた加速が再び。
コーナーでは詰められたかに見えたが、その差はまたあっという間に開いてゆく。
残り二〇〇メートルも残したところで大勢は決していた。
『とんでもない二の足! 他のウマ娘は遥か後方、ダイモンジ、ダイモンジ、これは圧勝ゴールイン! 函館のターフを栗毛の流星が駆け抜けました! これは脅威、一〇〇〇メートルで十バ身差の勝利でした』
ワァァ――!
ゴールの瞬間、函館レース場は一際大きな歓声に包まれた。
その盛り上がりは、最早メイクデビューのそれではなく、今後のレースを盛り上げる絶対的なスーパースター誕生を確信させるものであった。
J-1組の応援団だけでなく、この日観戦に訪れていた人々も、これだけ圧巻のレースを見せつけられれば、興奮せずにもいられないだろう。
「凄い、凄いよ……。これがダイモンジの走り」
キッドはグッと拳を握りこんで、ゴール版の先で手を振るダイモンジに釘付けとなる。
一方でシンリョクはレースの様子を考察していた。ダイモンジがいったい何を考えて走っていたのだろうか。どんな策を講じていたのか。
(一気にハナを切って、コーナーで速度を一気に落とした? この間のライズのレースは、外に大きく膨らんでしまった。同じ轍を踏まないようにペースを変えたのだろうけれど、こんなに短い距離で速度を上げたり下げたりして勝ち切るだけの力は、並大抵のウマ娘には、無理)
結論から言えば、圧倒的に持って生まれた力が違うとしか言いようがない。
いつか彼女と同じレースを走る時、その実力についていくことができるだろうか。そんな不安すら覚えさせる。
「ねぇ、キッド。キッドは、負けないよね? キッドの方が、もっと速いよね、そうだよね」
当然のように、二人の間に収まっていたチーラヒメが、伺うようにキッドへ目を向ける。先日、怒り狂って北海道へ乗り込んできた時とは違って、レース中は大人しくしていたし、大騒ぎするようなこともなくなっていた。
そういえばあの時、ホテルの一室に残されたキッドとヒメがどのような会話をしていたのか、シンリョクは知らない。だが間違いなく、その時を境にヒメは随分と丸くなったように思えた。
「いや。間違いないよ。ダイモンジの方が速い。きっと今のままじゃ勝てない」
いつかデビューした先で、彼女とは勝敗を競うこともあるだろう。
勝負における策の練り方、自らを熟知しきった走り方。加えるならば、レースの魅せ方。
全てにおいて、今日までにデビューしたウマ娘の中ではトップだと確信できる。
「もっと強くならなきゃ」
キッドは決意を新たに、表情を引き締めた。
そんな時のこと。
「おい、見ろよこれ。あのダイモンジってウマ娘のプロフィール、ほら」
「母親のウマ娘? どれどれ……って、おいおいマジかよ」
「こりゃ、今後は期待できねぇな」
シンリョクメモリーの背後に座っていた客が、新聞を手に何か話し合っている声が聞こえた。
すかさず視線を走らせると、キッドもヒメもその声に気づいている様子はなかった。
「ああ。桜花賞を勝ったものの、それから食が細くなって病気がちだったウマ娘だ。さらにその母……あのダイモンジのお祖母ちゃんってのがな」
「確か、病気が原因で結婚が認められなかったって騒動があったウマ娘だよな。なんか、本で読んだことがある。治ったんだか、病気だってのは嘘だったのか、結局子供がレースに出てたわけだろ」
「でもこういう一族だってことを考えると、来年のクラシックまで体が持つのかどうか」
「今回は圧勝だったから、次も見てみたいと思うけれど。こういう親だとなぁ」
そこまで聞くと、シンリョクはわざと大げさに物音を立てながら立ち上がった。
そして強引にヒメとキッドを立ち上がらせる。
「食事。早く行かないと混むよ」
「え? あぁ、そうだね、見たいレースも見たし、うん」
この話は、キッドに聞かせるわけにはいかないと感じた。
いや、誰にも話すまいと決めた。
ラジオ越しにライズのレースを共に聞いた時、ダイモンジの様子がおかしくなっていた。自分のレースでもないのに、クラスメイトの勝利に、いやJ-1組への注目度に拘っているような節があった。
普段の振る舞いも、彼女本来の性格というよりは、どこか作られたものを感じさせる。
あの観客の話が本当ならば。祖母の代から続く、病弱のレッテルを払拭するために、ダイモンジは強くあらねばならないのかもしれない。
そんなこと。そんな想いがあること。シンリョクの予想が正しいのならば、きっとダイモンジ自身は、その想いを誰にも知られたくはないだろう。
だって。
こんな圧勝を見せつけてなお、彼女の母や祖母を知るファンからは、