ところで、この「如来の寿命の長さについての教え」が説かれている間に数えることもできないほどの多くの衆生に利益(りやく)が生まれた。
その時、お釈迦様は弥勒菩薩に話しかけられた。
「弥勒菩薩、この『如来の寿命の長さについての教え』という法門が説かれている間に六十八のガンジス川の砂の数にも等しい数の菩薩達が一切のものは空であるという真理を認知した。また、これらの菩薩達の千倍もの多くの菩薩達が比較的長い呪文を空で言えるようになった。さらにこの法門を聴いて世界を構成する原子の数に等しい他の菩薩が流れるような雄弁さを手に入れた。さらにその倍の菩薩達が呪文を空で言えるようになった。さらに、この法門を聴いて、後ずさりすることのない不退転の真理の車輪を回した菩薩がいて、汚れのない輝きを持つ真理の車輪を回した菩薩がいて、さらに、ある菩薩は八回生まれ変わることによって正しく完全な悟りに至ることが確定し、ある菩薩は四回生まれ変わることによって正しく完全な悟りに至ることが確定し、ある菩薩は三回生まれ変わることによって正しく完全な悟りに至ることが確定し、ある菩薩は二回生まれ変わることによって正しく完全な悟りに至ることが確定し、ある菩薩は一回生まれ変わることによって正しく完全な悟りに至ることが確定した。さらにある菩薩はこの法門を聴き、正しく完全な悟りに向かう決意をしたのだ」
これらの立派な菩薩達がこの法を理解したことで確固とした立場を得たことをお釈迦様が説かれると、まさにその瞬間、上空から花の雨が降ってきた。それは世界中の宝の木の根元にも降ってきて、宝の木の根元の椅子に座っておられる無数の正しく完全な悟りに至った如来の頭上にも花の雨が降り注いだ。
また、師であるお釈迦様と既に長い旅に出発され、今はお釈迦様の隣に座っていらっしゃる多宝如来の頭上にも花の雨が振り注いだ。さらに、そこにいる菩薩の集団の全員と、四衆の人々の上にも花が降り注ぎ、香水の粉末も降ってきて、さらに誰も叩いていないはずなのに、上空から太鼓の音が鳴り響いた。
それから幾百千もの一揃いの天の服も降ってきて、さらに宝飾品や宝石も降ってきて、高価な宝石造りの香炉がひとりでに空中を漂い、周囲にその香りを振り撒いた。
また、立派な菩薩達が、一人ひとりの如来のために宝石で作られた日傘の列を上空高く差し掛けた。それらの立派な菩薩達は、それぞれ正しく完全な悟りに至った如来達を賞賛する詩を創り、それぞれの如来を賞賛した。
弥勒菩薩は今までの会話、あるいはこの集会で今、見られた不思議な現象を詩にして吟じてみせた。それを聴いたお釈迦様は弥勒菩薩に話しかけられた。
「弥勒菩薩よ、この『如来の寿命の長さについての教え』という法門が説かれている間、衆生に、たった一度でも良い、悟りを求める心が生じ、あるいは心が洗われるのであれば、その人々はとてつもない福徳を生み出すことになる。そのことをよく聴き、よく考えるのだ。どれだけの福徳を生むのか説明してみよう。誰かある人が、正しく完全な悟りを求めつつ、知恵の完成を除いた、施し、順法、忍耐、精進、集中の五つの完成に向けて修行をするとする。そしてその人が、この『如来の寿命の長さについての教え』という法門を聴いて、その人にたった一度でも悟りを求める心が生じ、あるいは心が洗われるとしよう。その時、その人には福徳、あるいは良い行いをしようという心が生まれるわけなのだが、その時、作り出される福徳に比べて、先ほど述べた五つの完成に向けた修行によって、とても長い時間をかけて作り出された福徳は、その百分の一、いや、千分の一、いや、微塵にも満たないのだよ。両者の差は数えることも、考えることも、計算することも、比較することもできない。このような福徳を具える人が正しく完全な悟りから後ずさりをするということはありえないのだ」
お釈迦様はそうおっしゃると、同じ意味のことを詩にして吟じてみせられ、さらに続けられた。
「次に弥勒菩薩。この『如来の寿命の長さについての教え』という法門を聴いて、それを伝え、信仰心を抱き、理解し、悟る人には、たった一度だけ信仰心が生じる人よりもさらに多くの正しく完全な悟りへと導かれるべき福徳が生じるだろう。ましてやこの法門を聴き、人に聴かせたり、読誦したり、受け止めたり、書写したり、書写させたり、写本にしたり、花や香、傘や旗、のぼりあるいは燈明などで供養し、敬う人には数多くの福徳が生じることは言うまでもない。また、誰であれ、この『如来の寿命の長さについての教え』という法門を聴いて、清い心を持ち、信仰心を抱く時、その人は私が霊鷲山で菩薩の大集団に囲まれ、菩薩達に尊敬され、声聞達の真ん中で法を説いている姿を頭に描くだろう。さらにその人は、私が今いるこの人間界が、瑠璃で作られ、平坦で、街の中心部の道路は黄金で飾られ、宝の木で飾られ、そこでは菩薩達が高い建物の中で楽しく暮らしているのを思い描くだろう。これは清い信仰心を抱く人々に共通に見られる心の特徴である。また、如来である私が長い旅に出発した後、この法門を聴き、この法門を謗ることなく、むしろ積極的に受け入れる人々も、私は清い信仰心を抱いていると考えている。ましてやこの法門を受け止め、読誦する人はなおさらのことであり、さらにこの法門を写本にして持ち歩く人は、如来を常に持ち歩いているのと同じである。だから、写本を持ち歩くその人は、私のためにわざわざ墓碑を造る必要はないし、精舎を建てる必要もない。写本を持つということはすぐそこに如来である私がいるのと同じことなのだから。また、その人が在家の人だったとしても、僧達のために医薬品などの生活必需品を寄付する必要もない。それは、この法門を謗らないこと、積極的に受け止めること、写本を持ち歩くことが既に、私の遺骨に対して供養していることと同じことだからであり、また、天まで届くような日傘を掲げ、鈴の音を鳴り響かせる、宝石造りの墓碑を建てたことと同じことだからだ。私の遺骨を安置した墓碑に対して天上界の、あるいはこの人間界の色々な花や香、衣、傘、旗、あるいはのぼり等で敬い、甘美で冴えた音色の太鼓が打ち鳴らされる音、あるいは歌や踊りで計ることもできないような長い時間に渡って供養したことと同じことだからだ。私が長い旅に出発した後、この法門を受け止め、読誦し、書写し、解説する人は精舎を建てたことと同じことをしているのだ。大きく、広く、背が高く、幾千人もの僧達のための部屋があり、花で飾られ、散歩するための森があり、立派な家具を備え、食べ物や飲み物や薬などの生活必需品で満たされ、安らぎをもたらすあらゆる用具を備えている立派な精舎を建立することと同じことだからだ。しかも、その精舎は、私が長い旅に出発した後であっても、私の面前で声聞達に与えられたのと同じであり、私から与えられたのと同じであると考えられるべきである。だから私は次のように言うのだ。如来である私が長い旅に出発した後で、この法門を受け入れ、読誦し、説き示し、書写し、書写させたりする人は、私が長い旅に出発した後で、私の遺骨を安置した墓碑を造る必要はないし、声聞の集団への衣食や生活必需品の供養をする必要もないと。ましてやこの法門を受け止めつつ、施しを授けることによって修行を完成させたり、戒律を守ったり、あるいは忍耐、精進、集中、あるいは知恵によって修行を完成させたりしようとする人には、正しく完全な悟りに至る知恵に導く福徳が生じることは言うまでもないと。誰であれ、この法門を受け止めたり、読誦したり、説き示したり、書写したり、書写させたりする人は、あたかも虚空界が東西南北、あるいは上下に無限に広がっているように、正しく完全な悟り至った人の知恵へと導く福徳を生むのだ。また、その人は如来を安置した塔に敬意を表し、如来の弟子である声聞達を賞賛し、立派な菩薩達が持つ、数えきれないほどの徳性を賞賛し、その他の多くの人々のために様々な話をするだろう。そして忍耐強く修行を完成させ、戒律を守り、性格も良く、気持ち良く生活する。また、我慢強く、感情を表に出さず、不機嫌であることもなく、怒ることもなく、安定した心を持ち、強靭な意思を持ち、気力に満ち、精進し、常に修行に専念するだろう。法の探求に集中し、一人で熟慮することを重んじ、積極的な思考を展開するだろう。また、質問の意味をよく考え、多くの質問に答える人となるだろう。如来の私が長い旅に出発した後、誰であれ、この法門を受け止める立派な菩薩達には、今、私が説明したような特性が具わるだろう。その特性を具えた人々は、悟りの座へと出発したのであり、悟りを得るために菩提樹の根元に赴いているのである。また、その人々が立ったり、座ったり、歩いたりするところには如来を安置した塔が作られるべきであり、その塔は神々に伴われたこの世の人々に『これは如来を安置した墓碑である』と語られるべきである」
そこまでおっしゃられるとお釈迦様は同じ意味のことを詩にして吟じてみせられた。