弥勒菩薩はお釈迦様に次のように申し上げた。
「お釈迦様。誰であれ、この法門、すなわち『法華経』が説き示されるのを聴き、それを喜んで受け入れるならば、その人はどれほどの福徳を生みだすのでしょうか?」
弥勒菩薩はそう言って、同じ意味の詩を吟じてみせた。
するとお釈迦様は弥勒菩薩に次のようにおっしゃられた。
「弥勒菩薩、誰であれ、私が長い旅に出発した後に、この法門が説き示され、説明されているのを聴くとしよう。僧であれ、尼であれ、在家信者であれ、学識ある人であれ、若者であれ、この法門を聴いたら、それを喜んで受け入れるだろう。それから、例えば、もし、この法門を聴いているその人が、何かの事情があって聴いている途中で席を立ち、出て行ってしまっても、精舎においても、自宅においても、あるいは荒れた野原でも、道端でも、村でも、田舎でも、聴いたその人がその法を聴いたとおりに、その人が受け止めたとおりに、その人の能力に応じて他の衆生に語るとする。その他の衆生がその人の母であれ、父であれ、親戚であれ、親友であれ、親密な誰かであれ、誰でも良いのだが、とにかく他の誰か別の人に語るとする。そしてこの法門が語られるのを聴いて、その語られたその人もまた喜び、その法門を喜んで受け入れ、後に、その語られた人もまた別の誰かに語るとしよう。そして、この法門を聴いて、次のその人もまた喜び、その法門を喜んで受け入れ、その人もまた他の人に語り、その法門を聴いたその他の人もまた喜び、また他の人に語り、そういうことが五十人目に至るまで途切れることなく連続し、この法門が語り継がれるとしよう。そしてその五十人目の人も聴いて、この法門を喜んで、受け入れるとする。まずはこの法門を受け入れることによって生ずる福徳について説明しよう。それをよく聴き、頭の中でよく考えると良い。福徳が生みだされるとはあたかもこの世、あるいはこの世以外のあらゆる世界に存在する、六種類の生存領域の中で生まれた衆生、すなわち卵から生まれたもの、母胎から生まれたもの、湿ったところから生まれたもの、自然発生したもの、形を持つもの、持たないもの、意識を持つもの、持たないもの、足を持たないもの、二本の足を持つもの、四本の足を持つもの、あるいは多くの足を持つものに至るまで、それらの衆生が一斉にこの世界にやって来るようなものである。例えば、誰かある人が、衆生の福徳を願い、衆生の幸福を願って、その衆生に快楽を与えようとしているとしよう。快楽のために、その人は衆生の一人ひとりに金銀、宝石、車、あるいはお城などを与える。このようにして主であるその人は八十年に渡って快楽の品を与え続け、次のように考えた。『私は衆生を遊ばせ、楽しませ、楽な生活をさせてきた。しかし、これらの衆生は皺が寄り、白髪頭になった八十過ぎの高齢者であり、死期が近付いている。そういうわけで、私は今、この人々に、如来によって説かれた法と戒律を悟らせ、導くことにしよう』と。そこでその主はすべての衆生を教化し、教化した後に如来によって説かれた法と戒律を悟らせ、理解させるとする。それらの衆生は法を聴いた瞬間に迷いを失い、煩悩がなくなり、集中し、解脱することによって菩薩の一歩手前まで達するだろう。ところで弥勒菩薩。あなたはこのことをどう考えるだろうか?主であるその人はそのことによって数えることもできない、無量と言っても良いほどの福徳を生み出すだろうか?」
「お釈迦様。おっしゃる通りです。その通りです。まずそれほど多くの衆生に楽しい生活を与えるその人は、それだけで多くの福徳を生み出すでしょう。ましてやその後、衆生を菩薩の一歩手前まで導くのですから多くの福徳を生み出すことは言うまでもないことです」と弥勒菩薩。お釈迦様が続けられた。
「弥勒菩薩、説明しよう。あなたが理解したように、主であるその人が、すべての衆生に快適な生活を与えるあらゆるものによって、全世界を満たし、すべての衆生を菩薩の一歩手前まで導いて福徳を生みだすとしよう。一方、この法門を連続して順番に聴いた五十番目の人が、この法門から一つの詩でも、一つの句でも耳で聴いて喜んで受け入れるとしよう。この五十番目の人が、この法門から一つの詩でも、一つの句でも聴いて、それを喜んで受け入れることによって生みだされる福徳と、主であるその人が、金銀財宝を衆生に与え、最終的には法を説いて菩薩の一歩手前まで導くことによって生みだされる福徳では、五十番目の人の場合の方が、主の場合のそれよりもその内容がずっと充実しているのである。五十番目の人が、この法門から一つの詩でも、一つの句でも喜んで受け入れることによって生じる福徳に比べれば、主の行為によって生みだされる福徳はその百分の一にも、千分の一にも、あるいは微塵にも及ばないのだ。両者の差は数えることも、考えることも、計算することも、比較することもできないのだ。この法門を連続して順番に聴いて、ちょうど五十番目のその人もこの法門からたった一つの詩さえも、一つの句さえも聴いて喜んで受け入れるならば、数えることもできない、無量の福徳を生みだすだろう。ましてや私の目の前で、この法門を聴き、聴いた後に喜んで受け入れる人は言うまでもないことである。その福徳の量はさらに無量であり、数えることもできないと私は断言する。さらに、弥勒菩薩。誰であれ、この法門を聴くために出家し、精舎に赴く人が、精舎に赴いて立ったまま、あるいは座って、この法門を一瞬でも聴くとしよう。そうすればその人はそれだけで福徳が生みだされ、蓄積され、生まれ変わった時には、牛の、あるいは馬の車、あるいは輿(こし)、あるいは天上の乗り物を手に入れるだろう。さらにもし、座って聴くだけでなく、他の人を座らせたり、衆生のための席を設けたりするならば、その人は生みだされた福徳により、神の椅子を手に入れるだろう。さらに、その人が、他の人に『この白蓮華のように最も優れた正しい教え』という名前の法門、すなわち『法華経』を聴くように勧め、勧められたその人がたとえ一瞬でもこの法門を聴くならば、その法門を聴くことを勧めた人にはその行為により、呪文を丸暗記している菩薩に出会う機会すら与えられることだろう。その人は愚かではなく、明晰で、知恵を具えていて、口臭はなく、体臭もない。舌も口も健康で、黒ずんだ歯、不揃いの歯、黄ばんだ歯、形の悪い歯、隙間のある歯、抜けた歯、曲がった歯もない。下がった唇、めり込んだ唇、分厚い唇、裂けた唇、歪んだ唇、黒い唇、醜い唇を持つこともない。潰れた鼻、曲がった鼻を持つこともない。また、長すぎる顔、歪んだ顔、黒い顔、醜い顔を持つこともない。その人は繊細で美しい舌や歯、唇を持ち、高い鼻を持ち、整った顔を持ち、美しい眉を持ち、広い額を持っている。その人は完璧な人の特徴を具えているのだ。そして教化し、指導してくれる如来に出会うことにより、師である正しく完全な悟りを得た如来達と出会うことだろう。弥勒菩薩、衆生の一人にこの法門を勧めただけでこれだけの福徳を生みだすのだ。ましてや、敬虔な気持ちで聴き、読誦し、説き示し、説き明かす人についてはなおさらのことである」
お釈迦様はそうおっしゃると同じ意味のことを詩にして吟じてみせられた。