翌週。
一カ月ぶりに蝶屋敷に行くと、玄関先で掃除をしているすみちゃん達の姿が目に入ってきた。
「すみちゃん、きよちゃん、なほちゃん、こんにちは」
そう声をかけると、三人がほぼ同時にこちらを向いた。
「あー、炭治郎さんだー!」
「お久しぶりですー!」
「今日も定期健診ですかー?」
「うん。それと、カナヲと祝言の準備をしようと思って誘いに来たんだ」
「「「え!? カナヲ様と祝言の準備を!?」」」
同時に驚愕した後、顔を見合わせ、やけにそわそわし始める三人。
どういう気持ちなのかは分からないけれど、嬉しそうな匂いだけは伝わってくる。
「えっと……駄目だったかな?」
「「「駄目じゃないです! 炭治郎さん、頑張ってくださいね!」」」
「え? う、うん、ありがとう、頑張るよ?」
何のことか分からないまま返事すると、三人はひゃーっと囃し立てるような声を出しながら走り去っていった。
どうしてあんなに嬉しそうだったんだろう? 俺がカナヲを買い物に誘うってだけで、あんな風に喜ばれるのはおかしい気がするんだけど……。
そう思ったところで、先週の禰豆子との会話が脳裏を過った。
『自分じゃ気付いてないと思うけど、カナヲちゃんと話す時は頬が赤くなってるから』
『え!? そうなのか!?』
『うん。アオイちゃんもそう言ってたから、気付いてる人は気付いてると思うよ』
「……あ!」
もしかして、禰豆子とアオイさんだけじゃなくて、すみちゃん達も気付いてたのか!? それならあんな風に応援されたこととも辻褄が合うし……。うぅ、なんか途端に恥ずかしくなってきたな……。
気恥ずかしさを感じながら診察室へと足を進めていくと、その途中で、洗濯物を抱えているアオイさんと出くわした。
「あ、アオイさん、久しぶり」
「炭治郎さん! お久しぶりですね。今日は定期健診ですか?」
「うん。それと、カナヲと祝言の準備をしようと思って誘いに来たんだ」
「カナヲと祝言の準備を! そうですか! ついに覚悟を決めたんですね!」
「……うん? 覚悟?」
いったい何の話だろう? 買い物に誘うだけだから、特に覚悟を決めるようなことはなかったんだけど……。あー、でも、奥手な人だと覚悟が必要な人もいるか。
そんな風に思っていると、アオイさんは一歩歩み寄り、まっすぐ俺の目を見つめてきた。
「炭治郎さん。カナヲは不器用なところもありますが、凄く良い子ですので」
「え? うん、それはよく知ってるよ」
「そうですか。……これは余計なお世話かもしれませんが、カナヲはあまり察しが良い子ではないので、伝えたいことがあるならはっきりと伝えた方がいいですよ。それと、予想外のことが起きるとパニックになることがあるので、もしかしたら上手く返事できないかもしれませんが、待っていればちゃんと返事をするはずなので、そこは理解してあげてください」
「うん、分かった。ありがとう、アオイさん」
「いえ。それではカナヲをよろしくお願いしますね」
そう言い残した後、すたすたすたと軽快な足取りで去っていくアオイさん。
多分、すみちゃん達と同じで、俺とカナヲの関係が進展しそうなのが嬉しいんだろうな。俺も善逸が禰豆子に告白する前は似たような心境だったし、その気持ちはよく分かる。
「問題は、今の俺にはカナヲとの関係を進展させる気がないってことだよな……」
カナヲのことは好きだけれど、先が長くないことや、自分が死んだ後のことを考えると、どうしても今以上の関係になろうとは思えない。義勇さんも俺と同じような状況のはずなのに、義勇さんはどうして決断できたんだろう?
疑問に思いながら一分ほど歩いていると、カナヲがいるであろう診察室に到着した。
久しぶりの再会なのに暗い顔してたら心配させちゃうし、今は暗い話は忘れてカナヲとの時間を楽しむとしよう。
深呼吸して気分を切り替えた後「失礼しまーす」と言いながら診察室の中を覗くと、カナヲとパチッと目が合った。
「あ、炭治郎!」
ぱぁっと顔を輝かせるカナヲ。
その嬉しそうな笑顔に、顔が熱くなるのを感じる。もしかしたら、義勇さんが来た時の俺もこんな感じだったのかもしれないな、なんて思いながら俺はカナヲに微笑み返した。
「久しぶり、カナヲ。元気だった?」
「うん、元気だよ。炭治郎は?」
「俺も元気だよ。でも、念のため、今日も診てもらえるかな?」
「うん。じゃあ、さっそく調べていくね」
目の前にある椅子に手を伸ばし、座るように促すカナヲ。
俺が椅子に座ると、カナヲは椅子ごと俺の方に近づいてきた。
「はい、あーん」
「あーん」
カナヲに促されるままに口を開ける。
しのぶさんにも同じことをされたなぁ、なんて懐かしんでいると、十秒ほど経ったところで、カナヲが「うん、問題なかったよ」と笑顔で言った後、思い出したように尋ねてきた。
「そういえば、炭治郎のところにも水柱様は来た?」
「うん、先週来たよ。カナヲのところにももう来たの?」
「うん、昨晩ね。昨日はここに泊まってたんだよ」
「へぇ~、そうだったんだ。義勇さん、何か言ってた? 俺はあんまりゆっくり話せなかったから、詳しいことは全然聞けてなくて……」
「そうなんだ。お嫁さんは過去に水柱様が鬼から助けた人らしいよ。街で再会した時に、水柱様の片腕が無くなっているのを見て『今度は私が助けよう』って思って、そのまま押しかけるようにして水柱様の家に住み込むようになったんだって」
「へぇ~。なんていうか、なかなか強引な人なんだね」
「水柱様もそう言ってた。最初はあまりにも強引に話を進めていくから驚いた、って。でも、その後に『ただ、錆兎や炭治郎がそうであるように、俺には強引にでも前を向かせてくれる人が必要なのかもしれない』って笑ってたよ」
「そうなんだ……って、えっ!? 錆兎はともかく、俺も!?」
「うん。私も炭治郎は強引だと思うよ」
「そ、そっか……」
自分では人に配慮しながら行動してるつもりだったんだけどなぁ……。これからは気を付けるようにしよう……。
そんなことを思っていると、カナヲがくすっと微笑んだ。
「水柱様、表情が本当に豊かになったよね」
「うん。少し前に宇髄さんも同じこと言ってたよ。『鬼殺隊にいた時は毎日喪に服してるようなツラしてたってのに、今では別人みたいなツラして笑ってるんだから、人生ってのは分からねぇもんだよな』って」
「音柱様……」
途端に複雑そうな表情を浮かべるカナヲ。
あ、しまった。そういえば、宇髄さんはアオイさん達を強引に遊郭に連れて行こうとして揉めたことがあったんだった。ここは気を利かせて、話題を変えるとしよう。
「でも、それを言ったら、カナヲもそうだよ。出会った時なんて全然話さなかったし」
「は、恥ずかしいから忘れて!」
顔を真っ赤にして、大声を出すカナヲ。
カナヲには申し訳ないけど、当時のカナヲを知っているからこそ、こうして大声を出したり、恥ずかしがったりしてるカナヲの姿が凄く魅力的に思えてしまう。それこそ、もっとからかいたいなんて子供っぽい感情が湧いてしまうくらいに。
カナヲは照れ隠しをするようにコホンと咳払いした後、強引に話題を変えた。
「水柱様、本当に幸せそうだったよ。いつか私もああいう風になりたいな、って思った」
「……カナヲもそういう風に思うんだね」
「うん。姉さん達はいつも私の幸せを願ってくれていたから。ちゃんと幸せになって、姉さん達にいっぱいありがとうって言いたい」
「そっか。カナヲならなれると思うよ」
「そうだといいんだけどね。目も見えづらいし、体も傷だらけだから、もらってくれる人なんていないと思う」
「そんなことないよ。その目も、体の傷も、カナヲが一生懸命人を助けてきた証なんだから。誇るものでこそあれ、恥じるものじゃないと思う。少なくとも、俺は魅力的だと思うし」
「……っ!」
ボッと一瞬にして顔を真っ赤にした後、顔を隠すように慌てて俯くカナヲ。
俯いてしまったから表情は分からないけど、匂いから察する限り、怒ってはいないと思う。というか、むしろ、この匂いは――
鼻をすんっと動かした瞬間、カナヲが俺の鼻に鼻栓を突っ込んできた。
「わっ!? か、カナヲ!? 急にどうしたんだ!?」
「は、鼻の検査! みんなやってるの!」
「そ、そうなんだ?」
鼻に栓を突っ込むことで何の検査ができるのか分からないけど……。でも、みんなやってるならやっておいた方がよさそうだな。もしかしたら、俺の鼻が利きすぎるのも何かの異常なのかもしれないし。
うんうんと一人で頷いていると、カナヲが俯きながら問いかけてきた。
「ち、ちなみに、炭治郎は水柱様みたいに結婚しようとは思わないの?」
「え? うーん……。今のところは考えてないかな」
「そ、そうなの……?」
「うん。先週禰豆子とも話してたんだけど、二十五歳までに死ぬって考えると、どうしてもそういう風に考えられなくて……。あ、そうだ。義勇さんはそれについては何か言ってた?」
「うん。みんなが繋いでくれた命を次に繋ごうと思った、って言ってたよ」
「命を、次に繋ぐ?」
「うん。自分は数年の内に死んでしまうけど、子供を残しておけば、妻が孤独になることはないし、水の呼吸を子供に教えておけば、何かあっても子供が妻のことを守り続けてくれるだろうから、って」
カナヲがそう言った瞬間、耳飾りがしゃらんと揺れ、炭吉さんの記憶が蘇った。
『縁壱さん、後に繋ぎます。貴方に守られた命で……。俺達が。貴方は価値のない人なんかじゃない! 何も為せなかったなんて思わないでください。そんなこと誰にも言わせない。俺が、この耳飾りも日の呼吸も後世に伝える。約束します!』
思い出すだけで涙が溢れてきそうになる、悲痛な叫び声。
そうだ、どうしてこんな大事なことを忘れていたんだろう? 父さんにも言われたじゃないか。この神楽と耳飾りだけは必ず途切れさせず継承していってくれ、って。無惨を倒せたから忘れていたのか? 無惨を倒したからといって、それで全ての脅威がなくなったわけじゃないのに? 少し前に輝利哉くんも言っていたじゃないか。おそらく二十年以内に人材や資源、領土などをめぐって、外国との大規模な戦いが始まる、って。その時には俺は既に死んでしまっているから何もできないけれど、生きている内に日の呼吸を子供に伝えておけば、子供は自分の身を自分で守れるし、自分以外の人も守ってくれるかもしれないのだから、俺も日の呼吸を継承した方が――
『でも、あと十年も生きられないのに、結婚してもいいのかな?』
突如として、俺の理性がそう問いかけてきた。
前向きになった心が、一瞬にして動きを止める。
『俺以外の人と結婚した方がカナヲは幸せになれるんじゃないかな?』
追い打ちをかけるように、俺の理性が言葉を投げかけてくる。
しかも、痛いところを突かれているせいで、反論することができない。
『呼吸を継承するだけなら、鱗滝さんみたいに弟子を取ればいいんじゃないかな?』
「ぐぅぅ……」
容赦なく浴びせられる正論に、思わずうめき声が漏れる。
俺の理性の言う通り、日の呼吸は俺の家系しか使えないわけじゃない。他の呼吸と同じように、適正があれば使うことはできる。縁壱さんの日輪刀も黒色だったことを考えると、どの系統を極めればいいか分からないと言われている黒刀こそ、日の呼吸の適正がある証なんだろうし、俺が子供を作らなくても、黒刀の剣士さえいれば継承することは可能だ。カナヲのことは好きだけど、カナヲの幸せを考えるなら、弟子に継承するのが一番いいんじゃないか?
うーんうーんと唸りながら考え込んでいると、いつの間にか顔を上げていたカナヲが無言で居心地悪そうな表情を浮かべていることに気が付いた。
あ、しまった……。完全に自分の世界に入っちゃってたな……。
「ごめん、カナヲ。もう大丈夫だから、検診を再開してもらってもいいかな?」
「……いいの? 凄く悩んでいたみたいだけど……」
「うん。でも、大丈夫だよ。すぐに答えを出さないといけない話でもないから」
そう言って話を打ち切ると、カナヲは心配そうに俺の顔をじっと見つめてきたが、俺に相談する気が無いことを悟ったのか、聴診器を取り出し、自分の耳に装着した。
「じゃあ、次は心臓の音を聞いていくね」
「うん、よろしく」
そう返事するや否や、俺の上の服をはだけさせ、胸の辺りに器具を当ててくるカナヲ。
カナヲが心臓の音を聞いている間、特にすることもないからカナヲのことを見つめてみる。
しっかりと手入れされている黒い髪、自然と視線が引き寄せられるほどの美貌、細身ながらも女の子らしさを感じる体つき、独特の儚げな雰囲気。
綺麗だな……。
カナヲの容姿に見惚れていると、カナヲが突然俺の顔を覗き込んできた。
「どうかしたの?」
「え!? な、何もないよ!?」
「そう? 心臓の鼓動が早くなってたけど……。気になることがあるなら言ってね?」
「気になること……」
カナヲのことが気になる、とはさすがに言えない。というか、そうか……。心臓の音を聞かれると、こっちの精神状態まで分かっちゃうのか。となると、迂闊なことは考えない方がよさそうだな。
そんなことを思っていると、カナヲがはっと何かに気付いたように目を見開いた後、聴診器をいっそう強く押し付けながら問いかけてきた。
「そ、そういえば、炭治郎は好きな人はいるの?」
「え!? す、好きな人!?」
「う、うん。あ、でも、この音はいる音だね」
「えっ!? これ、そんなことまで分かるの!?」
「うん。善逸が音で心を読むのと同じ原理だよ」
にこにこと微笑むカナヲ。
ただ、今の俺にはその笑顔は恐怖の対象でしかなかった。
これ、このままだと俺の気持ちが暴かれていくんじゃ……。こうやって俺の気持ちを確認しようとしてるってことは、カナヲはまだ俺の気持ちに確信を持ててないんだろうけど……。とりあえず、確信を持たれる前に何とかしないとな。
そう思うと同時に、すぐに対処法に気が付いた。
そうだ。善逸と違って、カナヲはこの器具を使わないと音を聞けないんだから、カナヲの腕さえ俺の体から離してしまえば、音は聞かれないはず!
そう思い、カナヲの腕を握る――が。
「あ、あれ?」
全力でカナヲの腕をどかそうとしてるのに、ぴくりとも動かなった。それこそ、俺の体とカナヲの腕がくっついてるのかと思ってしまうくらいに。
な、何で動かないんだ!? 女の子のカナヲより俺の方が腕力は上のはずなのに……。
疑問に思いながらも、ぐっぐっとカナヲの腕を引きはがそうとしていると、カナヲがにこっと微笑んだ。
「駄目だよ、炭治郎。あの戦いが終わった後、機能回復訓練もしてないでしょ?」
「え? 確かに、してないけど……。もしかして、カナヲはしたの!?」
「うん。この家には女の子しかいないから。何かあった時は私が守らないと」
「あ、そっか……」
「うん。私よりも強い男の人が一緒にいてくれたら安心できるんだけどね」
「カナヲよりも強い男の人かぁ……」
いるのかなぁ、そんな人。衰える前の俺ならカナヲにも負けなかったと思うけど、カナヲの腕を引き離すことすらできない今の俺じゃ、とてもじゃないけど……。
「いや! いやいやいや!」
しっかりしろ、炭治郎! そんな弱気でどうする! 確かに、今の俺は衰えてしまっているけれど、好きな人がこうして助けを求めているんだ。結婚とかまでは今の俺には考えられないけど、せめて一緒にいる時くらいはカナヲのことを安心させてあげたい。
「あのさ、カナヲ。今から全力でカナヲの腕を押し返すから、カナヲも全力で抵抗してくれないか? 俺の方がカナヲよりも強いって証明したいんだ」
「えっ? あ、うん。えっと……じゃあ、抵抗するね?」
俺が何のためにそんなことをしようとしてるのか分からないのか、困惑気味に頷くカナヲ。
カナヲの腕に力が込められたのを確認した後、俺はカナヲに付けられた鼻栓を外した。
「すー……。ふー……。すー……。ふー……」
大きく深呼吸を繰り返しながら戦っていた頃の記憶を思い出す。
あの戦い以降、一度も修行なんてしていないけれど、あの戦いの日々で培った知識や経験は何一つ忘れていない。縁壱さんから受け継いだ日の呼吸、鱗滝さんから教わった全集中の呼吸、玄弥に習った反復動作、そして、煉獄さんの言葉。
家族のみんなの顔を思い出し、心を燃やす!
そう思った瞬間、全身が燃えるように熱くなり『この衰えた体のいったいどこにこんな化物じみた力が眠っていたんだろう』と思ってしまうほどの力が右腕に溢れてきた。
よし、これならいけるはず!
握った時にカナヲの腕に痛みを与えないように引き離す方向にだけ全ての力を加えると、カナヲの力と俺の力がせめぎ合い、先程までは一寸たりとも動かなかったカナヲの腕が大きく震え始めた。
ただ、押し返すことまではできず、膠着状態が続く。
「ぐっ……!」
駄目だ! 基礎体力で劣っている分は、痣の力で何とか対等にまで持ち込めてるけど、あと一押しが足りない! 持久力勝負じゃ俺の方が不利だし、俺の方が有利な部分で勝負しないと! 集中して、透明な世界に入れれば押し返せるはずだ!
大きく息を吸い、カナヲの体を注視すると、本来なら見えないはずのカナヲの肺の動きや筋肉の収縮がはっきりと像を結んだ。一瞬ではあるが、脈動に合わせてカナヲの力がわずかに弱まる瞬間があるのが見える。
この瞬間に、俺の全力を合わせれば……!
そう思った矢先、その時が来た。
「うぉおおおおお!」
カナヲの力が弱まった瞬間に合わせて、全力で叫びながら右手に力を込めると、一寸ほどではあるが、カナヲの腕を俺の体から引き離すことができた。
「や、やった……」
単純な力比べだから、これで勝ったからと言って俺の方が強いことにはならないけれど、それでもカナヲに勝つことができたという事実は大きい。衰え切った俺でも勝てるなら、自分の子供に俺の全てを継承すれば今の俺よりも強くなれるはずだし、カナヲは安心して暮らせるようになるんじゃないか?
そう思った瞬間、全身から力が抜け、視界がぐるんと一回転した。
「あ、あれ……?」
何が起きているのか理解できずに困惑していると、視界に天井が映り込み、その天井が俺からゆっくりと離れていった。
ただ、天井は固定されているから離れていくわけがない。
離れていっているとすれば、それは固定されていない俺の方で――
「……っ!」
そこまで思い至ったところで、ようやく自分の体が後ろに倒れかけていることに気が付いた。
おそらく久しぶりに呼吸を使ったことで酸欠状態になってしまったんだろう。
お腹に力を入れて体勢を戻そうとするが、体にまったく力が入らなかった。しかも、体がわずかに左側に傾いているせいで、左腕の感覚が無い俺には受け身を取る術がない。
やばい、このままだと頭から落ちる……っ!
痛みへの恐怖で目を閉じた、その瞬間。
「っ! 炭治郎!」
悲鳴にも似たカナヲの声が聞こえたのと同時に、俺の頭がぐいっと横に引き寄せられた。一拍遅れて、床の硬い感触ではなく、むにゅっという柔らかい感触を顔に知覚する。目を閉じていたから詳しいことは分からないけれど、おそらくカナヲが俺の頭を引き寄せて体で受け止めてくれたんだろう。
あ、危なかった……。カナヲが助けてくれてなかったらどうなってたことか……。
ほっと安堵の息を吐いた瞬間、今度は胸の辺りに激痛が走った。滝のように汗が流れ始め、酸欠の影響なのか目の前が真っ暗になる。
「ハッ……! ハッ……! ハッ……!」
呼吸が激しく乱れ、ドクッドクッドクッドクッという激しい鼓動の音が頭の中を埋め尽くす。
くっ、呼吸の反動が来た……っ! しかも、これはかなりきつい……っ! 衰えてるから仕方ないとはいえ、ほんの三十秒ほど使っただけでこんな風になるなんて……っ! ……いや、でも、衰える前と同じ感覚で全力を出したんだから、こうなって当然か。言うなれば、まったく運動してなかった高齢の人が若かった時の感覚で全力疾走したようなものなんだから。そんな無茶をして、体が耐えられるわけがない。
「ゲホッ……! グッ……! ゴホッ……! ガハッ……!」
「た、炭治郎、落ち着いて! 慌てなくていいから。ゆっくり呼吸して」
そう言いながら、小さい子供をなだめるように背中をさすってくれるカナヲ。
うぅ……。何をやってるんだろう、俺は……。カナヲを安心させるために力を見せつけようとしたのに、その結果、カナヲに心配かけることになるなんて……。
自分の不甲斐なさを恥じながら三十秒ほど呼吸を繰り返していると、少しずつ呼吸の乱れが整い始め、真っ暗だった視界が見えるようになってきた。同時に、自分の顔がカナヲの胸に埋められていたことに気付く。
「わっ! ご、ごめん、カナヲ! こんなことするつもりじゃ――」
「だ、大丈夫……?」
「……え? あ、うん。カナヲが助けてくれたから……」
「よかった……」
ただただ俺のことだけが心配だったのか、ほっと安心したように息を吐くカナヲ。
その姿を見た瞬間、治まりかけていた心臓の鼓動が再び早まったのを感じた。さっきまでの息苦しい感じではなく、心地いい感覚が胸の内を満たしていく。
あぁ、やっぱり好きだなぁ……。
今まで幾度となく思ったことではあるけど、改めてカナヲのことが好きなんだと実感する。
カナヲは見た目も綺麗だけど、それ以上に心が本当に綺麗だ。自分のことは後回しで、いつも人のことを考えていて……。カナヲのそういうところは一人の人として尊く思えるし、愛おしく思える。そんなカナヲと結婚して家庭を築けたら、きっと幸せなんだろうな……。
そんなことを思った後、右手に力を込めて体を起き上がらせようとすると、カナヲが心配そうに問いかけてきた。
「も、もういいの? まだ汗がすごいけど……」
「うん。でも、もう大丈夫だよ。汗は時間が経てば止まると思うし。それに、こんなところを誰かに見られたら誤解されちゃうかもしれないから」
「? 誤解?」
「うん。大量に汗を流してる男の人が女の子に覆いかぶさってたら、ほとんどの人は男の人が女の子を襲ってるって思うだろ?」
そう言った瞬間、廊下からドドドドっという大きな足音が聞こえてきた。
「何事ですか、先程の叫び声は!?」
力比べをしていた時の声を聴いて駆けつけてきたのか、扉をバンっと勢いよく開け、心配そうな声と共に診察室に入ってくるアオイさん。
同時に、俺達とパチッと目が合った。
「「あ……」」
「………………は?」
やばい……、という表情を浮かべる俺達に対して、眉を顰めながら低い声を出すアオイさん。
慌ててカナヲから離れるが、時既に遅し。
その様子が却って、やましいことをしていたのを必死に誤魔化そうとしているように見えてしまったらしく、アオイさんは「なっ」と困惑した後、今度は「なっ!」と赤面し、最後に「なぁっ!?」と絶叫した。
「い、いいいいったい何をしようとしていたんですか!?」
「い、いや、これは誤解なんだ! そうだよな、カナヲ!?」
「…………っ!」
こくこくこく、と額から冷や汗をだらだら流しながら何回も頷くカナヲ。パニックになってしまっているせいなんだろうけど、俺から見ても、やましいことをしていたのを必死にごまかしているようにしか見えない。
「……あの、どう見ても、カナヲがあなたを庇っているようにしか見えないのですが」
「すみません……」
何の反論もできず、素直に謝る俺。
アオイさんはそんな俺に対して厳しい視線を向けた後、はぁ……と大きく溜息を吐いた。
「あのですね、炭治郎さん。思いが結ばれて、嬉しくてたまらないという気持ちは理解できますが、だからと言って、いきなり押し倒すのはどうかと思いますよ」
「……うん? 思いが結ばれて?」
「違うんですか? カナヲと祝言の準備をすると言っていたので、てっきりあなたがカナヲに婚約を申し出て、それを受け入れてもらえた嬉しさのあまり、カナヲを押し倒したのかと思っていたのですが……」
「え!? い、いや、あれは義勇さんの祝言に参加する準備を一緒にしようと思ったっていう意味で、俺達はまだそんな関係じゃ……」
「ま、まだ!?」
俺の発言を聞いて、驚愕の声を上げるカナヲ。
しまった……! これじゃ、いつかはそういう関係になりたいって思ってるみたいだ!
「い、いや、今のは違くて……。その、言葉の綾というか何というか……」
しろどもどろになりながら弁明してみたが、カナヲはいっぱいいっぱいになってしまっているのか、顔を真っ赤にしながら汗をだらだらと流していて、俺の声が聞こえているようには見えなかった。
ど、どうしよう!? 何とか誤解を解きたいところではあるけど、カナヲはもう完全に俺の声が聞こえて無さそうだし……。
「ア、アオイさん……」
助けを求めてアオイさんに目を向けると、アオイさんが俺達の様子を見て、ふっと、泣きそうな嬉しそうな、そんな安心したような笑みを浮かべた。
「すみません、私の勘違いだったみたいですね。何事もないようなので、私はこれで失礼します」
「え!? アオイさん、待って!」
この状況で置いていかないで! という思いも空しく、診察室から出ていくアオイさん。
気まずい空気の中、しばらく黙り込んでいると、カナヲがようやく自分の世界から戻ってきたのか、遠慮がちに問いかけてきた。
「あ、あの……、さっきアオイが言ってた話って……」
「え? ……ああ、今日は診察以外にも用件があってさ。カナヲさえよければ、義勇さんの祝言に参加するのに必要な物を二人で買いに行かないか?」
「ふ、二人で!?」
「うん。嫌じゃなければだけど……」
「嫌じゃない! 行きたい! いつ!?」
「え? いや、カナヲの都合が良い時で大丈夫だよ。俺はそんなに忙しいわけじゃないから」
「じゃ、じゃあ、三日後でもいい? 三日後なら定休日だから」
「うん、分かった。じゃあ、三日後に迎えに来るよ」
「う、うん、楽しみにしてるね」
そう言って、待ち遠しそうに目を輝かせるカナヲ。
こうして、俺達は明日買い物に行くことになった。
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