エヴァンゲリオンANIMUS 幼年期の終り   作:しゅとるむ

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第一話 母星を継ぐもの

 色々な番狂わせがあった。

 ヒトの集合世界の終焉となるはずの局面、ジオフロントは空に向かって口をあけ、そのとき量産型エヴァの輪舞の中心に居たのはエヴァ初号機ではなく弐号機。

 人類補完計画の最後の儀式がアスカの弐号機を中心に発現しようとするとき、ネルフ本部施設に押し寄せた勢力を辛くも撃退したエヴァ初号機が生命の祭儀に割って入る。

 ロンギヌスの槍に刺し貫かれたエヴァ弐号機を頂点に空中に描かれた生命の樹は崩れ、シンジは結果、人類補完計画の成立を壊してしまう。 そこからANIMAは始まる。

 

(エヴァンゲリオンANIMA一巻 巻頭辞より)

 

 

 シンジは首に掛けたタオルを取って、額から伝う汗を拭った。

 

 農作業用の──首を前後に日除け用の幕で覆う帽子を被り、腰を屈めては畝や畦に胡麻塩のように生えた雑草を抜いていた。

 

 日差しが容赦なく照りつけてくる。太陽は、この小さく縮んで地球とも月とも言えなくなり果てた『元・地球』に対して、夏の手を緩めるつもりはないようだ。

 

「また、畑仕事?」

「ん……アスカ。せっかく受け継いだ畑を一度ダメにしてしまったからね。一からやり直してるんだ」

 

 背後の声に驚くでもなくシンジは応答した。いつの間にか、後ろに立っているアスカの影が、シンジに束の間の日陰の涼をもたらした。

 

 来たんだ──とは無意味な台詞だから言わない。そういえば、最近アスカはほぼ毎日のようにここに来ている。シンジの方は来てくれ、とも来るなとも言わない。どの道、アスカが素直にシンジの言うとおりにするわけがない。

 

 なんだっけ。そうだ、──碇シンジにとってアスカという存在は──「私だけは唯一思い通りにならないリアル」──彼女は自らそう言っていた。それがアスカという存在の本質らしい。

 

 アスカの服装は下はカモシカのような生足を最大限に見せつけるようなデニムのホットパンツ。上は真っ赤なビキニの水着を装着して、日除けの積もりか赤いリボンを巻いた白い麦藁帽子を被っている。白皙の玉の肌には汗の水滴が幾つも浮かび、二つの丘陵の小高さもあって、妙に艶めかしい。

 

「んもォ、超暑いじゃない」

 

 相変わらず露出度が高いよな、警備部がガードしていても、ちょっと心配なんだけど──シンジがそんな風に内心思っていると、アスカがいきなり、手に持っていた何かを放った。素早くシンジはそれを受け止める。黒と赤のレーベルの缶入りコーラだった。

 

「ビールじゃなくて悪いけど──差し入れ」

「僕らはまだ未成年だ。……でも、さんきゅ」

「委員長だからって、優等生ぶっちゃって」

 

 アスカはそう言って鼻を鳴らす。

 

 シンジがプルタブを引っ張り、生ぬるくなった泡が噴き出す。

 

 慌てて、シンジは口を寄せ、噴出するコーラを啜って口の周りを泡だらけにした。

 

 ──この生ぬるさが、心地良いんだよな。曖昧で、毎日変わらず、安心感があって──

 

 というのはコーラの事よりも、むしろアスカとの関係の事らしく。

 

 アスカと出会ってからもう三年にもなる。初めての頃は万事に当たりが強いという印象の彼女だったが、単に性格のキツさだけでは説明し難い複雑な存在が彼女、惣流・アスカ・ラングレーだ。十七歳。シンジと同じ高校に通う高校生。

 

 三年前に比べてその胸は豊かに育ち、手足の先は胴体からの距離を順調に広げて──すれ違う一般人をどこの読モ?と振り向かせたりもするらしい。まあ、このところシンジには、アスカと二人で街に遊びに行くような機会も少なかったので仄聞にはなるのだが。

 

 いや、お前──機会じゃなくて勇気がないだけなんじゃないか? 確かにアルマロス争乱は二人を引き裂くように遠ざけていて、逢い引きどころでは実際に無かったのだけれど、その前だって別にお前は積極的にならなかったじゃないか──とシンジは批判的に自問する。

 

 シンジが髭になった泡をタオルで拭うと、アスカは小首を傾げる。

 

「受け継いだって、確かリョウジからだっけ?」

 

 加持のことを下の名前で呼んだアスカはミサトたちの世代のオトナを男女問わず呼び捨てにしている。といって、とりたてて他意があるわけではない。アスカにとっては加持リョウジは、自分を帯同してドイツ支部から日本に引率してきた気のいいオジサンに過ぎない。日本人ではなかなか年上には気後れしてしまって出来ないような態度も、ドイツ生まれ、アメリカ育ちの彼女にとってはそれが普通でフランクな対応だった。

 

「そう、元々は加持さんのスイカ畑だった」

 

 そういえば、本部決戦が終わった後、いつの頃からか、シンジはリョウジと同じように髪を伸ばして後ろで結んでいる。髪型と畑を一緒に引き継いだのかも知れない。男同士の繋がりというのは分からないものね、とアスカは思った。

 

「シスから聞いたよ。僕がいない間、アスカもこの畑を守ってくれてたって。ありがとう」

 

 シンジがそう改めての礼を言うと、アスカは照れくさいのか、そっぽを向いた。

 

「……別に──統合体だった時の記憶は曖昧だし」

 

 それはアスカがエヴァと渾然一体となりエヴァ統合体、クリムゾンA1というコードで呼ばれる存在だった時の行為だ。

 

「でも、エヴァと一緒になってた時もアスカはアスカだったんだ。だからこの畑を守ってくれたんだと思うよ」

「私にはスイカ畑なんか──どうでもいいのヨ」

 

 アスカ以外の多くの人間もこの畑を気にかけていた。それはシンジ──碇君だの、いかにクンだの呼び名は様々だが──の大切にしてきたものだから、それ故に、ふらっとこの世から消えてしまいがちな落ち着きのない彼を現世につなぎ止める存在になると感じていた。まさに彼の姓と同じく、(アンカー)になると誰言うともなく信じていたのだろう。

 

「あんたはどうにも方向音痴だから、ここに戻ってくる為の手がかりが必要だと無意識に思っていたのよ、みんなはね」

「うん、ありがたいと思ってる」

「……一応、みんなの中に私も入ってるから」

「分かってる。そこまで恩知らずじゃないって」

「私のこと、忘れてた癖に」

 

 アスカが睨み付けると、シンジは不器用に肩をすくめた。アスカのように煌びやかな少女にそんな台詞で難詰されたら、自分のことを色男だと勘違いしてしまいそうだ。結局、シンジは何と答えていいか分からず、逃避のように農作業に再び戻る。

 

「……面白いの?」

 

 しばしの無言の観察の後に、アスカが訊ねたのはシンジが没頭している農作業についてだ。アスカは手伝おうとはしない。──シンジを見守るだけ。

 

「面白いというか……命を育てるのって大切なことだと思えるからね」

 

 自分の命を張って、他人の命を守るために、見知らぬ人もよく知った人も問わず多数の人間が無差別に命を落としかねない戦場に身を置いていると、人間性が乾いてくるのを感じる。たいせつな人は別格としても、鴻毛よりも軽くて良しともされる命の大量消費の中で、生命価値のインフレーションを感じるのだ。

 

 恐らくはシンジが感じたのと同じようなことを、加持リョウジもまた銃弾飛び交う戦場ではなく、エスピオナージュという別の戦場で感じていたに違いない。その渇きを癒すのが、きっとスイカだった。丹誠を込めて、瑞々しい果実を育てることがきっと喪われた命の代替えになるような気がしていたのだ。だからこれはある意味では鎮魂なのかも知れない。

 

 世界は今一度、シンジやアスカたちが救った。結果として、この星はもう地球でも月でもない程に小さく変わり果てた。その後始末などは尚も残るだろうが、しかし、何かを育てるのにはきっと良い「季節」なのだ。

 

「命、ね。育てるのも大切だろうけど、産むのだって大変な事よ」

「……えっと」

「私がシンちゃんを産んだ時もそりゃあ大変な難産で」

「アスカ……」

 

 赤面しながら、シンジは言った。

 

「もうそろそろ、その弄りは勘弁してよ」

「あらどうしてよ、私の赤ちゃん(マイ・ベイビー)。あんたは私がこの世に産んであげたんだから──ママに相応の敬意は払いなさいよ」

 

 からかい気味にアスカが言っているのは、無原罪の御宿り──処女懐胎と評された──アルマロスとの最終対決で一度は消滅したシンジの「出産」のことだ──アスカエヴァ統合体の下腹部から、彼女の猛烈な痛みを伴って、空間を裂いて、シンジと彼のエヴァンゲリオン最終号機は出現したのだ。

 

 繰り返し人類補完計画成就を試みるための生命情報のバックアップデータベース──「箱船」の中のシンジの生命情報に触れていたアスカは、一旦は無となって喪われたシンジを再び、現世に産み直したのだ。それは産む性である女にしか成し得ない事。かつてはエヴァ操縦を巡ってシンジに対抗心さえ燃やした彼女は、彼女にしか出来ないやり方でシンジを救った。

 

「そんな……、僕は本当にアスカに産んでもらった訳じゃ」

「でも、アレは多分本物の出産と同じ痛みだったわよ。私と弐号機との統合がショックで解けてしまうほどだったんだもの。私、まだ処女(ヴァージン)だったのにさ」

「ご、ごめん」

 

 ──ま、今だって処女な訳だケド!

 

「軽く謝られてもねぇ。これから、……多分あんたには同じような痛みを最低でも二回は味あわされるだろうしナ」

「二回? 何の話を……」

「は、知れたことを。処女喪失(ロスト・ヴァージン)と出産に決まってるでしょ」

「えっと──」

 

 シンジは頭を掻いた。アスカが言ったことに対する照れはそんなにない。アスカとはまだキスしかしていないけど、既に彼女から愛を告白された──

 

 ──たとえこの世界すべてがあなたの思いを叶えた平和な場所に変わったとしても、私だけは唯一思い通りにならないリアルとしてあなたを愛してあげるわ

 

 そう言って、アスカはシンジの唇を奪ったのだ。いや、あれは束の間、シンジとアスカの感覚が交錯した内面世界の話なのかも知れないけれど……二人が共有している記憶なのは確かだった。

 

 シンジはそれに対してまだ何のリアクションも回答もしていない。返答が要るのかも分からない。そんな曖昧な心地よさをアスカとの関係では維持しているのだけれど、たぶん自然の勢いとして、いずれはそうなるのだろう。だから、シンジはそれを正面から受け止めながら、アスカを気遣う。

 

「……男が女性に負担を掛けること、申し訳ないと思ってるよ」

「──うん、ま、あんたが悪いわけでもなんでもないけどね」

 

 それでも、男に労りと優しさは求めたい。女だから──包み込んでもらいたいと思う。同時に、包み込んであげたいとも思うけど。

 

「でも、アスカを母さんと呼ぶのはイヤだ」

「あらそう──せっかくお腹を痛めて産んであげたのに。マザコンシンジが、いっちょ前に反抗期?」

「アスカには、子供でなく男だって思って貰いたいからね」

「それは──むろん──好いことだけど」

 

 意外にも押しの強いシンジの返事に、アスカも口を噤んで、目許を朱に染める。それはずっとアスカも望んできた二人の有り様だ。

 

 シンジは元々は、母親である碇ユイのクローン体である綾波レイに惹かれていた。母を知らない少年が、初めて母を知って、母を求めた。本部防衛戦後、その隠された真実を知るに至って、シンジは№トロワを筆頭とする綾波レイたちに一線を引いたかのようだった。それがあるいはトロワやカトルたちの動揺を誘い、今度の動乱の端緒になったのかも知れないのだけれど。

 

 『彼女を選んで補完計画を壊した』№カトルにそう批判された言葉は、今でもシンジの耳朶に残っている。この世界は、シンジが彼女──言うまでもないがアスカのことだ──を選んで、ある意味ではその選択が、作り出した世界だ。

 

 いずれにせよ、それは母から卒業する──シンジにとっての幼年期の終わりだ。

 

 ──だというのに、今度はアスカが母親面して、僕を「産んで」しまった。……いったい全体、どうなっているんだ。

 

 だからシンジはアスカにも子供扱いはしないでよと釘を刺しつつ、内心この成り行きには憮然とせざるを得ない。

 

 

「そういえば、新しい月、どうするのかしらネ」

 

 マウンテンバイクのリアキャリアに載せてわざわざ持参した──折り畳み式スツールに腰掛けたアスカが小首を傾げて、それから昼の空を見上げた。月は見えないが、昼だからという訳ではない。月はいまや、リンゴの芯と呼ばれる人類補完計画の実験地と共に、太陽を巡る軌道上の地球の反対側──いわば地球公転面を赤道面とする架空天体上の対蹠点(たいせきてん)に存在している。太陽を挟んでちょうど真向こうにあるので、夜になっても決して月を見ることは出来ない。

 

 地球から水や大地を奪うだけ奪って、無慈悲な夜の女王である月は、行ってしまった。

 

 だからネルフでは今、衛星を取り戻す計画を検討している。潮汐の主要発生源や地球の自転速度へのブレーキ、巨大隕石の衝突を引き受ける盾──様々な役割を担っていた、地球の大きさに比して巨大な衛星──月の存在は人類文明存続のためには必要な存在だからだ。何も対策を立てなければ、いずれ人類は、澱んだ海洋における一定の生物層の壊滅、自転の加速による暴風嵐の多発、あるいは巨大隕石の衝突により、破滅的な打撃を受けるに違いない。

 

「月か……そういえば、見舞いに行った時、リツコさんが言ってたな。──私たちの月だって元々はミネルヴァの月。だから他から新たな月を──当然そういう手もあるわね……とか。アスカは意味分かる?」

 

 シンジが怪訝そうに訊ねたので、アスカは眉をしかめた。

 

 ──それってホーガンなんじゃないノ?

 

 ジェイムズ・P・ホーガンの有名なSF小説の話だ。地球の月は、火星と木星の間にかつて存在したミネルヴァという惑星の月だった。紆余曲折あってミネルヴァの月は地球の月になったという筋書きの物語だが……むろんそれは作中での設定に過ぎない。

 

「別に、大した意味なんか無いわよ。SF(サイファイ)でそういうオハナシがあるってだけ。でも、他の惑星の衛星が引力で捕獲されて別の惑星の衛星になってしまうというのは事実としてあり得るからね」

 

 とすれば、そんなお話の筋通りにどこか別の惑星から月を奪ってくる。それだって大変な話だけど。高次元から無尽蔵にエネルギーを汲み出す窓が双方向に繋がったまま維持されている今のエヴァンゲリオン最終号機の力でも、それは容易な事ではないだろう。でも、リツコの呟きは、人類が向かうべき一つの方向性を指し示している。

 

「あのさ──元々の月を取り戻す訳にはいかないのかな」

 

 シンジがずっと考え込んでいたような顔で、アスカに訊ねた。

 

「それはムリ」

 

 アスカは一刀両断だ。

 

「地球がやせ細って、その分、月は膨らんだ。あの月はもう地球には相応しくないの」

 

 地球に対する月の質量比が大きくなりすぎて、潮汐力が膨大になっていた。膨らんだ月ではなくて、元々の月でさえ、今の痩せた地球には重荷だろう。地球には新たな己の身の丈にあった伴侶──もっと小さな衛星が必要なのだ。

 

 それに「あの月」をここに戻せば、──月と地球がその質量を奪い・奪われて、主星と衛星の交代劇を繰り広げるという──せっかく離脱した人類補完計画の輪廻劇へと逆戻りだ。何のために多大な犠牲を払って、その輪から離脱したのか分からなくなる。

 

「でも僕らの月が、いなくなってしまうなんて──」

「それは未練よ。もうあの女の事は忘れなさい。薄情な女だったのよ」

 

 というのは、別にその傍らのリンゴの芯に眠るマリの事やらではなくて、月を女に擬人化して喩えたものだ。

 

「運命の相手なんてそうそういないわ。地球と月の関係もそうだったの」

「さびしい話じゃないか」

「男と女って所詮はそんなもの──それが許せない?」

「許すとか許さないとかじゃなくて、少しだけ残念に思うんだ」

 

 それは一体何の話だったのか、地球と月ではなく、男と女の話だったっけ?

 

 シンジが話の展開に戸惑い、首を傾げながらも、心の思うままに想いを紡ぐと、アスカは笑った。

 

「──安心しなさいよ」

 

 シンジは地球と月のように太古から共に存在するのが当たり前の存在でさえ別離をするという事に、世の無常を感じ取ったのだろう。何事も同じままでは居られない。同じ川に二度は入れない。

 

 元々碇シンジは多感な男子だ。そういう詩的な感応力というか、世界を我が事のように繊細に結び付けてしまう感じ方がなければ、世界の中心になって人類の運命を左右する存在になることもついに無かったに違いない。アスカはシンジが──ややもすれば理に囚われる自分だったら切り捨ててしまうような些細なことに悩めるシンジだから──、興味深くて、好ましいと思えるのだ。

 

 いつの間にか、シンジから取り返していたコーラ缶を傾け、生ぬるく気の抜けたコーラの残りをアスカは喉に流し込む。シンジからの視線を感じて、アスカはようやく気付く。

 

 あら、そういえばこれ──間接キスよネ。でもそんな事は、もう気にならない──気にする必要もないでしょ。だって──シンジと私は。

 

「好きな男子を自分の子として孕み、処女の身で再誕させる──こんな経験をしたのはきっと私とあんただけだ。通りすがりの男と女じゃないわ。親と子がいつまでも親子である事を断ち切れない関係であるように、いつまでも一対の男と女である事が約束されたのが、シンジと私。アダムとエバにして、イエズスとマリア──これは運命をも超える、地球と月の特別な関係さえ平凡だと思わせる程の関係よ」

 

 アスカはさらっと自分の気持ちを長口上の中に混ぜ込んだ。元々西洋人の彼女には、日本式の一面ウジウジとした告白とかいう慣習に馴染みはない。好きなら好きと言うだけだ。もちろん、照れが無いわけではないから、話がどうしても大仰になるのだが。

 

「──ぐいぐい来るんだね、アスカ」

 

 シンジは笑った。茶化してる訳ではない。でも照れくささが充満してしまいそうな空気を何とか平静に保つにはこんな(はす)に構えた返事しか思い付けない。

 

「誰かサンがなかなか手を出してこないからでしょ」

「戦機を見極めてるんだよ。一緒になった後、一生アスカに頭が上がらないのは困るからね」

「ナマイキ!」

 

 ──とは言いながらも、アスカもそんなシンジが面白いと思っている。恋の駆け引きという、男と女の綱引きにはエヴァでの戦いのようにいつも昂奮させられる。アスカがいみじくも告げたように、アスカがシンジにとって唯一思い通りにならないリアルならば、シンジもまたアスカにとって唯一思い通りにならないリアルということになる。

 

 異性が自分ではない──明らかにままならない他者であるからこそ、その反応が時に摩擦や反撥を生み、しかし、それはどこまでも己の身内から出て来るものではないだけに、世界が驚くほどの新鮮さを持って広がり、その交わりが生み出す可能性は極大化する。

 

 そんな風に、異性による生殖というのは、遺伝子レベルでも、A+Bではなく、A×Bによる可能性の極大化を造化の神が企図したものではなかったか。AとBが異なる存在であればあるほど、それが産む可能性は高みに上るのだ。

 

「去る女あれば、残る女あり──」

 

 アスカが呟いた。残った女は誰がいる──私と三人になった綾波、そしてミサトか。シンジの周りの女に限っても随分と居るものだ。それでもシンジは寂しがるというのだから、なかなか贅沢なものだ。

 

──かわいい顔をして、天然の女たらしめ。

 

「何か言った?」

「別に。……そういえば、リョウジはミサトと寄りを戻したらしいわよ」

「そう、なんだ」

 

 アスカも少女らしく恋バナには関心が強い。だけど、ミサト周りについてはそれだけではない。パイロット風情でさえも、適切にアンテナを張っていれば、色々きな臭い話も聞こえてくる。

 

 危機を乗り切って何とかその力量を示したネルフJPN総司令の葛城ミサトだが、その立場は実を言えば微妙だ。一つには国際的なもので、大量のエヴァ占有によるネルフJPN一強の状態に対する反撥──政治的な反作用がある。

 

 ある意味ではこれは伝統的なもので、ユーロ軍が合同で日本国土を侵したことさえあったほどだ。世界全体が騒がしくなれば、そうした人類同士の争いは一旦収まる。ということは、世界が再び平和になれば、そうした争いは否応なく再燃するということだ。

 

 例えば、彼女の指揮下ではエヴァパイロット達の独断専行が目立った。結果オーライで世界は救われはしたものの、それを彼女の指揮能力不足として批判する動きもなくはない。公の場でこそ言えないが──つまりは公に出来ない批判など陰口でしかないのだが──女だてらに将官というのはやはり威厳や統制力の点で不足がありますな、などと──まだまだ男社会からの卑劣で陰湿な批判も少なくはないのだ。

 

 むろん、批判する側も半ば難癖だと分かっていて行う類の批判だ。そして、今一つは時間停滞スフィアから帰還した前所長碇ゲンドウの存在だ。ゲンドウはまだ精密検査と外部からの隔離遮断を兼ねて入院中ではあるが、いずれは外部に出て来ることになる──その時に至って、前者の動きと後者の事実が結合すれば、ミサトを引きずり下ろして、ゲンドウを元通り司令に据え直すという動きがあっても不思議ではなかった。だからこそ未だにゲンドウを隔離しているという側面もある。迂闊に外部に晒せば、各国は復権を餌にゲンドウを自らに取り込もうとするだろう。鍵となるのはゲンドウ自身の意志だ。

 

 アスカは、同じ女だからという理由でミサトに与する積もりはなかった。大切なのはあくまで能力だが、ミサトはその資質を事実を以て証明した。それなのに各国の思惑がミサト下ろしに向かいつつあるのは面白くない。だから、加持リョウジと葛城ミサトが寄りを戻したのなら、リョウジがミサトを適切に応援してサポートしてやればいいと思うのだ。

 

「総司令は、女には向かない職業──なんだってさ」

「え、なんで」

 

 突然の話にシンジは目を白黒させた。前後の文脈が分からないからというのもあるだろうが、シンジには本当に性別と適性を結び付ける考え方が理解できないようだ。ミサトさんは適任じゃないか。性別なんか考えてもみなかった。

 

 ──よし。

 

 シンジのその真っ当な反応にアスカは、満足しつつ微笑んだ。

 

 総司令以外にも現行の登録エヴァパイロットはシンジ以外にはアスカ、綾波レイ№シスの三名だ──三分の二が女性であるというのに……彼女たちによって世界は守られているというのに、一部の男どもは恩知らずなものだ。

 

 一方、それ以外のエヴァパイロット──綾波レイ№カトルと同トロワと洞木ヒカリは叛逆行為により登録が凍結され、処分が検討されているところだが、カトル以外はこれまでの功績に鑑み、寛大な処分に落ち着く事だろう。トロワの叛逆はロンギヌスの槍をあくまでも守ろうとした故の抗命で、ヒカリに至ってはアルマロスを倒したものがアルマロスになってしまうという抗い難い仕組みによるもので、彼女の罪ではない──。

 

 問題はカトルだが、終始アルマロス側に付き、動乱のきっかけともなった彼女の立場はなかなかに難しい。今、ミサトが彼女たちの保護に向けて働きかけているが、カトルはエヴァパイロットであるマリを喪った米国に引き渡されるという案に光が見えてきた。すると各国のバランス上、むろん、ヒカリはユーロに戻されるのだろう。

 

 ──まるで賠償艦ね。

 

 戦後に敗戦国が戦勝国に賠償として引き渡す海軍艦船に喩えてミサトは嘆きながらも、処刑といった最悪の事態は免れそうでほっとしていた。まあ、各国の政治家や軍人も、さすがに少女を処刑するのは後味が悪いというのもあるのだろう。政治家には選挙で不利になる血塗られたイメージも付いてしまう。女子供には優しく。それが民主国家の政治家の必須条件だ。

 

 必死になって守った世界なのに、なんだか大人のリアルを垣間見て、アスカは些かげんなりしている。もちろん自分たちだって少しずつ大人になっていく。賢い子供ならば、そんなにまでして、大人の守りたいものや大人の苦しさも色々と考えてやらないといけないのだけれど──

 

「あ、そうか」

「ん、どうしたの」

 

 ──だから、毎日シンジと彼のスイカ畑を見に来ていたんだ。

 

「……ここが好きなのよ」

「へえ。意外だな」

「だって、ここには汚いものがない」

「え、泥だらけだよ」

「それがいいのよ」

 

 命を産み出すというのは、そうした汚穢から逃げ出さない事だ。綺麗事と策謀の中に生きるのではなく、目の前の命と正面から向き合うことだ。綺麗だけど汚いものではなく、汚いけど綺麗なものを選ぶのだ。だから──

 

「手伝えること、ない?」

「アスカが?」

 

 肯定の返事の代わりにアスカはスツールから勢いよく飛び降りた。

 

「よこしなさいよ」

 

 シンジが水やりをしている如雨露を奪って、アスカはシンジに訊ねる。

 

「で、どうすればいいの?」

「土が乾いてる所だけ、水をやって。あまり水をやり過ぎると、甘さが落ちる。……スイカの原産地はアフリカの砂漠やサバンナだから」

「へぇ、随分遠くに旅をしてきたものね」

「……僕らもアフリカから来たんだろ」

「そう、アフリカを抜け出したら、私はヨーロッパへ。あんたはアジアへ。その時、喧嘩でもしたのかしらネ♪ そしてこの国で再会した」

 

 機嫌よく言って、アスカは鼻歌を歌いながら、水をやり始める。それを見て、シンジは背中から声をかけた。

 

「あのさ……終わったら、街に遊びに行こうよ」

「いいわよぉ。やっと勇気を出せたのね♪」

 

 その言葉に、シンジはアスカがずっと待っていてくれたことをようやく理解するのだった。

 

 

「アイツ、どうしてるのかな……」

 

 駒ヶ岳頂上の射撃ポストから、綾波レイ№シスは、乗機の0・0エヴァの全天周囲モニタ越しに天を見上げる。非番のアスカとシンジに代わり、定例の監視任務だ。

 

 ここは第3新東京市近辺では最も高所に位置する。地球が質量を奪われて、小さくなったことで引力圏を脱して失われた人工衛星が多数に及んでいる。今、それらの代替衛星──測位、通信、放送、気象観測、リモートセンシング……その必要性は多岐に及ぶ──を打ち上げ直す準備が進められているが、空前の打ち上げ需要の前に、いきおい四千トンからのペイロードを占有するエヴァの宇宙打ち上げは後回しになった。再び0・0エヴァが宇宙からの地上監視任務に戻るのは随分、先の事になるだろう。ひょっとしたらその日はもう来ないのかも知れない。

 

 だからこの場所は、シスとほぼ同い年の幼女パイロットが眠る宇宙のあの場所に、現時点では最も近い場所の一つと言える。

 

 リンゴの芯に突き刺さっていたルクレティウスの槍がウルフパックと呼ばれる合衆国のエヴァに抛擲されて、段々と人々があの場所について思い出す事も少なくなっている。シンジの作り出したあの槍は、彼の──そして人類の意識の限界線、世界の縁を示す槍だ。だから、リンゴの芯とそこに箱船の管理人として眠るマリの事も、人々から段々と忘れ去られていく筈だ。

 

 だけど、それで本当に良いのだろうか。

 

 シスとマリの縁は些細なものだ。同じ幼女の姿をしたエヴァパイロット。犬好きなシスと、狼の性質を持ち獣の群のような特異な四足歩行エヴァを率いるマリ。ろくに話をする事もなく、その交わりは断ち切られている。

 

 しかし、シスはマリを忘れたくはない。

 

 彼女の払った犠牲の上に、ようやくの人類の平和があり、彼女自身にもう起こさないでと言われたとしても、彼女をもう一度起こして話をしたかった。

 

 いけにえという言葉の由来を彼女は知らなかったけど、生きたまま眠る贄──マリは正しくそういう存在で、そういう存在を必要とする世界の在り方をシスは不正に感じていた。幼児故の鋭い正義感が、大人たちの判を押したような、めでたしめでたしという感慨の裏に隠されてしまったものを勇敢にも暴こうとしている。

 

 モニター上に、シスの小さく呟いた独語が、ログ保存用にテキスト化されて表示された。

 

 モウイチド、アッテ

 トモダチニナリタイ……

 

 未だに、その哀切な願いへの返答はない。

 

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