エヴァンゲリオンANIMUS 幼年期の終り   作:しゅとるむ

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第二話 ラントポメランツェの懊悩

「デートなら、帰って着替えないと」

 

 Tシャツとデニムを野良着代わりにして、農作業を一区切り終わらせたシンジが言うと、アスカは身をくねらせた。

 

「あーン、もう暑い! 水浴びしよう!」

 

 そう言って、スイカ畑に使う水を借用している近くの小川を指差す。

 

「だけど水浴びと言ったって、水着も着替えも……」

「実は下も水着だし、着替えなら持ってきてるわよ」

 

 上半身はビキニの水着で豊満な胸を見せつけているアスカはマウンテンバイクのハンドルに掛けてある大きなスポーツバッグにシンジの視線を誘導する。パンパンに中身が詰まっている気配だ。……あれ、着替えを入れていたのか。

 

「……用意周到だね」

「戦いは、常に二手三手先を読んで行うものよ。お出かけするのに、一々宿舎に戻るのなんて面倒じゃない」

 

 どこかで聞いたようなセリフだが、戦いって……。シンジが呆れたような顔をすると、アスカはニヤリと笑った。

 

「恋も戦い♪ デートは戦場」

 

 ……とすると、アスカは今日はデートに行けると踏んで、準備をしていたのか。確かに二手三手、先回りしたような行動だが。

 

「そうか。でも僕は一度戻らないと」

「なんで。一緒に水浴びすればいいジャン」

「僕は水着も着替えもないんだから、結局宿舎に戻らなくちゃ」

「あんたの着替えも入れてあるわよ。適当にシャツとパンツ持ってきた」

 

 アスカは自転車からスポーツバッグを持ってくると、ごそごそと中身を探り、スカイブルーのポロシャツと、カーキのカーゴパンツを取り出した。

 

「ほら」

「た、確かに僕のだけど、何でアスカが持ってるんだよ!」

 

 それは、シンジの宿舎のクローゼットにしまってあった筈のものだ。ふっふっふとアスカは不敵な笑みを浮かべ、ホットパンツのポケットから、カードを一枚取り出した。

 

「……ジャーン。これなーんだ」

「……そ、それは」

「そ、あんたの部屋のカードキー」

「え、僕はちゃんとカード持ってる筈だけど……」

 

 シンジが慌てて、財布を確認しようとする。

 

「うん、あんたの部屋も私の部屋もカードのデザインは同じ。今朝起こしに行って部屋に入れてもらった時に、テーブルの上に無造作に置いてあったから、すり替えたわ。つまり、あんたが持ってるキーは私の部屋のよ」

「まさか……」

 

 確かに朝、アスカの声をインターホンで聞いて、シンジは寝ぼけ眼で寝台に横たわったまま、室内管理AIにドアロックの解錠を命じた。それで、入ってきたアスカがベットサイドに立って、シンジをやかましく起こしたのだが……。あの時にカードキーをすり替えたのか。宿舎の部屋はオートロックだから確かに気付けない。

 

「いくら、警備部が保安に気を遣ったって、人間自体はアナログなんだから、いつだってそこが付け目よ」

「スパイにでもなる積もりなのかよ……って僕が出掛けた後に、……アスカは僕の部屋に入ったの?」

 

 シンジは流石に眦を吊り上げて、言葉に非難を込める。

 

「そうよ、着替えを持ち出すためにね。……何か都合の悪いことでもあった?」

「つ、都合が悪いっていうか、プライバシーとか……」

「ふーん。ベッドの下には何も無かったわよね。プライバシー的なものは」

 

 ギクリとシンジの顔が引きつった。

 

「な、何を言って……」

「でもマガジンラックには、ブロンド巨乳の……」

「わーわーわー!」

「二人だけなのに、騒いで誤魔化してもねぇ」

 

 そして、アスカはニタニタと笑った。

 

「しかし、ブロンドで巨乳の女が好きだとはねえ。だから私なの?」

「ち、違う。逆だよ……」

「逆って?」

「アスカに似てるから……その本を買ったまでで」

「ふーん」

 

 アスカの笑顔が一層にこやかになった。

 

「だから……もう捨てるよ」

「へぇ、私を?」

「雑誌を!」

 

 遊戯的に絡んでくるアスカに翻弄されつつあるのを感じながら、シンジは反論を試みる。

 

「でも流石にこんなのは酷いじゃないか」

「本当に着替えを取りに入っただけなのよ。家捜しはついで。でも気になるじゃない? 『母親』としてはかわいい息子の性癖とか」

「んー……」

 

 ──この弄り、アスカが飽きるまで続くんだろうな。下手したら一生?

 

 アスカがバッグを脇に置いて、ホットパンツを脱ぎ始めたから、シンジはドキッとして視線を反らす。

 

 それでも好奇心と男の本能に任せて、チラッと見てしまうが、下に穿いているのは、アスカが言ったとおりに真っ赤なビキニのボトムスだった。左右の両脇を紐で結ぶ形なのが、セクシーだ。

 

「ほどきやすいでしょ? 脱ぐより楽だから」

「あ、うん──そういうもの?」

「ソーユーモノ」

 

 シンジの助平心を半ば見透かすようにアスカが説明した。

 

「あんたも脱いだら? 汗と土埃、流そうよ」

「いや、でも」

「下着しかないと気にしてんの? どうせトランクスでしょ? 私は気にしないわよ。換えの下着も突っ込んできたし」

「まあそれなら──」

 

 完全に水着だけになったアスカに合わせて、シンジも上半身裸、下はチェック柄のトランクスだけになる。

 

 よく引き締まった身体だ。ほどよく筋肉も付き、贅肉はほとんどない。腹筋が六つに割れる程では無いが、男の身体として見苦しくなく、日々の鍛錬が窺われる。アスカはそれをしげしげと眺める。やっぱりナマイキ!

 

「今も──毎日ジムやってんの?」

「そうだね、トウジと時間を合わせて」

「案外そういうの好きなのね、あんた」

「無心になれるから──トレーニング中は余計なことを考えないで済むんだ」

「のめり込んでビルダーみたいなのは勘弁してよ。あんまりマッチョは好きじゃない」

「そこまでは大変だし、やらないよ」

 

 せせらぎに二人で身を浸す。小川とはいえ、部分的に深くなっている場所では、肩までなんとか水に浸かれる。

 

「あー、キモチイイ。冷たくて汗が一気に引くわね」

「暑いからね……最近は家でも冷たいシャワーばかりだよ」

「私もそうね──」

 

 それからアスカは仰向けになって浅瀬の川床に寝転んだ。まるで、ハムレットに出てくるオフィーリアみたいに、目を瞑って浮かんでみる。でも、アスカには、オフィーリアの囚われていた死への絶望の代わりに、生への渇望がある。

 

「──何か冷たくて甘いもの、食べに行きたい」

「いいね。それなら、アスカと前に一度だけ行った、宮ノ下のカフェとか……どう?」

「ああ、カフェ・ド・シキナミね。いいんじゃナイ?」

 

 シンジが隣で肘を立てて、アスカの顔を覗き込んでいる。

 

「……なあに?」

「僕ら、前にも水辺でこんな風に横たわった事が無かったっけ。似たような姿勢で」

「デジャブを利用したナンパなら、間に合ってるわヨ」

 

 アスカは横たわったまま、そっと、上に覆い被さるシンジの頬に手を伸ばした。

 

「だって、これから私、素敵な男の子とデートなんだから」

 

 と微笑んだその手の動きは優しい。

 

 

 三十分ほど水遊びをした後、二人は川から上がった。アスカの放ったバスタオルで身体の水気を拭き取っていると、先に身体を拭いたアスカが、シンジに背中を向くよう促す。

 

「見たければ見てもいいけどね──でも初めての夜の感動が薄れるわヨ」

 

 挑発的なアスカの言葉だが、シンジは簡単にはそれには乗らない。

 

「それならば待つよ。──まだ昼間だし」

 

 アスカはベーと舌を出して、彼と背中合わせになった。水着を脱いで、下着を付ける。衣擦れの音が、そよぐ微風に運ばれて、シンジの耳元を擽る。身体の一部分を変化させないようにするだけでもシンジは大変だった。

 

「よし、良いわよ」

 

 男の手軽さで先に着替え終わっていたシンジが、アスカの許可に振り返った時、目の前に現れたのは、レモンイエローの半袖ブラウスに、モスグリーンで裾広の吊りズボン(サロペット)を装った金髪の少女の姿だった。頭には先ほどまでと同じ赤いリボンの白い麦藁帽を被り、少しブカブカのサロペットのポケットに両手を突っ込んで、にかっとひまわりみたいに白い歯を見せて笑ってみせる。

 

「コンセプトは、Landpomeranze(ドイツの田舎娘)。どお?」

 

 ラントポメランツェというのは十九世紀前半のビーダーマイヤー期にさかのぼる芸術用語で、南ドイツの学生語と言われている。田舎の(ラント・)ザボン娘(ポメランツェ)──瑞々しくも未熟なオレンジ色の果実に、垢抜けなくて、人生経験に乏しい地方の少女を喩えたものらしい。

 

「えっと……可愛い、です」

 

 なぜか語尾が敬語になったシンジに、アスカは優越感を満足させる。

 シンジが言葉少ななのは、ある種の感動があったからだ。女の子は服装一つで化けるもんだな……と、そんな感慨だ。取り立ててフェミニンな服装にしたわけではないが、それが却って、アスカの中性的な魅力をかき立てている。

 

「もう一声♪」

「……街に連れて行きたいよ」

「連れまわしたい?」

「うん」

「じゃあ(かどわ)かす事を特別に許可しようかな。えへん」

 

 そう言って、アスカが手を伸ばしたから、シンジはその手を取り、そっと手の甲に、キスをした。

 

「あらま」

 

 アスカは手の甲を目の前に持ってきて、まじまじと見つめた。感動に頬が紅潮する。

 

「ね、アスカを連れて行ってもいい?」

「……よろしい」

 

 ちょっと偉そうに自分の「誘拐許可」を出したアスカによると、都会の男に騙される純朴な田舎娘をイメージしたファッションなのだという。アスカが勝手に作ったのだそうだけど、そんなジャンルが成り立つのか──とシンジは噴き出した。

 

「というには男の都会的洗練はいささか不足気味だけどネ」

「そこはまあ……努力するよ」

 

 なるほど、一応前向きだ。この三年間の成長かなとアスカは小首を傾げる。

 

 アスカのマウンテンバイクのサドルにシンジが跨がり、アスカはシンジのも含めて着替える前の服を入れたスポーツバッグを肩にかけ、横座りする。折り畳み式のスツールまでは持って帰れないから、居残りだ。

 

「どうせ明日もまた来るから。留守を頼むわね。バイバイ」

 

 右の拳をパッと開いて結んでスツールへの離別の挨拶に代える。

 

「行くよ、アスカ」

「うん」

 

 悪路に足を取られないように、シンジは慎重にペダルを漕ぎ始める。何しろ後ろにはアスカが乗っているのだから。だから自転車が切る風は生ぬるく──やっぱり生ぬるいのがいいよな、落ち着くものとシンジは思う。アスカがシンジの腰を抱いた。

 

 畑の側の細道を通り、広い公道に出た辺りでアスカが口を開いた。二人乗りはそもそも危なっかしいし、多分道交法か何かの違反だが、アスカはシンジの卓越した運動神経を信頼している。

 

「私ね、三年前……。シンジが救けに来てくれて嬉しかった」

 

 と言うのは、補完計画発動の供犠にされようとした彼女の弐号機をシンジの初号機が救ったことを指していた。

 

「──いきなりどうしたの」

「わからない。でも多分今の幸せはそこから繋がってるように思えるから──」

 

 風切り音は小さく、走行しながらでも、よく二人の声は通る。

 

 アスカが十四の誕生日を迎えて程なく、セカンドインパクト前の昔で言えば雪降る季節に本部決戦が起こった。

 

 人類補完計画の最終儀式が弐号機を中心にして発現しようとする間際、シンジの初号機が祭儀に割って入り、アスカを人類全体の進化の贄とする過酷な運命から救った。

 

 それは間一髪の事だった。間に合わない可能性も十分にあった。だから、その運命を今ある形に確定させたのはシンジの確乎たる意志と行動だ。

 

「もしもあの時、僕がアスカを救けられなかったら、僕ら終わっていたのかな」

「ううん──そうは思わない。でもそうなってたら、きっと私は捻くれまくってたわね。いつまでもシンジの周りに纏わりついて、曖昧な関係の中で、愛憎を煮え立たせて……」

 

 それは単なる想像だが、補完計画が発動したifの世界でも、二人がそのまま別れてしまうとは思えない。でもその時には二人の関係は一筋縄では行かないほどに試練を迎えていただろう──アスカにはそんな風に思えるのだ。

 

「そうか──そうかも知れないね」

「だからあんたは自分の選択を誇りに思えばいいのョ、それを悪く言う人間もいるかも知れないけど、どうせ万人が納得する世界なんてないんだから」

「それでいいのかな」

 

 ──『彼女を選んで補完計画を壊した』。綾波レイの四番目のクローン体であるカトルの言葉はずっとシンジに問いを突きつけている。何しろ彼女は、シンジをそう糾弾したばかりではなく、その後、彼の命を一度は奪ったのだ。0・0エヴァカトル機のガンマ線レーザー砲が放つ400メガ電子ボルトの放射線がシンジを灼き、この世から一度は消し去った。──自分の選択が、他の人の運命に及ぼす影響。彼女をそこまで思い詰めさせたシンジの選択と決断。シンジとしてはその意味を考え続けない訳にはいかない。

 

「私はね──シンジに、選択によって可能性を潰すことを恐れないでほしいのよ」

「可能性を……潰す?」

 

 シンジは不思議そうな顔をした。その言葉の響きは普通に聞けば、否定すべき事のように思えるのだが。アスカは頷いた。

 

「そうよ。AとBの二つの可能性がある時、あんたがAを選べば、Bという可能性は潰える。でも、代わりにAを選んだ先には、A1、A2、A3……という新たな可能性が生まれる。一つの可能性を潰して、別の新しい可能性を産み出す。人生ってそういう事なんじゃないの?」

「……皆はそれで納得してくれるかな」

「少なくとも、Aが──私が──納得している。この世界──あんたが私を選び、私があんたを産み直した世界に」

 

 Aというイニシャルを持つ少女は強くそう言った。

 

「人間、誰か一人に信じて貰えればそれで御の字よ」

「……かも知れないね」

 

 シンジにとってはその只一人の支持ほどに心強いものはない。アスカがシンジを勇気付けようとしてくれているのもよく分かる。嬉しかった。

 

 いつの間にか目の前に急勾配が迫っていた。上り坂だ。峠の街である第3新東京市──箱根ではよくある地形だ。

 

「アスカ、悪いけど降りてくれる?」

「OK」

 

 二人乗りでの登攀は流石に無理と、路肩に寄せた自転車からアスカが素直に降りると、シンジは目を擦った。

 

「本当は、アスカを乗せたまま、乗り越えて行きたい。でも無理をしたら、却ってアスカにも怪我をさせる。……僕はそれはイヤだ」

「それでいいのよ。そういう弱音が本当はあんたにも私にも必要だった。多分、三年前ならもっとね。それを素直に言えるようになったのなら、私たちは少し大人になっている」

 

 シンジがマウンテンバイクを押しながら、アスカはスポーツバッグを肩に掛けて、坂道をそろそろと登って行く。

 

「──坂道を上り詰めれば、後は下り坂だ」

 

 シンジが実に当たり前の事を言った。堅実で保守的なシンジらしい発言だとアスカは印象する。上り坂の次は下り坂──永遠に続く上り坂も下り坂もない──その事実は当たり前だけど、ついつい忘れてしまうことだ。アスカはそれを忘れないようにしようと思った。

 

 

 有名な富士屋ホテルのほど近くにあり、かつてはホテルのバスの待ち合わせ所だったというカフェは、まるで法隆寺の夢殿みたいな八角堂風の外観だ。百年経ってもそのままあるカフェ──そんなコンセプトで保存に拘るカフェ・ド・シキナミは、観光客にも人気の店だった。

 

 冷房の効いた店内で、道中、再び吹き出した汗が乾いていくと、二人は生き返った心地になる。

 

 ちょうど、昼時でお腹も空いていたから、シンジは地鶏のチキンカレーを、アスカはボロニアンソーセージ、レタス、 トマト、 きゅうりを挟んだサンドイッチを頼んだ。

 

 でも、アスカの本当のお目当てはスイーツだ。名物の団子と小豆入りのパフェなど、小豆・白玉・寒天など和の食材にアイスを組み合わせたデザートが何種類もあり、選ぶのに迷ってしまう。アスカは食事を終えた後に決めることにした。

 

「前に、ヒカリに連れて来てもらったのよ」

「二人とも仲が良いよね」

「あの子、本当に面倒見がいいのよ。気が強くて我が儘な転校生なんか放っておいても良かったのに、そうは出来なかったの。ずっとあの子には助けてもらってる」

 

 アスカが面倒見がいいという言葉で表現したいのは、ヒカリは優しいということだ。

 

「今度の争乱でも、あの子、ずっと私を守ろうとしてくれた。弐号機やウルトビーズの中にあるママの心に気付いて──」

 

 アスカの実母は存命で医療施設に入院しているが、その心はエヴァの中に取り残されている。

 

 箱船から流れ出した生命情報の奔流に、自我と形を喪って消失の危機を迎えていたアスカを、エヴァに上書きすることで守ろうとしたのが弐号機の中のアスカの母の精神だった。

 

 ヒカリは、リッターシャフト──ユーロでいうエヴァパイロット──の特権を使って、インテリジェントベッドに横たわるアスカの母と、アスカエヴァ統合体の対面まで実現してくれた。

 

 ふつう、単なる友人がそこまでしてくれないだろう。アスカの実母への想い、二体のエヴァの中に眠る母のアスカへの想いを深く理解してくれたからこその献身だった。だから、アスカはその献身よりも親友が自分をそこまで知悉してくれていた事への感動が大きい。しかも、彼女は姉コダマを最近、亡くしてもいるのだ。それなのに、進んで人を気遣えるというのは稀有な気質だろう。

 

「周りの人間の幸せが気に掛かって仕方がないのよね、ヒカリは」

「みんなの委員長だものね」

 

 今は副委員長だけど、シンジにだって、ユニゾン訓練の時に傷心したアスカを追い掛けるようにヒカリから叱咤されたことは忘れられない記憶だ。おかげで、シンジはアスカの心に少し近付くことが出来た。

 

 食事を終えて、シンジはカレーにセットで付いてきたコーヒーに口を付けている。ナマイキなことにブラックで飲んでいる。大人ぶっちゃって──。アスカはサンドイッチの最後のひとかけらを口に放り込んだ。

 

「だから、私、あの子には幸せになってもらいたい」

「トウジはいい奴だよ」

「うん、知ってる。他の男なら私は許さなかったわよ」

「アスカの厳しい審査をパスしたことを、親友の為に喜ぶよ」

「ヒカリも、シンジのこと合格だって」

「え?」

 

 シンジがまごついてるのを見て、ほくそ笑みながら、アスカはデザートを頼もうとメニューを取る。

 

 さて、パフェがいいか、クリームぜんざいがいいか。ここが悩みどころね。

 

 しかし、その悩みは中断されることになった。アスカとシンジの端末にネルフからの緊急呼び出しが入ったからだ。

 

 

 ネルフJPNからの緊急呼び出しに二人は着替える間もなく駆けつけた。マウンテンバイクは乗り捨てて、護衛の警備部が回した車に慌てて乗ったのだ。

 

「シンジ、惣流。来よったか──て、惣流。その格好は」

 

 中央作戦司令室で顔を合わせるや否や、副司令代理の肩書きを持つ高校生、鈴原トウジはアスカの私服に目を丸くした。

 

「赤毛のアンかいな」

「ラントポメランツェよ」

 

 解説は省略されたので、トウジにとって謎はかえって深まる。吊りズボン姿のアスカは憮然として腕を前に組んでいる。

 

「デート中やったんか、シンジと──」

「甘味、食べ損なった」

 

 後でネルフに金銭的補償を求める、とアスカは宣言する。また奢ってあげるからとシンジはそれを宥める。ま、またデート機会が作られるなら、それも悪くはないか──。

 

 アスカはそこで、オーバオールと聞いた気がして、その声の方向に背中を向けた。

 

「これ、オーバオールじゃなくてサロペットよ」

 

 と大きく開いたズボンの背を見せるが、ネルフJPN総司令葛城ミサトは苦笑した。

 

ズボンの種類(オーバオール)じゃなくて、分解再組立(オーバーホール)と言ったのよ」

 

 そう言って、前に視線を向けると、大型スクリーン上には、弐号機ケージが映っている。左腕パーツが取り外されるなど、確かに解体作業が開始されているようだった。

 

「弐号機のオーバーホールですか……随分急なんですね」

「今朝から作業始まってな、マヤさんも非番なのに呼び出されたから、プリプリしとってな。えらいこっちゃ」

 

 トウジはシンジに不在時の状況をそう補足する。

 なおも物問いたげなアスカの視線にミサトは説明を重ねる。

 

「ロンギヌスリングにより再構成されたとはいえ、弐号機にはかつてアナタや箱船の他の生命情報が混濁(コンタミ)していた──アスカもその後、無理やり統合体に戻すような無茶な運用をしたし、人型決戦兵器としての弐号機の清浄度が問題になっているの。アルマロスとの最終戦までは無理やり運用する他なかったけれど、兵器としての信頼性は二桁以上低い状態だった。だから部品単位に一度分解、洗浄して、まっさらな弐号機を組み直す必要がある」

「それは分かるけど、そんな予定は先週まで無かったでしょ。繰り上げたのは誰。私の弐号機の《純潔》を疑っているのは誰なのよ」

「疑っているのは──」

 

 ミサトは、口を開いて、すぐに噤んでしまう。それからまた口を開いて、アスカとシンジに言った。

 

「別室で話しましょう。二人にはあまり嬉しい話ではないかも知れない」

 

 

 会議室が用意され、テーブルを挟んでミサトの正面にアスカとシンジは座った。 

 

「ユーロが、弐号機のオーバーホールによる整備を要求してきたの」

 

 それは意外な主語だった。アスカが確認するように訊ね返す。

 

「ユーロが?」

「ええ。それで今後、色々厄介な展開になりそうだから、あなたたちを呼び戻したのよ……その……デート中だとは知らなくて。ごめんなさい」

 

 アスカにはまだ話が見えない。ミサトは表情を引き締めた。シンジは、それがかつての保護者が先行き思わしくない話をする時の顔だと気付く。

 

「一応、弐号機の所有権はまだユーロのものなの。バチカン条約は当初よりかなり緩められてしまっているけど、それでも日本一国にエヴァが集中することを国際社会は望ましいとは思っていない」

「カトルが米国行きになるという噂は聞いたわ」

 

 エヴァをめぐる各国のパワーバランス上の争いは承知している。世界が平和になった途端、人類同士の争いを再開するというのだから、人の業は深い。だけど、そういう競争心や征服心が無ければ人はまた人とは言えないだろう。アスカだって、もしもシンジにちょっかいを出されれば、黙っていられるとは思えない。闘争は人の本質の一つなのだ。

 

「なぜ知っているの──とは聞かないわ。女はそういう火遊びが好きなのよね。分かるわ──」

 

 アスカの危険なスパイごっこを窘めるようなミサトの揶揄だった。

 

「……ユーロはなぜ弐号機に関心を寄せるのよ、今更」

 

 というアスカの疑問は、白い弐号機と呼ばれることもある、弐号機の姉妹機ともいうべき存在──エヴァEUROⅡウルトビーズが、ユーロにはすでにあるのに何故という含意が有る。

 

 きっと、列国のパワーバランスの関係上、ヒカリのウルトビーズはそのパイロット共々欧州に戻されるのだろう。それが残酷にも、親友ヒカリとその想い人であるトウジの仲を引き裂くものだと理解しているから、アスカはヒカリの名前まで挙げることは出来なかった。それをミサトも繊細に察する。

 

「洞木さんの立場は実は難しいのよ。彼女はユーロの英雄から一転、市民の憎むべき敵に変わった」

 

 戦勝パレードのさなかに、ウルトビーズはアルマロスへと変貌し、多数の死傷者を出したのだ。勿論、その時には洞木ヒカリの自由意志は失われていたのだが、それは彼女には救いにならないどころか、悔やみを大きくするだけだろう。

 

「ヒカリちゃん──洞木さんはどう言ってるんですか」

 

 シンジがアスカでは聞きにくい事をミサトに代わりに尋ねる。

 

「もうユーロには戻りたくない。あちらの人達に合わせる顔がない。まだ入院中だけど、病床でそう言ってるわ」

「ヒカリ──」

 

 アスカは臍を噛んだ。自分とシンジの事ばかりで、ヒカリの気持ちを真剣に考えて来なかった事に気付かされる。

 

「──だからユーロは、代わりにアスカの弐号機を欲しがっているんですか」

 

 シンジが真っ直ぐに切り込んだ。

 

「ええ。正直言うと、パイロットの気持ちの前に、ユーロの市民感情ではウルトビーズをかの地に戻すのは難しい。テレビの前で戦勝パレードに釘付けになっていた何千万人の市民が、あれを目撃してしまったのだから。戦場での裏切りとは違う──大衆の一方的で勝手な見方かも知れないけど、英雄が堕天した──その事への失望がむしろ怒りを掻き立てるのね」

 

 ミサトも少し言葉を濁すが、ヒカリの評価が救世の英雄から悪夢のような虐殺犯に転じたということだ。洞木さんの身の安全も考えると、ユーロに簡単には戻せないというのも分かるの、とミサトは結ぶ。

 

「でも命令だからって、大きな人事異動の発令は本人の意志だって一応は聞く建前でしょ。往くのは海外なんだから」

 

 と確認するのは、アスカ自身についてだ。あれ──元々自分はあちらの人間なんだから、往くのではなく、還るのか?と内心首を傾げながらの反論は弱々しい。いつの間にか、この極東の国が──自分のルーツの一つとはいえ──終の住処のような気がしていて、だってシンジが居るからだが──それでもそう言い張ることが、苦しい気持ちを抱えたままのヒカリをあちらに追いやることになる、という親友への裏切りのような気持ちもあって、どうしても反論の語調は弱かった。

 

 ミサトは首を横に振った。

 

「あなたにもカトルと同じような取引が突きつけられているの」

「カトルと同じ──?」

 

 少しだけ言いにくそうな顔をして、ミサトは続けた。

 

「カトルに対してはアルマロス側に付いた叛逆の罪で、厳重な処罰を求める声があったの──それが合衆国のパイロット要員として引き渡す事により、処罰を免除しようという話に纏まりつつある。だから、彼女には選択の余地はない」

 

 それはアスカも聞いていた情報だ。唯一のエヴァパイロットであるマリをその乗機であるUSエヴァ/ウルフパック共々に失った合衆国としては、喉から手が出るほど、代替のパイロットとエヴァが欲しいのだろう。むしろ厳罰を求める動きは、その取引の為の前振りと思える程だ。

 

「でも私は叛逆なんて──」

 

 アスカはその言葉を最後まで言い終えられなかった。すぐに彼女自身で気付いたのだ。

 

「……そうか。私、トーヴァートα1に──」

 

 ミサトは点頭する。ノヴァ島作戦で、アルマロスの従者であるトーヴァート化し、敵勢力側として消えたアスカエヴァ統合体だったが、もちろん、エヴァと統合していた時の記憶は彼女に殆ど残っていない。トーヴァート化についてアスカが教えられたのは事後のブリーフィングの中でのことだ。明らかな彼女の意志でもなく、またその復帰も早かった事から、パイロット資格凍結までの処置は為されなかったし、アスカも拘束はされていなかった。だけど、アスカの立場は本質的にはカトルと同じなのだ。

 

 そしてこれは推測になるが、同じように叛逆行為の処罰を求め、取引の妥協点としてパイロットとエヴァの引き渡しを求める。米国とユーロの間にネルフJPN対抗の政治的密約があるのかも知れなかった。

 

「つまり私にもカトル同様、選択の余地は無いってわけ」

「まだそこまで話が固まってる訳ではないわ。だけど、先行きが明るいわけでもない。だから説明したのよ。アスカにはシンジ君との事もあるから──」

 

 ──要するにお別れの準備をしなさいってこと?

 

 フン。こんな事なら、デザートを食べてから出頭するんだったわヨ。

 

 

 けっきょくミサトからは即答のようなものを求められた訳ではない。二人は会議室を出て、廊下を歩いている。非番は解除されていないから、もう宿舎に戻っていいと言われたのだ。

 

 でも、これからのシンジとの時間は貴重なものになるのだろう。そういう覚悟が生まれた。そのための呼び出しだったのだろう。

 

 シンジはあれから黙っている。引き留めてくれないのか。引き留めてくれたって、どうにもならない話かも知れないけど。でも、シンジの気持ちが知りたい。

 

「あーあ。結局こうなるのよね。順調過ぎるといつもこうなる。はしゃぎ過ぎたのかしらね、私」

「アスカは別にはしゃぎ過ぎなんかじゃない」

「……でも子供の頃からそうなのよ。私が幸せを手に入れようとすると、必ず何処かから水を差される。念願のエヴァパイロットに選ばれたと知って、母親に知らせようとした私に何が待ち受けていたと思う? 母親の自殺未遂の場面よ──」

「アスカ……」

 

 シンジが痛ましいものを見る目で、アスカを見る。そんな視線、アスカは欲しくなかった。同情をされるのはイヤだ。

 

「ヒカリのこと、親友だと思ってる。でも、あの子には幸せになって欲しいなんて口では言いながら、どこかでユーロに行かされるのは彼女であって欲しいと思っていたんだ──あの子が鈴原の事、好きだって随分前から聞かされていたのにね。だから、親友失格なんだ」

「彼女のこと、アスカが気に病む必要はないよ。アスカのせいじゃない」

「ま、それもそうね──どうせ私が行くんだし」

 

 自嘲して、アスカは廊下を進む足を止めた。

 

「それで良かったのかも知れない。私が我慢すれば、八方丸く収まるんだもの。小さい頃からずっとそうしてきたし」

 

 ドイツの田舎娘の格好をした少女が、拳を握り締める。無力で哀れで、逆境にも無理して笑う以外に術のない田舎娘──。しかし、シンジは首を左右に振った。

 

「アスカが我慢することなんかない──そんな必要ないんだ」

「でもどうすればいいのよ、解決策なんか無いじゃない! 私には叛逆の前科があって、拒否すれば銃殺になるかも知れない」

「そんな事、絶対させない。その時は世界を全部敵に回しても、アスカを救ける。僕はそれを選んでこの世界を作った。だからそれを選び続ける──」

 

 シンジはアスカを見つめた。近付いて、その白い手のひらをそっと両の手で包み込む。

 

「アスカ、僕はもう、この六月で十八歳になっている。十二月に君が十八になれば──」

「……シンジ」

「結婚しよう、アスカ」

「結婚って──まだ、私たち付き合ってもいないのに」

 

 キスを何回かしただけだ。デートだって数える程しかない。余りにも、一足飛びの展開にアスカは戸惑う。

 

「それが重要なこと? 大切なのはアスカと僕の気持ちだけだよ」

「うん……」

「きっと全てがうまくいく──そう信じないと。指の隙間から、絶対に幸せを零れ落ちさせない。アスカ、僕を信じてよ。君が信じてくれるなら、僕は空だって飛べる」

「そうだね──」

 

 アスカはようやく、ぎこちないながらも笑顔を見せた。

 

「スーパーエヴァンゲリオンに乗っていたスーパーシンジだもんね。空だって飛べるよ」

「しかも、今は最終号機だ」

「うん、シンジ最終号機だね」

 

 あははと笑った筈なのに、涙が零れた。シンジが指の背でそっとそれを拭う。

 

「泣かないで。僕のアスカ──。アスカには笑顔が似合うから」

 

 ──そう言われたって、涙が次から次へと溢れてくる。シンジがそっと私を抱き寄せてくる。だから、私はその胸の中で思い切り泣くことにした。

 

 だって、まだ私には幸せに至る確信が持てなかったから。そして、シンジの示してくれた優しさが、本当に自分が手に入れたいものだと分かっていた。

 

 とくん、とくんとシンジの心臓の音がする。それは、心臓を失ってエヴァと共有していた頃のシンジではなく、再び人間として私が産み出したシンジの証拠だった。

 

 だから、碇シンジはその時、疑いなく私のものだった。

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