エヴァンゲリオンANIMUS 幼年期の終り   作:しゅとるむ

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第三話 アレゴリック・ラヴ

「──さてと」

 

 ネルフ本部の廊下で抱き合っていたアスカとシンジの二人は、身体を離し、照れくさそうに互いに暫しそっぽを向いていた。アスカはそっと涙を拭う。

 

「……非番継続だって、どうする、シンジ?」

「そうだね──」

「デートの続きって言っても、今更、宮ノ下に戻るのも面倒よねぇ……あ、マウンテンバイク!」

「警備部がちゃんと回収してくれたって。さっきメッセージ入ってたよ」

「そっか。……なら、宿舎に戻って、二人でウェディング・プランでも考える?」

 

 アスカが艶めかしい視線をシンジに送った。シンジはそれをアスカの軽口だと受け止め、彼女の気持ちが落ち着いてきたものと安心する。

 

「よければ……このまま付き合って欲しいんだ」

 

 一瞬どきっとさせられる台詞だが、プロポーズの後に今更、交際の申込みでもあるまいとアスカも承知して、行き先を確認する。

 

「どこに?」

「病院」

 

 シンジが即答する。ネルフ附属の総合病院に、前所長の碇ゲンドウを筆頭とする時間停滞スフィア組の面々が「入院」させられている。さらには、洞木ヒカリ、綾波レイ№トロワ、綾波レイ№カトルの三名の叛逆の少女たちや、ゼーレに乗っ取られていた加持リョウジも、人間ドックや精神汚染の検査などの名目で長期収容されていた。重要人物が纏められているのには、警備の都合もあるだろうが、一挙にネルフ本部が病院に移動した感もある。

 

「見舞いってわけ?」

「うん……実はまだ父さんには会ってないんだ」

「えっ、あんなに堂々とトロワに向かって宣言してたのに」

 

 事が一段落した後で、トロワに何から始める?と問われて、父さんを見舞いに行くよ、と宣言したシンジだったが。

 

「リツコさんたちは見舞ったよ。綾波たちも。でも父さんは……やっぱり敷居が高い。自分で思っているよりも高かった」

「ふうん。私はヒカリしか見舞ってないわ」

 

 わざわざアスカがそんな風に言ったのは、シンジへの気遣いだろう。行けなくても、別に気に病まなくてもいいんじゃない?──もっと物事を軽く捉え直せば?という彼女一流の処世術の伝授かも知れない。

 

「でもアスカはその……お母さんに会ったんだろ?」

「統合体の時にね。後から記録映像は見せてもらった。会ったという実感はないな──」

「そうか、そうだよね……」

「私だって、ユーロにいるママを見舞おうと思えば何時でも行けたわよ。でも行こうとはしなかった。魂の抜け殻みたいになった母親を見たくなかったし、それで生きてるって言えるのかとも思ってた。もう亡くなったのと同じと考えようとしてたのかも知れない」

「アスカ──」

 

 シンジは気遣わしげな顔をする。不用意な質問がアスカの心に負担を掛けてしまったのではないか、と──。アスカはその顔を見て、懸念を吹き飛ばすように微笑んだ。

 

「でも今は会えて良かったのだと思う。会った実感は薄くても映像を見ていたら、ママはやっぱり生きているんだと思えたもの。もしユーロに飛ばされるのなら、今度は積極的に会いに行くわ。だからシンジもお父さんに会う勇気が出たのなら、私は応援する」

「うん。実はまだ迷ってるんだけど……ね」

「それで良いわよ。病院に行くだけ行って、それでも後込みするようなら、リツコやトロワの見舞いだけして帰ってくればいいじゃない」

「それもそうか」

「あんたは何だかんだで世界を救ったのよ。自信、持ちなさい」

「うん」

 

 それから二人はジオフロントから地上に出て、病院行きのバスに乗った。シンジはアスカに背中を押してもらった気がしていた。アスカはシンジがまた一歩前に進んだと思った。

 

 

「普通の相部屋なのね」

 

 病室の前で、アスカはドアの横に貼られた患者名のプレートを眺めて意外そうに言った。碇ゲンドウと知らない男の人の名前が書いてある。

 

 病院に来たら意外にシンジは腹を括って、あまり寄り道もせずにここまで来ていた。

 

「ネルフの所長だったんだから、もっと豪勢な一人部屋かと思ったわ」

「父さんが断ったらしい──特別扱いは不要だ、って」

「殊勝な事を言う時でも、ナチュラルに偉そうな態度なのが目に浮かぶわね」

 

 とアスカが混ぜっ返すのは、一応ジョークなのだろう。シンジも片頬で笑う。

 

「ありがとう。確かにそんな感じだよね」

 

 アスカのお陰で少し解れたが、なおも緊張した顔のシンジがノックをして、暫くすると咳払いの後に返事が帰ってきた。

 

「どうぞ──」

 

 三年ぶりに聞く父の声に、シンジの取り戻した心臓の鼓動が早くなる。シンジは自動ドアの入口から中に入る。見舞いの花を持ったアスカが後ろに続く。先ほど、シンジが病院の一階の花屋で求めたものだ。

 

「父さん」

 

 シンジは声が上擦らないように細心の注意を払って、何とか平静な態度を示した。

 

 入院服姿の碇ゲンドウは、薄く色の入った度入りの眼鏡をかけており、半身を起こしていた。シンジの方を見て、軽く分かるか分からないかという微妙さで頷いてみせた。

 

 隣のベッドで身体を起こして、競馬新聞を真剣に眺めていた初老の男が声を上げた。

 

「あ、これはこれは──息子さんですか。どうぞいらっしゃい。アタシはちょっとタバコを吸ってきます」

 

 男は寝間着姿のまま、ベッドから降りるとたばこの箱を持って、突っかけに足を入れた。何の病気なのだろうと思う身軽さで、シンジとアスカに会釈だけすると出て行こうとする。

 

「すみません──源さん」

「いやいや、なんの。アタシの見舞いの時はいつも気を遣っていただいて。お互い様ですから」

 

 ゲンドウが珍しくも恐縮した声で背中に向かって言うと、源さんと呼ばれた男は、皺だらけの顔でにこやかに振り返ってから、そのまま部屋を出て行く。

 

「あ、お花を生けてくるわね」

 

 アスカも、ゲンドウのベッド脇の空の花瓶に手を伸ばして、それを取ると、きびすを返して部屋を出て行く。

 

「ごめん、ありがとう」

「ううん」 

 

 アスカは首を横に振った。それからシンジの耳元に唇を寄せて囁く。

 

「がんばんなさいよ──」

 

 それでシンジは父と二人だけになった。

 

 

 急ぐことはないと、アスカは花瓶と花束を手に、ゆっくり給湯室を探して、歩き始める。シンジの為に父との二人の時間を作ることが必要だ。

 

 程なくして、給湯室よりも前に、ガラス作りの透明なボックスに行き当たり、目を奪われる。隔離式の喫煙スペースだ。ありふれた構造のものなのに、なぜか強烈なデジャヴを感じる。まるであの中で暮らした事でもあるかのように──。

 

 中にいる初老の男がアスカに向かって会釈した。慌てて、アスカも会釈を返す。すると、男は吸っていたタバコをもみ消して、喫煙スペースから出て来た。

 

「先ほどはどうも」

 

 源さんと呼ばれていた男はにこやかだった。

 

「こ、こんにちは」

「碇さんの息子さんのお友達ですか」

「ええまあ……」

「いやあ、どうしてもコレが止められなくてですな──おかげで肺をやられたのに。困ったものです」

 

 男は振り返って誰もいない喫煙スペースを見る。

 

「肺が──お悪いんですか」

 

 着替えずに来ているから、あまり病院向きの服装ではないが、それを埋め合わせるようにアスカはよそ行きの敬語を使いこなす。普段は死線を不敵な笑みさえ浮かべて潜り抜ける女戦士であっても、このような静謐と死が隣合わせの空間では威儀を正さざるを得ない。

 

「末期ガンでしてネ。肺からもうあちこちに転移しているそうなんです。でも、息子がいい病院に入れてくれました。緩和治療のお陰で、あまりしんどくないというのも嬉しいんですが、今時、喫煙スペースの無い病院も珍しくないですからネ。それが一番有り難くて」

「それは──」

 

 アスカにはなんと返事をしてよいものか分からない。源さんは近くのビニール張りのロビーチェアによっこらしょとわざわざ声に出して腰掛けた。

 

「あ、ご用事の途中でお引き留めしてまいましたか、こりゃどうもすみません──」

 

 アスカの両手の花瓶と花束に気付いて、座ったばかりの源さんは頭を掻いた。

 

「いえ、本当はシンジとお父さんを二人きりにしたくて、出て来ただけで。急がないんです」

 

 そう言って、アスカは笑顔を作り、源さんの隣に少し間を開けて腰掛けた。三年前のアスカなら、そんな事はしなかっただろう。でも、シンジなら──今のシンジなら、この人の話を少し聞いてみたいと思ったに違いない。

 

「碇さんはいい人ですね」

 

 前を向いたまま、初老の老人はタバコ飲みにしては甲高い声で言った。アスカはへえとなんだか微妙な声を上げた。ゲンドウへの見舞いの客として、その感想を否定するのも変だけど、アスカとゲンドウのこれまでの関係では、それを肯定する材料が何もなかった。アスカの曖昧な返事の含意には気付かず、人の良さそうな彼は頷いて続ける。

 

「ええ、政府のお役人みたいな見舞いの人の話では──聞こうと思って聞いたわけじゃありませんが──どうもとんでもなく頭の良いおエラい人なのに、鼻に掛けた所がありません──アタシみたいなしがない飯屋の亭主にも、普通に接してくれましてネ。ご家族の事は仰られないから、お独りなのかと思ってました。息子さんが来られて良かったです」

 

 ゲンドウに対する意外な評だったが、よく考えると意外ではないのかも知れない。ゲンドウは部下に厳しく、独裁的な男だったが、あれは威張り散らすというのとは少し違っていた。あくまで組織の統制上必要だから、権威主義的に振る舞っているというのがアスカの印象だ。もちろん、そのような振る舞いが自然に行える性格なのもゲンドウの本質だ。シンジとは父子とはいえ、全く性格が異なる。

 

「飲食店をなされてるんですね」

「ダイナーというアメリカ式の食堂をやってるんです。だから店の常連さんにはダイナーの源さんなんて呼ばれてましてネ。お嬢さんはあちらの人ですか」

「故郷はドイツですが、国籍はアメリカです──」

 

 すると、源さんは頷いた。

 

「アメリカはいい国ですネ。戦争に負けたこの国を随分親身に助けてくれた。アタシがダイナーを始めたのは、若い時分に見たアメリカ映画の影響ですヨ」

 

 彼は昭和三十年代初めの生まれだという。もはや戦後ではないと言われた時代の生まれだ。そこから高度経済成長と後に呼ばれる人類史上にも少ない平和と繁栄の時代が始まる。それはかつて戦ったアメリカに憧れ、アメリカを追い掛けた時代でもあった。

 

 過ぎ去った青春を懐かしむように、彼は語った。そして、ヨーロッパとアジア、二つの人種の特徴が混じり合ったアスカの顔を見る。

 

「今はあなたみたいに世界を股に掛けた賢い若い方が増えてますネ。いろんな国の人が混じり合って、街の様子も変わっていく。十年後にはもっと良い世の中に変わってるんでしょうネ」

 

 自分には決して見ることの出来ない未来を想像して、去りゆく人はどんな気持ちでいるのだろうか。まだ十七歳のアスカには簡単には分からない。それから源さんはぽつりと、ある意味では唐突に言った。

 

「──世界が救われて良かったです」

「え?」

「あの黒い巨人たちのことですよ。アタシにはいまだによく分かってませんが、高校生ぐらいの若い人たちが、紫や赤や黄や白の巨人たちに乗って、黒い巨人を退治し、世界を救ってくれたそうで──学のないアタシと違って、勉強の出来た息子がよく教えてくれるんです」

「でも──」

 

 アスカの胸が苦しくなった。その救われた世界から、源さんはもうすぐ、いなくなっちゃうんじゃないか。

 

「分かりますよ。どうせアタシはもうすぐこの世を去る。自分が消えてしまえば、世界があってもなくなっても同じではないかと、そう思うこともあります。でもやっぱり──自分がいなくなっても世界は続く。それは嬉しいです。良かったと思うんです」

 

 それから老人は息子の家族の話を始めた。妻には随分前に先立たれて、一人息子の家族だけが彼の血族であるらしい。息子の嫁は気が強いがしっかりしているので、息子を安心して任せられる。元気な男の子とおしゃまな女の子の孫が一人ずついるらしい。

 

「孫たちが生きていく世界を守ってくれた若い人たちに本当にお礼を言いたいんですヨ。だからご迷惑を承知で、あなたに声を掛けたのかも知れません。丁度年頃が同じでいらっしゃるから。代わりにありがとうと言いたくなったんです」

 

 アスカは俯いた。思わず涙が零れそうになった。アスカはずっと必死になって戦ってきた。自分の心や身体が壊れるのも顧みずに世界と人類のために。だけど、感謝の言葉は、誰も言ってくれなかった。源さんの言葉は飾りがない──だけどアスカにとって、ずっとそう言って欲しかった言葉だから。不意討ちのように与えられた謝意は、素朴にアスカの胸を打った。

 

「それ、その子たちも本当に喜ぶと思います」

 

 内側から込み上げて来そうになる熱い感情に、ただ、それだけ言うのが精一杯だった。

 

 

 二人部屋の病室を改めて見ると、当然ながら白く飾り気がない。ゲンドウは半身を起こして、ベッドの上に座っている。手帳に何か書き物をしていたようだが、それを中断して横の小さな机の上に置いた。

 

「……三年ぶりだね」

「ああ」

 

 とゲンドウは頷くが、時間停滞スフィアの中は文字通り、時間が停滞していたのであって、その時の流れは緩かだった。内部では三ヶ月が経過しただけ──だと聞いていた。シンジもそれを思い出して、台詞の選択のミスに気付く。

 

 それ以上の言葉が何も続かず、二人の間を沈黙が支配する。やがて、思い出したように、ゲンドウは言った。

 

「背が伸びたな」

「うん、こちらは三年経ったから」

「そうだったな」

「……」

 

 いざ、父を前にするとシンジは自分でも内心歯痒いくらいに言葉が出て来なかった。言いたいことは沢山あったし、再会したらぶつけてやろうと思ってきた言葉も幾つもあったのだが、何一つ思い出せない。仕方がなく、どうでもいいような周辺の事を聞いてお茶を濁そうとする。

 

「──さっきの人は、源さんって言うんだね。ずっと相部屋なの」

「ああ、善良な(いい)人だ」

「そう。確かにそんな感じの人だね」

 

 別にそんな話をしたい訳ではない。本当は話したい事が沢山ある。父さんはどんな思いで、ネルフを率いてきたのか。僕のことをどんな風に思っているのか。母さんはどんな人だったのか。でも、そんな話にいきなり迫れる筈もない。

 

「あの、リツコさんには会ったよ」

「──彼女はお前のエヴァの改装に力を尽くしてくれた。少ない資材でな」

「あれは今は最終号機と呼ばれている。ミサトさんがそう名付けたんだ」

 

 たぶん、父はとっくに知っている話題だろうけど、それ以上に話が続かない。父は、シンジの《活躍》を知っているのだろうか。薄氷を踏むような戦いを潜り抜け、幾度も命を喪失するような危機に陥って、辛くも世界を救ったシンジをどのように評価してくれるのだろうか。

 

《時の彼岸にて我観測せり/碇ゲンドウ》

 

 それはゲンドウがシンジのエヴァの脚部に刻んだ言葉だった。

 

 シンジのエヴァがそれを刻まれたとき、シンジの時間はサードインパクト直前の0.8秒前で止められていて、逆に時間停滞スフィアの中では時間が流れ始めていた。見事なまでに噛み合わず、すれ違い続ける父子だったが、シンジはその父からの、エヴァに刻まれたメッセージに、何か温かいものを初めて感じていた。

 

 だが、そういう過剰な期待が良くなかったのかも知れない。シンジはゲンドウの言葉や態度に何かを求めすぎてしまっていた。

 

 ゲンドウはシンジの《活躍》に特に言及しようとはしなかった。無表情、無感動に、碇シンジという存在が目の前に居ることを当たり前に受け止めている。それは碇シンジという存在に対して、生まれたときからそうだったのではないかと思えるほどの無関心さだった。

 

 当たり前に妻から生まれた存在で、だから生まれたことを寿ぐでもなく、むしろ妻の愛情を奪う仇のように冷たく接し、シンジが命を奪われるような切所を何回も切り抜け、あるいは切り抜けられずに幾たびも消えて、奇蹟のように復活してきた事など、何とも思っていないようだ。この世界に戻ってから既に何週間も経過して、経緯を教えられていない筈がないのに。

 

 息子の身に対する心配も、再会の喜びも、成長への感動も、ゲンドウの表情には窺われない。それがシンジをまず失望させた。褒めて貰いたかった訳じゃない。──よくやった、よく生きていた、父にそう言って貰えると無邪気に期待していた訳じゃない。それなのに、シンジは何故か自分で想像していたのよりも大きく落胆していた。

 

「一緒に来たのは、弐号機パイロットか」

 

 ゲンドウも話の糸口を探そうとしてか、そう訊ねる。この三年間でアスカもかなり見た目がかなり変わっている。子供の成長は早い。それゆえの確認だったのか。

 

「──違う。アスカだよ」

 

 その言葉は、発したシンジが自分でも驚くほど、冷たく尖った硬い返事だった。

 

「弐号機パイロットじゃない──それはアスカの本質でも何でもない。彼女には惣流・アスカ・ラングレーというちゃんとした名前がある。そういえば、父さんはアスカをアスカと呼んだことが無かったね」

「……」

「父さんはやっぱり何も変わらないんだね」

 

 そのシンジの言葉には、失望と諦めがあった。

 

「やっぱり父さんには、僕もアスカも綾波もみんな駒でしかないんだ」

「私にはお前が何を怒っているのか分からない」

 

 ゲンドウはシンジから目を逸らさずに、静かに言った。そこには反撥も当惑も怒りもない。

 

「本当は父さんに、アスカのこと、相談しようと思ってたんだ、色々。だけど父さんはアスカの事を名前で呼ぼうともしない」

 

 なぜそれだけの事がシンジをこんなにも苛立たせるのだろう。アスカのことを人間扱いしてないように感じたからだろうか。アスカをぞんざいに扱われると、自分がそうされたように感じるからだろうか。

 

「大人になったのかと思っていたが、背だけか」

「──な」

「お前は──己の無力による苛立ちを私にぶつけているに過ぎない」

 

 絶句したままシンジは二の句が告げなかった。ゲンドウの言葉が見当外れだからではなく、その逆だったからだ。確かにシンジにはアスカのユーロ行きの話に何も出来ることがない。

 

「私はユイのことを誰にも相談などしない」

 

 ゲンドウはそこで初めてシンジから視線を外した。

 

「全てを私独りで決めてきた」

 

 窓の外の青い空を見て言った。あの晴れやかな空の下のどこにも碇ユイは居ない。

 

「そうやって独りで閉じているのは父さんじゃないか! 父親らしいことを何もしないくせに!」

 

 シンジの怒りは収まらない。自分でも感情に歯止めが効かない理由が分からず戸惑っていた。ゲンドウはシンジには引きずられず、醒めたままだった。

 

「源さんが気の毒だ。お前の駄々を聞くために彼の身体に負担を掛けているのは忍びない」

 

 それは帰れという意味だった。

 

 シンジも立ち上がった。もうこの場には居たくなかった。

 

「さよなら──源さんは捜して呼んでくる」

 

 ゲンドウはもうシンジには関心をなくしたように、手帳を再び取って、書き物を再開する。

 

 シンジが部屋を出るまで、父は視線をシンジに向けようとはしなかった。

 

 

 少女の眠りは浅かった。夢と(うつつ)が渾然となり、夢が現に、現が夢にすぐにひっくり返る。

 

 世界の最果て──シンジの画した自己認識(ルクレティウス)の槍の外側──事象の地平線のその先で、少女は微睡み、しかしほんの僅かな瞬間だけ、目覚める。そしてまたすぐに眠ってしまう。

 

 少女は夢の中では、狼だった。それも一匹の狼ではなく、多数の群れだった。群狼(ウルフパック)と呼ばれるエヴァンゲリオンと彼女の自我が重なり合い、一つになる。それは少女がアスカエヴァ統合体に見た夢──人獣一体の理想の姿だった。

 

 荘周、すなわち荘子の逸話がそれに重なる。

 

 ──昔者(むかし)、荘周は夢に胡蝶と為る

 

 栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり

 

 自ら喩しみて志に適へる。(荘周)なるを知らざるなり

 

 俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり

 

 知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか

 

 言わずと知れた《胡蝶の夢》だ。荘周が夢で胡蝶になったのか、それとも胡蝶が夢で荘周になったのか。それは誰にも分からない。

 

 同じように、少女──マリが、夢の中で狼の群れになっているのか。群狼の見る夢の中で、狼がマリになっているのか。

 

 思惟と物質の相対性を突き詰めるのが、荘子の《斉物論》だ。物みな、(ひと)し。万物斉同。人も胡蝶もマリも狼も、巨視的な視点からは、みな同じである。

 

 しかし、マリが短く浅く覚醒した時に、かつて地球と呼ばれた惑星の一つの弧状列島で、白い巨人たちの骸から、その断ち切られた腕や脚が時折、微かに動き始めているのに、気付いた者はまだ居なかった。なぜならマリがすぐに再び眠りに付くと、その手足はまた動きのない骸に戻ってしまうからだ。しかし、少しずつ覚醒の時間が長くなり、眠りの時間が短くなる。

 

 無惨にも切断され、無力化された災厄そのものの象徴となっていた腕や脚が少しずつ、独立した動きを持つ、新たな人類の脅威になる時が近付いている──。

 

 

 父の病室から出て来たシンジが、廊下を捜しながらアスカの所にやって来たとき、彼は見るからに不機嫌だった。

 

「すみません、長居をしまして。もう見舞いは終わりましたから」

 

 ダイナーの源さんへの呼び掛けでは、辛うじて平静を装っていたが、その硬い表情と口調から、アスカにも源さんにも、シンジの態度が普通でないのは伝わったことだろう。

 

「ありがとうございます、碇さんの息子さん。あの、……どうか、また来てくださいネ」

「……」

「シンジ。何黙ってるのよ。源さんにお礼を言わなくちゃ」

「あ、すみません。……はい、またいずれ」

「私、お花を生けてこなくちゃ。少し待ってなさいよ、シンジ」

 

 廊下を走るわけにも行かず、アスカが気ぜわしく足早に去り、気遣わしげに何回も振り向きつつ病室に戻って行く源さんには、ぎこちない笑顔を返した後で、シンジは罪悪感に沈んだ。

 

「何やってるんだ……オレ」

 

 自責の念に駆られた時だけ、シンジの一人称は男らしさを強調するものになる。自分でもよく分からない心理の動きだ。

 

 アスカが十分ほどして戻ってくると、シンジは会話もそこそこに病院を離れようとする。アスカは道々、病室での顛末を聞くことになった。

 

「で──けっきょく、お父さんと喧嘩になったんだ?」

「──喧嘩にもならないよ、あんな父さんとは」

「おやおや。……遅ればせながらの反抗期?」

「父さんは僕にもアスカにも、興味ないんだ」

「でもあんただって、父親に興味ないんじゃない?」

「え?」

 

 アスカの言葉に、ギクリと顔をひきつらせシンジは思わず立ち止まった。

 

「父親そのものには関心がなくて、自分や自分に近しい人をちゃんと見てくれる、そういう優しさの機能だけを求めてたから、失望したってのはあるんじゃないのかな」

「……それは」

 

 シンジはそのまま考え込む。自分はあの時間停滞スフィアの中で、碇ゲンドウがどんな風に過ごして来たのか、考えてみたことがあっただろうか。こちらの三年間には及ばずとも、三ヶ月間、外界と切り離されて、戻れるのかも分からず、家族に向かって生存証明だけを刻んで寄越した人々。ある種の覚悟の中で最終号機という機体にエヴァを改装して送り出した、中の人たちにはシンジたちとは別の強い想いがあったのに違いない。

 

「そうかも──確かにそうかも知れないな」

「ほ。素直じゃん。昔のシンジなら一ヶ月は拗ねてそうなのに」

「今はアスカとの時間が貴重だから。拗ねてる時間はあんまりない」

 

 アスカはうんと頷いて、それ以上はシンジを弄り、からかうのは止めた。

 

「お父さん、生けた花を飾りに入った私の方は何も見なかったし、話さなかったわよ。ずっと書き物をしてたわ」

「無視されたの?」

「どうかな。案外、恥ずかしいのかも知れないわよ。私みたいなナイスバディの女子高生に見舞いに来られて」

「父さんはそんなんじゃ」

「というほど、あんたは父親を知らないでしょ。碇ゲンドウというイメージを頭の中で勝手に作ってるだけかも知れない」

 

 というアスカの指摘は当を得ているかはともかく、シンジにとって辛辣かつ新鮮だ。

 

「そうなのかな」

「男って案外、気が小さい。妙にプライド的なものにも拘るし。……っていうのは、私もあんたから研究したんだけどね。前は、男ってもっと身体の大きさ並に、メンタルも強いのかと思ってたわよ」

 

 自分よりも背の伸びたシンジを見上げながら、アスカは芝居めかして慨嘆する。それはアスカにとって、碇ゲンドウと碇シンジ、両方に対する評でもあるのだろう。

 

「またアスカに情けない所、見せちゃったかな」

「でも、それが男の可愛い所でもあるんじゃない? 情けない所を見せても呉れない男なんて、私はイヤだな」

 

 アスカがそう言って、シンジを見つめた。蒼い瞳がシンジを射抜くように視線を向けているが、そこにはどこか、鋭さだけではなく温かさがあった。

 

 それを感じ取って、シンジは思い切って言った。

 

「……帰ろうか、アスカ」

「うん。でもその前にネルフ本部に寄りたいな」

「え? ネルフに?」

「そう。見てなさい、シンジ。私が大人の上手な使い方を見せて上げるから。大人を機能としてだけ見てたら、その機能は使いこなせない。相手も人間だって事、忘れちゃダメなのよね」

 

 今日のアスカは意味深なことを言って、シンジをとことん惑わせるのだ。

 

 

 総司令室のあるフロアにエレベータで上がり、秘書の詰める前室で、今はミサトに予定がなく、ノーアポで入れることを確認した。

 

「じゃ、行きますか」

 

 気合いを入れるようにアスカが言うので、シンジもその後ろに続こうとするが、ドアの前にアスカの伸ばしたサロペットの足が立ちはだかって、シンジの通るのを塞いだ。

 

「中にいるのはミサト。そして入るのは私。パウダールームみたいなもので、男子は禁制よ♪」

「えっと」

「まあ今日は任せなさいって」

 

 シンジを排除して、独り司令室に入室したアスカは、暗く広い部屋で、間接照明に照らされて、難しい顔をして机に向かっているミサトに声を掛ける。

 

「だだ広い部屋だけど、机の上は部長だった時と同じ混沌っぷりねぇ」

 

 山のように積んだ書類の隙間にかろうじて生息しているように見えるミサトに向かって、アスカは軽口を叩いた。

 

「アスカ。今日は非番に戻っていいと言ったでしょ、休むのも任務なのよ」

「それは分かってるけど、一つ思い付いた事があってさ」

 

 ドイツの田舎娘は、ミサトの机の上に手を付くと、上目遣いで要求を切り出した。

 

「せっかくオーバーホールするなら、ついでに弐号機のアレゴリックユニットをもう一度、再建して欲しいのよ」

 

 零号機や弐号機をケンタウロスのような半人半馬にする後脚ユニット。アレゴリカ、アレゴリックとは「寓話のような」という意味を持つ命名だ。N2リアクターを動力として発生させたごく小さな人工潮汐力場を人工ダイヤモンド製の格子に並べて、その大きな翼は揚力を得る。こうして、アレゴリックユニットによって弐号機は空を飛べるようになるのだ。それはアスカにとって、戦術的な価値以上の意味を持っていた。

 

 聖母たるアスカから産まれ落ちる前のエヴァンゲリオン最終号機は、サードインパクト発動寸前の光の巨人として四枚の自前の翼を持っていた。しかしその翼はアルマロスとの最終決戦で喪われた為、アスカの処女懐胎により再誕した最終号機には、スーパーエヴァンゲリオンの飛行装備であるヴォルテックス翼が再装備されていた。

 

 シンジのエヴァに翼があるなら、アスカの弐号機にも翼がなければならない。それを欲する動機は、中学生だった頃のアスカの子供じみた嫉妬や対抗心とは全く異なるものだ。一方的に守られるのでもなければ、守るのでもなく、常に対等、一対の存在として並び立ち、互いに守り、守られる存在で在りたい。独りだけ大空に飛び立つのではなく、行くのならば常に二人で飛んで行きたい。あたかも片翼しかないので、常に(つがい)で飛ぶという比翼の鳥のように──。

 

 しかし、残念ながらアスカの弐号機のアレゴリックユニットは、月面に盤踞していたアルマロスとの戦闘で一度、喪われている。ロンギヌスのレンズにより再生された弐号機だが、アレゴリックユニットは喪われたままだった。シスの零号機には同様にアレゴリックユニットが装備されているが、あれを取り上げる訳には行かないだろう。シスも怒るだろうし、それではアスカがこれから狙おうとしている目的にも適わない。

 

「簡単に言ってくれるわね。財源の問題もあるし、そもそも弐号機はユーロのものだって言ったでしょ」

「うちに予算はあるでしょ、前に調べたもの。アレゴリックユニットは戦闘中に喪失したから、修繕費を流用出来る筈」

「……大人には色々難しい判断もあるの」

「分かるわよ。ネルフJPNの予算でユーロの為に整備してやる必要はない、どうせ弐号機は丸ごと呉れてやるものなのに──って言うケチな大人の判断ぐらい。だけどいいじゃない。これは花嫁の持参金代わりよ」

「あんたの嫁入り先は、シンジ君でしょっ! なんでユーロなんかにっ」

 

 ミサトが思わず怒鳴った。我が意を得たりとアスカは破顔する。ミサトが大人の判断として無理やり押さえ込んできた不満、国と国との諍いに引き裂かれそうになっているアスカたちへの申し訳なさ。その真情と言葉を引き出す為のあえてのやり取りだった。

 

「分かってるんじゃない。だったら大人の責任を果たしてよ。色々と手はあるでしょ」

「……アスカ。私を嵌めたわね」

「私も女よ。それに最近はシンジ相手に、男と女のやり取りで手練手管も磨いているの」

「節度を保った交際をしなさいね」

「分かってる──いくらシンジでも、女の大事なものを易々と明け渡しはしない、一番高値で買わせてやるんだから」

 

 アスカは誇らしげに頷く。ミサトも安心したのか、もと保護者の顔から、総司令の顔に面を切り替えた。冷静になって考えてみて、アスカの──アレゴリックユニットをわざわざ持ち出した──狙いを理解したらしい。成る程、面白いことを考えたものじゃない──

 

「とりあえずアレゴリックユニットの再建には突貫工事でも八ヶ月はかかる。それを取引材料にするわ。持参金──いや、嫁入り道具を付けてやる代わりにそれまで待て、と。目立った脅威などもう無いのだから、欲に目が眩んで、ユーロはきっと呑む。──見え見えだろうけど、時間稼ぎにはなるわね」

「なら、ついでに条件を付けて。──事変があったら、これは破談だと」

「すぐにその線で話をするわ。ありがとう、アスカ」

「ね──ミサト。私でも将来、総司令は務まるかしら」

「あら……私の後を襲う(継ぐ)つもり? 喧嘩っ早いのを矯めれば(なおせば)、ポテンシャルはあるんじゃない?」

「喧嘩っ早いのはミサトもそうでしょうに」

 

 アスカは本当はミサトが理不尽なパワーゲームを仕掛けてくる列国に憤懣を抱き、一戦交えたがっているのを理解していた。もちろん、それは銃砲の飛び交わない知略による戦いだ。ミサトはバレてた?と悪戯っぽい目をして、それから二人の女は顔を見合わせて笑う。

 

「ネルフJPNの総司令は女には向かない職業──みたいな古臭い考え方。必ず、ぶっ壊してやるわョ。そのために、ミサトを助けるわ」

 

 とアスカは真っ白な犬歯を見せて、ニヤリとした。

 

「それは心強いけど──」

 

 ミサトはそっと視線を逸らした。口元には微笑みを湛えたままだ。

 

「それ以上に、あなたを敵に回すのだけは勘弁して欲しいわね」

 

 ──だって、恋する乙女を敵に回す事ほど、恐ろしいものはないもの、とミサトは心の中でひとりごちる。

 

 

「というわけで、アレゴリックユニットの完成まで、少なくとも八ヶ月──ユニット建造の進捗によっては多分それ以上──、ユーロ行きは延期される事になりそう。そしてその間に私はめでたく十八歳になっている」

「一体どんな魔法を使ったの、アスカ」

 

 総司令室から出て来たアスカの報告を歩きながら聞いて、シンジが目と口を丸くしている。

 

「それは決まってる。──女の得意技よ」

「得意技?」

「そう。買って欲しいものをおねだりしたの。それだけよ」

「へええ」

 

 何だかよく分からないが素直に舌を巻いたシンジの首に、アスカは腕を回した。ここは、前室を出てすぐの総司令室前の廊下だというのにだ。

 

「さて、上手く行ったご褒美に、あんたには何をおねだりしようかしら」

「えっとランチを奢ったから、今月の小遣いはもうあまり──」

「それなら、身体で払ってもらうという手もあるんじゃない?」

「ア、アスカってば……」

 

 アスカが半分以上シンジをからかっているだけという事はもちろん、シンジにも分かってはいるのだが、それでも胸やら腰やら頬やらの直接的な身体接触を伴う玩弄には、健全なる男子として赤面や動悸を止められない。

 

 いつの間にか、父との再会の失敗に落ち込んでいたシンジの心も晴れ上がっていた。

 

 それは間違いなく、惣流・アスカ・ラングレーという少女の優しさと強さの為せる業だった。

 

 だから、シンジはそっと目を瞑ったアスカの唇に、お礼のように、自分の唇を重ねていく。

 

 これ、三回目のキスかな──

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