アスカとシンジはネルフ本部から宿舎に戻ってきた。エレベータでフロアを上がると、警備部が回収してくれたマウンテンバイクがアスカの部屋のドアの横に置かれていた。
二人の宿舎の居室は同じフロアの端と端だ。そしてこのフロアには二人以外の入居者はいない。
ここへの入居時に、「シンジ君と部屋、隣合わせにする?」という提案も、総司令となったばかりのミサトから直々にアスカにあったのだが──それは葛城家からの引っ越しも必要なので当然の確認だったが、すでに二人の微妙な関係性が保護者役にはバレバレだったというのは少し気恥ずかしい──、少女は首を横に振った。
「距離を少し置いてる方がいい──コンフォート17ではもしかしたら……近過ぎたから」
ミサトのマンションでの同居時の事をアスカは言った。近過ぎると、傷付け合うことだってあるとアスカはこれまでのまだまだ短い人生経験の中で分かって来ていたし、男女の交際進展に欠くことが出来ない新鮮さが薄れてしまう事への懸念もあった。
「二人を無理やり同居させて、悪かったかしら」
「そんな事はないわ。同居して分かったアイツの事も沢山あった。アイツ、やっぱり子供よね」
「あら、そう? でも男ってみんなそんなものでしょ」
「それってリョウジのこと?」
「ん、まあそういう訳でも……加持くんはフラフラしてるようだけど、あれはあれで頼りになるような所も……」
アスカが加持リョウジのことを指摘すると、ミサトはゴニョゴニョと言葉を濁した。まだ二人が完全に寄りを戻す前の会話だ。これはアスカの勘だが、ミサトは加持以外の男を知らないのだろう。ガキっぽいけど頼りにはなる──加持リョウジを標準にする、やけに断定的な男性観が、乏しい異性経験を物語っている気がする。しかしそれをアスカはむしろ羨ましいと思った。若い頃の恋をそのまま叶えて、そういう狭い男性観を固定してしまえるのは、ある種の女の幸せだろう──と。
「ま、シンジもごく偶に男気を見せるけどね」
と言ったのは、やはり本部決戦でシンジがアスカを救ってくれた事が念頭にある。シンジの子供っぽい側面やアスカとよく似た親子関係に関わる傷の存在と、そこからの成長を知って、アスカの心に温かくて明るい灯火が点ったのだ。
「……最近の二人が仲良しさんで、安心してる。よそ様の子供をお預かりして、気まずい仲にしたら申し訳が立たないものね」
それを言うなら、傷物にしたらとかなんとかが続くのが普通で、方向性としては反対じゃないの?と訝しみながらもアスカは肯いた。
「私がネルフJPNの総司令に就任しなければ、今まで通りに二人の面倒を見てあげられるんだけど……」
「いいのよ。どうせいつかは私たちも独り立ちしなくちゃいけない。それにいくら仲が良くたって、いつまでも兄妹みたいには暮らせないわヨ」
アスカもシンジも必然として、性的に成熟した女と男になっていくのだから──
「幼年期の終わりってことね──」
ミサトがそう言って肯いた。出来損ないの群体生物である人類を単体生物へと人工進化させるのが人類補完計画──それをシンジが叩き潰したのが今の世界だ。かくて人類全体の幼年期はなお続くことになったが、そこに属する個々の人類の幼年期は常にそれぞれの終焉を迎えている。人類というのはそのようにして全体ではなく、成員がそれぞれ成長していく存在なのだろう。
「ええ──シンジと私たちが守り通した世界で、私とシンジは大人になっていく。人類に次の階梯は訪れない。でも私もシンジもそうじゃない」
そのアスカの言葉に、その時、ミサトは瞑目した。次に目を開いた時には微笑んでいた。
「この仕事を選んでつくづく良かったと思うわ──アスカの今の言葉を聞くために今日まで仕事をして来たのかも知れないわね、私」
ミサトはアスカの言葉に、彼女なりの成長を看て取っていた。でも、大人になろうとして背伸びしている部分があるのも大人の目には透けて見えてしまう。だから、ミサトはこれだけは──正しく誘導してやりたいと宣言した。
「でも──フロアは同じにしておきましょう」
「え、でも……」
「逢いたい時にすぐ逢えるのは嬉しいものよ。距離感が気になるなら、端っこ同士にしておく。でも目線の高さは同じにね」
ミサトはそう言ってウィンクすると、部屋の割振りを強引に決めてしまった。
そんなやり取りがあったのは、もう三年以上前の事だ。結果としてはミサトの独断は良かったのだとアスカは思う。
もちろん、こんなミサトとアスカとの会話をシンジは全く知らないのだが、そんな経緯でシンジとアスカの居室の配置はそうなっている。
「さてと──」
サロペット姿のアスカは、エレベータを降りるや、後ろに続くシンジの方を振り向き、ズボンを広げるように左右に摘みながら、もう一度全身を見せた。
「ねぇシンジ。またこの服、見たい?」
「うん、またその服、着てよ。それで──次こそスイーツを奢るよ」
「分かった」
アスカは頷いた。次が繋がる。確かな感触。それがある限り、簡単に別れたり出来る筈がない。
「夕食は──どうする?」
シンジは言った。ネルフに居るときは職員食堂で食事を取るが、今日はもう宿舎に戻ってしまっている。どこかに食べに行こうか、アスカ──?
「今日は少し疲れちゃったかな。暑いしあまり出掛ける気もしない」
メンタル面だけでも激動の一日だったが、スイカ畑から自転車で宮ノ下、さらにネルフ本部にも二回寄って、病院で見舞いまでしたのだ。若くて体力旺盛な二人でも、夏の暑さもあって少々くたびれ気味だった。
「じゃ、後で作りに行くよ」
シンジが提案すると、アスカは素直にOKサインを出した。
「うん。助かる」
「何か食べたいものでもある?」
「特には。暑いからさっぱりしたものがいいかなァ──」
「じゃあ、素麺とか」
「いいわね」
アスカが軽く肯定したので、まあ、それだけじゃ口寂しいから、何か付け合わせを考えなくちゃな──アスカは何だかんだで肉料理とか好きだし──と思いつつ、シンジも頷く。
「んじゃ、後でネ。シンジ」
「来る時に連絡するよ」
アスカが目線の高さまで手を掲げたので、シンジは彼女の掌にパチンと手を合わせた。
◆
ハイタッチの後はそっけなく二人は別れて、アスカは無言で扉を閉めた。しばらく扉に寄りかかっていた。
しかし、扉越しにシンジの足音が遠ざかるのを確認してからしばらくして、アスカは抑えきれない感情を爆発させるように声にならない声をあげた。
「っっっ~~!!……よっしゃー!」
後半は蚊の鳴くほどに小さい声で叫んで、そしてベットに飛び込んで、寝転がるとうつ伏せになって枕に顔を押し付け、足をジタバタさせた。
「シンジと……シンジと、ついに──」
遂にシンジと三回目のキスをした。このキスは三回目とはいえこれまでのキスとは違う。アスカはこれまで二回、異性とキスしたことがあった。すべてシンジとのものだ。一回目のキスはミサトのマンション、コンフォート17のリビングでアスカから挑発気味に求めたものだった。それは二人にとって記念すべきファーストキスではあったが、アスカから誘いを掛け、不意を打つように奪ったキスで、すれ違いがお互いの心にしこりを残した。
その次のキスは、シンジが記憶を失っていた時のものだった。心臓をロンギヌスの槍に貫かれて、スーパーエヴァンゲリオンごと消滅したシンジは、同じ心臓を共有するトーヴァートβ側に引き寄せられ、自分の名前も記憶も全てを失っていた。アスカもその時はまだトーヴァートα1と呼称されるエヴァとの統合体だったが、束の間、意識を取り戻し、シンジに呼び掛けた。二人の内的意識が交錯した中で、交わされたのが二回目のキスだった。
「シンジ! 私を忘れたの!?」
そう叫んで、シンジの内面世界に溶け込み、アスカから強引に引き寄せ、噛み付くように奪ったキスだった。幻影のようなものかと思い、事が全て落ち着いた後、それとなくシンジに確認したら、お互いの記憶が一致していて、一応は実際にあったものだと知った。
それにしても──、一回目も二回目も女の私からってどういう事なのよ。二回目のキスは一回目のように傷つけあうものではなかったが、それでも女のアスカとしては、一抹の不満が残るものだったのは否めない。やはり男女関係は大事なところでは男にリードしてもらいたい、というのがアスカの乙女心だ。
だから今日のプロポーズは合格点で、先ほどの三回目のキスも、現実世界で初めて気持ちを通い合わせたもので、かつシンジからの接吻だったという点で、これまでの口づけとは違う格別のものだった。
寝台の上で身悶えしながら、アスカはこの偉大な前進を誰かと共有したくて仕方がない。アスカにとって一番近しい存在はシンジだが、まさか相手本人とというわけには行かず、そうなるとその相手は決まっていた。
洞木ヒカリ──
アスカは楽な部屋着のパーカーに着替えてから、ベッドの上であぐらを組み、スマホのトークアプリを立ち上げる。
救世の英雄から一転、アルマロスに乗っ取られ、多数の市民を死傷させた彼女──もうユーロには戻れないと拒絶したという彼女の複雑な立場と想いを考えれば、今、アスカが自分の喜びを無邪気にシェアしていい相手なのかは分からなかった。
しかし、暫く逡巡した後で、アスカはヒカリのアイコンをクリックする。
やっぱり、ヒカリには一番最初に話をしたい。ヒカリはそう思える唯一の相手──親友だから。それは自分の幸せの身勝手な押し付けなのかも知れないけれど。
でもヒカリはきっとそれを我が事のように喜んでくれる筈だ。それがヒカリに束の間の笑顔をもたらす事をも期待して、アスカはヒカリのアイコンにそっと触れる。
擬人化された新幹線のアイコン。ヒカリの名前にちなんだアイコンだ。どうやらヒカリの父が、鉄道ファンらしく、コダマ、ヒカリ、ノゾミと三姉妹に列車の名前を付けたと聞いた。今は、その姉コダマもユーロでの旅行中に塩の柱となって、ヒカリの心の痛みになっている筈だが、気丈な彼女は見舞いの時にも、その痛みを見せようとはしない。
アスカはといえば、ピンク色の小鳥のアイコンにしていて、これもヒカリの提案によるものだった。アスカの名前には日本語で飛ぶ鳥の意味があると教わったのだ。色はアスカの新しいプラグスーツの色にした。
飛ぶ小鳥のアイコンが「キスをした!」とやや唐突にさえずると、暫くして新幹線のアイコンから『え?』とレスポンスが返ってきた。予想していたのと違う反応に、アスカも少し戸惑いながら、「いや、だからキスを……」と繰り返すが、今度は即座に『アスカ、あなた……』と返信が来た。「ん?」ヒカリが言わんとする所を図りかねて、短いレスを入れる。
続く『碇クンと何年になるのよ』──呆れ顔が目に浮かぶようなヒカリの返事にようやく、アスカはヒカリの反応の意図を理解した。しゅんとなって、「三年……」と回答すると、すぐに彼女から電話がかかってきた。
入院中だからと気を遣ってトークアプリにしたのだが、ヒカリの方が通話可能なエリアに移動したのだろう。メンタルはともかく、今のヒカリに目立った外傷や病気はないのだ。二回目の呼び出し音で、アスカは電話に出る。
「ヒカリ……」
『驚いたわよ、アスカ』
「あの……やっぱり奥手過ぎた?」
『いや、慎重になるのは悪い事じゃないけれど……二人とももっと進んでるのかと思ってたから』
「あ、あの。流石にファーストキスって訳じゃないのよ。でもシンジと気持ちがちゃんと通じ合ったキスって初めてだったから、ヒカリに話したくて」
『うん──よかった、そうなのね。私もちょっと誤解していたわ。ごめんなさい』
「あ、あとプロポーズもされたわ」
さらりと追加の情報を告げると、向こうで絶句する気配が伝わってきた。
『アスカ、あなた……! どう考えたって、そっちの方が大きな話じゃ!』
ヒカリの言うことも勿論分かる。だが、アスカはそのプロポーズの背景にある事情を説明した。ヒカリの代わりにという話は伏せ、ユーロネルフ籍のアスカの帰還が命じられそうだという話、それを何とか引き延ばして、十八歳になったら結婚しようと考えていることを感情を極力交えずに淡々と説明した。
『そのユーロ行きって、私の代わりよね?』
ヒカリにはその点は伏せていたが、聡い彼女はやはり気づいてしまう。
「──違う違う。そもそもユーロ側は前から弐号機を狙っていたのよ。言ったらなんだけど、ウルトビーズは弐号機の予備パーツから組み上げたんでしょ? そこはやっぱりオリジナルの弐号機への執着があるんだと思う」
それは前から考えていたヒカリ用の説明ではあったが、真実の一端を突いているとアスカは信じていて、ヒカリに疑られないように、すらすらとその説明が出来た。
『でもそうだとしたらアスカ、いきなりユーロに戻れだなんて話に、よく我慢してるわね。碇君とだって離れ離れになるかも知れないのに……以前だったらあなた、もっと怒っていた気がするわ』
ヒカリも日本を離れて久しいし、エヴァ統合体になっていたアスカとの接触は限定的だった。しかし、その間に起こったらしいアスカの人間的成長を実感せざるを得ない。
「ま、私も易々とそうさせる積もりはないけど──盗まれて微笑む者は、盗人から盗み返す、なんて言うしネ」
過ぎ去りし不幸を悔やむのは、新たな不幸に続く最短の道、というわけだ。アスカは自分の強い感情をコントロールする方法を学びつつある。
『でも──やっぱりアスカの代わりに私が行けば丸く収まるんじゃ』
「それはダメよ」
ヒカリの芯の強さは、このアルマロス動乱の中でアスカも改めて知ることになった。欧州旅行のさなか、コダマという姉を失ったばかりで拉致されるようにパイロットになることを強要されても彼女は腐らなかったし、鬱ぎ込みもしなかったという。洗脳のような意識強制は一部行われたとはいえ、それが解除された後も、先生に頼まれた用事を淡々とこなすように、ユーロネルフでの任務に当たっていた彼女はかつての委員長らしい振る舞いを示したと言える。
とはいえ、彼女の本質はどこまでも普通の高校生で、自分のように子供の頃から虐待すれすれのエヴァパイロットとしての訓練を受けたわけではない。一方、アスカは本部決戦と今度の動乱をくぐり抜けて、自分のストレス耐性と逆境の打開能力にある種の自信を持つに至った。どちらが適任かは言うまでもない。
それに自分の運命は自分自身が知っている──少なくともたちどころに知ることになるが、離れてしまった他者がどうなるかは分かりようがない──本当のところを言えば、アスカはそれが一番、気に入らなかった。
「人は多くの人々を知っているが、彼らがどうなったかは知らない──」
『え?』
ヒカリが聞き返した。アスカもふいに頭に浮かんだフレーズを口に出しただけだった。何の本だったかは忘れたが、確かジャン・コクトーの言葉だった。ヒカリのエヴァ──ウルトビーズが、彼の詩篇に因んだ命名だから連想したのだろう。だけど、決して無意味な言葉ではなかった。
「ヒカリのこと、そんな風に、名前と顔だけ知っている人間にはしたくないの──ちゃんとお互いの命運を見届けて、責任を持ちたいのよ。だから私とシンジとの事もちゃんと報告する」
『アスカ──』
潤んだ響きを電話の向こうの声に感じて、アスカは声をあえて明るくした。ベッドの上でごろんと横になり、天井に向けてスマホを持った手を伸ばす。
「さあ、ヒカリ。あんたこそ、あの副司令代理サマとの仲がどうなっているか、キリキリ吐いてもらうわよ!」
『ちょ、ちょっと、アスカ……!』
鈴原トウジのことをそんな風に未だに不釣り合いの感のある役職名で呼んで、アスカは自分とシンジよりも進んでいる筈の、親友カップルの恋愛進展の追及を開始するのだった。
◆
シンジが、食材をタッパーに入れて、アスカの部屋を訪ねた時、アスカはベッドの上でウトウトとしていた。離別危機にプロポーズ、三回目のキス。今日は事件が盛り沢山で疲れ切っていたのだろう。ヒカリとの通話を切ると、いつの間にか寝てしまったようだ。
インターホンからのシンジの声で起こされると、慌てて少しだけ散らかっていた室内を整頓する。
「い、いいわよぉ」
室内AIに解錠を指示すると、シンジが自動ドアの圧搾空気が漏れる音と共に入ってきた。
「おじゃまします」
「いらっしゃい」
シンジの顔を見て、アスカが目尻を下げる。起きしなだが、お腹は空いていた。今日はエネルギーを結構消費したものネ。
「何回か、メッセージを送ったけど。もしかして寝てた?」
ベッドの下に転がっていたアスカのスマホを指差してシンジが言う。なるほど、確認するとシンジからの「今から行っていい?」というメッセージの後、何通か続いていた。
「あーごめん、ちょっとだけ寝てた」
「悪かったかな」
「お腹空いてるから丁度良かったわよ。何を作ってくれるのかな、やっぱり素麺?」
「いや、あると思っていた素麺がなくってさ。中華麺はあったから冷やし中華にしようと思って」
「あら、いいんじゃない」
シンジがキッチンに立つと、アスカは鼻歌交じりに、暇潰しにテレビを付けるが、シンジに声を掛けられる。
「アスカ、疲れてる所悪いけど手伝ってくれる」
「えーっ。シンジが作ってよう」
甘えた声で抗議すると、エプロンを付けたシンジがキッチンを出て、居間兼寝室に顔を出す。
「あのさ──僕がアスカに結婚しようって言ったの、勢いじゃないんだ」
「え? そ、それは勿論分かってるけど──」
だからこそ、アスカもアレゴリックユニットを用いた策略で、十八になるまでの時間を稼ごうというのだ。そこまで持ちこたえれば、きっとどうにかなると信じて。シンジは続ける。
「だから、アスカにもちゃんと家事を覚えて欲しい。僕が楽をしたいとか、アスカに専業主婦をしてほしいとかじゃないよ。仕事も家の事も、お互いに助け合うのが夫婦だし──気が早いかも知れないけど、子供が出来たら──片方が子供の面倒を見てる間に、どちらも家事が出来た方がいいから」
それは正論だった。確かに気が早すぎるけど、シンジが真剣に先々のことを考えてくれているのは嬉しい。いつまでも子供みたいに甘えてはいられない。いつか、そう遠くはない未来に、アスカもきっと子供から甘えられる立場になるのだから──。
「ほらおいで、アスカ。まずはキュウリとハムを切ってもらうよ。それで、錦糸卵の作り方を教えるから。それからタレも二種類──」
「分かったわよ、ったく」
不承不承に言ったのは、勿論照れくさかったからだ。その証拠に緩んだ口許が態度を裏切っていた。付けたばかりのテレビをリモコンで消すと、アスカは口ではやれやれと言って立ち上がり、キッチンに入った。
「あら、それ豚肉じゃない?」
「うん、単なる冷やし中華じゃなくて、豚の冷しゃぶを乗せようと思って。アスカも今日は疲れただろうから」
「疲労回復にいいの?」
「うん、豚肉にはビタミンB1がたっぷりと──」
「肉食系の私にはピッタリね」
「それ、違う意味だから……あ、いや、アスカは合ってるのかな」
「どういう意味よ、この草食系少年」
そんな風に二人は姦しくも平和そのものの会話を交わす。アスカとシンジはまだキスを三回ほどしただけだ。それなのに、もう結婚の話などを決めている。三回目のキスは感動的だったが、普通の恋人なら、更にキスのその次を──既成事実をと焦る局面なのだろう。
でも、アスカとシンジの関係はそうではない。肉体よりも先に──まるで前世からの様な、魂の強い繋がりがある──そう感じられるようになったのだ。
何しろ、アスカにとってシンジは恋人であると同時に、自分のお腹を傷めて産んだ息子でもある──。それはもはや本物の親子のように絶対に引き裂けない絆なのだから。
◆
あれから三週間が過ぎた。時間停滞スフィア組はまだ入院という名の隔離を受けているが、トロワは退院して、自室謹慎処分に移行した。カトルとヒカリは未だ居残りだ。
アスカはミサトに呼び出されて、総司令室に出頭していた。今日は機体連動試験があったので、今やすっかりアスカの新しい色として定着したピンク色のプラグスーツを身に付けている。
紺色のサマーセーターを着たミサトが席に座ったまま、前で両手を碇ゲンドウのように握って、おもむろに口を開いた。
「ユーロとは、こちらの要望を容れさせた
午後、オンラインで簡単な締結式があるらしい。
Memorandum of Understanding……了解覚書というのは行政機関同士が結ぶ合意文書のことだが、国同士の条約のように議会の批准などは必要ない。一方で法的拘束力もないんだけどネ、というミサトの説明に、初めアスカは不安に顔を曇らせたのだが。
──なあに、拘束力が欲しいのは引き渡されるユーロ側でしょ。こちらは約束違反があれば、弐号機とアスカを渡さなければいいだけなんだから。ブツを現に握ってる方が強いのヨン。
と説明を受ければ、それもそうかとアスカも納得するしかない。──私はブツじゃないけどね!
条約ほどではない了解覚書とはいえ、三週間で締結にこぎ着けたのは立派なものでしょうとミサトが胸を張るが、アスカは首を傾げる。了解覚書を締結するまでアレゴリックユニットの建造は塩漬けになっているのだから、むしろ急ぐメリットはないのでは?と。
「そうもいかないのよ、アイツら何かと言えば、あなたの処罰問題をちらつかせてくるから」
無限に引き伸ばし戦術が使えない理由だった。ミサトにしてみれば、まずはアスカの処罰要求を撤回させ、彼女の安全を確保することが最優先だった。
「ああ、そういえばそうだった。迷惑をかけるわね」
いつになく殊勝なアスカの態度に、ミサトは苦笑する。いつもこのぐらい、しおらしければいいのだけれど──。
ミサトは儀礼用の装飾板に挟んだ了解覚書の文書を机の上でアスカの前に滑らせた。
「読んでいいの?」
「もちろん」
アスカは装飾板を開いて、条文にさっと目を走らせる。
──第一条 エヴァンゲリオン弐号機及び同専属パイロット惣流・アスカ・ラングレーのユーロネルフへの返還引渡しは、この了解覚書締結の日から建造を開始するアレゴリックユニットの竣工より1か月以内とし、竣工が未了の場合でも、了解覚書の締結の日より12か月以内とすること。
竣工未了の場合の期限が付与されているが、これはまあ当然だろう。でなければ、無限に引き伸ばしが図れてしまう。
──第二条 ユーロネルフは所属パイロット惣流・アスカ・ラングレーの叛逆行為について、ネルフJPNに寛大な処分を求め、ネルフJPNはこの要請を最大限尊重する。
これをネルフJPNではなく、ユーロネルフの要求とさせることが味噌であり、いささか難しいところだった。ミサトはアスカの原籍が──ほぼ名目上の物と化していたが──ユーロネルフ所属である事を逆手に取り、パイロットの処分についてユーロネルフ側の要求とすることを求めたのだ。綱引きはあったが、パイロットあってのエヴァンゲリオンだ。元よりアスカに重罰を与える事は、その引渡しを受けるユーロにもメリットがなかった。
ミサトが拘ったのは次条により、了解覚書自体がキャンセルされた場合でも、アスカの寛大な処分は先方の要求なので、この条文だけは自主的に尊重、実施すると言い張れる余地を残すためだった。ユーロも自らが求めた要求を翻して、アスカの厳罰を求めることは──より正確にはアスカの厳罰を求めることを取引の武器とすることは──二度と出来なくなる。
──第三条 大型脅威個体級の事変発生時には本了解覚書の効力は中断される。
破棄ではなく中断とされた所が、ユーロの押し返しだが、「なあに、万が一そんな事態になれば、了解覚書どころじゃないわよ」
ミサトは強いて明るい調子でそう言った。古い言葉で言えばC調とでも表現される──そんな彼女の陽気さが、総司令の重職に就いた後も滅びきっていないことに、アスカは微笑む。余裕は大切だ。
「色々ありがとう、ミサト」
「ま、問題を先送りにしただけだけどね」
「それでもミサトは貴重な時間を稼いでくれたわ」
アスカがシンジとの関係を決定的に変化させられるかも知れない、それは本当に貴重な時間だった。
「にしても、大人ってタイヘンなのね」
条文一つにも色々な駆け引きや意図がある、とアスカは目ざとく看取したが、ここに辿り着くまでに費やされたネゴシエーションやその時間、労苦を思うと、さすがに頭が下がる。
「子供を守るのが大人の仕事だからね──普段、あなた達に負担を掛けまくってる分、このぐらいはしないと」
アスカは了解覚書の最下部の署名欄に目を落とす。既にユーロ側の署名はサイン済みだ。昨日空輸されてきたらしい。これにミサトが午後、署名すれば、MOUは直ちに発効する。
──ひと安心という所だろう。
アスカがそう思った時だった。ビーという呼び出し音でミサトの机の上の内線電話が鳴った。
ワンコールでミサトが素早く受話器を取る。
「はい、葛城」
『青葉です。すみません、上二子山の観測カメラが先ほど捉えました。量産型の残骸が、おかしな動きを示しています』
「回して」
即座に総司令室内の大型スクリーンに、中央作戦司令室の主モニターの映像がミラーリングされる。
『どう──思われますか』
モニター内部に大写しにされた、巨大な白い腕と脚が、一本ずつ。山の斜面に投げ出されるように横たわっており、明らかに、量産型エヴァないしはそれを流用した、エンジェルキャリヤーの残骸と思われる。撤去作業は勿論、エヴァも駆り出して順次進められているが、余りにも数が多く、日本国内各所だけでなく世界各地に散らばっていて、手が回っていないというのが現状だった。いきおい、山岳部などの人が入りにくい、また山崩れなどの二次被害が生じないように撤去作業にも慎重さが求められる場所は後回しになっている。
「──痙攣しているわね」
小刻みに震える腕と脚は、まるでそれ自身が生きているかのように微動を繰り返している。
「動いてる腕と脚は、この二つだけ?」
『いえ、同様の現象が十六例、四分前、ほぼ同時刻から観測されています。ウデが八本、アシが八本』
「お片付けが遅すぎる──そう関係各所からどやしつけられそうね」
だから、早くこんな薄気味悪いものを片付けておけば良かったのだと文句を言われそうだ。復興需要の為に、ネルフ保有の重機を自治体に貸与している故の遅滞でもあるというのに。
「総員、第二種戦闘配備! 各種観測カメラと観測員による監視を厳と為せ。私も中央作戦司令室に上がります。アスカはここに居るわ。すぐに弐号機ケージへ。シンジ君とシスにもエヴァ内で待機させて」
アスカは無言で頷いて、走り出す。
『了解!』
青葉からもすぐに返信が返ってくるが、まだ何か言いたげな気配を感じて、ミサトは促す。
「どうしたの、青葉くん。意見具申なら遠慮なく──」
『葛城総司令、今後、ウデやアシでは少々具合が悪いのですが──』
「──分かったわ」
少し考えて、しかしそれでも符丁の選定に必要以上の時間を掛けることなく、ミサトは宣言した。
「現時刻を以て、微細振動する量産型残骸の腕や脚をドルオン・アンティゴーンと呼称します」
『了解。ウデ系列をアンティゴーンA1からA8、アシ系列をアンティゴーンB1からB8とナンバリングします』
ミサトは脱いでいた赤いジャケットを執務机脇のポールハンガーから取り、素早く上に羽織る。
開かれたままの了解覚書の第三条が、目に入った。
──第三条 大型脅威個体級の事変発生時には本了解覚書の効力は中断される。
「三週間がパァじゃないのよ……」
パタンと閉じて装飾板の表面をしばし名残惜しそうに撫でていたが、それを振り切るようにミサトは、顔を上げた。
事が微細振動だけで収まる可能性を冷静に考えてみる。これが再びの大きな動乱の前触れではなく、単なる小さなトラブルである可能性の大きさを。
そして、いっそさばさばとした表情になって、小さく呟いた。
「あり得ないわね。私たちの世界はそういう風には出来ていない」
ミサトは少し距離のあるゴミ箱に向かって、手に持った装飾板を放り投げ──
位置エネルギーを失った了解覚書が、大きな音とともに塵芥としてゴミ箱の中に見事に収まるのを見届けた。
「ナイスシュート!」
ガッツポーズを取ってから、ネルフJPN総司令葛城ミサトは不敵な笑みを浮かべた。
「女には向かない職業かどうか、もう一度、見せてあげるわよ」
葛城ミサトが、今、彼女の戦場に出陣する。