エヴァンゲリオンANIMUS 幼年期の終り   作:しゅとるむ

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第五話 後天性の幼なじみたち

 弐号機のオーバーホールは十日ほど前に終わっていた。パーツ単位の洗浄を受け、ゼロから再度組み上げられた今の弐号機にもう他の生物の遺伝的痕跡のコンタミはない。まっさらな弐号機だと言える。だからからか、アスカは今日の機体連動試験では高いシンクロ率を叩き出した。珍しくシンジよりも高かったぐらいだ。

 

「どうよ? 無敵のシンジ様?」

 

 その時、どや顔でアスカがそう誇ると、画面の向こうのシンジは勝敗など気にせず穏やかに微笑んでくれた。優しいシンジ。

 

「アスカは頑張ってるよ」

 

 温かい言葉。だからアスカはまた頑張れる。昔の一方的に敵視していたライバルではなく──まだ色々と子供だけれど、アスカにとってたいせつな存在としての碇シンジ。

 

 その会話を交わしてからまだ一時間と経っていない筈だが、しかし状況は劇的に変化している。

 

 弐号機に搭乗すると、待ちかねていたかのようにシンジからの通信ウィンドウが開く。シンジは今、ポニーテールのように髪を伸ばして後ろで結んでいる。アスカも髪を二つに束ねて少女らしさを強調するスタイルだ。髪型が二人共々に変わっている高校生の二人だが、変わったのは見た目だけではない。

 

 二体のエヴァンゲリオンともまだケージ内で待機中だ。プラグ内も、LCLで充たされてはいない。

 

「ミサトさん、なんだって?」

 

 機嫌が悪いわけではないが、ぶっきらぼうで何だか焦っているみたいな聞き方だった。アスカは二人だけの秘話モードなのを確認して答える。

 

「葛城総司令は、ユーロとの合意内容を教えてくれたわ」

 

 あえてそんな風に呼んだのは、多少のからかい混じりだ。しかし、いくらかはかつての保護者である同性がそういう地位を占めていることに感慨もある。

 

「上手く──前に話してくれたみたいに──まとまりそうなの?」

 

 シンジの声は心配そうだ。

 

「そうね。──いや、本当は上手く行きそうだった。だけど、こんな事になったんだから、また、白紙でしょ」

 

 シーシュポスの岩か、賽の河原の石積みか。合意の条文にも明記されていた大型脅威個体級の事変が現に発生している以上、ミサトが三週間の努力を費やした了解覚書(MOU)なる合意は恐らく頓挫となるだろう。何れにしてもエヴァが抑止力ではなく実戦力として必要とされるこの状況下では、アスカがユーロにすぐ戻されるということもほぼ無くなったのだが。

 

「そうか──ドルオン・アンティゴーンだっけ。タイミング、悪すぎるね」

 

 ミサトがそう名付けた巨人の動く手足についてシンジは短く講評する。ベルギーの伝説に基づく命名だ。通行料を払わぬ旅人の手を切り捨てていたが、最後には退治され、今度は己が手を切り落とされたという巨人の名前だ。

 

「あんたと一緒に過ごしていると、そんなにすんなり上手く運ぶ事なんてないわ」

「本当は、アスカが許してくれるなら──アスカの代わりに僕がユーロに行こうとも思っていたんだ」

「そんなの許さないし、何の解決にもならないじゃないの──第一、あんたが行くところにはエヴァを中心にして争乱が起きる。誰もそれを望まないわ──私以外は」

 

 シンジのせいだとは言わないが、それはアスカとシンジが背負っている宿命なのかも知れない。だけど、アスカは何故だか笑っていた。

 

「アスカ?」

「いや、面白いものねって。三年前なら私たち、エヴァの中での会話はもっと──いつだって、ギスギスしていた。今みたいに上手く行かない展開では、私はきっとシンジに当たっていたわね」

 

 もちろんアスカは自覚している。シンジも勿論変わったが、より大きく変わったのはアスカ自身だ。シンジやレイへの無闇な対抗心が薄れ、物事をひねくれて、攻撃的に考えることが明らかに減っていた。

 

 それでも女子用プラグスーツに背丈を近付ける為のヒールを付けろなどと無理やりねじ込んだりしているのは、シンジと並び立ちたいという気持ちが強くあるからだ。自分を守ってくれたシンジ──一人前の男になりつつあるシンジに置いて行かれたくはない。それは、かつてのシンジへの対抗心とは似ているようで決定的に違っていた。

 

 そういう変化が起こると、彼女本来の陽性な性格が強まって、他人が見違えるほどに明るくなっていた。ネルフのオペレーターが、時折、アスカ明るくなりましたね、と囁くほどだ。──そういうの、本人にしっかり聞こえてるんだけどね。でも腹は立たない。皆が自分をずっと心配してくれていた事に気付けたから。

 

「三年前か。そうだったかな」

 

 そう応じたシンジの顔はアスカから見ると、とぼけているようにも見える。過去のアスカの態度を庇ってのことだろうか。しかし、本当に忘れているようにも見える。とりあえず、後者だと判断してリアクションを返してみせる。

 

「そうだったかな──って、男って記憶力が揮発性メモリなの?」

 

 アスカはむくれてみせた。……女は決して忘れない。ツラい記憶だって大切なものだから。

 

「……いや、本当は分かっているよ。だけど今が愉しいからかな、時々どんな風だったのか、上手く思い出せなくなるんだ。あまり、喧嘩した事とかは思い出したくないのかも知れないけど」

「そう──それもいいわ。シンジが忘れても、隣で私が覚えていてあげる。大切なことを忘れたら私がいつでも思い出させてあげるわ」

 

 まあ、最近アスカもネルフの大人の女たちの会話に積極的に混ざるようになって、そこから聞いた感じでは、男って大切な記念日を平気で忘れたりできる生き物らしいし。──理解不能。

 

 でもま、シンジのやつは生意気にも私のことも忘れていたくらいだしね。異次元に繋がる窓から流れ込む絶大な力を有しながら、その力のコントロールは下手くそで、現世(うつしよ)幽世(かくりよ)の間を行ったり来たりするみたいに、幾度も亡くなっては復活する。危なかっしくて、それがまるで自分の子供みたいに愛おしい。あ、いや──シンジは本当にアスカが生んだ子供だったか。

 

 だからだろうか、いっそ腹を括って──

 

「シンジが揮発性メモリなら、私が外部記憶装置になってあげるわよ」

 

とアスカはシンジと相補的な関係であり続けることを宣言する。

 

 考えてみれば、出会ったあの日、いきなりタンデムのエヴァ搭乗を試みて、それで見事に使徒ガギエルを撃滅したのみならず、シンクロ率の最高記録をマークしたのだ。だから本当は──どうすればいいのかは初めから自明だった。お互いにパートナーとして補い合い、援け合って、戦い、生き延びていくしかないと分かりきっていた事なのに、それに気付くまでに随分と回り道をしてしまったものだ。

 

 そう、シンジとアスカは随分回り道をしてしまった。そして、今ようやくここに辿り着いている。

 

「ね、シンジ──回り道に意味があるのはどういう場合だか分かる?」

 

 唐突に聞こえるアスカの問いに、通信窓の中のシンジはさあ?と首を傾げる。アスカとの会話では時々こういう飛躍があるが、シンジはそういう話をするのが満更イヤでもない。そこに新鮮な驚きがあるからだ。

 

「その道中が簡単に終わってほしくないぐらい、大切なときだよ」

 

 アスカはそう「正解」をシンジに示す。

 

「アスカ……」

「きっと、私たちは──大人になってから──今をとても愛おしく思い出せる。苦しかった過程でも、たとえどんな結末を迎えたとしてもネ」

 

 シンジは真剣な顔をして、頷いていた。でも、シンジはどんな結末でもとは思わない。過去に世界を変貌させるほどの決断をした過去があったからだ。

 

「僕は一度決めた選択肢を選び続ける。アスカとの未来を」

「小姑みたいなカトルたちに何でそれを選んだんだと愚痴られながら、ね」

 

 とアスカは茶々を入れた。

 

「──付き合ってもらうさ」

 

 ちゃんと男の顔をして、シンジが言った。

 

「決めたのは僕だ」

 

 この世界を作ったのは、碇シンジだ。

 

「あんたも言うようになったわね」

 

 セカンドチルドレンは微笑んだ。シンジが作った世界とはいえど、彼女はシンジの思い通りには決してならない存在だ。そう自己規定している。人類補完計画の拒否とはけっきょくそういう事だった。シンジが決めたのは、アスカがシンジの思い通りにはならない世界にするということ。それをシンジが決めて、受け入れたのならば、アスカはシンジをあくまでも勝手に愛することが出来る。

 

 

「総司令、入室されます」

「さあみんな、久々に繁忙期よ。残業代は遠慮せずにちゃんと申告すること、いいわね」

 

 ミサトが発令所トップデッキに入って声を張り上げると、スタッフ達がバラバラに無言で頷いた。

 

 ミサトも部下たちも軍事組織にしてはユルい振る舞いだが、それはいい。使徒やそれ以降の大型脅威個体はその存在や挙動に今なお不明の点が多い。純粋な軍隊とは異なり、研究組織のように、活発な意見具申が行える風通しの良い雰囲気を保つ事が必要だ。ゲンドウが司令だった時代のネルフから、ミサトが意識して変えている点の一つでもある。

 

 今はそれを考えている心理的余裕も時間も判断の材料もないから、心からも意識的に締め出しているが、この新たな敵の出現理由、目的、これまでの敵アルマロスたちとの関わりなど、考え出したらキリがないような疑問も多く、やがては自由闊達な議論の場が必要になる時期も来るだろう。とはいえ、今は目の前の敵性体の撃滅だけを考えなければならない。

 

「アンティゴーンの様子は?」

 

 青葉に訊ねるミサトの言葉からは、早くも、自分で名付けたドルオンは省かれている。長すぎる識別コードの宿命だろう。

 

「蠢動しています、周期的に。休止期間を挟みますが、その間隔は短くなっています」

「兆候凄いわね。やはり、先手を打って殲滅するか。鈴原副司令代理の意見は?」

 

 ミサトは一つ下のデッキに立っている──目庇を後ろ回しにしてネルフJPNキャップを被ったジャージ姿の少年に視線を落とした。

 

「ワシもそれがええと思います。今は大人しゅう見えても、いつ街の人たちを襲い始めるか分かりゃしまへん──でも、ワシたちの攻撃がそのトリガーになるのは避ける必要があるんやないかと思います──て、これでええですか、冬月センセ」

 

 冬月はトウジと同じく席に掛ける事もなくピンと背筋を張っている。アルマロス争乱の最中に拉致されたミサトの代わりとして組織の重きを成す為に復帰して、伸ばしていた髪をバッサリと切ってからは昔の上級スタッフスーツをきちんと着込んでいる。矍鑠(かくしゃく)という言葉の語源となった古の老将がそう呼ばれた時よりも既に一回りは高齢な元副司令だったが、彼も十分その形容への相応しさを維持している。ただ、ミサトが復帰した今、彼は自身の立ち位置や存在意義に微妙さを感じている所でもある。

 

(まあ、私は再雇用職員のようなものだろう)

 

 上司や同僚となった若い職員に対して、ここぞという局面以外ではうるさがられない程度に豊富な経験からアドバイスをする。しかし、時にはうるさがられる助言をもする事が己の給料の範疇だとは心得ているし、その一方で経験が新しい事象に対していよいよ通用しなくなり、うるさがられるだけの存在になったら、本当の引退だろうと思い定めてはいる。

 

「私は今は君の補佐に過ぎん。副司令代理補佐だ──だが、求められている補佐としての役目を果たすと、その答えでおよそ合格だな」

 

 彼が孫のような年齢の上司に向かって頷いて見せると、鈴原トウジは論文の口頭試問に何とか合格した大学院生のような顔をして、胸を撫で下ろす。その表情の謙虚さに少年の伸びしろと可能性の大きさを感じる。何しろ吉野に引っ込んでいた冬月を引っ張り出したのはこの少年の独自の発想で、殆ど未知だったこの少年への関心が、彼をネルフへと再び繋げたのだ。

 

「ありがとう。鈴原代理、冬月先生」

 

 そう礼を言われながらもトウジはむろん、自分の具申した意見など、ミサトさん──総司令の考慮にはあらかじめ入っていた事は分かっている。これは自分の能力、資質に対する定期テストでもあるし、ミサトが民主的に部下の意見を取り入れているというアピールでもあると承知していた。その思考が顔に少し出たのだろうか。

 

「形式的に意見を聞いている訳ではないのよ──自分以外の見方や意見が参考になるのは本当」

「はい」

 

 トウジの内面を言い当てるようにミサトは言った。素直に返事をして、トウジは心の中で訂正する。これは演出ではなく、民主的な組織運営の為のドリル(演習)なのだ、と。部下は普段意見を求められない独裁的運営の中では、急に独自の意見を求められても応じることは出来ない。そうした環境では自分の頭で考えることを放棄してしまい、司令官に思考を委ねる事に馴れてしまうからだ。そうした組織は統制が取れるが、一人一人が自ら考える民主的な軍隊よりは弱いのだ。先の二つの世界大戦の結果──権威主義的国家側の敗北──がそれを示している。

 

「アンティゴーンの位置と、市街地の人口密度を重ねてマッピングしました」

 

 ミサトの指示を先回りして青葉が主モニターの情報を書き換える。

 

「早雲山山中のA5~A8、B5~B8が市街地に近いわね」

「一応、警報を出しますか?」

 

 発報コマンドをコンソール上で準備しながら、トップデッキを仰いで青葉は確認する。

 

「ええ、頼みます。地区レベルでいいけど、避難命令も出しましょう。この辺り、老人福祉施設や小中学校もあった筈。避難には時間がかかるわ。十分な時間をあげなくては」

 

 ミサトは土日になると、愛車のアルピーヌ・ルノーA310(廃車になった前の車と同じものをわざわざ探して買い直した。今度は33回ローンではなく、12回ローンにした)を駆って第3新東京市内全域を巡るようにしていた。地形把握は軍指揮官の基本だからであって、けっして最近ハマりだしたラーメン屋の制覇だけが目的ではない。

 

「シスは先に駒ヶ岳射撃ポストに上げていいわ。住民避難が終われば、シンジ君とアスカにも上に上がってもらう。シンジ君は二ノ平、アスカは畑宿ね。それまで悪いけど待機継続して」

 

『了解~。おさきー』

 

 幼女の姿をした綾波レイの六番目のクローン体、№シスからはどこか気怠げな返事が返ってくる。反抗期という訳でもあるまいが、最近のシスはどこか心ここにあらずといった雰囲気で、監視任務中のログ映像でも、空をぼうっと見上げていることが多かった。

 

(アスカと違って、まあ大人しいから良いんだけど)

 

 ミサトはそう考えながら、自分の形の良い顎を撫で、思案を続ける。

 

 最終号機を配置する二ノ平からは、東側の早雲山への睨みが効く。敵性体が遺骸からの再生品であるという性質上、早雲山を挟んで西側に強羅絶対防衛線をすでに大きく割り込んでいる形勢だ。早々にこの近辺に防衛線を張りたい所だが、こちらの動きが避難が完了するまでに、アンティゴーンを刺激し、激発させては不味い。

 

『最終号機シンジ了解』

『待機で給料貰えるなら楽チンポンよ。シンジとお話でもしてるわ。プライベートだから聞かないでョ』

 

 パイロットはそれでいいが、オペレーターや裏方には色々準備がある。

 

「弐号機のレクテナはどうしますか?」

 

 日向はマイクロ波受電装備の要否をミサトに確認する。レクテナはかさばるが、エヴァ弐号機をアンビリカルケーブルの接続からは解き放つ。いずれにせよ、弐号機はシスの0・0エヴァやシンジの最終号機のように、S2機関も異次元からの無限エネルギーを汲み出すセンタートリゴナスも持たないので、給電手段は必須だ。

 

「アスカには二子山のアンティゴーンA1、B1を潰してもらいたいわね、どう、アスカ?」

 

 畑宿は二子山の山麓に当たる大字(おおあざ)だ。ミサトはレクテナの必要性の判断をパイロットに委ねた。これも先ほどのトウジへの質問と同じだ。適切に判断を現場や下に下ろさないと──そういう癖を付けておかないと──総司令はパンクしてしまう。碇ゲンドウ前司令の口癖の「問題ない」というのがあったが、あれも下の判断を追認するという意味では、単に斜に構えただけの台詞ではなかったのだ。

 

『山腹なら避難民が居るわけでもないし、メーザーで灼き殺さないようにって一々心配しなくていいなら、電源の不安が無いのは頼もしいわ。レクテナ有りで上がる』

「了解、弐号機はケージ内でレクテナ装備。メーザー給電の準備も開始します」

 

 日向は言った後、アスカへの通信を切ってから、

 

「彼女、慎重になりましたかね」

 

 ミサトにそう問い掛けた。なんとなくアスカならリモート給電に伴う制約やレクテナ展開などの面倒を嫌い、短期決戦を挑むようなイメージがあったからだ。前にレクテナを使用したときにそういう面倒をすでに体験していただけに、今回は避けるのではないかと日向は想像していた。

 

「そお?……元々アスカは慎重な子よ。几帳面だし」

 

 ミサトぐらいしか知らないだろうが、彼女は入浴時でも、キチンと丁寧に脱いだ服や下着を畳んでから風呂に入る。適当に脱ぎ散らかすミサトの事を女として有り得ないでしょ、とまで言っていた。そういう細かな部分に人間の本質的な性格は表れるものだ。料理については苦手なようだったが、あれは結局は作った回数がものを言う。優秀なトレーナーが付いているので、すぐ上達するのではないか。

 

 本部決戦前にはあった、一刻も早く他人に認められる成果を上げようとする焦りが今のアスカには無い。シンジによって、守られ、救われた事で、彼女のレゾンデートルは安堵され、本来の地の明るさや几帳面さを取り戻した。たとえエヴァパイロットとしての功績を何も上げなくたって、アスカには守られる価値がある。存在する意義がある──少女の弐号機を守りながら戦うシンジの──エヴァ初号機の──背中が、肩が、無言で、しかし雄弁に物語って呉れていた。

 

 それで、アスカからは暴虎馮河や猪突猛進は鳴りを潜めた。その変化は不可逆的だった。日向の観察は認識が遅くなったとしても的確で、別に間違いではなかったのだが、アスカの本質に対する捉え方には錯誤があった。

 

 惣流・アスカ・ラングレーの本質──意外に細心で小心、仕事が丁寧──といえば、表に表れる性格はかなり違うように見えても、実はシンジとよく似ているのだと気付かされる。

 

 だからあの二人は合うのよね。

 

 ミサトは思うのだ。自分が仮にアスカだったとしても、シンジ君のことを当然好きになるだろう。同居をさせた張本人としてそのように仕向けた自覚もあった。頼まれもせずに月下氷人を買って出た事に、後悔は無く、むしろ自分がこの世界で成し遂げた成果の中では、手放しで賞賛されるに値する数少ない事例だったと思っている。

 

 だからこそ、自分はユーロネルフとの間でアスカを守る折衝に力を尽くし、自分が作り上げた一つの幸せの形を壊させまいとしたのだし、今でもそうしたいと思っているのだ。優先順位としては世界や人類全体や名前も知らない第3新東京市の人たちの事が上位にあるのだとしてもだ。視界の片隅には常にかつての同居人で被保護者の二人の事を入れておきたい。もしそれが負担になるようなら、最初から中途半端に家族ゴッコなどしなければ良かったのだから。葛城ミサトにもそのぐらいの覚悟はある。

 

 

 待機中にたっぷり時間が出来た。アスカは宣言通りに秘話通信でシンジと雑談を始める。

 

「そういえば、こないだヒカリと話をしたのよ」

「ヒカリちゃん──いや洞木さんと?」

 

 シンジが言い方を直した。たぶん、鈴原への遠慮だろう。

 

「そう、ヒカリちゃんとよ」

 

 わざと睨み付けてやると、シンジは参ったなという顔をして、頭を掻いた。

 

「で、何を話したの?」

「後天性幼なじみの、三歩進んで二歩下がる式のノロケ話」

「へぇ。トウジのやつ、相変わらず奥手なんだな」

「おやおや。どの口が言うのかな?」

「ん?」

「あんただって超のつく奥手じゃない。後天性幼なじみって、ヒカリたちだけじゃなくて、私とあんたもそうなのよ」

 

 前にアスカが「くっつくでも離れるでもないまま、後天性幼なじみの度合いだけが高くなって一種、倦怠期なのよ」と評したのはヒカリとトウジのことだったから、シンジもてっきりその積もりで聞いていた。でもいつの間にか、そのカテゴリに自分とアスカも入れられていたらしい。

 

「そうか。幼なじみなのか、僕らも……」

「これから共に過ごした年数が増えていけば、どんどんそうなるわよ。大抵の大人の男女は中学時代から付き合ったりはしていないんだから」

「洞木さんには──僕らのことも話してるの?」

「そりゃ、ガールズトークの基本だもの。一方的に向こうの話だけ聞くのなんて失礼だし。彼氏の愚痴は女の子が一番愉しい話題なの♪」

 

 恍惚とした表情でアスカが言った。愚痴って不平不満や悪口の事だろ? ボーイフレンドの悪口を言うのが、女子の娯楽なの?と聞いたら、そう単純な話でもないらしい。

 

「愚痴を言うってのは、それだけ相手との関わりが深いってアピールしてるのヨ。ストレートに彼氏の自慢をされても、聞く方も愉しくはないわよ。だけど男女交際の楽しさの中に、共通する男の子への小さな不満みたいなのは女子がみんな感じてることだから、盛り上がれるの。女子が求めてるのは共感だから」

 

 配慮に欠けた無神経な言動。鈍感な察しの悪さ。髪型やファッションの変化に気付いてくれなかった。他の女の子に気を取られていた──。

 

 そんな男子あるあるの話をしながら、彼氏って、男って、所詮はそんなものと期待値を下げていく。

 

 でもだからこそ、そんな愚痴の中で、男の子たちの稀な、凛々しい行動が、女の子たちを感動させ、憧れさせることだってあるのだ。

 

 アスカにとっては、先日のシンジからのキスがそれだった。

 

 あれは本当に素敵なベーゼだったのだ。シンジにはよく分かっていないのかも知れないが。

 

「ははぁ。男はそういう話、余りしないなぁ」

「じゃ、ジャージとは何を話してるのよ、普段は。ジムで毎日顔を合わせてるんでしょ」

「何って。日常の話だよ。例えば、ラーメン屋に行ったら、ミサトさんに会った話とか」

「はぁ、何よそれは?」

 

 アスカは思わず相好を崩した。暇潰しにはお誂え向きの面白そうな話題ではないか。

 

「最近トウジが週末、ラーメン屋巡りをしていてさ。初めて会ったときは偶然だと思って、あ、ども……って挨拶だけしたそうなんだ。でもそれから段々、休みの度に、二軒、三軒とあちこちの店でミサトさんに会うようになって。職場では一緒に居るんだから、スルーする訳にもいかないじゃない?」

「そりゃまそうだけど」

「だから、遂にミサトさんに呼び寄せられて相席になった時、トウジは打ち明け話として、聞かされてしまったんだ」

「い、一体、何を──」

 

 アスカはゴクリと唾を呑み込んで、シンジの回答を待つ。葛城ミサトは何を告白したのか。極秘のネルフJPNの作戦か。エヴァや人類補完計画にまつわる秘密の情報か。そんな予想をしていると──。

 

「ラーメン総司令ブログ計画」

「……はぁ?」

「そういうブログをやろうってミサトさんは思ってたらしい」

 

 ラーメン官僚とかいうラーメン好きの役人の食レビューが巷で持て囃されていたから、たぶんその影響を受けたのだろう。トウジによるとミサトはかなり前のめりで本気の様子だったという。第3新東京市内のラーメンを食べ歩きしているうちにその気になってしまったものらしい。

 

「いや、ネルフJPNの総司令がやることなの? それに今時、ブログって」

「セカンドインパクト世代だからね、ミサトさん。色々発想がオバサンなんだよ」

 

 シンジも大きく溜め息を付いた。

 

「もちろん、トウジは必死で止めたんだ。そない痛々しいコンテンツ、世界で笑われるだけですて。そう直接伝える代わりに必死になって婉曲的に。だけど最後には世代の差が超えられない壁となって立ちはだかり、トウジはほうほうの体で逃げ出した。──それからというもの、ラーメン屋の駐車場にミサトさんの青い車がある時は、回れ右して帰るようになったんだよ」

「……なんて話なの。恐ろしい」

 

 アスカは首を左右に振って、詠嘆した。使徒やエンジェルキャリヤーなど、この話に較べれば、全く恐ろしくはない。痛々し過ぎる。

 

「でもね……この話はまだ終わらないんだ。その話をトウジから聞いてすぐの土曜日の昼、僕は宿舎の近くの場末のラーメン屋の暖簾をくぐった。なんとなくラーメンの口になっていたし、もしかしたら万が一という期待や怖いもの見たさがなかった訳でもない」

「まさか──」

 

 アスカの不安げな顔に、シンジは黙って肯き、先を続けた。

 

「他に客のいない、寂れたラーメン屋で席に案内された時、トイレに行ってたお客さんがちょうど戻ってきて僕の隣のテーブルに付いたんだ。──あら、シンジ君。奇遇ね。実は私、今計画している事があってね──僕は店員さんが注文を取りにくる前に、立ち上がって脱兎のごとく逃げ出した」

「っ怖っ。妖怪か!」

 

 シンジは普段あまり口が立つ方ではないが、この話はなかなか面白かった。男たちが普段している馬鹿話の一端を垣間見る思いだ。

 

 進展の遅い後天性幼なじみもそう考えると悪くはない。こんな風に、男と女になる前の友人として、親しみに満ちた他愛のない日常会話が交わせるのならば。いずれ、二人が結ばれるのなら、今は今だけの楽しさをじっくりと味わう方が良いのかも知れない。

 

 アスカがそんな風にしばらく黙って考えていると、シンジが心配そうな顔をする。

 

「僕の話、つまらなかった?」

「……面白かったけど、ちょっと盛ってやしない?」

 

 ニヤリと笑ってアスカは突っ込みを入れる。

 

「ラーメンだけに? 盛ったとしたらトウジじゃないかな」

「誰うま。男の間でももうちょっと色気のある話はしないの? 私の話とかは出ないの?」

「うーん、そういうのはやっぱりないな。男がベラベラ喋るのもどうかなと思ってしまう。僕だけじゃなくて、トウジも洞木さんのこと、あまり話さないし。よほど関係に悩んでるとかじゃないと、男同士ではそういうの、話さないんじゃないかな」

 

 アスカは小首を傾げた。やはり男と女の物の考え方は違うわね──と感じざるを得ない。そういう違いは決して不快ではない。むしろ、たぶん一生を掛けて、それを知る為に存在しているのが人生ではないか。アスカはだから好奇心に駆られた。

 

「それって、どういう心境で話さないのかな。自慢したいとか思わないの?」

「少し照れくさいんだ。女の子たちみたいに愚痴を言い合うのも変だし、褒めたら褒めたで、なんだかアスカを独り占め出来なくなるような気がしてさ──アスカのこと、大切なんだ。本当の宝物はそんなに見せびらかさないものなんだよ」

「シンジ……」

 

 アスカはずっと、自分のことを実の親にも愛されない価値のない存在だと卑下してきたのだ。天才性や優秀性の強調はその自信の無さの裏返しの強がりに過ぎなかった。

 

 だけど、シンジはアスカのことを最後の最後にはちゃんと守ってくれて、今もベルベットの宝石箱の中に保管するみたいに大切に秘蔵してくれている。

 

 だから、アスカにはもうその言葉だけで十分で、心の中が幸せに温かく満たされるのだった。

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