白上フブキ① Situation『世話焼きキツネのフブキさん』
とっぷりと日の暮れた帰り道。
鉛の如く重くなった身体を引き摺るようにして歩く私の姿は、傍目から見ればゾンビにでも見えることだろう。
今日も今日とて激務に忙殺され、心身ともに疲弊しきっていた。口ばかり動かしてちっとも働かない上司の分まで仕事を回され、そのくせミスのひとつでも見つけると鬼の首を取ったように私を責め立てる。
こんな会社辞めてやろうと考えたことも、両の手では数え切れない。けれど実際そんな勇気もなくて、転職したって上手くいく未来も見えなくて。自分が務める会社がいわゆるブラック企業であることなんてとうの昔に気付いていたが、現状から抜け出す努力をする気概も尽きていた。
このまま社会の歯車のひとつとして、ひっそりと使い潰されていく。特に疑いも持たずそう考えていた。
―――半年前までは、の話だが。
路地の角を曲がった先に見えるアパート。所々錆び付いた階段を上り、向かう先は三階の角部屋。以前は会社に行くのも家に帰るのも変わらないと思っていたのに、今やポケットから鍵を取り出す時間も惜しく感じてしまう。環境が人を変える、という事実を良くも悪くも痛感させられるようで複雑な気分だ。
少し動きの悪い扉を開けて、玄関に入った瞬間に感じる暖かな空気。温度の話ではなく、部屋を満たす空気と言おうか雰囲気と言おうか、無意識に安らぎを覚えてしまう。
そんな空気に混じる、仄かな甘い香り。
今日も彼女が居てくれることを実感できるようで、頬が緩む。私が玄関を開ける音に気が付いたのか、奥から軽快な足音が聞こえてくる。
「―――おかえりなさーい! 今日もお仕事おつこんでしたー!」
ふにゃっ、と人好きのする笑顔を浮かべながらリビングから姿を見せたのは、全体的に白い印象の少女だった。くりっとしたアイスブルーの瞳に、うなじで緩く結ばれた白絹のような長髪。巫女服とパーカーを組み合わせたような不思議な作りの装束。そして何より目立つのは、時折ぴこぴこ動く狐耳と左右にゆらゆら揺れる尻尾。
狐めいた少女の名は、
古来より、狐は美女に変化し人を誑かすと云われているが·····こんなに可愛らしい女の子ならば、国が傾くのも頷けるというものだ。
「いやぁ〜見事にやつれた顔をしておりますなぁ。ささ、まずは手を洗って―――にゃあっ!?」
鞄を受け取ろうと近付いてきてくれたフブキさんを、不意打ち気味に真正面から抱きすくめる。猫っぽい鳴き声をあげるフブキさんには悪いが、エネルギーチャージにはこれが一番効果的なのだ。
小柄な彼女と私とでは身長差があるので少し屈まないといけないが、腕の中にすっぽりと収まったフブキさんから感じる温もりが身体に伝わってくる。深呼吸をすれば一層強く感じられる、この世のどんな香水にも勝る彼女の香り。
猫吸いならぬフブ吸いとでも名付けよう。
「あぅぁ……ほ、本日も大変お疲れなご様子でっ。定番のセリフを言うまでもなく白上を選んでくれるのはひじょーに嬉しいのですが、いきなり過ぎて心の準備ができてないんです!?」
腕の中でわちゃわちゃしているフブキさんだが、無理やり抜け出そうとするような気配はない。抵抗がないのをいいことに、たっぷりとフブ吸いを堪能させてもらう。あぁ、癒される……。
「うぅ〜·····っ、とっても恥ずかしいですけど、これであなたが元気になるなら! えいっ! 白上ホールド!」
頬を赤く染めながらも、キッと顔を上げたフブキさん。何事かと思えば、フブキさんもおずおずと私の背中に手を回してくれた。そうなると必然、互いの密着度は増して彼女の顔が私の首元に埋められる形となる。
息苦しくないだろうか、と視線を下げてみる。が、とうの白上さんは形の良い鼻をすんすんと鳴らして、
「……えへへ、あなたの匂いがします」
なにこの可愛い生き物。
蕩けたような顔でそんなことを言われて、ノックアウトされない人間がこの世に存在するだろうか。いや、するはずがない(反語)。
ともあれ心の疲れはある程度回復できた。そうなると、次の欲求を満たしたくなるのが人の性。思い出したかのように空腹を訴える私の胃袋に、フブキさんと顔を見合せて苦笑する。
「―――?」
「はい、ご飯にしましょう! その前に、ちゃーんと手を洗ってきてくださいねっ」
◇◆◇
「―――、」
「お粗末さまでした。お皿は水につけておいてくださいね〜。私はお風呂の準備をしてきちゃいますので!」
フブキさんお手製の夕食を済ませた私は、幸せなため息と共にソファーに沈み込む。味もさることながら、自分の為にと作ってくれた料理はなんとも心が暖まるものだ。
片付けまで任せてしまうのは流石に申し訳ないので、手伝おうかと提案したことは何度もある。しかし、その度に善意100パーセントの笑顔でやんわりと押し留められてしまうので、皿の浸け置きくらいはやらせてもらっている。
……フブキさんはその間に別の仕事を始めてしまうので、負担が減らせているかというと微妙なところではあるが。なにせ料理洗濯掃除に買い物、家事全般を私の代わりにこなしてくれているのだから到底頭があがらない。
「はーい、あと10分くらいでお風呂が―――む、なにかお悩み事ですか? よければ白上が相談相手になっちゃいますよ?」
「―――、」
「え? いえいえ、これは私が好きでやっていることですから。あなたはお仕事を頑張る。私はお家のことを頑張る。それで良いと思うのですが……それでも、いつものお礼をしたい、ですか? うーん、そう言われると困っちゃいますねぇ……」
形の良い眉をへにょりと下げたフブキさん。併せて頭の狐耳もへにょりと下がる。かわいい。うーんうーん、としばらく考え込む素振りを見せていたが、やがてポンッと手を叩いてから、人差し指をぴっと立てた。
「ではこうしましょう。今からゲーム対決をして、負けた方は勝った方の言うことをなんでも聞いてもらう! これならお互い遠慮することもないでしょう!」
名案とばかりにドヤ顔をキメるフブキさんだが……何を隠そうこのキツネ、ゲームがめちゃくちゃに上手いのである。主には1人用のソーシャルゲームやRPGなどを好んでいると本人は言っているが、かといって格ゲーやレースなどの対戦ゲーが苦手という訳でもない。
私とてそれなりにゲームは嗜んできた方だ。学生時代、友人の家にコントローラー片手に入り浸っていた時期もある。初めてフブキさんからゲームに誘われた時も、軽く揉んでやろうと内心余裕をかましていたのだが―――
『むっ、その差し込みは甘いですよぉ!』
『―――!?』
『カウンター始動! Ex足刀! そしてトドメに必要のない起き攻め昇〇拳ッッ!!』
格ゲーではろくにHPを削れないままサンドバッグにされ。
『フゥーハハハァ! 白上のドラテクに酔いしれな!』
『―――!?!?』
レースゲーでは影すら踏めずに後塵を拝し。
『ふっ……私の手にかかれば男女問わずメロメロですね』
『―――!?!?!?』
あげくはシミュレーション系でも圧倒的格差を見せつけられ、彼女との格付けはとっくに済んでいる。大人しそうな顔をしておいて自分の土俵に引きずり込むあたり、中々の強かさである。
だがしかし、これも日頃の恩を返すため。
「―――!」
「よぉし、ではジャンルを選んでくださいっ。何が来ようと負けませんからね!」
負けられない戦いが、ここにある―――!
◇◆◇
フブキさんには勝てなかったよ―――
即落ち二コマよろしくそんなセリフが浮かんでくる。少しでも勝算のある格ゲーで挑んだにも関わらず、ストレートで10本取られたのだから笑えない。というか前よりもっと強くなってないかこのキツネ。
コントローラー片手に真っ白になっている私を他所に、フブキさんは尻尾を揺らしながら嬉しそうに笑う。
「いやー楽しかったです! 1人でやるゲームも良いですけど、やっぱり誰かと一緒にやるのが1番ですね! あなたもそう思いませんか?」
「―――、」
「え? タコ殴りにしといてそれはない? ま、まぁゲームとはいえ勝負は勝負、簡単に負けるのはゲーマーのプライドが許さないというかなんと言いますか……」
両の指をつんつんと突合せ、目線を泳がせるフブキさん。負けたくない気持ちは分かるけれども結局目的は果たせず終いである。
「ともあれ、さっそく勝者の特権を利用させて頂きましょう! ちょうどお風呂も準備できたので、ゆっくり疲れを癒してきてください。白上からの命令です!」
「―――?」
「いーいーんーでーす。ほら、負けたんですから文句言わずにお風呂へGOですよ!」
背中を押され、言われるがまま着替えと共に脱衣所へ放り込まれる。特に拒否する理由もないので、服を脱いでから浴室へ。手桶で身体を流し、頭から洗っていく。暖かい湯が疲れごと流していくようだ。
ふと、脱衣所に気配。フブキさんがタオルでも置きに来たのだろうか。そんなことを考えていると、浴室の扉越しに声が掛かる。
『もしもーし、お湯加減はどうですか?』
「―――、」
『うむうむ。それでは―――ちょいと失礼しますよっ』
「―――!?!?!?」
がらっ、と浴室の扉が開き、私の頭は一瞬で混乱した。ナンデ!?
「背中を流すだけですから、大人しくしててくださいねー。あ、白上はちゃんとTシャツ着てますから大丈夫ですよ?」
鏡越しにおそるおそる背後を確認してみると、確かにフブキさんはシンプルな白いTシャツに短パンという格好。シャツにプリントされた「すこんぶ」の4文字がシュールだ。
かくいう私はというと、タオルで身体を隠したまま微動だにできないでいた。シンプルに恥ずかしいのと、突然の事に理解が追い付いていないのである。フブキさんのような美少女に身体を流してもらう? 前世でどんな徳を積んだんだ私は。
イスから動くこともできずに硬直する私を他所に、フブキさんはスポンジにボディソープを馴染ませている。鼻歌まで歌って非常にご機嫌な様子だ。
「はーい、それじゃあお背中洗っていきますねー」
わしゃわしゃと背中にスポンジが滑る。こちらの身体を労るような優しい手つきだった。さして広くない浴室に、スポンジが擦れる音とフブキさんの小さな息遣いが響く。
最初こそ強ばっていた私の身体もが 、彼女の善意に満ちた献身によって少しずつ力が抜けていく。今はただ、目を閉じてフブキさんに身を委ねるだけだった。
「お痒いところはございませんか〜? って、1回やってみたかったんですよねー」
「―――、」
「……ふふっ。こちらこそ、いつもありがとうございます」
お互いに感謝を伝え合い、どこかこそばゆさを感じて笑い合う。
ぬるま湯のように穏やかな時間は、ゆっくりと過ぎて行った。