正直なところ、性別にこだわりがあるわけではなかった。
祇園から戻って数日、今日は直哉に約束を取り付けている。いつもの羽織は封印し、今日は適当な洋服を身に纏った。気分によって男物も女物も着る私だが、今日は女物のブラウスにロングスカートを合わせている。例によって直哉への嫌がらせだ。
私が男であると言うことを知って以来、あれは私が「女らしく」あることを嫌がった。自分の目が節穴であったということを思い出してしまうのだろう、私にはそれが愉快でならなかった。
「……若、本当に出向かれるのですか」
運転席でハンドルを握る《花》が、心底嫌だという顔でそうぽつりと呟く。笑いながらそれに「誘ったのは私やからね」と返すと、ますます眉間に皺が寄っていく。
相変わらず直哉は《花》たちに死ぬほど嫌われている。
「わざわざ若が禪院の本家にまで迎えに行く必要はないでしょう。借りがあるのは向こうなのですから、向こうから出向かせればいいんです」
「まあ、そう言わんと。車出させて堪忍なぁ、禪院着いたら帰ってええから」
「私のことはいいんです。……御三家だか何だか知りませんが、我ら花房には関係のないことでしょう。しかもあんな下品で下劣な……若はあの者に甘すぎます」
「そう?」
「そうですよ。アレの前ではわざわざ話し方まで変えて」
ふふふ、と今は袂がないのも忘れて口元を手で隠した。
私が直哉に甘い? どうだろう。これを「甘さ」と捉えるのはどうも正しくないような気がした。確かに私は出来るだけ直哉のオネダリは聞いてあげているけれど、それは決して直哉への好意からくるものではない。
どちらかというと、わがままなペットを転がすような。
「うちの京言葉はどうも女性らしく聞こえるらしいからねぇ。みんなの言葉聞いて覚えたんやから当然やけど」
「上品でよくお似合いだからいいんです。若がなさりたいようにしたらいいんですよ」
「言葉かて身だしなみのひとつみたいなもんやろ? 状況状況において付け替えるのは当然や、うちにとってはたいしたことやあらへんよ」
そう、たいしたことではない。直哉に言われて言葉遣いを直したり、逆にこうして女物の服を着て嫌がらせをしたり。どちらも私の気まぐれで、それによって直哉が機嫌を直したり損ねたりするのが愉快なだけだ。いつだって私は、私のやりたいようにやっている。
うちの《花》たちはどうもそれが気に入らないようだけれど、それすらも私には関係なかった。直哉の男尊女卑も、《花》たちの花房至上主義も、私にとってはどうでもいい。
私を大切にしてくれる《花》たちには悪い(とはあまり思っていない)けれど、どうぞ私と直哉のことは放っておいてくれと思っている。
全ては最後のお楽しみのための
「……ああ、着いたんやね」
横目に見えた、古めかしい大きな門。見る人が見れば、そこにはあらゆる呪いが刻み込まれていることがわかるだろう。張り巡らされた結界と呪霊避けは、そこに住まう一族の業の深さを表していた。
「……いってらっしゃいませ、若」
「おおきに。……そないふて腐れんの、可愛い顔が台無しや」
不満そうな《花》に苦笑を残して、私はその門をくぐる。
迎えてくれた禪院家の可愛らしい家人は、仰々しい態度で私に頭を下げた。「お話は伺っております」と告げた後頭部を一瞥し、くすりとひとつ笑みを零した。
「どうせ直哉、支度してへんやろ? 中で待たせてもらえるやろか」
少しの沈黙のあとに彼女はうなずき、ようやく頭を上げる。
その顔は、禪院家特有の鋭くも整った顔をしていた。
***
私の前を歩く少女は、やけに思い詰めた顔をしていた。くわえて連れられて歩く廊下はいつもの客間へ向かうルートと異なっている。ときどきわかれ道で悩むような仕草をみせ、そのたびに彼女は私の様子を探った。敵意がある様子ではなく、まるで私を恐れているような、けれど計りかねてもいるような。
さて、この年端もいかない少女は私に何を求めているのか。
「……お嬢さん、ええかな」
「、は、はい」
「怖がらんでええよ。お嬢さん、うちのこと知っとる?」
「は、なぶさ、紅緒さまと、伺っています」
「うん、合うとるよ。ということは、花房家のことも知っとるんかな?」
彼女の肩が揺れた。返事を待たず、そっとその頭に手を添えた。目を見開いた彼女はばっと私の顔を見る。
その真っ黒の瞳を、ただ見返した。柔い笑みを口元にのせて。
「言うてごらん。何も怖いことはないんよ」
うちを連れていきたいところがあるんやね?
みるみるうちに瞳に涙をためた少女は、堪えるように唇を噛む。助けを求める《女》の顔はとっくに見慣れていた。
*
実を言うと、案内などしてもらわずとも禪院の本家の間取りはおおよそ把握している。幼少時からよく母に連れてこられていたし、直哉に手を引かれて屋敷中を走り回ったこともあった。さすがに屋敷の深部にまで足を踏み入れたことはないが、ある程度の場所であればひとりで動いても禪院の家人は口を出さない。誰しも生命は惜しいということだろう。
案内の彼女を下がらせ、悠々とひとりで廊下を進む。その先で誰が何をしているかは、とっくにわかっていた。
ひとの肉をなぶる殴打の音が、ひどく耳に障る。
「―――良いご身分だね、直哉」
廊下に面した日本庭園は綺麗に整えられている。そのなかには少し開けた場所があった。きっといつもは鍛錬に使っているのだろう、踏み固められた地面には小石のひとつも落ちていない。
その中心に立つ、我が許嫁殿。伸ばされた片足の下にはひとの形をした黒いものが転がっている。何や来とったんか、と悪びれない言葉が落ちた。
靴がないことも構わず庭におりる。直哉には目も向けず、足をどけさせ、転がっていた黒いものを抱き上げる。
傷や土埃でわかりにくいが、なるほど、確かに先ほどの彼女と同じ顔。
「出向いてきた私を待たせるばかりか、こんなに可愛い女の子をいじめているなんてね。まったく君ときたら、どこまでも呆れるよ」
「呪術も使えん、呪霊も見えん、親からも見放された可哀想なオンナノコに稽古つけたってたんやろ? 感謝されてもええくらいや」
「ふふ、この状況で随分と生意気な口を利くじゃないか、直哉」
あ、と直哉の低い低い声が地に落ちる。
しかし、そんなことはどうでもよかった。私よりも、私の中に在る《おひいさん》が騒ぎ出す。身体の奥底で炎が滾り、聞こえるはずもない火花の弾ける音が脳に響く。
ぞわりと私の身体を這う、おぞましい呪力。背に束ねたお下げ髪がしゅるりと意志をもって動いたような気がした。
膨れ上がった呪力に、思わずと言った様子で直哉が半歩下がる。その様子にひとつ笑って彼女を抱き上げたまま立ち上がった。
「あまり《おひいさん》を怒らせないでくれないか」
「、」
「前にも言ったはずだよ。私は君の時代錯誤な男尊女卑思想に口を出すつもりはないけれど、私の目の届く範囲で女性を虐げるなら黙ってはいられないと。それとも君は、私を花房の家ごと敵に回すかい? 禪院家現当主が結んだ家同士の縁を、その嫡子たる君が叩き切ると?」
当主を目指す君にとって、それは大きな減点なのではないかな。
熱い何かが頬をなでた。私の肩に手を置く炎の塊のようなそれ。ずる、と太い胴体が私を閉じ込めるようにとぐろを巻く。
「今ならまだ《おひいさん》を止められるけど―――やるかい? 私の愛しい、許嫁殿」
炎を纏い、蛇の尾をもつ私の《おひいさん》。
彼女だけでなく、花房の声に応えてくれる《女性》は皆、女性を虐げるものを許さない。
ただ言えるのは、ひとたび彼女たちが本気になったならば、たとえ相手が相応の術師だろうが何だろうが、死は免れないということ。
彼女たちは、そういう《呪い》なのだ。
「ねえ、直哉」
どうするのと私が問う前に、すっと直哉は両手をあげた。こういうときの判断の早さだけは評価してやってもいいと思っている。
「ホンマに稽古に力が入っただけや。ジョーダンやろ冗談、俺がオンナノコいじめるわけないやんか。せや、スマホ買いに行くんやったな。ちゃんと付き合うたるし、機嫌なおし?」
にこやかにそう言ってのける、薄汚れた魂。《おひいさん》がもっとも嫌う二枚舌も、今は見逃してあげよう。この報いを受けさせるのはまだ早い。
ねえ《おひいさん》、もう少しだけ私の好きにさせておくれ。そう心の中で語りかければ、まるでため息のような熱風が耳を掠り、気配が消えた。
わずかに安堵したような気配とともに、直哉は一歩前に出る。
「うちのに車出させたるわ」
「そう。ところで直哉、随分と綺麗な格好だ。血と汗の匂いで男ぶりも上がっているよ」
「ハイハイ、いつも綺麗な紅緒ちゃんの隣に立つんやったら身だしなみくらい整えんとな。茶でも出させるし、大人しゅう待っとり」
そう言ってスタスタと去って行く直哉を横目で見送り、気配が完全に離れたのを確認してから、腕の中の彼女に目を向けた。
気を失っているわけではないことには、最初から気がついていた。
「寝たふりがお上手やね、お嬢さん」
「……口を挟むとややこしいことになりそうだったから」
「ええ判断や」
なるべく振動を与えないように歩き出す。下ろせという彼女の言葉は無視させて頂いた。廊下の隅で隠れるようにこちらを伺っていた
すぐさま救急箱を持ってきてくれた彼に礼を言い、そのもの言いたげな視線に構うことなく下がるように伝えた。そんな娘にわざわざ手当をしなくてもと言いたかったのだろうが、それを口にした瞬間に燃やされることもわかっているらしい。
清潔な布で顔の汚れと血を拭うと、彼女は初めて痛そうに顔をしかめた。堪忍なと笑いながら名を尋ねると、彼女は小さな声でぽつりと言う。
「……まき。禪院、真希」
媚びる様子も嘆く様子もないその声色には、素直に好感を覚えた。
***
真希ちゃんと同じ顔の女の子に頼まれたのだというと、真希ちゃんはちょっと申し訳なさそうな顔でそれは自分の双子の妹だと教えてくれた。名前は真依ちゃんというらしい。
「へえ、扇さんの娘さんやったんやね。ふたりとも禪院家特有の顔立ちしてはるけど、お父様にはあんまり似てへんなぁ」
「……あいつのことも知ってんのか」
「そらね。ほら、目ェ閉じて」
まぶたの上の傷の血を拭い取り、順番に消毒していく。思ったほど傷は深くない。この様子なら縫うまではしなくてもいいだろう。
反転術式を使える術師がいたらええんやけどな、と思いながらガーゼを当てていく。せっかくの綺麗な顔だ、傷が残らないに越したことはない。
大人しく手当を受ける真希ちゃんは何か考え込んでいるようだった。
「……アンタ、紅緒って呼ばれてたよな」
「そう、花房紅緒。真希ちゃんも
「女系の術師の家系だろ。……今、史上初の男の術師がいるって聞いたことあるけど……」
「うちのことやね」
「マジで男か? 見えねーよ」
「天与呪縛の関係でね。身体の構造は男やけど、男としては機能してないんよ」
天与呪縛と繰り返した真希ちゃんに、まあそうでなくてもうちは美人やけどという言葉は軽くスルーされた。哀しい。
そういえば確か、扇さんの娘にも天与呪縛を受けた子がいると小耳に挟んだことがあるような。そしてさっき直哉は、真希ちゃんは呪術が使えず呪霊も見えないと言った。つまり、そういうことなのだろう。
私は手当を続けながら、ホンマに面倒やんなと心から言う。
「うちの相伝の術式は女性しか受け継げんって言われとるから、まあ間を取らされたんやねえ。男でも術式を持って生まれてしまった結果、男としての機能は失われたんよ。ほかにもいろいろと事情があって、まーうちは花房でも特例の特例いうわけ」
「めんどくせーな」
「ホンマにね」
けれど、嘆いても変わらぬのなら利用するまで。そう開き直れたのはそれこそ直哉にプロポーズされたころだったような。
無条件で女性が優遇される花房。女性を庇護する術師の家系。女性を守るために、女性のカタチを受けた呪霊を身に宿す相伝の術式。
わかりやすく女性を下に見ているうえに私にプロポーズなんてものをしてみせた直哉は、そんな私にとって格好の
「……まあ、うちのことはええんよ。ほら真希ちゃん、顔は終わったし、次は腕や」
「ん、……って、何でアンタ私の手当してくれてるんだ?」
「そら、うちが花房やからや。ああもう古傷もようさん拵えて……ホンマ真希ちゃん、このままうち来てもええんよ? 真依ちゃんも一緒で構へんし」
「、」
「真希ちゃんや真依ちゃんみたいな子たちのために、うちはあるんやから」
貴方たちみたいな子を守るという名目で私は無事に生き残っているのだから。そんな心の内を恥じる気はない。内心がどうであれ、確かに私は《花房》たる役割を果たしている。
それに《花房》という名目がなくとも、直哉よりよほど綺麗な心根をもっているらしいこの双子に手を貸してやりたいという気持ちも別に嘘ではなかった。直哉に虐げられている姉を何とか助けようとした優しい妹と、虐げられても泣きもせず心も折れない芯の強い姉。どう考えても禪院家にはもったいない。子どもふたり保護するくらい何てことないし、と言いながら細い腕に包帯を巻いていく。
しかし、真希ちゃんの返事は「否」だった。
「いつか家は出ると思うけど、まだ早い。だいたいひとに守られる気もねーし」
「……そう」
「……けど、ありがとな」
そんなこと言ってくれたひとは初めてだと、はにかむように笑った彼女がとても可愛らしい。思わず素の顔でくっと笑いそうになり、いけないいけないと口元を改める。
彼女の左腕の包帯をきゅっと結び、労るように腕を撫でた。
「真希ちゃんは強い子やなぁ」
「まだまだだ。そのうち直哉だってぶっ潰せるくらい強くなってやる」
「あら心強い。ええね、ぎったぎたにしてしまい。呪力がなくても関係あらへん」
実際、今は禪院家を出たという
呪力がなくとも、天与呪縛によって与えられる人間離れした身体能力を磨き上げれば、術師相手でも十二分に渡り合える。是非とも力をつけて禪院家を潰すべく頑張ってほしい。
ああ、けれど、と笑いながら真希ちゃんに語りかける。近くに誰の気配もないことを確認し、それでもそっと声を潜めた。
「……ぎったぎたにしてくれて構へんけど、直哉のことは殺さんといてね」
「え、……そういやアンタさっき直哉のこと許嫁って言ってたけど、もしかしてマジであいつのこと……?」
「嫌やわ真希ちゃん、真希ちゃんやなかったら灰になるまで燃やしたるところやで?」
あのドブ以下のクズ野郎にそんな感情もつはずないやろ、と笑顔で言ってやれば、だよな、と心底安堵したように真希ちゃんは頷いた。
まあ私はほかの誰に対してもその感情を抱くことはできないのだけれど、それは置いておくとして。
どうして直哉を殺されては困るのかって、理由は簡単。それは、私の楽しみだから。
「真希ちゃんは、『安珍・清姫伝説』って知っとるかな。『道成寺縁起』でもええよ」
「? 知らない」
「和歌山のお寺に伝わる、平安のころのお話なんやけどね」
いくつか説はあるが、おおよそのあらすじはこうだ。
醍醐天皇の時代、熊野に参詣にきた美しい僧、安珍は道中にとある庄屋に宿を借りる。その庄屋の娘であった清姫はこの安珍に一目惚れし、それはそれは熱烈に迫ったという。困り果てた安珍は、熊野を参詣した帰りにきっとまた立ち寄るからと言って、庄屋を後にした。しかしそれは真っ赤な嘘で、安珍は参詣を終えた後、庄屋に寄ることなくさっさと立ち去ってしまう。
騙されたことを知った清姫は怒り、裸足でその後を追ったという。ついに道成寺までの道の途中で安珍に追いつくが、安珍は自分は別人だと知らんぷり。どころか熊野権現に助けを求め、清姫を足止めした隙に逃げだそうとした。
ここで清姫の怒りは頂点に達し、炎を吐く大蛇に身を変える。
「炎に、蛇? ……さっき、直哉に《おひいさん》がどうとか言ってたとき、やけに熱かったのはもしかして、」
「ふふ、どやろなぁ。そして清姫はまた安珍を追い、安珍は道成寺に逃げ込んで鐘の中に身を隠してね。蛇となった清姫は決して安珍を許すことなく、その鐘にぐるぐる巻き付いて鐘ごと安珍を焼き殺すんよ。怖いお話やろ?」
古来より、女は怖いと男は言う。それがどこまで真実かはさておいて、それだけ怖い怖いと言われれば呪いは籠もり、それを裏付けるような逸話にもさらなる力が込められる。そうなれば、呪霊が生まれるのも無理からぬことというもので。
本当にその魂や感情を元とした呪霊なのか、それとも「恐怖」をかき集めて成った仮想怨霊なのか、そんなことはどうでもいい。重要なのは、怖いと言われれば言われるだけ、彼女らの力が跳ね上がるということ。
そして、彼女たちの本来の力を発揮できる条件さえ揃ってしまえば、仮に相手があの「最強」と名高い呪術師であったとしても、決して無傷ではすまないということだ。
ふふ、と笑ってみせると、庭からの冷たい風が頬をなでる。
「うちの《お
かつて、私にプロポーズをした直哉。けれど、きっと私が男と知った瞬間に手のひらを返すだろうと直感した。だから私は本心から「嬉しい」と言った。
本当に、何て愚かで可愛いのだろう。自ら《おひいさん》に呪い殺される条件を揃えてくれるなんて。
私がひとこと《おひいさん》にいいよと言えば、その瞬間に直哉の命は終わる。
いつものように、自分の肉体に呪霊を降ろして力を借りる《花房》の術式とは話が違う。これは《おひいさん》自身のもつ呪いとしての特性だ。マーキングが済んでいる以上、解除も回避もできるものではない。
「どんな救いようのないクズでも、いつでも殺せる思たら何や
いつか、無様に、無意味に、理不尽に殺す。天上から奈落に落とすように、絶望の中で燃やし尽くして殺す。その日を想って、今日も私は直哉に笑いかけるのだ。
自業自得で私の《おひいさん》の呪いの対象になってしまったあのドアホ。あんなやつが私の《
仕方がないから、その命は私が握っていてあげる。
「
「……あんた実はやべーやつか?」
「何言うてはるの、呪い呪われで生きる術師がやばくないわけないやろ」
ドン引きした様子の真希ちゃんに笑いながら、最後の包帯を巻き終えた。服の下は女の人に見てもらうんよ、と救急箱をその手にもたせる。
驚き覚めやらぬ様子でも、小さく「ありがとう」と言える真希ちゃんに、感動に近い感情を覚える。ホンマにこの子、真性のドクズの巣窟、禪院さんちのお子さんやろか。
いっそ双子で連れ去って保護してやろうかとも思ったが、彼女の「強くなる」という想いは尊重してやりたい。
せめて、とその頭を撫でた。
「ホンマに、何かあったらいつでもおいで。これでもうち真希ちゃんのこと気に入ってもうたし、いくらでも《花房》は利用してくれて構へんからね。真依ちゃんにもそう言うといてな」
「わかったよ。真依にも言っとく」
「ホンマのホンマにやで。あと直哉についてもな。残しとくのは命だけでええから」
「それ、たとえば手足はいらねーの?」
「好きにもぎ取ったり。心臓動いとって意識があればそれでええよ」
「アンタまじで頭やべーな」
正直、直哉よりも真希ちゃんと買い物に行きたかったなあと、心の奥底から思った禪院家での昼下がり。
結局さらに一時間以上私を待たせたクズに「もっとゆっくり来てくれてよかったんやけどなぁ」と言えば「何や寂しんぼか?」と返されて、心の奥底からこいつ殺すのが楽しみやなぁと思いました。
ホンマ、今日にも鐘に放り込んで蒸し焼きにしてやろかしら。
***
―――昔、そんな言葉をかわしたこともあったなと、ふと思い出す。しかし、今となっては。
一瞬だけ目を伏せ、かつて手を差し伸べてくれたあのひとに、心の中で呟いた。
悪ィな、紅緒。あんたの獲物は、私がもらう。
そう、《竜骨》を握る手に力を入れたそのときだった。
「こーら真希ちゃん、命は残しといてって言うたやろ?」
高くもなく低くもないその声音が、ふいに鼓膜を揺らした。